Chapter: 第50話(7)** 嵐というより、局地的な突風に巻き込まれたような一時だったなと、精神的疲労からぐったりとしながら和彦は思う。 なんとか無事に自宅マンションに帰り着くと、寛ぐ前に明日の仕事の準備を整える。クリニックに届いていた学会誌に目を通しておきたい気持ちもあったが、今晩はもう頭を使うのは限界だ。手早くシャワーを済ませると、ダイニングテーブルについて大きく息を吐き出す。無意識のうちにスマートフォンを手元に引き寄せ、画面を覗く。不気味なほど誰からも連絡が来ていない。 ひとまず賢吾に報告をしておこうと、車中から簡潔にメッセージは送っておいたのだ。詳細は護衛を通じて報告されるとわかってのことだが、本宅ではどういう状況になっているか、想像するとうっすらと首筋が寒くなってくる。 まだ十代の青年が、無謀な情熱で突っ走っただけだと話せば、賢吾は納得してくれるだろうか。仮に怒っていたとして、それを鎮めてくれるだろうか。 和彦としては、玲が無難な大学生活を送ってくれることを願っており、長嶺組が関わる事態は避けたかった。 しかしここで大切なのは、玲が自らの立場をわきまえて行動できるかということで――。「……怖いなー。若さって」 そんなことを独りごちてから苦笑する。今日の玲の様子では、もう二度と和彦とは会わない、とはならないだろう。あっさりと告げられた玲の気持ちを、麻疹のようなものだと笑う気にもなれず、忘れることもできず、だからこそ和彦は困るのだ。自分が少しだけ彼を大人にしてしまったという負い目もある。 脳裏を過るのは、いかにも食えないヤクザである伊勢崎龍造の反応だ。あちらはあちらで息子の暴走に頭を抱えているのだとしたら、さらに申し訳ない。 所在なく座っているのも落ち着かないため、コーヒーでも淹れてこようかと腰を浮かせかけたところで、スマートフォンが鳴った。画面に表示される番号に見覚えがなくて困惑したものの、誰がかけてきているのか気にはなる。おそるおそる電話に出ていた。『今、話しても大丈夫かい?』 高くも低くもない落ち着いた声が耳に届く。そこからひんやりとした温度を感じ取ってしまうのは、電話の向こうにいる人物の秀麗な
Huling Na-update: 2026-10-14
Chapter: 第50話(6) 玲は納得しきれていないようだが、だからといって抗弁もしてこない。多少なりと警戒心が芽生えてくれたらと願わずにはいられない。「無茶をするのは今日でやめます。次からはきちんと連絡して、佐伯さんと約束を取り付けるようにします」 ううーん、と唸って和彦は首を捻る。それはそれでこちらが困るのだと言いかけたとき、テーブルの上に置いてある玲のスマートフォンの画面が光った。どうやらメッセージが届いたらしい。スマートフォンを取り上げた玲が、しまった、という顔をする。「父さんからだ……」 ぽつりと呟いて、顔をしかめながらメッセージを確認している。「何て書いてある?」「……めちゃくちゃ怒ってます。父さんには言わないで、今日ここまで来ましたから。でも――」 二人揃って外の通りに目を向ける。外で待機している男たちは、必死で玲を追跡してきたのだろう。名も知らぬ男たちに対して急に労わりの気持ちが湧いてくる。本人は不本意だろうが、伊勢崎組の人間を引き連れてとなると、玲を普通の大学生と称するのはかなり無理があった。そこに総和会の第一遊撃隊も加わっているかもしれないとしたら、なおさらだ。 物言いたげな和彦の視線を受け、玲はもごもごと言い訳のように呟いた。「俺としてはバレないよう動いてたつもりですけど、行動を読まれてたみたいです」「君についてる人たちは有能なんだよ。ほら、今から帰るって、お父さんには早く連絡するんだ。さらに大事になったら困るだろ」 和彦の呆れた表情からさすがに危機感が芽生えたのか、玲は慌ただしくメッセージをやり取りをしていたが、急に大きくため息をついてガクリと肩を落とした。「大丈夫、か?」「すぐ帰って来いと言われました。帰ったら絶対、ぶん殴られます」「顔はやめてもらうんだよ」 本気で気遣う和彦に、玲は情けない顔をして頷く。財布を取り出そうとしたので、ここは自分が払っておくと告げる。 立ち上がった玲が片手を差し出してきた。何事かと首を傾げた和彦を、ただじっと玲が見下ろしてくる。おそらく握手を求めているのだろうと察して、おずおずと手を握る。
