Mag-log in****「――ピンチだったな、俺……」 マンションのエレベーターの中で、啓太郎はぐったりしながら洩らす。冗談ではなく、本当にピンチだった。 裕貴が旅行先から戻ってくる前に、わずかな正月休みを終えて仕事に戻ったのだが、いきなりハードだった。 単体試験のあとの結合試験に入ったのはいいが、あちこちで悲鳴が上がる惨状で、そこから修正を加え、クライアントプログラムを起動させたのだ。そこに至るまで、およそ三日間の時間を必要とした。 もちろん啓太郎は、いまさら珍しいことでもないが、ずっと会社に泊まり込んでいた。おかげで、正月の浮かれ気分など、すでに啓太郎には残っていない。 仕事の合間、裕貴が旅行から戻ってきたことは知っていた。裕貴から、戻ってきたとメッセージが来たのだ。できれば電話で声を聞きたかったが、仕事か、食うか、仮眠かという生活の中では、電話したところで満足な会話が成り立つとは思えず、結局、淡白な文字でのやり取りだけだった。 足を引きずるようにして通路を歩きながら、啓太郎はあることを思い出してふっと笑う。 裕貴が家族旅行に出かけるとき、自分が覚えた嫌な予感がいかにあてにならないものだったのか、いまさらながら実感したのだ。 裕貴は何事もなく無事に戻ってきたというのに――。 さっそく裕貴の部屋のインターホンを押すと、少し間を置いてからドアが開けられた。このとき、ドアの向こうから現れた裕貴の姿を見て、一瞬啓太郎は、わずかな違和感を覚えた。「おかえり」 そう言って裕貴に玄関に迎え入れられ、ドアを閉めて鍵をかけた啓太郎は、何より先に裕貴の顔を覗き込む。「何?」 裕貴が笑って首を傾げる。いつもと変わらない笑顔だと思うが、なぜかそこに、啓太郎は少しのぎこちなさを感じる。それが、違和感の正体だ。 もっとも、自分の直感があてにならないのは、啓太郎自身がよく知っている。「旅行、楽しめたか?」 啓太郎の問いかけに、裕貴は一度顔を伏せかけたが、すぐに意味ありげな流し目を寄越してきた。「……なんだよ、その目は」 「啓太郎が貧しい食生活を送りながら寂しがっているかと思ったら、とても楽しむ気になんてなれなかったよ」 「あー、そうですか」 裕貴に腕を引かれるまま部屋に上がると、さっそく啓太郎はアタッシェケースを置いてからコートを脱ぐ。すると裕貴の両
『いいよ。最初から、大浴場に行くつもりなんてなかったし。部屋風呂でも、温泉は温泉だしね』 このまま電話を切るのが惜しくて、啓太郎は会話を続ける。「久しぶりに家族で過ごしてどうだ? 楽しいか?」 別に微笑ましくなるような答えを期待したわけではなかったが、裕貴の返答は素っ気なかった。『楽しいわけないだろ』 「そう、なのか……」 『普段親らしいことなんてしないから、ここぞとばかりに父親ぶるんだよ、父さん。おれのこと犬猫みたいに撫で回して、ほとんど小さな子供扱い。それに輪をかけて、兄さんもおれに甘いから――想像できるだろ?」 啓太郎はつい苦笑を洩らす。「お前も大変だな」 『何かと監視の目が厳しいから、こうして啓太郎に電話かけるのも一苦労だよ』 「どうせ二泊三日なんだから、その間ぐらい、俺のことを忘れてもいいぞ」 『そんなこと言って、実はもう寂しくなってるんじゃない?』 ドキリとした啓太郎は、咄嗟に言い返せなかった。一方の裕貴のほうも、啓太郎の反応に戸惑ったように、やや強引に話題を変えた。『……お土産買ってきてあげるよ。何がいい?』 「いいから気にするな」 『そんなこと言っても、日ごろお世話になっているわけだし』 啓太郎が短く噴き出すと、怒ったような口調で裕貴が言う。『何がおかしいんだよ』 「いや……、日ごろ世話になってるのは俺のほうだと思ったら、おかしくて」 『まあ、そうなんだけど――』 突然、不自然に裕貴が言葉を切ったので、啓太郎は眉をひそめる。「裕貴?」 『ごめんっ。父さんと兄さんが戻ってきたみたいだから、切るねっ』 ここで電話が一方的に切られ、啓太郎は少し呆然とする。スマホを置くと、大きくため息をついてテーブルに額を押し付けた。 裕貴に何事もなかったことにまず安堵して、旅行先で家族とそれなりに楽しんでいることに、わずかな嫉妬を覚える。そして一気に、寂しさが押し寄せてきた。 仕事中であれば、この寂しさは耐えられるのだ。なのに、こうして自分が自由な時間を持て余しているのに裕貴と会えないというのは、非常に堪える。「ハマってるなあ、俺……」 抱き締めた裕貴の感触を思い返しながら、啓太郎は洩らす。 初めて裕貴と接触したときは、まさか自分たちの関係がこうも濃密で甘いものになるとは、想像すらしていなかった。少し打ち解けた
