All Chapters of 植物人間だった夫がなんと新婚の夜に目を開けた: Chapter 1601 - Chapter 1610

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第1601話

蒼はもがきながら床に降り、自分の小さなボールを抱えて奏のもとへ持っていく。しかし奏にはその意図が分からず、三浦に尋ねる。「ボールを投げてほしいんですよ。それを拾ってくる遊びです」三浦が説明する。それを聞いて奏は、ペットの犬と遊ぶ光景を思い浮かべる。飼い主がボールを投げて、犬が取ってくるあれだ。まさか自分の息子もこの遊びが好きとは思わなかった。しかも、犬の役をやっているのは息子のほうだ。彼は無言で息子を見つめ、それから仕方なくボールを投げる。すると蒼はお尻を突き出して、嬉しそうにトコトコと走って取りに行く。しばらくして、一郎が桜を送り届けて戻ってくる。父と子がボール遊びをしているのを見て、思わず茶化す。「いやあ、いい光景だな。奏、お前、子どもの世話うまいじゃん。うちの母さんが犬の散歩するより上手いかもな」その瞬間、奏の顔が一気に険しくなる。「一郎、兄を犬扱いするのはいいけど、蒼を犬扱いするな」桜のほうがさらに冷たい表情で言い放つ。「なんであんたのことがこんなに気に入らないのか分かった。口を開けばイラッとすることしか言わないからだわ」そう言い残すと、さっさと客室へ戻っていく。一郎はその背中を見送りながら、呆然とする。「え、なんでだよ。今の冗談だろ……俺たち普段からこういうノリで話してるじゃん。なんで本気にするんだよ」奏もまだ険しい顔のまま。「どうして俺の息子を犬に例える」一郎は口を開きかけるが、蒼を侮辱するつもりはなかったとどう説明していいか分からない。奏はさらに言う。「俺の息子は犬よりずっと可愛い」「もういい、帰る」一郎は呆れてその場を離れる。普通に話していただけなのに、なぜ急に子ども自慢になるのか。一郎が帰ったあと、三浦が蒼をお風呂に連れていく。奏は二階へ上がる。レラと蓮はすでに眠っている。とわこは主寝室でパジャマを用意し、これから入浴するところだ。奏の姿を見ると、すぐに彼の分のパジャマを渡す。「蒼と遊んでどうだった?上にいても笑い声が聞こえてたよ」「蓮が一緒に遊びたがらない理由が分かった。確かにちょっと幼いな」奏は苦笑する。「でも自分の息子だからな。楽しかった」「そう。じゃあお風呂入ってきて。終わったら話があるの」彼女は軽く背中を押す。浴室の前で彼は立ち止まり、彼女
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第1602話

奏はひどく困惑している。「七日から出勤するつもりか。頭のケガは俺よりずっと重いのに、本気で行かせると思ってるのか」「出勤しないよ。蓮と約束してるの。一緒に旅行に行く」とわこは自分の予定を伝える。「その間、あなたは仕事に行って。私は息子を連れて遊びに行くから」奏はまるで置いていかれたような顔になる。「遊びに行くのに、俺はなしなのか」彼はもう半年近く休んでいる。あと数日遊んだところで、会社がどうにかなるわけでもない。「レラも行かないよ。涼太のところで数日過ごすって言ってる」とわこは説明する。奏は眉をぐっと上げる。「俺がもう少し遊んで何が悪い。どうして俺を予定に入れないんだ」「じゃあ、あなたは娘と一緒に涼太のところに行けばいいでしょ」とわこは落ち着いた声で言う。「分かってるでしょ。蓮はあなたと旅行したがらない。あなたも行くって知ったら、きっと外に出たがらなくなる」奏は深く息を吸う。「奏、今回は蓮のほうから、一緒に出かけたいって言ってきたの」とわこは続ける。「がっかりさせたくないの」つまり、一緒に来ないでほしいということだ。ここまではっきり断られて、無理に同行するわけにもいかない。「分かった。あいつが自分から言い出したなら、好きに行ってこい」奏はすぐに気持ちを切り替える。「どこに行くつもりだ。どれくらい行く?」「遠くには行かないよ。長くても一週間。すぐ新学期が始まるから」「そうか」奏は数秒考えてから言う。「俺はおまけ扱いみたいだし、仕事に戻るか」「仕事したくないなら、家で蒼と遊んであげればいいじゃない」「夜、帰ってきてからでも遊べる」彼は決断する。「ずいぶん遊んだし、そろそろ気を引き締める」「うん。先にお風呂入ってくるね」とわこはパジャマを手に、浴室へ向かう。三十分ほどして、彼女が浴室から出てくると、奏はすでに眠っている。穏やかな寝顔を見ていると、思わずスマホを手に取り、写真を一枚撮る。そして瞳に送る。「昼は麻雀、夜はベッドに入った瞬間に熟睡。睡眠薬より効く」瞳からすぐに返信が来る。「ははは、ちょっとコメディっぽいよね。うちは今、旦那と夜食中。明日また集まる?外に出たくなければ、こっちから行ってもいいよ」とわこ「起きたら予定を聞いてみるね」瞳「いいね。そういえば、桜は今日一郎の家に行ったよね。何
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第1603話