Huling Na-update: 2026-10-14
Chapter: 第50話(5)「好きなんです、佐伯さんのこと。去年の秋から、あなたのことばかり考えています。父さんはこういうのを、『骨抜きになった』と言うんでしょうけど」「ぼくは……、君の一回り以上も年上なんだよ?」「でも、長嶺組の跡目と俺は、そんなに歳は変わらないですよね」 これも、前に同じようなやり取りをした。 こんなに押しが強い子だっただろうかと思ったが、そもそも玲を深く知るほど一緒にいたわけではない。千尋が甘えながら自分の主張を押し通すのに対し、玲はただ一直線に向かってくる。搦め手で迫ってくる男たちのほうがまだ、打算含みで相手をしやすい。 和彦の中には、玲を傷つけたくないとか、穢したくないとか、どこか庇護欲にも似た情があるのだ。 さりげなく周囲に目を向け、念のため誰もこちらに注意を払っていないと確認すると、和彦は声を潜めて言った。「君は……、お父さんの影響なのかもしれないけど、〈オンナ〉に夢を見すぎているんじゃないか。いまだに、君の中で美化されている気がする」「俺の中で美化されていたとしても、こうしてあなたを目の前にして、俺はすごく嬉しいです。それはダメなことですか?」」「ぼくは厄介な存在で、君は普通の大学生でありたいなら、これ以上関わるべきじゃない」「俺のことを、心配してくれているんですね」「……それは、当たり前だろう……」 よかったと、玲はほっとしたように笑み浮かべる。断固とした態度を取るべきだと和彦も頭ではわかっている。それが玲のためであり、余計な揉め事を長嶺の男たちや長嶺組に持ち込まないためにも最善なのだ。 そう、和彦が自分に言い聞かせていると、少し困ったように玲は眉を八の字にした。「玲くん?」「すみません。うそをつきました。ただの大学生なんて言って、俺、御堂さんのところ――総和会の第一遊撃隊でしたよね。そこの人たちにときどき尾行されています。監視というより見守られてる感じではあるんですが、それで……、それがわかっていながら、佐伯さんに会いに来ました」
Huling Na-update: 2026-10-14
Chapter: 第50話(4) 見るからに緊迫した様子の男たちに、和彦は軽く眉をひそめる。少し前の玲の蛮勇を思い出したのだ。「この間、無茶しただろう」「無茶?」「ぼくに……会いに来てくれただろう。この店の前まで」 申し訳なさそうに玲が目を伏せる。一応、自覚はあるようだ。「正直、君が伊勢崎組の人間を使ってぼくのことを調べさせていたというのは、けっこう……ショックだった。なんて手段を使ってるんだ」「俺じゃなくて、父さんが勝手に調べさせたとは考えなかったんですか?」「伊勢崎組長だったら、用があれば御堂さんを通してまた接触してくると思った。……先日のやり方は迂闊だ。おかげでぼくの周囲がピリピリして大変だったんだからな」 すみませんと素直に頭を下げた玲に、さらにきついことは言えない。玲のつむじをたっぷり数十秒眺めてから、和彦はテーブルに身を乗り出して手荒く頭を撫でてやった。「……もう、気は済んだだろう? こうして再会して、話もできた。ぼくは、君の元気そうな姿が見られて満足したよ。まっとうな大学生なんだから、自分から面倒事に突っ込むようなことは――」「大学生という身分だからこそ、俺は自由だと思いませんか?」 ぐっと顔を上げた玲と目が合う。眼差しの鋭さに一瞬和彦は怯む。 