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北川とも
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Novels by 北川とも

血と束縛と

血と束縛と

美容外科医の佐伯和彦は、十歳年下の青年・千尋と享楽的な関係を楽しんでいたが、ある日、何者かに拉致されて辱めを受ける。その指示を出したのが、千尋の父親であり、長嶺組組長である賢吾だった。 このことをきっかけに、裏の世界へと引きずり込まれた和彦は、長嶺父子の〈オンナ〉として扱われながらも、さまざまな男たちと出会うことで淫奔な性質をあらわにし、次々と関係を持っていく――。
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Chapter: 第25話(17)
 せめて、賢吾にメールを送っておこうと思いはするものの、体がもう動かない。ふっと和彦の意識は遠のく。 普段であれば、このまま深い眠りについてしまうはずなのだが、意識の一部はひどく研ぎ澄まされている。慣れない場所で一人ということもあり、絶えず辺りの様子をうかがっているのだ。 総和会の男たちが同じ階に控えていて、何か起こるはずもないのに――。 自分が起きているのか眠っているのかわからない状態に陥り、浸っていると、前触れもなく異変は起こった。 マットの傍らに誰かが立っている気配を感じたのだ。 本能的な怯えから和彦は体を強張らせる。次にどんな行動を取るか、ほんの数瞬の間に考えて実行に移そうとしたが、その前に動けなくなった。顔全体にふわりと柔らかな感触が触れたからだ。それが薄い布の感触だとわかったとき、和彦の中で蘇ったのは、守光宅の客間での出来事だった。 驚きと戸惑いによって和彦が動けないのをいいことに、侵入者はいきなり大胆な行動に出る。マットの上に上がり、和彦の体にかかった毛布を剥ぎ取ったのだ。 急速に恐怖に支配され、顔にかかった布を外そうとしたが、すかさず片手で手首を掴まれてマットに押さえつけられる。大きくて力強い男の手だった。和彦の手首を折るぐらい簡単にできそうだ。言葉も発さない相手の意図を察し、和彦はささやかな抵抗すらできなくなる。 トレーナーの下に分厚く硬い手が入り込み、肌をまさぐられる。生理的な反応から鳥肌が立つが、相手は意に介さず、トレーナーをたくし上げて、無遠慮に撫で回してくる。手つきも、手の感触すらもまったく違うというのに、和彦の存在を探るかのように触れてきた守光のことが、頭から離れない。 手つきの荒々しさとは裏腹に、男は時間をかけて和彦の体に触れてきた。そして興味をひかれたように、胸の突起を特に念入りに弄り始める。 てのひらで捏ねるように転がされ、自分ではどうしようもできない反応として硬く凝ると、指の腹で押し潰され、再び反応を促すように乱暴に摘み上げられて、引っ張られる。痛みに小さく呻いた和彦は、ここでようやく、頑なに閉じたままだった目を開けた。 薄い布を通した電気の光に、一瞬目が眩む。だがすぐに、自分の上に馬乗りになっ
Last Updated: 2026-04-15
Chapter: 第25話(16)
「腸閉塞だな。わかりやすく言うなら、腸が詰まっているんだ。だから、飲食したものがすべて逆流して、嘔吐が続くし、腹痛も起こる。先日の手術で内臓の組織が癒着して、腸が圧迫されたんだろうな。それに、寝たきりのストレスも、腸によくない影響を与える」 部屋にいる男たちに淡々と説明をしながら、輸液の準備をする。一方で頭の片隅では、この場にいるのは、南郷率いる第二遊撃隊の人間ばかりなのだろうかと考えてもいた。 手術を行ったときは、男が怪我を負った簡単な経緯だけは聞いたが、それ以外のことは何も知らされなかった。唯一はっきりしていたのは、総和会から回ってきた仕事、ということだけだ。だが、帰宅する車で南郷と乗り合わせ、さほど知りたくなかった事情を、大まかながら教えられた。 総和会の中で詰め腹を切らせるために、男は生きていなくてはならないのだ。 