「もちろん。また来ていいって思ってくれるなら、絶対に帰ってくるよ」「どうして嫌がるなんてことあるの」とわこはそう言ってから、ふと思い出して尋ねる。「今日、一郎の家に行ったんでしょ。大丈夫だった?」「ははは、全然平気!」桜は今日の出来事を思い出して笑う。「今日の来客、私ひとりだけだったし。ちょっと退屈なくらいで、特に問題はないよ。あとはね、あの人の親が子どもの頃の黒歴史をいっぱい暴露してて、本人はキレそうになってたけど」「一郎にそんな話あるの?」とわこは興味津々で聞く。「あるある。たとえば十歳のとき、まだおねしょしてたとか。それにお母さんのハイヒールこっそり履いてたし、女の子にラブレター書くとき、お母さんの口紅盗んでハート描いてたんだって」桜は笑いすぎて体を折る。「子どもの頃、ずいぶん濃い人生送ってるね」とわこは感心する。「なんかさ、子どもの頃はちょっと抜けてたっぽいよね。うちの兄とは全然違う」「あなたのお兄さんの黒歴史、まだ誰からも聞いたことないよ。みんな口をそろえて優秀だって言うし。でもそれだと、ちょっとつまらないかも」とわこはそう言いながら、一郎のほうが人間味があって面白いと感じる。「うちの兄は顔がいいから。一郎なんて相手にならないよ。それだけで女の人はみんな兄を選ぶでしょ」桜は今の年頃らしく、見た目を重視している。「一郎だって悪くないと思うけど」「普通かな。お母さんの美人遺伝子、全然引き継いでないし」「遺伝ってほんと不思議だよね」「ほんとに。もしあの人と付き合って、子どもがあの人に似たら、私たぶんキレる」桜は思わず本音を口にする。とわこは思わず笑う。「口では文句ばっかり言ってるけど、結局は好きなんでしょ」「ちょっとはね。それに、あの人以外に言い寄ってくる人もいないし」桜はため息をつく。「こんなに美人なのに、なんでまともなイケメンが現れないのかな」アメリカでは毎日トレーニングばかりで、新しい人と出会う機会もないし、恋愛している暇もない。「決勝でトップ3に入れば、いろんな人と知り合えるよ」「うん。まずはコンテストに集中する。他のことはそのあとでいいや」気がつけば、七日になる。会社勤めの人にとって、休みは完全に終わりだ。朝、涼太がやって来て、レラを迎えに行く。そのあと、とわこは自分と
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第1604話