同じような会話は、玲と体を重ねたときに交わしている。それでも言ってしまうし、玲も律儀に応じる。「俺は、会いたいときに佐伯さんに会いたいんです。そのことで誰にも制限されたくない」「いや、それは……」「クリニックで俺の顔を見て、佐伯さんが少しでも嫌そうな顔をしたら、素直に帰るつもりだったんです」「……実際、すごく困ったんだけど」「それは気づきませんでした」 そう言い切った玲が自分のスマートフォンをいきなり差し出してくる。意味がわからず和彦は首を傾げた。「佐伯さん、今スマホ持ってますか?」 和彦がジャケットのポケットからスマートフォンを取り出
Huling Na-update: 2026-10-14
Chapter: 第50話(3) 玲の前にはすでにアイスコーヒーがあったため、速やかにドリンクバーを注文した和彦は、自分の分のオレンジジュースを入れてくる。改めて席についてから、辺りを見回す。「店の中にはいませんよ。父さんのところの組員は」 玲のこの言い方は少し新鮮だった。同じく組長の一人息子である千尋ならしない言い方なのだ。現役の大学生とヤクザの違いだなと、和彦は一人納得する。 そして、正面に座る玲の顔を改めてじっくりと見つめる。さきほどは言えなかった言葉が口から出ていた。「垢抜けたね」 途端に玲が複雑そうな表情を浮かべる。世辞ではなく、実際そうなのだ。白いシャツの上からジャケットを羽織り、細身のパンツを身につけた姿は、シンプルな組み合わせながら野暮ったくないうえに育ちのよさも感じられる。「あっ、いや、ごめん。前に会ったときは純朴な高校生だったから、そのギャップをどう表現していいか……。女の子からよく声をかけられるんじゃないか?」「そんなこと、ないです」「大学で友人はできた?」「俺と同じように地方から出てきた男子たちと、よく一緒にいます。友人……と言っていいかな」「サークルか部活には入った?」「……いえ、どちらも入ってないです。なかなか忙しくて」 玲の微苦笑を目にして、和彦は自省した。「あー、これじゃあ、事情聴取だね」「というより、うちの母さんと同じこと聞いてますよ、佐伯さん」 乾いた笑い声を上げた和彦だが、すぐに深々と息を吐き出す。「本当に、君が希望していた大学に合格できてよかったよ。ぼくが悪影響を与えたんじゃないかと心配だったんだ」「――地元を離れられて、父さんの希望も叶えられたら一石二鳥だという程度にしか考えてなかったんです。今は、いい選択をしたと思っています」「大学生活に満足してるんだ」「それもありますけど、こうして佐伯さんに会えるようになったことが、何より嬉しいです」 はっきりと玲から言われ、和彦は即座に反応できなかった。 じっと玲が見つめてくる。熱
Huling Na-update: 2026-10-14
Chapter: 第50話(2)「今のところニキビもシミもシワもない肌に、施術はもちろん、あえてアドバイスも必要ないと思いますね。……あっ、脱毛は興味ありませんか?」 和彦はぐいっと身を乗り出し、玲の顔を間近から覗き込む。数秒の間を置いて、玲は視線をさまよわせてから顔を赤くした。「いえ、あの……、脱毛は、いいです、かな……」 玲が赤面した理由にうっすらと思い当たったところで、和彦の頬もじわりと熱くなってくる。それを悟られる前にカウンセリングを終えた。「興味のある施術がありましたら、またお気軽にどうぞ。今日のように説明させていただきますね」 スタッフがドアを開けて一旦診察室を出る。玲がそれに続こうと、立って見送ろうとした和彦の側を通り過ぎる。ほんの一瞬の出来事だった。「あっ……」 和彦が思わず声を洩らしたときには、右手に小さな紙片を押し付けられていた。危うく落としそうになり反射的に握り締めたが、ハッとして顔を上げたときには玲は診察室を出て行ってしまう。あとを追いかけるわけにもいかず、動揺を押し殺しながらイスに腰掛ける。 