こういう事実を知ってプレッシャーを感じるぐらいなら、何も知らなかったほうがありがたい。 医者として患者を救いたいのは当然だが、この世界で求められるのは、そういう道徳や倫理といったものではない。優先されるべきは、組織の都合であり、事情なのだ。結果として患者を救えるのだから文句はないだろうと、南郷なら平然と言いそうだった。 必要以上に南郷を悪辣な男として捉えてしまうのは、やはり苦手だからだ。 車中での出来事が蘇り、和彦は眉をひそめる。背筋を駆け抜けたのは、不快さだった。気を取り直し、男の腕に点滴の針を刺す。「当分、食事はおろか、水を飲むことも厳禁だ。点滴で栄養をとりながら、胃腸を休ませる」「……また、手術をすることになるんですか?」 和彦の指示に従い、新しい洗面器を持ってきた男が問いかけてくる。なんとなく見覚えがある顔だと思ったら、先日、南郷と同乗した車を運転していた男だ。 咄嗟に和彦は、質問に対して、まったく関係ない質問で返していた。「――南郷さんもここに来ているのか?」 男はわずかに目を見開いたあと、すぐに無表情となって首を横に振った。「いえ、今日は会長と行動をともにしているので」「そうか……」 
Last Updated: 2026-04-15
Chapter: 第25話(15)
 秦だけでなく、その秦の後ろ盾となった長嶺組――賢吾からも。「組長には報告しておきましたから、当分先生には、窮屈な思いをさせるかもしれません」「……基本的に、どこに行くにも護衛をつけてもらっているから、ぼくの場合、さほど生活に影響があるとも思えないが……。あっ、護衛が面倒だから、夜は出歩くなと言うことか?」 和彦としては真剣に問いかけたのだが、怪我をしている組員までもが、苦笑に近い表情を浮かべて首を横に振る。「先生に、そんな野暮は言いませんよ。ただ、俺たちみたいな連中の面倒を見てくれる大事な人なんですから、気をつけてほしいだけです」「それを言うなら、君らもだ。日ごろ振り回して、世話になっているからな」 短く息を吐き出して和彦は、今度こそ切り傷の縫合に取り掛かった。**** 午後の診察時間の終了まで一時間近く残して、クリニックにはすでに緩やかな空気が漂っていた。最後の患者を見送ってしまうと、完全予約制のこのクリニックでは、あとは仕事が限られるのだ。 週明けに入っている予約について打ち合わせを済ませてから、あるスタッフは医療用品や薬剤の在庫を確認し、手が空いているスタッフは掃除を始める。和彦も、診察室を――というより、自分が使っているデスクの上を片付ける。 それが終わると今度は、コピー用紙を一枚取ってきて、卓上カレンダーを眺める。「――……ついこの間、花見でバタバタしていたのにな……」 ぽつりと洩らした和彦は、簡単な文面を考えてコピー用紙に書いていく。すると、診察室の掃除のため入ってきた女性スタッフが、ススッと近づいてきた。「何を書いているんですか、佐伯先生」「ゴールデンウィークの休業日のお知らせ。患者さんにはもう電話で伝えてあるけど、配達業者が困るかもしれないから、そろそろ玄関のドアに貼っておこうと思って」「はあ、この間開業したと思ったら、もうゴールデンウィークなんですねー。バタバタしていたから、なんだかあっという間です
Last Updated: 2026-04-15
Chapter: 第25話(14)
**** 突然、電話が鳴り、ビクリと体を震わせた和彦は考えるより先に起き上がると、サイドテーブルの子機を取り上げた。『――お休み中、申し訳ありません』「いや……」 寝起きで掠れた声を発した和彦は、反射的に時間を確認する。室内の暗さから見当はついたが、深夜だった。 こんな時間、長嶺組の組員からかかってくる電話の内容は、ほぼ決まっている。『うちの組の者がトラブルに巻き込まれて、怪我をして戻ってきたんです。ひどく痛がっていて、どうやら骨折をしているようで……。それで、クリニックのほうで診てもらいたいのですが』「そうだな。レントゲンを撮る必要があるから、クリニックのほうが都合がいい。麻酔もすぐに準備できる」 話しながらベッドを下りた和彦は、イスの上に置いた着替えを取り上げる。『すでに車は待たせてあります。