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北川とも
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Novels by 北川とも

血と束縛と

血と束縛と

美容外科医の佐伯和彦は、十歳年下の青年・千尋と享楽的な関係を楽しんでいたが、ある日、何者かに拉致されて辱めを受ける。その指示を出したのが、千尋の父親であり、長嶺組組長である賢吾だった。 このことをきっかけに、裏の世界へと引きずり込まれた和彦は、長嶺父子の〈オンナ〉として扱われながらも、さまざまな男たちと出会うことで淫奔な性質をあらわにし、次々と関係を持っていく――。
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Chapter: 第39話(35)
 和彦は大きくため息をつくと、小野寺をテーブルから追い払うのは諦める。南郷の指示なのだろうが、あえてクリニックの近くで接触してくるやり方に腹は立つが、寄越されたのが小野寺で、助かったとも思った。見た目だけなら、小野寺は無害そのものだ。あくまで見た目だけ。「あの人たちに、俺と佐伯先生の関係って、どんなふうに見えているでしょうね」「……さあ」「まさか総和会の人間同士だとは、思いもしないだろうな……」 思わずきつい眼差しを向けると、小野寺は皮肉っぽく唇の端を動かした。「今の佐伯先生の反応、もしかして、自分は総和会の人間ではないと思っているということですか?」「君に言う必要はないだろう。……無遠慮で無神経なのは、南郷さん譲りなのか。第二遊撃隊の人間をそんなに知っているわけじゃないが、少なくとも中嶋くんや加藤くんとは、話をしていて不愉快になったことはない」「加藤はよくわかりませんが、中嶋さんは――特別ですよ。あの人は、佐伯先生のために隊に呼ばれたような人ですから」 一瞬、小野寺の表情を過ったのは、嘲りの感情だった。第二遊撃隊の中の人間関係に興味がないわけではないが、それでなくても今は、自分のことでいっぱいだ。度を過ぎた好奇心は、今の和彦には単なる毒にしかならない。「君の言葉が本当なら、中嶋くんのことだけは、南郷さんに感謝しないといけないな。それ以外では――」 続きを聞きたそうな素振りを見せた小野寺を無視して、和彦は食事を続ける。大人げないと自覚するほど邪険な態度を取っているつもりだが、小野寺は痛痒を感ぜずといったところか、こんなことを言い出した。「中嶋さんだけじゃなく、俺にも慣れてください。南郷さんはどうやら、そのうち俺と加藤を――もしかするとどちらかを、佐伯先生の専属の護衛としてつけたいみたいなので」「この間、確かにそんなことを言っていたな。……ぼくの意見も聞かずに」 胃の辺りが一気に重くなるのを感じて、和彦は顔をしかめる。意見を求められない自分の立場を甘受してはいるのだが、南郷から一方的に押し付けられる
Last Updated: 2026-07-16
Chapter: 第39話(34)
 格好だけなら小野寺は、華のある甘い顔立ちもあって、苦労知らずの大学生に見えた。それが実は、世に悪名を轟かせる組織の中で、どんな仕事でもこなす隊に所属しているのだから、人の見た目は本当にあてにならない。 もっとも和彦の周囲には、そんな男がけっこういる。例えば――。「中嶋くんは?」 唐突な和彦の問いかけに、動じた様子もなく小野寺は首を横に振る。「俺だけです」「……加藤くんの件を知らないのか」 和彦は露骨に不機嫌な表情を浮かべたが、それでも小野寺は動じない。「それは、あいつがドジを踏んだから大事になったんです。俺は正式に、隊から……というより、南郷さんからの使いで来ました」 南郷と聞いて、和彦の口元はピクリと引き攣る。小野寺を睨め上げたが、その反応をどう受け止めたのか、和彦の承諾も得ないで向かいの席についた。「おい――」 和彦は抗議しようとしたが、すかさず差し出された紙袋に気を取られる。紙袋に印刷された上品なデザインには見覚えがあった。いつだったか患者が差し入れとして持ってきた、有名な洋菓子店のものだ。 