一人となっている今のうちにと、そっと紙片を開くと、細かい字がびっしりと書き込まれている。内容は、クリニックが終わったあと、和彦と二人きりで会いたいというものだった。しかも場所まで指定されている。行動を制限されがちな和彦に一応気をつかってくれたのか、ときどき通っているクリニック近くのファミリーレストランだ。 面倒なことになるのは目に見えているので無視するのが賢明なのだろうが、ご丁寧なことに、来てくれないなら毎日クリニックに通うと書かれていては、こちらが取れる手段は限られる。 和彦は大きくため息をつくと、紙片をスラックスのポケットに突っ込んだ。** 和彦の立場上、誘われたからといって無防備に出向くわけにもいかず、速やかに長嶺組の護衛に予定の変更をメッセージで伝え、次に、賢吾には判断を仰ぐメッセージを送る。こちらは文章を考えるのに少々頭を捻った。賢吾が玲に会うなと言えば従うしかないが、できれば二人で話してみた
Huling Na-update: 2026-10-13
Chapter: -157- かつて裕貴は、自分が二年前から引きこもってしまった理由を話してくれた。博人の結婚がきっかけだと言い、少しだけ啓太郎は拍子抜けしたものだが、今なら理解できる。 兄弟という存在以上に、裕貴と博人は深く結びつき、互いを求め合っていたのだ。そのはずだったのに、博人が結婚してしまっては、裕貴が持つガラス細工のような世界は崩壊したも同然だ。 裕貴はいつも、啓太郎にウソはついていなかった。ただ、大事な部分をわざと言っていなかったのだ。 裕貴の中の基本も基準も、すべて博人が作ったという事実が、重かった。 血の繋がった兄弟で特殊な関係を持つことが世間ではどう見られるか、容易に想像できるが、裕貴自身の中におそらく罪悪感はない。自分たち兄弟だけに通じる道徳観を、博人は裕貴の中に植えつけたのだろう。 博人との関係を語る裕貴の口調からは、関係そのものに対する引け目のようなものは感じられなかった。「……いつから、博人さんとは……?」 「高校生になったときぐらいから、かな。それから、大学三年まで。――だけど、兄さんは結婚した。そのときわかったんだ。兄さんは、おれだけのものではいてくれないって。兄さんが、あの女と新婚生活を送るのかと思ったら我慢できなくなって、ここで一人暮らしを始めたんだ」 話しながら裕貴は、イスの上で抱えた両膝の上にあごをのせる。生々しいことを話しているとは思えないほど、あどけない仕草に見え、啓太郎は裕貴という存在に惑わされる。 髪を撫でてやりたい気分になったが、さきほど博人に言われた言葉が蘇る。 裕貴はいまだに博人のもので、啓太郎は少しの間だけ、裕貴を借りていただけなのだと。「だけど二年経って、また博人さんと関係を持ったんだな」 つい啓太郎の口調は咎めるものとなってしまう。これでも懸命に、感情的になるのを堪えているのだ。 裕貴はつらそうに唇を歪め、膝にかけた自分の手の甲に噛み付いた。そこに、裕貴なりの苛立ちが出ているようだ。「二年前、兄さんとは、もうそういうことをするのはやめようと決めたんだ。……変だよね。兄弟でそういうことをするのはなんとも思っていなかったのに、不倫は嫌だと思ってるんだ。」 「だったらどうして、博人さんとまた、そういうことを……。顔を合わせているうちに、やっぱり恋しくなったか」 「違うよっ」 思いがけず強い口調
Huling Na-update: 2026-10-12