準備ができたら降りてください』 五分で降りると返事をして、電話を切る。 ジーンズに穿き替えながら和彦は、最近急に物騒になってきたように感じていた。先日は、総和会の第二遊撃隊が面倒を見ることになったという男を手術したが、やはり、外を出歩いているときに襲われて大怪我を負ったと教えられた。 普段は無用な揉め事を避けたがる世界だが、些細なことで様相は一変する。血生臭い空気に当てられて小さないざこざが起こり、それが大きな闘争へと繋がる危うさと緊迫感をいつでも孕んでいるからだ。もっとも、こんな世界に身を置き、医者をしている和彦だけがいつ血の匂いがするかと身構えており、男たちにとってはこれが当たり前なのかもしれない。 和彦はTシャツを着込み、その上からパーカーを羽織って、慌ただしく玄関に向かおうとしたが、すぐに引き返して洗面所に飛び込む。眠気はとっくに消えてしまったが、顔を洗って気持ちを切り替える。 一階に降りると、すでに待機している長嶺組の車に乗り込み、まっすぐクリニックへと向かった。 患者を含めた数人の組員たちはすでに到着しており、待合室にいた。和彦の姿を見るなり素早く立ち上がり、一斉に頭を下げ
Last Updated: 2026-04-15
Chapter: 第25話(13)
 そんな和彦の気持ちを知ってか知らずか、千尋は大きなあくびをしたあと、にんまりと笑いかけてきて、布団の上を軽く叩いた。ここに座れと言いたいらしい。 髪を拭いていたタオルを手に、和彦は渋々従う。すかさず千尋が肩を抱いてきた。「先生、また一緒に寝よう。じいちゃんに知られたって、別にいいじゃん。俺だって、先生のことで主張できる権利がある」「何を主張する権利だ」「わかってるのに、聞くんだ」 さきほどの寝ぼけていた姿は演技だったのか、すでに千尋の両目は生気を漲らせ、強い光を湛えている。 和彦はまじまじと千尋の顔を覗き込み、頬を撫でてやる。おそらく千尋に犬の尻尾が生えていたら、今この瞬間、ブンブンと振っていることだろう。そんな想像をしてしまうぐらい、嬉しそうな表情を浮かべたのだ。「――お前と一緒にいるときは、ぼくは、お前のオンナだ」「悪いオンナの台詞だよなー、それ。オヤジやじいちゃんと一緒にいるときも、同じことを言うんだろ。言う相手が違うだけで」「ぼくにそれを求めたのは、物騒で怖い、長嶺の男たちだ」「だって俺たち、先生に骨抜きだからね」 千尋に優しく唇を啄ばまれ、すぐに舌先を触れ合わせて、相手をまさぐる。朝から交わすには露骨でいやらしい口づけへと変化するのは、あっという間だった。 執着心をぶつけてくるように、千尋の舌に荒々しく口腔をまさぐられる。和彦は、そんな千尋を受け入れ、応じていた。 ようやく唇が離されると、千尋は少し困惑したように洩らした。「この部屋、なんか変な感じがする。ここで先生がじいちゃんに初めて……とか思うと、嫉妬より先に、すげー興奮するんだ。じいちゃんと張り合いたい気分になるっていうか」「……前々から感じていたが、妙な性癖を持ってるだろ、お前」 とにかく自分の部屋に戻れと言いながら、和彦は千尋の体を布団から押し出そうとする。しかし千尋はごろりと横になり、あっという間に布団に包まってしまう。「こらっ、千尋――」「俺、先生に怒られるの好き」 もっとかまってくれと言わんばかりに千尋が
Last Updated: 2026-04-15
Chapter: 第25話(12)
 両足を抱えられ、大きく左右に開いたしどけない姿で、和彦は犯される。 逞しい部分で内奥をこじ開けられ、襞と粘膜を蹂躙するように擦り上げられるたびに、ビクビクと上体を震わせるが、懸命に声は堪える。和彦のそんな姿に、千尋の欲望は煽られているようだった。「たまんない、今の先生の姿。つらそうな顔してるのに、ここはこんなに悦んでてさ」 千尋はゆっくりと腰を突き上げながら、開いた両足の間で揺れる和彦の欲望を握り締めてくる。咄嗟に唇を噛んで嬌声を押し殺したが、そんな和彦を追い詰めるように千尋は欲望を手荒く扱き始める。内奥では、力強く脈打つものが蠢き、鳥肌が立つほど感じてしまう。「うっ、うっ、うぅっ――」「感じまくってるね、先生。