**** 自分が感じた『嫌な予感』が、頭から離れなかった。 せっかくの正月休みだというのに何もする気が起きず、コタツに入って横になったまま啓太郎は天井を見上げていた。 裕貴と別れたのは、ほんの数時間前だ。どこの温泉に出かけたのかは知らないが、もうすぐ日が暮れようとしているので、観光したにしても、そろそろ旅館かホテルに入る頃だろう。 もしかして事故にでも遭ったのではないか――。 普段、自分の直感など信じない啓太郎だが、裕貴が関わっているのかと思うと、最悪の事態ばかり想像してしまう。 つけっぱなしにしてあるテレビから、にぎやかな声が流れてきた。気を紛らわせるつもりでつけているのだが、かえって気が散る。 片手を伸ばしてテーブルの上に置いたリモコンを取ろうとしたとき、突然、スマホが鳴り始める。慌てて体を起こした啓太郎は、勢いよくスマホを取り上げた。表示を見ると、裕貴からだった。「裕貴かっ?」 必死の声で問いかけると、拍子抜けするような柔らかな笑い声が電話の向こうから聞こえてくる。『何、啓太郎、必死な声出して。あっ、おれがいなくなって寂しかったんだろ』 からかうような裕貴の言葉を聞き、一拍置いてから啓太郎は肩から力を抜いた。自分の心配が杞憂で済んだと確信できたのだ。 ほっとした次の瞬間には、笑みが洩れる。いくぶん抑え気味の声で裕貴に問いかけた。「宿泊先に着いたのか?」 『うん、とっくに。きれいな旅館だよ。父さんが知り合いに頼んで、無理やり取ってくれたところらしいけど。ご飯も美味しかった』 「……そりゃ、よかった」 気楽そうな裕貴の言葉を聞くと、この数時間の自分の心配はなんだったのだろうかと思えてくる。 俺の直感はあてにならないと、啓太郎は苦笑しながら髪に指を差し込む。「それで、お前の親父さんや、博人さんは?」 『二人とも、大浴場に行った』 「で、お前は?」 『嫌だよ。知らない人たちと一緒に風呂に入るなんて』 いかにも裕貴らしい意見で、妙に啓太郎は納得してしまう。引きこもりを旅行に連れ出したところで、過ごし方はあまり変わらないらしい。 しかし、裕貴がみんなと風呂に入らない事情は、そう単純ではなかった。『啓太郎、おれが引きこもりだから、大浴場に入れないと思っているかもしれないけど――それもあるけど』 「あるんじゃ
「あー、いえ……。休みの間、俺も裕貴の世話になりっぱなしも心苦しいので、つい余計なことを言ってしまいました。それに、こんなときぐらい家族と過ごすのがいいと思いますし」 裕貴が出かけるのなら、いつまでもここにいるわけにはいかない。啓太郎は靴を履こうとしたが、奥から裕貴の声がする。「啓太郎っ、まだそこにいてよっ」 思わず博人と顔を見合わせると、珍しく博人が苦笑めいた表情を浮かべた。「弟がすみません」 「いえ……。俺もかなり慣れてきたんで、気にしてません」 十分とかからず裕貴は出かける準備を整え、バッグを持って玄関に再び姿を現した。 いつものように目深にニットキャップを被って、大きめのダウンコートを羽織り、首元にはしっかり、啓太郎が贈ったマフラーが巻かれている。よく見てみれば、ダウンコートのポケットからは、手袋が少し出ていた。意識しないまま啓太郎の口元は綻びそうになり、寸前のところで表情を引き締める。「みんなして、おれが引きこもりだって忘れてるだろ。平気で外に引っ張り出して」 ごく自然に博人は裕貴の手からバッグを受け取り、当の裕貴は何事もなかったようにシューズボックスからブーツを取り出した。 こいつの日常にブーツなんて必要なのだろうかと思い、ついじっと見つめていると、啓太郎の視線に気づいたのか裕貴が顔を上げる。「……大学行ってる頃に、兄さんが買ってくれたんだ。