どういうつもりかと理由を問おうとして、今度は頼んでいたランチが運ばれてくる。小野寺は居座るつもりらしく、ちゃっかりメニュー表を開いている。 声を荒らげるのも大人げなくて、呆れて小野寺を見ていた和彦だが、すぐに目を丸くする。 ここまで、不貞腐れているのかと思うほど無表情だった小野寺が、ウェイトレスの女の子に思いのほか優しい笑顔を見せ、柔らかな声音で注文をしている。この場面だけ切り取れば、目の前にいるのは完璧な好青年だ。 ただ、それなりに人を見る目を養ってきたと自負している和彦が感じたのは、女の扱いに慣れているなということだった。 ウェイトレスが立ち去ると、小野寺は無表情に戻る。意地悪や皮肉のつもりはなかったが、和彦は率直にこう口にしていた。「ぼくには愛想がないんだな」 さすがに虚をつかれたのか、小野寺は目を丸くする。その反応に、ささやかな満足感を覚えた和彦は、軽い口調で続けた。「そういえば、加藤くん
Last Updated: 2026-07-16
Chapter: 第39話(33)
「えっ、ああ……、あの隊は、長嶺会長のためならなんでもしますからね。どの組にも隠したいことはあるが、犬並みの嗅覚で探り当てる、と言われています。そういう連中に対しては、どうしたって慎重になります。うちの組だけじゃなく、今回は長嶺組長にお世話になっているわけですから、これ以上迷惑をかけるわけにもいきません。当然、佐伯先生にも」「……第二遊撃隊全体のことはよくわかりませんが、南郷さんは鋭いですね。いろいろと」 和彦の口調に含まれる苦々しさを感じ取ったのか、怪我を負った男から気遣うような視線を向けられ、さらにこう言葉をかけられた。「佐伯先生も苦労されているようですね」 はい、と頷くわけにもいかず、和彦は曖昧に首を動かした。**** 賢吾が持たせてくれたクリニックに、和彦は愛着を抱いている。開業に向けて改装工事に立ち合い、インテリアなどを自分で選び、長い時間を過ごしている場所だ。 その場所を、南郷の無法な訪問によって〈穢された〉と感じる自分に、和彦は驚いていた。 こんな形で、クリニックが職場以上の価値を持つものであると痛感したところで、和彦はまったく嬉しくなかった。気分転換という表現も変かもしれないが、せめてもの対処として、契約している清掃業者にいつもより早めに入ってもらおうかと、本気で検討していた。 ビルから出ようとして空を見上げた和彦は、ため息をついて傘を差す。また、雨が降っていた。頭がひどく重いが、おそらく天候の悪さは関係なく、睡眠不足が原因だろう。 昨夜――治療を終えたときにはもう日付が変わっていたが、殺されかけた昭政組の組員は、今朝はもう車イスに乗って元気に事務所に出ていると、賢吾からのメールで教えられた。少しばかりの睡眠時間と引き換えにした甲斐はあったと、和彦が微笑ましい気分になったのは一瞬で、数日は安静にするよう指示を出した身としては、眉をひそめずにはいられなかった。 この世界で生きる男たちに、無理はするなと忠告するだけ野暮なのだろうとわかっていても。 ふいに強い風が吹き、和彦は咄嗟に傘の柄を強く握る。
Last Updated: 2026-07-15
Chapter: 第39話(32)
「総和会を介さないで、人や物を組同士間で直接行き来させるのを、総本部は嫌がります。そういったことをよくご存知の長嶺組長ですが、〈心当たり〉のおかげで、今回は佐伯先生を寄越してくださったんでしょう」 和彦は黙って聞きながら、さっそく縫合に取りかかる。「最近、総和会の中で密やかに、ある噂が流れているんです。長嶺会長が、総和会の中の組織改革を目論む……というのは表現が悪いですが、計画しているようだと」「ぼくも、その噂なら聞いたことがあります」「その組織改革の一つに、創設当初から名を連ねている十一の組の数を変更するのではないか、というものがありまして……。佐伯先生も薄々とながら感じているでしょうが、十一の組の力は同等じゃありません。昔より、構成員の数と資金力の格差が大きくなっています。正直、力のある組に、力のない組がぶら下がっているという部分が、ないとも言えません。