奏は画像を拡大し、内容を確認した瞬間、眉をきつくひそめる。すぐに真へ電話をかける。真は一瞬で出る。「真、お前は今、最低な真似をしてるって分かってるのか」奏は怒りをぶつける。「こんな卑劣なことをする人間じゃないと思ってたのに、まさか……」「その通りだ」真は彼の言葉を遮る。「僕を罵るのは構わない。でも結菜のことは責めるな」奏の呼吸が荒くなり、歯を食いしばる。「今日はバレンタインデーだ。結菜が今日入籍したいって言ったから、俺はそれに応えた」真は理由をはっきり伝える。「今朝六時から役所に並んでた」口まで出かかった罵声は、そのまま飲み込まれる。誰にだって幸せを求める権利がある。結菜にも。もし彼女の意思で決めたことなら、真を責めても意味はない。「真、お兄ちゃんから電話来てるの?」電話の向こうから結菜の声が聞こえる。今のままだと、もっとひどいことを言ってしまいそうで、奏はそのまま通話を切る。冷静になる必要がある。ここ数日、結菜はずっと真と一緒にいる。スキーに行き、昨夜ようやく戻ってきた。遅い時間だったから、そのまま真の家に泊まっている。結菜にはもう真がいる。自分の出番は、もうない。とわこは前から、この気持ちと向き合えと彼に言っていた。そこへ千代がやって来る。「旦那様、結菜と真さん、どうかなさいましたか」さきほど名前が聞こえたので、気になっていたのだ。「入籍した」奏は短く告げる。「事前に何も言わずに、今日いきなり手続きした」千代の表情がわずかに変わる。「結菜ったら、本当にわがままですね。こんな大事なこと、どうして黙っているのでしょう」「本当に何も聞いていないのか?」奏は問い返す。「荷物、きれいにまとめてあっただろう」千代は慌てて説明する。「入籍の話は聞いておりません。ただ、お正月に真さんの家に泊まることを、旦那様が特に反対なさらなかったので、結婚も問題ないと思って……それに結菜、前から何度も真さんと結婚したいとおっしゃっていました。あれほど一つのことにこだわるのは、初めて見ました」その説明に、奏は納得する。「今日はバレンタインだから、その日に合わせたんだろう」「ロマンチックではありますね」千代は思わず笑う。「旦那様、もうお二人は入籍されたのですし、あまり怒られないほうがよろし
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第1605話

奏がビルの一階に入った瞬間、フロアにいる社員たちが一斉に声を上げる。「社長、おはようございます!」「新年明けましておめでとうございます!」「ご復帰おめでとうございます!」その勢いに、奏は思わず足を止める。「社長、これは一郎さんの指示です」副社長が近づいてきて説明する。「見れば分かる」奏は淡々と答える。「あいつはもう来てるのか」「はい。社長室でお待ちです。まず会議になさいますか、それとも社員への新年ボーナス配布を先に?」「先に配る」「皆さん、社長に直接お会いしたがっています。今年は社長ご自身で配られてはいかがでしょう」「分かった」奏は大股でエレベーターへ向かう。オフィスに入ると、コーヒーを飲んでいる一郎の姿が目に入る。一郎は机の上に置かれた大きな袋を目で示す。中にはボーナスの封筒が詰まっている。「下の連中、みんなお前に会いたがってる。だから今年はお前が配れってさ」「分かってる」奏はデスクの向こうに座る。懐かしい感覚が、少しずつ体に戻ってくる。自分の仕事、自分の野心。すべてが目の前に浮かび上がる。「昨夜さ、お前の妹と電話してて、寝不足で目が開かない」一郎はため息をつく。「遠距離ってマジでつらい。今飲んでるコーヒーより苦いよ。あいつ、昼休みしか時間ないから、俺は毎晩一時まで起きて電話してる」その熱量に、奏は少し感心する。「今は何も持ってない相手に、そこまで必死になるのか。まさか本気でトップモデルになると思ってるわけじゃないだろ。もしそうならなかったらどうする」「お前、俺のこと浅く見すぎ」一郎はすぐに言い返す。「むしろトップモデルになんてなってほしくない。大金稼ぐようになったら、俺なんて見向きもしなくなるだろ。今は無名で金もなくて、世間も知らない。だからこそ俺にフィルターかかってるんだよ」「分析は悪くない」奏は鋭く言い切る。「その様子だと、桜にだいぶ振り回されてるな」「は?俺が振り回されてる?」一郎はコーヒーカップを勢いよく置く。「全然そんな自覚ないんだけど」奏は鋭い視線を向ける。「常盤グループのCFOともあろう人間が、なんでそんなに下手に出る。たとえ桜が将来トップモデルになったとしても、お前の前じゃただのきれいな置物だ」一郎は思わず吹き出す。「お前、自分の妹にひどいこと言うな。
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第1606話