Chapter: -156- バスルームから水音が聞こえ始めると、落ち着きなく室内を歩き回ってから、窓を思いきり開ける。一気に入り込んできた冷気が、あっという間に室内にこもっていた淫靡な空気を薄めていく。だが、完全に消し去ることはできない。 啓太郎はベランダに出て、大きく息を吸い込む。押し寄せてきたのは、その場に座り込みたくなるほどの脱力感だった。「どうしてだっ……」 裕貴が過去に、どんな相手とつき合っていようが啓太郎は気にしないつもりだった。少なくとも今、裕貴が身を任せてくれているのは自分だと思っていたからだ。 しかし裕貴が関係を持っていたのは、予想を超えた人物だった。そのうえ、いまだに関係は続いていたのだ。 裕貴に裏切られたのだという現実に、ようやく啓太郎は向き合う。 ベランダの手すりを握り締め、叫び出したい衝動を必死に堪える。この場から逃げ出したいのに、裕貴のことを知りたいという気持ちもあった。 啓太郎がベランダで頭を冷やしている間、裕貴も時間が必要だったらしく、シャワーの水音は三十分以上続いた。 ようやくバスルームから出てきたとき、裕貴は真っ赤に泣き腫らした目をしており、憔悴しきっていた。 裕貴のそんな姿を見て、ズキリと胸が痛む。怯えたような眼差しを向けられると、なおさらだ。一方で、そんな顔をするぐらいなら、どうして博人とあんなことを――、という気にもなる。 裕貴が寒そうに肩をすくめたのを見て、啓太郎は部屋に入って窓を閉めた。「……コーヒー、入れようか」 おずおずと裕貴が言ったが、啓太郎は首を横に振る。 裕貴をベッドに座らせようかと思ったが、あまりに生々しい気がして、結局テーブルにつかせた。「――……シャワーを浴びながら、啓太郎が帰ってくれていればいいのに、と思ったんだ」 啓太郎が正面のイスに腰掛けると、裕貴は自嘲気味な口調で話し始めた。「俺に、あれこれ聞かれるのが嫌だったか」 「聞かれるのが嫌というより、啓太郎がどんな顔しているか、見るのが嫌だった。……普通なら、みんな気持ち悪いって思うよね」 「お前は、どうなんだ?」 心のどこかで、博人が力ずくで裕貴を従わせていたと思い込みたがっていた。そうであれば、まだ救いがある。ただし、啓太郎にとっての救いだ。 もっとも、自分勝手な救いを求める気持ちは、簡単に一蹴される。 裕貴はテーブルに置
Huling Na-update: 2026-09-29
Chapter: -155- 空ろだった目の焦点が定まり、それに伴い事態が把握できたのか、裕貴がゆっくりと目を見開く。すでに顔色はなくなっていた。「――……啓、太郎、どうし、て……」 裕貴は震えを帯びた声で呟くと、のろのろと体を起こそうとする。すかさず博人がベッドに歩み寄って支えようとしたが、差し伸べられた手を裕貴は弱々しく拒んだ。博人は表情を変えず、裕貴の腰から下を毛布で覆った。 数分ほど、三人は黙り込んでいた。啓太郎は頭が混乱して言葉が出てこず、裕貴は動揺を押し殺すように唇を噛み、ただ博人だけが悠然としている。啓太郎と裕貴のどちらかが言葉を発するのを待っているのだ。 ようやく裕貴が苦しげに口を開いた。「兄さん、もう、帰って……」 「お前がそう言うなら従うが――大丈夫か?」 最後の何げない一言に、啓太郎の頭に血が上る。露骨な含みがあったわけではないが、遠回しに、二人きりになった途端、啓太郎が裕貴に何かしでかしそうだと言われた気がしたのだ。 博人の存在は、今の啓太郎にとっては凶器そのものだ。些細な言動の一つ一つに、啓太郎の気持ちはたやすく荒んでいく。「……いいから、帰って」 博人は一瞬怖い顔をしてから、ジャケットとコートを羽織ると、黙って部屋を出ていった。 二人きりになると、沈黙が痛さを増す。この状況で裕貴から口火を切らせることは酷なのかもしれないが、啓太郎も何をどう切り出せばいいのかわからない。まだ、頭の中は真っ白だった。 一方の裕貴は、血の気の失せた顔色で、膝を抱えて呆然とした顔をしていた。さきほどまで紅潮して汗に濡れていた肌も、今は青白く、なんだか痛々しい。 この肌に、博人は唇や舌を這わせたのだ――。 生々しい想像をした途端、吐き気が啓太郎を襲う。生理的な嫌悪感からというより、感情が極限に達したがゆえの反応だ。 自分がまだ激しく動揺していることを知り、啓太郎はようやく口を開いた。「――裕貴」 呼びかけると、裕貴が肩を震わせ、怯えたような眼差しで見つめてくる。哀れみを誘うというより、加虐的なものを刺激する、危険な眼差しだった。「とにかく、シャワーを浴びてこい。……話が聞きたい。だけどその格好だと、お互い気になるだろ」 裕貴は少し間を置いてから、のろのろと動き始める。ベッドの下に落ちた服を取り上げると、腰を覆っていた毛布を取って、全裸のままバスル