不公平だと不満を抱えている組があるのも確かです」 さすがに自分の体が縫われている様は直視したくないのか、話しながら男は、振り返るようにしてブラインドを下ろした窓に顔を向ける。 空調が利いていない室内は、血と汗の匂いが入り混じっている。できることなら窓を開けて換気したいところだが、それはさきほど止められた。外はすでに夜の闇に覆われ、普段使っていない部屋に電気がついていると目立つのだそうだ。「だからといって、総和会の今の枠組みを壊したいかというと……、どうでしょう。組を減らすにしても、増やすにしても、揉めることになるでしょう。あくまで噂レベルの話とはいっても、浮き足立つ組はあります。古き良き助け合いの精神なんてものは、締め付けの厳しいこの時代には足枷でしかないと、長嶺会長が言い出してもおかしくない。幹部会に提議するための下調べを、もう始めているとしたら――」 男がブルッと身を震わせる。その反応が、総和会会長としての守光の恐ろしさを物語っているようだった。 御堂と親しくなったことで和彦は、清道会という組織の一端に触れた。清道会組長補佐の綾瀬と知り合い、清道会会長に挨拶もした。それらの出会いの中で、総和会会長の交代劇に遺恨めい
Last Updated: 2026-07-15
Chapter: 第39話(31)
**** その傷口を一目見て、和彦はゾッとした。 長嶺組や総和会から依頼される仕事によって、通報事案に値する怪我の治療もこなし、経験を積んできているが、どうしても慣れないものがある。 消毒をする和彦の手が止まったことで不安を覚えたのか、ベッドに横たわった男が苦しげな息の下、言葉を発した。「先生、どうかしましたか?」「あっ、いや……、なんでもない、です」 四十代半ばに見える男は、苦痛に顔をしかめてはいるものの、非常に落ち着いていた。普通の人間なら、刃物で太腿を刺され、それなりに出血したとなったら、こうはいかない。そもそも、その場から動くこともできないだろう。 しかしこの男は、自分で足の付け根をネクタイで縛って止血をして、安全な場所へと移動してから、組に連絡して助けを求めた。 男への攻撃は、太腿への刃物による一刺しだけ。ためらいのない、美しいとすらいえる傷口が示すのは、明確な殺意だった。「……あと少し刺される場所がズレていたら、動脈が傷ついていましたよ」「マッサージを受けている最中で、ちょっとばかり無防備になっていたんです。咄嗟に身を捩ったおかげですね、助かったのは」 襲撃者を蹴りつけて逃げ出してきたと誇らしげに言われ、和彦としては返す言葉がない。「朝まで待って、医者を寄越してもらうつもりだったんですが、『バカ野郎っ』と、うちの組長に一喝されまして……。まさか、佐伯先生みたいな、きちんとした医者を呼んでもらえるとは思っていませんでした」 この患者の中で医者のランク付けはどうなっているのだろうかと、気にならないわけではないが、今は治療が優先だ。和彦はさっそく局所麻酔をかける。 麻酔が効き始めるにつれ、男の苦痛の表情がわずかに和らぐ。治療に立ち合っている組員たちの様子をうかがいながら、和彦は気になったことを問いかけた。「ぼくのことを、知っているんですか?」「うちの組は、よく佐伯先生に世話になっていると、組長が話していました」「組長&h
Last Updated: 2026-07-15
Chapter: 第39話(30)
 否応なく快感を引きずり出されて和彦は上体を捩り、なんとか抗おうとしたが、南郷はそんな和彦を容赦なく追い詰め、攻め立てる。結局、深い吐息を洩らして、大きなてのひらの中で果てていた。 和彦が吐き出した精をわざわざじっくりと眺めてから、南郷が皮肉げな口調で言う。「溜まっていたわけじゃないんだな、先生。あんまり愛想がいいから、欲求不満なのかと思ったが……、あの長嶺組長に限ってそれはないか」 和彦を射精させたからといってそれで満足する南郷ではなく、今度は自らの欲望を握り、まるで見せつけるように手早く扱いたあと、和彦の腹の上に精を迸らせた。 まるで儀式のように、南郷は自分の精を指で掬い取り、和彦の内奥の入り口をまさぐってきた。南郷はなぜか、和彦の中に己の証を残したがる。