おれの場合、新しい靴なんて買う必要ないからね」 博人がわずかに目を細めてから先に玄関を出る。啓太郎も靴を履いてあとに続こうとしたが、裕貴にそっとトレーナーの裾を掴まれ引っ張られた。 何事かと思って振り返った瞬間、裕貴が声を上げた。「あっ、忘れものした。取ってくるから、兄さん外で待ってて」 啓太郎も、とは裕貴は言わなかった。博人は物言いたげな表情を一瞬浮かべてから、頷く。 裕貴はブーツを脱ごうとしていたが、玄関のドアが閉まり、博人の姿が見えなくなった途端、ピタリと動きを止めた。 憂鬱そうにため息をついた裕貴が肩に額を擦りつけてきたので、啓太郎は慌てながらドアの向こうの気配をうかがう。「おいっ……」 「兄さんなら大丈夫だよ」 「……お前、博人さんは勘がいいとか言ってなかったか?」 「そんなこと言ったかな」 とぼけられ、啓太郎は思わず笑ってしまう。裕貴がしがみついてき
「お前が無理に呼びつけたんじゃないか?」 「ホットカーペットが欲しかったから、買いに連れて行ってもらったんだよ。……結局、啓太郎に買ってきてもらって、おれは車で待ってたんだけど」 「羽岡さんだって、こんなときぐらいゆっくり休みたいだろう。俺――わたしを呼べばよかったんだ」 ああそうなのか、と妙なところで啓太郎は納得した。博人が言い直した言葉を聞いて、裕貴の前では堅苦しい『わたし』ではなく、『俺』を使っているのだと知った。最初に博人と会話を交わしたときにも、裕貴には『俺』と言っていたはずだが、あのときは啓太郎も動揺していて、さほど気に留めなかった。 しかしこうしてあからさまに言い直されると、裕貴に対するのと、他人も同席している状況では、博人の対応は違うのだと知る。 裕貴は皮肉っぽく唇を歪め、首を横に振った。「兄さんこそ、忙しいだろ。あの人の実家に顔出したりして」 「年末顔を出して、千沙子だけ置いてわたしは帰ってきた。こっちはこっちで用があったからな」 「……その用って、聞きたくないな……」 露骨に顔をしかめる裕貴とは対照的に、博人は淡々とした表情を変えないまま告げた。「――父さんが、温泉旅行に行くと言い出した」 「あの人まだ、日本にいたのっ?」 「来週には取材に発つそうだ。だからその前に、温泉でのんびりしたいそうだ。子供と一緒に。宿は予約を入れてあるから心配しなくていい。それと、裕貴も連れて来い、と言われた」 見る間に裕貴の顔が真っ赤になり、博人を睨みつける。「嫌だよっ」 「たかが二泊三日だ」 「そういう問題じゃないよ。なんで父さんも兄さんも、人の予定も聞かないで勝手に決めるんだよ。それに行くなら、二人で行けばいいだろ」 「わたしだけ行っても、父さんはつまらないだろう。あれでも、お前のことを可愛がっているんだ」 裕貴がふいにこちらを見る。ドキリとした啓太郎に対して、裕貴の目は必死に『助けて』と言っているようだ。 啓太郎も突然の事態に、内心は動揺している。できることなら、行くな、と言ってやりたいが、そう言えるだけの理由が準備できないし、言う権利もない気がした。なんといっても博人は、裕貴の兄だ。それに父親が、裕貴を旅行に連れて行きたいと言っているのだ。 威圧的なものを感じて視線を博人に向けると、冷ややかな眼差しがじっと啓太郎を見
誘われるように顔を近づけると、裕貴の涙を唇で吸い取る。すると裕貴が顔を動かし、ごく自然な流れで二人は唇を触れ合わせ、啄ばむようなキスを数回繰り返した。油断ならない裕貴は、その間に啓太郎の脇をくすぐってくる。「残念だな。俺はくすぐられるのには強いんだ」 「人間じゃない」 こいつ、と呟いてから、裕貴の脇をくすぐろうとしたが、気が変わって体を起こす。裕貴の胸元に両手を這わせ、赤みが強くなっている胸の突起を中心に優しく撫でてやる。素直な裕貴の体はすぐに反応を示し、あっという間に胸の突起は硬く凝った。 片方の突起は指で摘むようにして刺激し、もう片方には顔を寄せ、舌先でくすぐる。クスクスと笑ってから、吐息交じりの声で裕貴が言った。「昨日、ほとんど一日中やってたのに」 「今日はまだだろ。……触るだけだ」 裕貴の脇腹に唇を這わせ、スウェットパンツの下に片手を潜り込ませる。