Huling Na-update: 2026-09-10
Chapter: -154- 「ど、して……」 呆然としながら啓太郎は掠れた声を洩らす。だがその声は、ベッドの上にぐったりとして横たわっている裕貴の耳には届かなかったらしい。 裕貴は全裸だった。汗に濡れた肌は艶かしく上気しており、剥き出しの胸は忙しく上下している。息も絶え絶えといった様子で目を閉じ、眉は苦しげにひそめられ、唇からは荒い呼吸が洩れていた。 寸前まで、ベッドの上で裕貴がどんな状態だったのかは明白だ。 上気した肌のあちこちに、一際鮮やかな赤い跡が残っており、上下する胸の二つの突起はどれだけ強い刺激を与えられたのか、熟して尖ったままだ。「……あんたは、自分の弟に……」 「他人がどう思おうが、俺たち兄弟には関係ない。互いを唯一の相手と認識して、繋ぎ止めておくためには、必要な行為だ。俺の結婚で少し関係がこじれて、修復するのに二年かかったが、ある意味、君には感謝している。頑固な裕貴の気持ちを解きほぐしてくれたんだからな」 「俺は、そんなつもりは、ないっ……」 博人が何を言っているのか、よくわからない。わからないなりに、築き上げた裕貴との関係を利用されたのだと思い、目も眩むような怒りが込み上げてくる。 それでいて博人に掴みかかれなかったのは、怒りを上回る戸惑いと混乱に、啓太郎の体が動かなかったからだ。「裕貴には何度も、実家に戻ってくるよう言った。温泉に連れて行ったときや、リフォームのことで実家に呼び出したときにキスや愛撫を与えると、二年前までと同じように反応するくせに、心だけは抗う。君と、恋人ごっこをするのが楽しいらしい」 「そういう言い方は、やめろ……」 裕貴の様子が最近おかしかったのは、博人が言ったような理由で間違いないだろう。 裕貴が温泉旅行に出かけるときに感じた嫌な予感は、実は正しかったのだ。 濡れた下腹部と、力を失った裕貴のものまで目にして、啓太郎は嫌でも事実を認めざるをえなかった。 そんな啓太郎に追い討ちをかけるように、隣に立った博人が言う。「裕貴は快感に対して素直で、脆い。そういうふうに、俺がした。大事にして、慈しんで、甘やかして、俺が与えるものだけで満たされるようにした。……可愛くてたまらない、大事な弟だ。世界にたった一人しかいない、俺の宝物といってもいい。だから、他人に渡すわけにはいかないんだよ」 啓太郎は目を見開き、博人を凝視する
Huling Na-update: 2026-08-26
Chapter: -153- 酔っていたせいもあり、土産のデザートを買い忘れたのは痛いが、何日間かは時間的に余裕もできるので、裕貴が言えば、どこの店だろうが買いに行ってやるつもりだ。 啓太郎は、思わず声を洩らして笑ってしまい、すぐに咳で誤魔化す。 自分はどれだけ裕貴を甘やかしたくて仕方ないのかと考えると、笑えてきたのだ。裕貴の兄である博人の過保護ぶりが、他人事とは思えない。 マンション前でタクシーを降り、裕貴の部屋を見上げる。電気がついているのを確認すると、啓太郎は足早にマンションへと入った。 エレベーターの中で、裕貴がどんな顔をして出迎えてくれるか想像する。 驚いたように目を丸くしてから、屈託ない笑みを向けてくれるか、大人げないと言いたげに呆れた表情を見せるか。もしかすると裕貴なら、いきなり抱きついてくるかもしれない。 とにかく裕貴の言動は、啓太郎の想像を超えているところがある。