それとも、単に汚したいだけなのか。 嫌悪と困惑と怯えを含んだ目で見上げていると、薄い笑みを口元に湛えたまま南郷は内奥に指を挿入した。また指の数を増やされたが、苦しくはなかった。それどころか自ら迎え入れるように淫らな蠕動を始め、和彦はヒクリと下腹部を震わせた。 襞と粘膜を擦り上げるようにして、南郷の精を何度も塗り込められていく。必死に声を堪えようとしていると、それに気づいた南郷に、内奥の浅い部分を強く刺激された。「あっ、ああっ……、あっ、んあっ」「――俺は簡単に、あんたを押さえつけられるし、こうして体を開くこともできる」 南郷が唐突に話し始めるが、執拗な愛撫は止まらない。「いままで何回もあんたに触れてきて、寝込みも襲った。さて、そんな俺の行動に疑問を感じなかったか?」 疑問なら、今この瞬間も感じている。どうして南郷は、危険を冒してまで自分に――長嶺の男たちのオンナに触れてくるのかということだ。しかし南郷が口にしたのは、違う答えだった。「俺がどうして、あんたを犯さないか」 物騒な言葉を言い切った南郷が、内奥から指を引き抜く。和彦が顔を強張らせると、南郷はニヤリと笑った。「先生、あんたを〈まだ〉犯せない。今はこうして触れて、互いに慣れておくだけだ」「…&hellip
Last Updated: 2026-07-15
SWEET×SWEET

SWEET×SWEET

システムエンジニアの啓太郎は仕事で疲れきっている中、マンションの隣室に住む引きこもり青年・裕貴と知り合う。 生意気で、小悪魔のようでありながら、妙に愛情深いところもある裕貴に食事の面倒を見てもらっているうちに親交を深め、そこで啓太郎は、裕貴の内面にも次第に立ち入ることになる。 裕貴と特別な関係となった啓太郎の前に、裕貴の兄・博人が姿を見せるが、兄弟の間には誰にも言えない秘密があり――。
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Chapter: -147-
「寒い……」 そう洩らして裕貴がドアの隙間から身を滑り込ませてくる。啓太郎はドアを閉めながら、率直に疑問を口にした。「お前、先に自分の部屋に戻らなかったのか」 「だって、おれの部屋寒いもん。電気がついてるの見えたから、啓太郎が帰ってきてるってわかったし、だったら、まっすぐこっちに寄ったほうがいいだろ? 部屋が暖かいんだから」 「……もう少し、可愛げのある言葉はないのか、お前……」 現金な裕貴に呆れながら、部屋へと上げる。ダッフルコートを脱ぎ、マフラーと手袋を外した裕貴は、すぐにコタツへと潜り込み、幸せそうな表情を浮かべる。その様子に、思わず啓太郎の口元は綻びそうになるが、寸前で堪えた。 裕貴を待ちながら、ずっと啓太郎を苛んでいた感情は、こんなことでは消えない。「実家のリフォームのことで出かけてたのか?」 キッチンに立って湯を沸かしながら問いかけると、隣の部屋から気の抜けたような声が返ってきた。「そうだよ……」 「お前一人で――そんなわけないか」 啓太郎の呟きが聞こえたわけではないだろうが、裕貴が言葉を続ける。「リフォーム会社の人に実家を見てもらって、それでいろいろ相談しながら見積りしてもらってたんだ。といっても、話してたのは兄さんばかりだけど。おれなんて、立ち合う必要ないんじゃないかな」 裕貴はわかって言っているのだろうかと、啓太郎は苛立ちを覚える。博人は、ただ裕貴と一緒の時間を過ごしたいがために、実家に呼んだのだ。  実家のリフォームというのは、いい理由だ。工事の進捗状態を確認するため、と言っては、何度も裕貴を呼び出せる。裕貴にしても、博人がいるのならさほど身構えることなく出かけられるはずだ。何より、実家に顔を出し続けることで、里心がつくかもしれない。 そうなることを啓太郎は恐れているが、行くなとも言えない。 コーヒーを入れたカップを手に隣の部屋に行くと、裕貴は仰向けで寝転がっていた。どうやら疲れたらしい。「メシは食ったのか?」 カップを置いてから、啓太郎もコタツに入る。「うん……。兄さんと食べてきた。――……懐かしかった。子供の頃、よく兄さんと行ってたレストランなんだ」 ぼんやりとした表情で話す裕貴だが、視線はまっすぐ天井に向けられている。何かを考え込んでいるようだ。「楽しかったか?」 啓太郎の問いかけに、やっと裕貴