鋭く息を吐き出した裕貴が肩にすがりついてきた。 少し前までふざけ合っていたはずなのに、今ではもうすっかり、甘やかで妖しい空気が二人を包んでいる。 このまま行為に没頭しようとしたとき、不粋なインターホンの音が割って入った。 平日ならともかく、正月気分に浸っているこんな日に誰だろうかと思い、啓太郎は顔を上げる。このとき、裕貴の顔色はすでに変わった。「……兄さんだ」 「博人さん?」 「こんな日に、堂々とうちに来る人間なんて、兄さんしかいないよ」 部屋にいるのが確実な裕貴が、応対しないわけにはいかない。啓太郎は仕方なく裕貴の上から退き、裕貴に手を貸して起こしてやる。 Tシャツを直した裕貴はパーカーを羽織ると、複雑そうな表情をしたままインターホンに出た。啓太郎はただそんな裕貴の様子を見つめるしかできない。「わかった……」 裕貴はぽつりとそれだけ洩らすとインターホンを切り、玄関に向かう。自分はどうすればいいのかと、啓太郎はダイニングで立ち尽くすしかない。 そうしているうちに、玄関で交わされる会話が聞こえてきた。「――こんな日に、何しに来たの」 「誰か来てるのか?」 「わかってるだろ。啓太郎だよ」 ここで無視するわけにもいかず、啓太郎も玄関に向かう。 スーツの上からコートを羽織った博人とまっさきに目が合い、こちらに背を向けていた裕貴が振り返って、困惑気味の表情を浮かべ
**** 仕様書の変更が少なかったことに気をよくして、啓太郎は久しぶりに定時に会社を出ることができた。システムのテストも順調に進み、会社を出る啓太郎の足取りは軽い。 もっとも、こんな幸せが長くは続かないことを知っている。明日にはまた仕様書の変更やバグの嵐、外注先のプログラマが逃げ出すかもしれないのだ。 それでも、今だけは――。 ささやかな幸福感を味わいながら啓太郎が向かったのは、電子商品を専門に扱う小売店が集まっている街だった。もちろん、一昨日、隣人である裕貴に頼まれたものを買いに行くためだ。大型量販店に行っても扱っていないのはわかりきっている。だったら最初から専門店に向かう
スープに入っているすり身団子も塩加減がちょうどいい。スープ自体は薄味だが、牛肉の味噌炒めが味が濃いので、あまり気にならない。 一人暮らしの青年が作るにしては、あまりに見事というしかない食事だ。 きれいに平らげて満足の吐息を洩らした啓太郎は、ビールを飲みつつ裕貴をうかがう。マウスを動かし、キーボードを叩き、その合間に器用に左手で箸を動かし食事をしており、なんとも慌ただしいし、消化に悪そうだ。 すっかりゲームに没頭して、もしかすると啓太郎の存在など忘れているのかもしれない。 手を合わせてご馳走様をすると、啓太郎は遠慮しながら裕貴に声をかけた。「おい、食べ終わったんだけど」 「食器
**** ただでさえ風変わりだった啓太郎と裕貴の関係は、さらに妙なことになりながらも、比較的穏やかに続いていた。 相変わらず啓太郎は、裕貴に昼メシ以外では食べること全般世話になっており、とうとう裕貴の部屋のテーブルの上には、貯金箱が置かれるまでになった。アクリル製のシンプルなデザインで、透明で中が見える貯金箱だ。 裕貴に頼まれて啓太郎が買ってきたものだが、この貯金箱に、食事代――だけでなく、その他で裕貴の世話になったときに相応の金を入れている。いわゆる、『時給制の恋人』に対する対価というやつだ。 透明な貯金箱に貯まっていく金を見るたびに、こんなにも裕貴に世話になっているのかと
すぐには啓太郎は、裕貴の言葉の意味がわからなかった。「はあ?」 「だからさ、今の羽岡さんの言葉を聞いてると、おれってけっこう条件にぴったりじゃないかと思ってさ。今だって金もらってメシ作っているんだから、時給について考慮してもらえるなら、いくらでもオプションをつけてあげるよ?」 「オプションって、お前な……」 どう見ても、裕貴は男だ。 啓太郎は身勝手な『時給制の恋人』について、前提として『彼女』と言ったはずだが、裕貴はあまりその点について重要視していないらしい。そうでなければ、男の裕貴が自ら名乗りをあげるはずがない。 啓太郎の視線は無意識に、裕貴の胸元に向けられる。トレーナーの