中、興奮して、ギュウギュウ締まりまくってる。……溶けそうなぐらい、気持ちいい……」 両足を抱え直されて、一度だけ大きく内奥を突き上げられる。息を詰めて仰け反った和彦は、数秒の間を置いて熱い吐息を洩らしていた。 和彦が脆くなっていると感じ取ったのか、千尋が甘えるように覆い被さってくる。求められ、唇を吸い合ってから、舌を絡める。その間も千尋は、緩やかな律動を内奥で刻み、無意識のうちに和彦は腰の動きを同調させて受け止める。さらに深く、奥まで千尋のものを呑み込むために。「んあっ……、はっ、あっ、あっ、千、尋っ……」 千尋の肩にすがりつき、和彦は控えめに声を上げ始める。「先生、いつもみたいに、もっと声出してよ。じいちゃんの部屋まで聞こえるような、すごい声」 上体を起こした千尋が、繋がった部分を指で擦ってくる。和彦は首を横に振るが、さすがに長嶺の男だけあって、欲しい答えを引き出すために千尋は淫らな手段を行使してきた。反り返って震える和彦の欲望を指先でくすぐったあと、柔らかな膨らみをきつく揉みしだき始めたのだ。「うああっ」 たまらず和彦が声を上げると、内奥に収まっている千尋のものがさらに大きさを増す。 内奥を強く突き上げられたかと思うと、次の瞬間には柔らかな膨らみを手荒く愛撫される。それを
Last Updated: 2026-04-14
SWEET×SWEET

SWEET×SWEET

システムエンジニアの啓太郎は仕事で疲れきっている中、マンションの隣室に住む引きこもり青年・裕貴と知り合う。 生意気で、小悪魔のようでありながら、妙に愛情深いところもある裕貴に食事の面倒を見てもらっているうちに親交を深め、そこで啓太郎は、裕貴の内面にも次第に立ち入ることになる。 裕貴と特別な関係となった啓太郎の前に、裕貴の兄・博人が姿を見せるが、兄弟の間には誰にも言えない秘密があり――。
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Chapter: -56-
「――今は、お前をどこかに連れて行ってくれないのか?」 咄嗟にそんな質問をぶつけると、驚いたように裕貴は目を丸くした。悪いことを聞いたかと、啓太郎が後悔しかけたとき、再び裕貴が勢いよく首にしがみついてきた。「お前はじっと座ってられんのかっ」 パッと顔を上げた裕貴がにんまりと笑いかけてくる。「今は、啓太郎がいるだろ。引きこもりを二度も外に連れ出せたんだから、大したもんだよ」 裕貴を引き離そうとしていた啓太郎だが、動きを止めてまじまじと白い顔を覗き込む。頬を包み込むようにして触れると、冷たくなっていた。途中でコンビニに寄って、カイロぐらい買うべきだったと、今になって後悔した。「……行きたいところがあるなら、いつでも言え。いつでも連れて行ってやるとまでは言えないけど、俺が休みの日になら、お前のわがままに善処してやる」 「おれも、啓太郎のデートコースに、気が向いたらつき合ってやるよ」 「はいはい、可哀想な男につき合ってください」 わざと卑屈な言い方をしてやると、肩にぐりぐりと頭を押し付けられた。新たな裕貴の攻撃にプッと噴き出した啓太郎は、両腕でしっかりと裕貴を抱き締める。  この瞬間、腕の中にある感触がたとえようもなく愛しくなって、啓太郎は内心で困惑した。**『夜の海見物デートコース』には、翌日、けっこうなオチがついた。 夜更けになってやっと仕事から解放された啓太郎は、自分の部屋に帰るよりもまず先に、裕貴の部屋に立ち寄った。  インターホンを押すと、いつもよりゆっくりとチェーンを外す気配がして、ドアが開けられる。「おい、何か腹にガッツリ溜まるようなものを食わせ――」 足元に落としていた視線を上げながらリクエストを告げていた啓太郎だが、裕貴の顔を見た途端、声を失う。 パジャマの上からいつもの大きめのカーディガンを羽織った裕貴は、マスクをしていた。全身から倦怠感が漂っており、マスクから覗く顔は全体に赤く、目も真っ赤に充血している。苦しげに肩を上下させているところまで確認してから、啓太郎は慌てて玄関に入ってドアを閉めた。入り込む冷気に、裕貴が寒そうに肩をすくめたのだ。「……お前もしかして、風邪か……?」 「この姿を見て、それ以外の何に見えるって言うんだよ」 憎まれ口は相変わらずだが、声は掠れて聞き取りにくい。  よろよろと覚束ない足取