Last Updated: 2026-07-15
Chapter: -146-
**** 今日のシステム開発部の空気は少し浮き立っていた。もうダメだという思いを何度も味わってきたので、それを乗り越えてシステムが実用化されるのだから無理もない。  ただ、本当に喜べるのは、無事にシステムが起動できれば、の話なのだが。 モニターを眺めながら啓太郎は、到底浮かれた気分にはなれなかった。普段の自分なら、確かに上機嫌になっているかもしれないが、今は仕事よりもむしろ、プライベートのほうに危険を孕んでいる気がする。  啓太郎にとってのプライベートとはもちろん、裕貴のことだった。啓太郎にはどうしても、年が明けてからの裕貴は、心が揺れ続けているようにしか思えない。 心が揺れる原因は、兄や父親から、実家に戻るよう説得されたからではないかと推測していた。問題なのは、そのことに関して裕貴が、啓太郎に気持ちを明かしてくれないことにある。 心の揺れを悟られたくなくて、裕貴は自分に話してくれないのだろうか――。 こう考えるたびに、啓太郎の心は大きな不安に襲われるのだ。裏を返せば、それだけ啓太郎にとって裕貴は、生活に欠かせない、大事な存在になったということだ。  デスクに頬杖をつき、ため息をつく。  実家に帰るな、と裕貴に言いたかった。だが、そう言う権利が啓太郎にはない。少なくとも今の関係では。 ここでモニターを見て、今日中に済ませる予定だったテストが、なんの問題もなく完了していることを知る。さすがに、ここまできて問題が起こると困るが、順調すぎるのも、逆に怖い。 啓太郎は眉をひそめてモニターを凝視していたが、腕時計で時間を確認してから、たまらずパソコンの電源を落とす。  さすがにもう、今日はこれで帰ることにした。また何か起こったとき、いつ地獄のような日々に追い込まれるかわかったものではないので、実行に移すなら今しかない。 慌ただしく帰り支度をした啓太郎は、誰かに呼び止められる前に会社を飛び出す。さすがに今日はもう、会社から電話がかかってきたとしても、出る気はなかった。 SE失格だと、念仏のように口中で唱えながらの啓太郎の願いは叶えられたのか、マンションに戻るまで携帯電話が鳴ることはなく、無事に、裕貴の部屋の前に立つ。 呼吸を整えてインターホンを鳴らしたが、応答はなかった。啓太郎は、漠然とこの事態を予測していた。  裕貴は出かけていないかも
Last Updated: 2026-07-10
Chapter: -145-
 啓太郎はエレベーターの中で、手にしたケーキの箱を持ち上げて、ため息をつく。せっかく裕貴のためにケーキを買ってきたが、無駄になったかもしれない。あの、裕貴を猫可愛がりしている博人が、手土産も持たずに裕貴の部屋を訪れるとは思えないのだ。  だからといって自分の部屋に持って帰るわけにもいかず、啓太郎は裕貴の部屋の前に立つ。深呼吸してから、インターホンを鳴らした。 少し間を置いてから、インターホン越しにドキリとするほど気だるげな裕貴の声がした。『――……どうかしたの?』 啓太郎はすぐに、裕貴が、自分の兄が引き返してきたと思っているのだと察した。「裕貴、俺だ。博人さんとは、下で会ったぞ。俺は、よくよくあの人と縁があるらしいな」 笑いながら話したが、インターホンの向こうから返事はない。急に啓太郎は心配になった。さきほど下で博人から聞かされた、実家に戻ってきてもらいたいという話が脳裏を過ぎったのだ。「……裕貴、大丈夫か?」 博人とケンカでもしたのではないかと心配になり、思わず啓太郎は呼びかける。『あっ、うん……。ちょっと待ってね、部屋片付けるから』 「片付けるって、お前――」 啓太郎は、裕貴の部屋が散らかっているところなど見たことがない。不思議に感じながらも、ドアを開けてもらうまでおとなしく待つしかなかった。 数分ほど待ってようやくドアが開けられると、裕貴は長袖のTシャツの上からカーディガンを羽織り、カーゴパンツという、いつもと変わらない服装をしていた。