そこがまた、一緒にいて楽しいと思えるのだから、惚れた欲目とは恐ろしい。 我ながら酔っているとは思えない颯爽とした足取りで、裕貴の部屋の前まで来ると、いつものようにインターホンを押した。 無意識に心の中で数をかぞえる。裕貴がどれぐらいの早さでドアを開けてくれるか、体が感覚として覚えてしまった。 だが今夜に限って、いつまで経ってもドアが開かない。 眠っていて聞こえないのだろうかと思い、もう一度、今度は数回立て続けにインターホンを鳴らす。一分ほど待ってからようやく、ドアの向こうから微かな物音が聞こえた。 チェーンを外す金属音に続き、鍵を解く音もする。ゆっくりと開けられるドアの向こうから、姿を現したのは――。「えっ……」 その人物の姿を見て、啓太郎は思わず声を洩らす。博人だったからだ。 この瞬間、啓太郎の全身に悪寒が走り、鳥肌が立つ。触れてはならないものに触れてしまったと、本能が信号を発したのかもしれない。 博人はなぜか、スラックスにワイシャツを羽織っただけの格好をしていた。はだけたワイシャツの下から素肌が見えているが、汗が滴り落ちている。 啓太郎は、端然とスーツを着込み、怜悧な雰囲気をまとった博人しか知らない。だが今、目の前に立っている博人は、格好もそうだが、雰囲気もどこか気だるげだ。それでいて、悠然として勝ち誇ったような表情を浮かべているのだ。 捕まってはいけない『何か』に、
Huling Na-update: 2026-08-17
Chapter: -152-**** おおっ、とモニターを覗き込んでいた社員たちの口から、感嘆とも安堵とも取れる声が洩れる。一方の啓太郎はといえば、感嘆も安堵も突き抜けて、虚脱感に襲われていた。 イスの背もたれにズルズルと体を預けながら、大きく息を吐き出す。「はあーっ、気が抜けた」 ずっと取り掛かっていたショッピングサイトのシステムの最終試験が終了し、怒涛の流れでシステムのリリースとなったわけだ。 完成したシステムを顧客に引き渡し、確認してもらうことをリリースというのだが、啓太郎はそもそも顧客の会社に出向いてシステムを作っていたので、完成までにどれだけのバグが出ていたか、すべて会社に筒抜けだ。 そういう意味では、リリースの瞬間も気楽なはずなのだが、万が一にもバグが起こったらと思うと、やはり緊張してしまう。 だが、心配は杞憂に終わった。システムは製品として啓太郎の手を離れたのだ。 すぐに姿勢を戻すと、啓太郎はアタッシェケースから書類を取り出し、このシステムの管理責任者に手渡す。リリースと引き渡しが完了したというサインをもらわなければ、仕事が終わったことにならないのだ。 連日、泊まり込みが続いていて、少し前まではぐったりしていた社員たちも、にわかに活気を取り戻したようだ。 当の啓太郎も、実は張り切っていた。少しの間とはいえ、これでハードワークから解放されるのだ。 ずっと自分が使っていたデスクの上を片付け、アタッシェケースに必要なものを放り込んでいく。「羽岡さん、この後、メシ食うのもかねて打ち上げの店を押さえたんだけど、ちょっと距離があるんだ。それで、タクシーに分乗するんだけど、いいよね?」 「えっ、打ち上げ、今日するんですか」 驚いた啓太郎は顔を上げる。システムが完成してからの打ち上げはよくあることだが、まさか、完成当日に行うとは思っていなかった。すでに店を押さえてあるというのは、手際がよすぎる。 男性社員は苦笑しながら言った。「疲れを取ってから派手に、といきたいところだけど、うちはまだ、業務に付随する細々としたシステム開発が残ってるからさ。だから、大きなシステムが完成した勢いで騒ごうってことになったわけ。そうでないと明日からのデスマーチに耐えられそうにない……」 システム開発者はお互い大変だと思いながら、啓太郎は頷く。「俺は大丈夫ですよ。まさか
Huling Na-update: 2026-08-10