Last Updated: 2026-04-15
Chapter: -55-
「――子供の頃、おれ、体が弱かったんだ」 啓太郎は目を丸くして裕貴の横顔に視線を向ける。薄闇に浮かび上がる青白い顔は、健康的とは言いがたいが、病的とまではいかない。啓太郎の視線に気づいたのか、裕貴はこちらを見て笑った。「今は平気」 「体が弱いって、何か病気をしてたのか?」 「心臓の病気だよ」 思わず眉をひそめた啓太郎に、裕貴はひらひらと手を振る。「あー、そんな顔するほど深刻なものじゃないんだ。それにもう治って、健康体」 そうは言われても、啓太郎はつい、視線を裕貴の左胸へと向ける。裕貴の裸を何度か見ているが、胸に手術の痕らしいものはなかった。胸どころか、体中に傷らしいものはなかったはずだ。  啓太郎の顔を覗き込んできて、裕貴が悪戯っぽい表情となる。「今、おれの裸を想像してるだろ」 「バカっ……」 「わっかりやすいなあ、啓太郎は」 じゃれるように裕貴に首にしがみつかれ、危うく啓太郎はひっくり返りそうになる。寸前のところで裕貴の体を受け止め、なおかつ自分の体も支えた。  なんとか裕貴をきちんと座らせ、病気の詳しい話を促す。「おれの心臓には、心房と心房の間に穴が開いてたんだ。だから血の流れが変なことになって、心臓に負担がかかる。運動しても、すぐに息が切れてたよ」 「子供にその症状はつらかっただろ」 「まあね。おかげで、外では遊べないし、体育の授業なんてずっと休んでた。もちろん、遠足や林間学校も欠席。参加ぐらいできたんだけど、うちの人間が過保護でさ。だから修学旅行も行かしてくれなかった。おかげでおれ、学校では浮きまくってたよ」 言いながら裕貴は笑っている。しんみりした話、という雰囲気ではなく、裕貴もそういう方向に持っていきたいわけではないらしい。「おかしいのは、うちの人間なんだ。学校行事でみんなはどこに行ったって話をすると、休みの日に同じ場所に、タクシー使って連れて行ってくれるんだよ。遠足や林間学校の空気は味わえなくても、同じ場所に行ったって記憶は残るだろうって」 「うちの人間って、それ、親父さんのことか?」 裕貴からかえってきたのは曖昧な返事で、表情からも、否定と肯定のどちらの意味を含んでいるのか読み取れなかった。  ただ、前に裕貴本人が、父親は多忙で、子供を放って世界中を飛び回っていると言っていた。だとしたら、裕貴が言っているの
Last Updated: 2026-04-14
Chapter: -54-
** 裕貴のことを多少はわかっているつもりだったが、まだ甘かったらしい。  軽く鼻を鳴らした啓太郎は、次の瞬間、強烈に吹き付けてきた風に首をすくめる。このとき潮の匂いが鼻先を掠めていった。 コートの前を掻き合わせ、視線を前方へと向ける。闇がぽっかりと口を開けているかのように、夜の海が広がっていた。  月も出ていない夜なので、砂浜沿いの道にぽつんぽつんと設置された街灯の明かりだけが、かろうじて砂浜の一部を照らしている。波打ち際に近づけば、あっという間に闇に溶けてしまうだろう。 しかも今は冬で、海を渡ってくる風は身を切るほど冷たい。  こんな季節に、こんな時間、海に来たいと言うのは、絶対変わり者だ。そして啓太郎の連れは、その変わり者だった。 寒さもものともせず、裕貴は一人でさっさと砂浜に下りていき、砂に足を取られ、ときおりよろめきながらも、どんどん歩いていく。啓太郎は呆気に取られるだけだ。  まさか、車から降りるとは思っていなかった。裕貴が海が見たいと言い出したときは、車の中から海を眺めて満足するだろうと、簡単に考えていたのだ。  人気がない海に行きたいという裕貴のリクエストだったが、そもそも今の季節、釣り好きでもない限り、好んで海に遊びに来る人間はそうはいないだろう。 啓太郎が連れてきたのは、さほど大きくはない砂浜で、夏場でも一部の人間しか来ないという穴場だった。周囲に人家もないし、デートのついでにやってきたカップルの車もない。