ただなんとなく、微妙な違和感を覚える。それは服装ではなく、裕貴自身から感じるものだ。「ごめんね、寒い中待たせて」 そう言って笑いかけてきた裕貴に促され玄関に入ると、啓太郎は無意識に裕貴に手を伸ばすが、さりげなく躱された。「いや、別にいいけど……、片付いたか?」 「まあね」 ダイニングに足を踏み入れると、一見して変わったところはない。あまりに啓太郎がじろじろとダイニングや隣の部屋を見ていたせいか、裕貴が眉をひそめる。「何?」 「お前が部屋を片付けるなんて言うから、てっきり博人さんとケンカして、手当たり次第にものを投げつけたのかと思ったんだ」 裕貴は微妙な表情を見せたあと、まるで啓太郎の視線を避けるように背を向けた。ほっそりとした背がなんだか頼りなく見え、啓太郎の胸の奥が不安でざわつく。もし
Last Updated: 2026-07-06
Chapter: -144-
**** 上機嫌で車を降りた啓太郎の手には、ケーキ屋の箱があった。会社で話していた女性社員たちから、美味しいケーキ屋の情報を仕入れ、帰りに寄ってみたのだ。 買って帰ったケーキを見て、裕貴が嬉しそうな表情を浮かべるのを想像するだけで、啓太郎の足取りは軽くなる。たとえ、二日続けての徹夜明けだとしても。裕貴の顔を見て、裕貴が作ったメシを食う間ぐらいは、まだ目を開けていられる自信はあった。  しかし啓太郎の、睡眠不足による妙なテンションの高さと上機嫌は、長続きしなかった。 マンションのエントランスからこちらに向かって歩いてくる人物に気づいたからだ。見間違うはずもなく、それは博人だった。「あれは……」 思わず足を止め、無意識に啓太郎は眉をひそめていた。一方、マンションから出てきた博人は、啓太郎に向かってあくまで儀礼的に笑いかけてくる。ただなんとなくだが、いつもより機嫌がよさそうに感じた。対照的に、啓太郎の上機嫌は急速に萎んでいく。 マンション前で博人と向き合った啓太郎は頭を下げ、このとき、博人の手にある封筒に目を留めた。先日、ショウルームから裕貴が持ち帰っていたものと同じだ。「――リフォームの件で細かい部分を決めておきたかったんですよ」 啓太郎が何も言わないうちに、博人のほうからそう説明をしてくれる。そんなに物言いたげな顔をしていただろうかと、啓太郎は思わず自分の顔に触れていた。「そう、ですか……」 「本当は外に呼び出したかったんですが、手が離せないと裕貴に冷たく言われましたね。だからこうして出向いてきたわけです」 「株の取引で忙しいみたいですね。ここ何日か、パソコンの前から離れられないと言ってました」 啓太郎と博人は、示し合わせたようにマンションを見上げ、裕貴の部屋のほうに視線を向ける。  ふいに、博人が独りごちるように呟いた。「裕貴が学生の頃は、単なる小遣い稼ぎだと軽く考えて、注意しなかったんですが、今になって後悔してますよ」 「えっ?」 博人はこちらを見て、唇の端をわずかに上げた。「部屋から出なくても稼げる手段なんてものがあるから、裕貴は二年もの間、わたしと会おうとしなかったし、会わなくても困らなかった。……本当なら、裕貴がパソコンの前に座り続けるようなまねをしなくても、生活費なんてわたしが与えてやれるのに」 どこか口惜しげ
Last Updated: 2026-07-01
Chapter: -143-
 感じやすい括れをいきなり擦ってやると、腰が震える。それをきっかけに裕貴はそっと目を細め、啓太郎の舌を温かな粘膜で包み込むようにして吸い始めた。 快感に対して順応が速い裕貴に、今は狂おしい気持ちを掻き立てられる。忘れたつもりにはなっていたが、こんなときに思い出すのだ。  裕貴に対して、快感を教え込んだ相手がいると――。 玄関に微かに濡れた音を響かせながら、差し出し合った舌を絡める。そうしながら裕貴のものを手荒く扱き立て、もう片方の手では、すでに硬く尖った胸の突起を指先で弄る。「……濡れてきた」 熱くなった裕貴のものの先端をくすぐり、啓太郎は低く囁く。裕貴は艶やかな笑みを浮かべて首をすくめた。