「金城技術がアメリカで上場するつもりだ」一郎が口を開く。「申請書類はすでに証券監督委員会に提出されてる」奏は彼を見て、納得いかない様子で言う。「この前お前をアメリカに行かせたときは、そんな話まったく出てなかったはずだ。それがまだ十日も経ってないのに、もう全部準備済みってことか」さすがに動きが早すぎる。こう考えると、年末までは上場の話を意図的に隠していた可能性が高い。通常の手続きなら、なぜ隠す必要があるのか。この数日、水面下で何をしていたのか。「奏、とりあえず先に社員にボーナス配ろう」一郎は時間を確認する。「もう十時半だ。このままだと午前中に終わらない」……とわこは今日、蓮を連れて、A市に近い観光都市C市へ来ている。山も海もあり、景色のいい場所だ。だが目的は観光ではない。到着してすぐ、二人は病院へ向かう。とわこは自分のカルテを医師に渡す。医師はカルテと数日前の検査結果を確認し、追加検査を指示する。「とわこさん、どうしてわざわざこちらで治療を受けるんですか。A市のほうが医療レベルは高いはずですが」書類を書きながら、医師が尋ねる。「小さな手術なので、家族に心配をかけたくないんです」「なるほど。ただ、ご自身で手術はできませんからね。あなたにとっては小さくても、一般の医師にとっては決して軽い手術ではありません」医師は苦笑する。「入院が必要です。入院手続きを出しますので、まず検査を受けてください。息子さんは手続きをお願いします」入院が必要なことは分かっている。開頭手術でなくても、穿刺ドレナージだけでも経過観察が必要になる。だがずっと病室にいるわけにはいかない。夜になれば、奏から必ずビデオ通話が来る。「あとで息子と一緒に手続きします」蓮と離れて行動したくない。「では先に検査へ。現在の状態を確認しましょう」「はい」ここ数日、薬はきちんと飲んでいる。奏に気づかれないよう、朝は早起きして服用し、昼と夜は彼が子どもと遊んでいる隙にこっそり飲んでいる。そのおかげで体調に大きな違和感はない。だがCTの結果では、脳内の血腫はまったく減っていないどころか、むしろ増えている兆しがある。すぐに入院し、手術を受けなければならない。入院手続きを終えたあと、とわこは重い表情で言う。「蓮、パパがい
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第1607話

「それは分からない。でもそんなに悲観しないで。これから気をつければ大丈夫だから」とわこはそう言って、蓮をなだめる。A市。奏が社員たちにボーナスを配り終えたころには、すでに正午を過ぎている。一郎が昼食に誘うが、奏はスマホを見たまま反応しない。「何見てるんだ。奥さんからメッセージでも来てるのか」一郎はそう言いながら、ちらりと画面をのぞく。とわこから確かにメッセージが届いている。C市に到着したときの無事報告だ。さらに二人のツーショットも添えられている。写真の中で、とわこはにこやかに笑っているが、蓮は無表情で別の方向を見ている。だが、そのメッセージの内容に、奏は少し機嫌が悪くなる。とわこはこう書いている。「ずっとメッセージ送ってると、蓮が機嫌悪くなるの。だからあまり連絡できないと思う。今回は蓮と過ごす時間を優先したい。帰ったらまたゆっくり話そうね」つまり、この旅行中は連絡を控えるということだ。それが面白くない。自分を置いていくだけでなく、連絡まで減らすつもりなのか。「この仏頂面、完全にお前そっくりだな」一郎は写真を見て笑う。「お前がキレてるとき、まさにこんな顔してる」奏はスマホをしまう。「俺のその性格は、とわこに矯正された。あいつは取り立てに来たんだろ」「ははは」一郎は笑いながら肩をすくめる。「まあいいじゃないか。ずっと勉強ばかりで休んでなかったんだし、少しは好きにさせてやれ」「分かってる」午後。奏は金城技術が提出した資料のコピーを受け取る。目を通している間、一郎は隣で電話をしている。細かい書類を見るより、関係者に直接聞いたほうが早い。「今回はかなり急いでるし、しかもやけに低調だ」電話の向こうの声が言う。「上からも、しっかり審査しろって指示が出てる。それに法人も変更されてるしな」「法人変更?」一郎は聞き返す。「いつの話だ」その一言に、奏の視線が向く。「送った資料に載ってるだろ。元はすみれ、今は木村悦子っていう女性に変わってる。年齢も上だし、どんな人物かは不明だ」その言葉を聞いた一郎は、すぐに奏のもとへ歩み寄る。奏も資料の中から該当箇所を見つける。変更後の法人は「木村悦子」その瞬間、バンッと音を立てて、スマホが机に叩きつけられる。「奏、これは利用されてる可能性が
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第1608話