裕貴の条件を完璧以上に満たしているだろう。「あいつのわがままにつき合う俺も、相当の変わり者か……」 苦笑しながら呟いた啓太郎の目は、砂浜を歩き回る裕貴を追いかけていた。だが、次に裕貴が取ろうとした行動に、思わず大声を出す。「こらっ、砂浜にそのまま座るなっ」 振り返った裕貴が手を振りながら笑いかけてくる。花が開いたような清々しい笑顔だ。ふいに啓太郎の胸は熱くなった。「そっちに行くから、ちょっと待ってろっ」 そう言うと、啓太郎は急いで車のトランクを開け、割れ物を梱包するのに使ってそのまま積んであった毛布を取り出した。  毛布を抱えて、急いで裕貴の元へと駆け寄る。砂が革靴に容赦なく入って気持ちが悪いが、構わなかった。 砂の上に毛布を敷いて手で示すと、ちょこんと裕貴がその上に座り込む。啓太郎も隣に腰を下ろすと、革
Last Updated: 2026-04-13
Chapter: -53-
 だがすぐに、気を取り直したようにいつもの笑みを見せ、啓太郎のほうに身を乗り出してきた。「運転疲れたら、言ってよ。代わるから。啓太郎を助手席に乗せてあげる」 思いがけない申し出に、前を見据えたまま啓太郎は眉をひそめる。「お前もしかして……、車の免許持ってるのか?」 「おれ別に、生まれた頃から引きこもってるわけじゃないんだけど。これでも、大学通ってる頃に免許取ったんだよ。――まあ、それっきりハンドル握ってないんだけど」 「気持ちだけ受け取っておくから、助手席にちんまりと座っておけ」 ひどいなあ、と聞こえよがしにぼやきながら、再びウィンドーに顔を寄せようとした裕貴が、突然何かを思い出したように車中を見回し、後部座席へと身を乗り出す。「今度はなんだっ」 「披露宴出たんなら、引き出物もらったんだろ。何もらった? 見ていい?」 子供を助手席に乗せている気分だと思いながら、啓太郎は頷く。「引き菓子が、有名な店のチョコレートらしいから、やるよ。ついでに、引き出物も。確か、小鉢のセットだ。お前のところにあったほうが、有効に使えるだろ」 「まあ結局、おれのところで啓太郎がメシを食うわけだしね」 腕を伸ばして引き菓子の包みを取り上げた裕貴は、シートに座り直してから包みを開く。可愛い箱の中には、上品なチョコレートの粒が並んでいる。その一つを摘まみ上げ、口に放り込んだ裕貴に尋ねる。「美味いか?」 「んー、美味しい。花嫁さんが選んだのかな。いい趣味してる」 こいつは甘いものを口に放り込んでおけば、基本的に機嫌がいい――。  裕貴本人には言えないことを、啓太郎は心の中でこっそり洩らす。つい噴き出しそうになったが、寸前で堪える。いきなり口元に、チョコレートの粒が押し付けられたからだ。「おい――」 啓太郎が口を開いた途端、チョコレートが放り込まれる。舌の上でチョコレートが溶け、甘い味が広がった。「……ここのチョコが気に入ったんなら、今度買ってきてやる。俺が今常駐している会社の近くにデパートがあって、そこにショップが入ってたはずだ」 「最近、お菓子関係に詳しくなったよねー、啓太郎」 「誰かのパシリにさせられてるからな」 「よく言うよ。仲良く一緒に味わってるのに」 口ではどうしても、裕貴に勝てない。いつでも啓太郎の分が悪いのだ。「――それで、どこに行き
Last Updated: 2026-04-13
Chapter: -52-
** 夜も早い時間帯のせいで、道路はどこも混んでいた。ハンドルを握りながら啓太郎は、早く帰らなければと思いながらも、一方で、裕貴もじっくり髪を乾かせるだろうと考える。  手触りがよく柔らかな裕貴の髪は、自分で適当に切っているということで、惜しいことに不揃いだ。いつか、きちんとした美容室に連れて行って、美容師に切らせたいのだが、さきほどの電話の様子では、当分無理そうだ。  もっとも、裕貴が普通に外に出られるようになったら、そのときは自分たちの関係も変わってしまうだろう。 そう考えた途端、啓太郎の胸に嫌な感覚が広がった。裕貴との今の関係をなくしたくないという自分勝手な願望を、このとき初めて、啓太郎は自覚していた。それに、裕貴を誰の目にも晒したくないという気持ちも――。 