「恥ずかしいよ、バカ」 もう一度、今度はしっとりと唇を重ねていると、ふいに部屋のほうから電話の音が鳴り響いた。ピクリと体を震わせた裕貴が、硬い声で言う。「兄さんだ……」 「部屋に着いたか、確認したいんだろ。電話に出るか?」 啓太郎は手を引こうとしたが、それを許さないように反対に裕貴を手を掴まれて引き戻される。ぶつけるように唇が割り込まされ、あっという間に裕貴の激しさに煽られる。  再び手を動かして裕貴のものに愛撫を加えながら、指先に心地いい胸の突起の感触を楽しむ。その間も、互いの唇と舌を貪り合っていた。 気がついたときには電話の音は止み、互いの荒い息遣いだけが玄関に響く。ふいに、思い出したように裕貴に問われた。「ねえ、おれがこの部屋からいなくなるの嫌?」 なぜ急にこんなことを聞いてくるのか、啓太郎には意味がわからなかった。濡れた先端を強く擦り上げると、短く悲鳴を上げて裕貴が顔を背ける。露わになった首筋に唇を這わせながら啓太郎が今度は問いかけた。「なんでそんなことを聞くんだ。お前まさか――」 本当に実家に帰るつもりでは、と心配したが、そうではなかった。顔を背けたまま裕貴が口元にちらりと笑みを浮かべる。「だってさ、ショウルームにいる間の啓太郎って、ずっと不安そうな顔してるんだもん。もしかして、おれが実家に帰ると思って心配してるのかなあって」 自覚がなかっただけに、啓太郎は激しくうろたえる。だが、裕貴の前でムキになるわけにもいかない。裕貴の余裕を失わせるため、愛撫を続けているものの括れを指の輪できつく締めつけた。「あうっ」 裕貴の足元が大きく乱
Last Updated: 2026-06-30
Chapter: -142-
 妙にあどけない表情を目にした途端、啓太郎の中で目もくらむような欲望が突き上げてきた。 裕貴を抱き締めようとすると、軽く身をよじりながら笑われた。「外で抱き合ってると、さすがにマズイよ」「平気で腕は組んでくるくせに」「おれの癖だよ。腕に引っ付くの」 鍵を取り出しながらの裕貴の言葉に、咄嗟に啓太郎はこう言っていた。「――博人さんなら、黙って腕を組ませてくれたか? 甘えたがりの弟を持つのも大変だな」 啓太郎としては冗談のつもりだったのだが、裕貴はそうは取らなかったようだ。サッと顔色を変えたあと、うろたえたように視線をさまよわせ、おぼつかない手つきで鍵を開ける。「裕貴……」 「やっぱり、今日は帰ってよ、啓太郎。おれの分のパンはいいから――」 裕貴が背を向けたまま玄関に入ろうとしたので、反射的に啓太郎もあとに続き、裕貴の腕を取る。「お前、本当に大丈夫か? なんかおかしいぞ」 軽く揉み合うようにして玄関に入ると、手探りで電気をつける。啓太郎は裕貴の顔を覗き込もうとしたが、嫌がって顔を背けようとするのでやや強引にあごを掴み上げた。驚いたことに裕貴は、今にも泣きそうな顔をしていた。「悪いっ、痛かったか?」 慌てて啓太郎はあごにかけた手を退けようとしたが、反対に裕貴に手を取られ、頬ずりされた。その様子を見て、また啓太郎の中で欲望が突き上げてくる。もう、限界だった。「……お前のその甘えっぷりが無意識だとしたら、大したもんだ」 啓太郎は低い声で呟きながら、裕貴の髪に唇を押し当てる。すると裕貴が挑発するように上目遣いで見上げてきながら、囁き返してきた。「何が、大したもの?」 裕貴が、答えをわかっていながら問いかけていると知りながら、啓太郎は乗ってしまう。片手を伸ばしてドアを施錠すると、しっかりと裕貴を抱き締めた。「俺はお前に、翻弄されっぱなしだ」 もう一度裕貴の顔を覗き込むと、もう泣きそうな顔はしていなかった。あどけないくせに、やたら蟲惑的な目にじっと見つめられ、啓太郎は心の中でも痛感する。  冗談ではなく、やはり自分は裕貴に翻弄されている、と。その状態が、このうえもなく心地いい。 啓太郎はシューズボックスの上にパンが入った袋を置くと、裕貴の首からマフラーを外し、ダッフルコートを脱がす。すぐに裕貴のほうからしがみついてきたので、その体を引き離
Last Updated: 2026-06-29
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