悦子は奏からの電話を受け、意外に思いながらも、胸の奥がぱっと明るくなる。「奏……」口を開いた瞬間、奏の冷たい声がそれを遮る。「その名前で呼ぶな!」何が起きているのか分からない。ただ、彼が激しく怒っていることだけははっきり伝わる。「どうしたの?私、何か悪いことした?」「今、自分が金城技術の代表になってるって知ってるのか?」奏は彼女の戸惑いと無垢な口調を聞き、深く息を吸う。一郎の言う通りかもしれない。悦子は本当に何も知らない可能性が高い。すみれは狐みたいにずる賢い女だ。人を騙す手口なんていくらでも持っている。「奏、何を言ってるの?全然分からない。でも本当のことは言うね……前に金城技術で清掃の仕事をしてたの」ただ事ではないと察し、悦子はすべてを打ち明ける。「去年、すみれに書類にサインしてって言われて……その書類、ちゃんと読んでなくて……」「ちゃんと読んでないのにサインしたのか!」奏の怒声が一気に爆発する。「私……字があまり読めないの。彼女が言うには、海外の会社を一時的に私名義にして、その代わりにいくらかお金をくれるって……」そのとき何を言われたのか、もうはっきり思い出せない。ただ、2億円と都心の一戸建てをくれると言われたことだけは覚えている。けれど、それを口にする勇気はない。奏に知られたら、さらに怒りを買うのは目に見えている。「もうすみれと手を組んでるなら、そのまま最後まで付き合え」そう言い捨て、奏は電話を切る。年明け前、彼は一度だけ悦子と会っている。そのとき彼女は一言もこんな話をしなかった。それなのに正月が明けた途端、こんなとんでもない話が表に出る。皮肉すぎる展開だ。通話を切られたまま、悦子は呆然と立ち尽くす。こんな大事になると分かっていたら、あの書類にサインなんてするはずがない。全部、すみれのせいだ。完全に騙された。慌てて奏にかけ直す。しかし返ってくるのは冷たい機械音声だけ。「現在、この番号にはおつなぎできません」ブロックされている。奏が人をブロックすることは滅多にない。この番号を知っているのは、ごく近しい人間だけだ。それだけに、彼の失望は深い。最初から彼女は敵の側に立っていた。嘘にまみれ、誤魔化し続けてきた。素朴そうな仮面に、彼は完全に騙されていた。胸がざわつ
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第1609話