外に連れ出したいという気持ちと相反しているが、確かにどちらも、啓太郎の中に存在している気持ちだ。  裕貴自身は、どう考えているのだろうかと気になる。今のまま引きこもっていてはダメだと、多少なりとも考えているのか、できるならこのままがいいと願っているのか。 啓太郎は、裕貴の現状については知っているが、裕貴の気持ちについてはよく知らない。気ままでありながら、自分の殻にしっかり閉じこもった生活を送っている裕貴が、毎日どんなことを考えているのかすら。 信号で車を停めたとき、何げなくウィンドーに顔を向けると、気難しい顔をした男があった。反射して映った啓太郎自身だ。  こんな顔をして裕貴の前に出たら、結婚披露宴で他人の幸せにあてられたかと、からかわれるだろう。  短く息を吐き出すと、気持ちを切り替える。とにかくこれから、裕貴とドライブに出かけるのだ。 やっとマンションの前で車を停めた啓太郎は、さっそくスマホを取り出して裕貴にかける。待っていたのか、すぐに裕貴は電話に出て、こちらが何か言う前に、『今から下りる』と言ってあっさり電話を切った。 エンジンをかけたまま車を降りた啓太郎は、寒さに肩をすくめて裕貴を待つ。  目の前の通りは、さすがにまだ人通りはあるが、それでも多くはない。薄暗いだけ、この間の散歩のときより気は楽なはずだ。 マンションのエントランスから出てくる人影があった。しっかりとダウンジャケットを着ており、目深に被ったニットキャップに見覚えがある。  裕貴はまっすぐ啓太郎の元に
Last Updated: 2026-04-12
Chapter: -51-
 ふいにロビーに、にぎやかな声が響き渡る。柱の陰から顔を出すと、披露宴が終わった招待客たちの姿が一気に増えていた。啓太郎が出席していた披露宴の客たちか、別の会場にいた客たちかまではわからない。  にぎわうロビーの光景を横目に見ながら、啓太郎は会話を続ける。「これから出かけないか?」 さすがに意表をついた申し出だったらしく、裕貴からすぐに返事はなかった。『出かけるって、おれも?』 「ああ」 『……啓太郎って、無謀なところあるよね。引きこもりを外に連れ出そうとするなんて。この間の散歩のときもそうだったけど』 本当に呆れたように言われ、知らず知らずのうちに啓太郎の顔は熱くなってくる。自分でも、柄にもないことを考えついたものだと自覚しているだけに、それを裕貴に指摘されると居たたまれないのだ。  いっそのこと電話を切りたい衝動に駆られるが、それでも、とりあえず考えを裕貴に聞いてもらうことにする。 裕貴も、『嫌』という一言で拒絶はしなかった。呆れたような口調はそのままに、啓太郎に質問してきたのだ。『それで、行くってどこに?』 「決めてない」 『……もしもし、おれ、湯冷めしちゃうから、電話切ってもいいかな』 「今日は会社は昼までだったし、披露宴も座って食ってるだけだったから、体力がいつもより有り余ってるんだ」 体力が有り余っている、という言い方は変だなと、口にしてから気づいた。同じことを裕貴も感じたのか、クスクスという笑い声が耳に届く。鼓膜を刺激され、啓太郎の背筋はくすぐったくなった。『おれ、人がいるところに行くの嫌だ』 裕貴の言葉のニュアンスが変わる。啓太郎はここぞとばかりに早口で捲くし立てる。「ドライブはどうだ。それなら人と顔を合わせなくて済む。欲しいものがあれば、俺が車から降りて買ってきてやるし。車で行ける範囲なら、お前のわがままを聞いてやる」 耳を澄ませて裕貴の返事を待つ。  どれだけ裕貴が外に出ることに抵抗を持っているのか、一分近い沈黙が物語っていた。前に裕貴を散歩に連れ出したときの反応で、それはわかっているつもりなので、啓太郎も以来、外に出るよう誘うことはなかったのだ。 だが今夜は違う。他人の結構披露宴に出席して、友人たちとバカな会話をして、気分が高揚しているのかもしれない。  それに、自分のわがままに裕貴がつき合ってくれる
Last Updated: 2026-04-11
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