この件に関しては、確かにすべてをすみれのせいにはできない。欲に目がくらみ、奏と親子関係を認めてもらおうとしたからこそ、彼女はすみれに利用される隙を与えてしまった。「今、私があなたの会社の代表になってるのよね。一体それで何をするつもり?」悦子の体は小刻みに震えている。「私……刑務所に入ることになるの?」「それはあなたの息子次第ね」すみれは楽しそうに笑う。「しっかり息子にすがりついていれば、何も起きないわ。でも見捨てられたら……その時は終わりね」そう言い残し、電話は一方的に切れる。ツーツーという無機質な音が耳に残る中、悦子の足元がぐらりと崩れる。壁に手をついて、どうにか体勢を保つ。奏にはすでにブロックされている。あの人が自分を助けるはずがない。C市。とわこのスマートフォンが鳴る。蓮はてっきり奏からの電話だと思い、顔色が一気に冷え込む。母はさっき手術を終え、まだ麻酔から目覚めていない。彼はスマホを手に取り、画面に表示された名前を見る。悦子。一瞬考えたあと、そのまま電話に出る。「とわこ、私やらかしたの!奏がもう相手にしてくれないの!お願い、助けて!どうしたらいいか分からないの、すごく怖い……すみれが、私もう刑務所行きだって……」頭が混乱しているのか、言葉も途切れ途切れになる。事情は分からない。ただ、母に助けを求めていると聞いた瞬間、蓮の眉が自然と寄る。母は今、病室のベッドで眠っている。誰にも邪魔させたくない。「母は対応できない」蓮は冷たく言い放つ。「用があるなら奏に連絡してくれ。母に迷惑をかけるな」その突き放すような声に、悦子は一瞬言葉を失う。「あなた……誰?」蓮はそれ以上話す気はなく、そのまま通話を切る。切られたあとで、悦子はようやく気づく。あの冷え切った声。蓮だ。奏にそっくりな、あの無機質な少年。とわこがわざと電話を蓮に取らせたのか。自分に関わりたくないから、あえてそうしたのではないか。そう考えた瞬間、逃げ場のない暗闇に突き落とされたような気分になる。蓮は病床の母に視線を向ける。とわこはまだ麻酔が効いていて、穏やかに眠っている。彼はスマホを開き、A市のニュースを検索する。しかし関連する情報は出てこない。病室を出て、マイクに電話をかける。「母さんと旅行中じゃ
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第1610話

とわこが麻酔から目を覚ますと、頭がふらついている。ここがどこなのかも、昼なのか夜なのかも分からない。今がいつなのかさえ、はっきりしない。「ママ、大丈夫?」蓮は彼女が目を開けたのを見るなり、すぐ声をかける。とわこは息子の顔を見る。「蓮……どうしてここに?」「ママ、ここは病院だよ。麻酔を使って軽い手術をしたんだ。今、ちょうど目が覚めたところ」その説明を聞いて、意識が少しずつはっきりしてくる。それでもまだ細かいことは思い出せない。「そうなんだ……だから頭がちょっとふらつくのね」眉をひそめながら、とわこはゆっくりと体を起こす。「ママ、もう少し寝る?」蓮は倒れないように、そっと腕を支える。「結構寝た気がする。今何時?」これ以上眠る気はない。そばに息子がいるから、少しでも一緒にいたい。「夜の九時過ぎ」蓮は答える。「お腹空いてる?デリバリー頼めるけど」「ちょっと空いたかも。外に食べに行かない?」とわこはテーブルに目を向け、そこにあるスマホを手に取る。「パパから連絡あった?」「ない」蓮は短く答える。「ママ、医者は入院したほうがいいって言ってた」二人は病院の近くにホテルを取っている。それはとわこがどうしてもと決めたことだ。「もうそんなにふらついてないよ」とわこは病室に息子を閉じ込めるようなことはしたくない。それなら看護師を頼んだほうがいい。「どうして医者の言うことを聞かない?」蓮の表情が引き締まる。「こんな時間だし、奏から電話が来ることもない」「レラからビデオ通話は?」スマホの履歴を見るが、眠っている間に誰からの連絡もない。「レラは俺にかけてきた。ママが寝てたから切った」蓮は淡々と言う。とわこは思わず笑う。「あなたが先に切ったんでしょ」「向こうが切った」蓮は表情を変えない。「今夜は涼太叔父さんとイベントに行ってる。自分の格好を見せたかったみたいだ。まるで妖精みたいだって」その言葉に、とわこの頭に光景が浮かぶ。きっとレラは可愛いかどうか聞いたはずだ。そして蓮は遠慮なく否定したに違いない。それで通話が切れたのだろう。とわこは靴を履き、立ち上がる。頭の傷の具合を確かめる。少し痛むだけで、それ以外に違和感はない。外に出るくらいなら問題なさそうだ。「ママ、今日は俺の言うことを聞いて」蓮は
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