All Chapters of 拗れた愛への執着: 結婚から逃げた総裁に愛された: Chapter 1041 - Chapter 1050

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第1041話

圭介は軽く眉をひそめて答えた。「俺たちはいま外にいる」「どちらにですか?」越人は尋ねた。仕方ないことだった。今日は本来、彼と愛美だけの日になるはずだった。しかし愛美が「退屈だ」と言い、香織を誘って双と遊びに行こうとしていた。ところが別荘に行っても、誰も見つからなかったのだ。圭介は逆に尋ねた。「お前、暇なのか?」「……」越人は言葉に詰まった。本当なら、今日くらいは新婚夫婦らしく、甘い時間を過ごすべきだった。彼は隣の愛美に視線を向け、苦笑しながらため息をついた。――新妻が「にぎやか」を求めるタイプとは。「はい、暇です」彼は笑って答えた。圭介は場所を伝えた。「来い。ちょうど話したいことがある」「わかりました!」電話を切るやいなや、愛美が待ちきれないように尋ねた。「どこにいるの?ここにいないなんて……」越人は振り向いて言った。「まさか、君が来るのをずっと待ってるとでも?」愛美は笑ってごまかした。「だって、ちょっとだけ気になっただけだもん……」越人が場所を伝えると、彼女は眉をひそめた。「え、あそこ?あの辺、前に行ったことあるけど……ただの湖じゃない?なんにもないし、そんなところに子どもまで連れて行くとか……信じられない」「考えても仕方ない。運転に集中しろ」越人は言った。「……ふん。あなたの足が治ったら、今度は私が助手席で、運転はあなたね」愛美は不満そうに口を尖らせた。「いいよ」越人は笑顔で返した。車は順調に走り、目的地に到着すると二人は車を降りた。まだ姿は見えなかったが、どこからか香ばしい匂いが漂ってきた。愛美は鼻をくんくんと鳴らして、思わず言った。「……なんか、焼き肉の匂いがしない?」それを聞いて、越人は大体の想像がついた。けれど愛美はまだ呑気に首を傾げていた。木立の隙間から人影が見えた瞬間、彼女はぱっと目を輝かせた。歩調を速めようとしたが、ふと隣の越人のことを思い出し、急に止まって彼の腕を支えた。「大丈夫だよ、そんなに支えなくても」越人は軽く彼女を叩いた。「こんなふうにされたら、年寄りみたいだ」「後遺症が心配なのよ」愛美は言った。「もし障害が残ったら、俺を捨てるのか?」越人は尋ねた。
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第1042話

香織は愛美のはしゃぐ様子を眺めて、思わず目元が柔らかくなっていった。──よかった。あの出来事以来、愛美はすっかり無口で塞ぎがちになっていた。それが今、昔のような明るさを取り戻している。彼女の性格が少しずつ元に戻っているのを見ると、胸の奥でほっとした。一方で、圭介は越人と話をしていた。どうやら帰国の段取りについて相談しているようだ。こっちはまだどうにでもなるが、新婚の越人たちにはもう少しここにいてもらった方がいいと圭介は思っていた。だが、越人の返答は思いのほかあっさりした。「私たちも一緒に帰ります」早くに結婚を決めたのも、仕事復帰の予定があったから。足の怪我も、完全ではないが回復してきている。なにより、こちらでのんびりしていることに少し退屈さを感じていた。しかも、この話は愛美とも相談済み。あと数日だけ過ごして、それから一緒に帰るつもりだった。「帰国の手配は私がします」越人が申し出た。以前からこれらは全て彼の担当だった。圭介は彼の肩を叩いた。「いや、俺が手配するよ」──新婚なんだから、もう少し甘えておけばいい。「体はもう大丈夫です」越人は言った。「誠がもう何度も愚痴ってたぞ。お前が戻ったら、仕事山積みだってな」圭介は珍しく笑った。越人も分かっていた。会社は忙しい。自分がいなければ、誠の負担が増えるのも当然だ。「そろそろ誠の負担を減らさないと。あいつも可哀想に、仕事ばかりでまだ独身ですしね」越人は感慨深げに呟いた。それを聞いた圭介が、ふと眉をひそめた。「つまり、お前は俺が誠をこき使ってると言いたいのか?」越人が説明しようとした瞬間、圭介は続けた。「戻ったら誠を休ませる。全ての仕事をお前が引き受けろ」「……」越人は言葉を失った。いったい何を言ったというのだ?余計なことを口にしてしまった!「いえ、水原様……」圭介は彼の言い訳を聞く暇もなく、息子を抱き上げて立ち去った。「……」越人は言葉を失った。彼がやり込められるのを見て、憲一は大喜びだった。笑いが止まらないほどだ。越人は歩み寄り、一発蹴りたくなるほど腹立たしかった。「そんなに笑うなよ。死ぬぞ」憲一はますます笑い転げた。「その言葉、圭介に言え
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第1043話

圭介は答えなかった。香織はわざと彼をからかうように、手を彼の襟の中に滑り込ませた。彼は胸元で悪戯をするその手を押さえつけ、一瞬彼女を見やり、電話の相手に「二日以内に」とだけ言って切った。そして体を向き直し、彼女の腰を引き寄せた。彼女の体は、すぐに彼にぴったりとくっついた。服越しでも、彼の体温がはっきりと感じられる。彼女が顔を上げると、まだ乾ききっていない髪からシャンプーの香りがほのかに漂った。「二日以内にって、何のこと?」彼女は尋ねた。「君が帰国を急いでるから、俺が手配を進めてる。二日以内に準備を整えるようにしてるんだ」圭介は答えた。香織が急いで帰りたがるのは、由美に会うためだ。由美のことを考えると、また不安がよみがえる。あの日、電話をかけてきた男性の言葉は曖昧で、由美の本当の容態がどうなのか、まったく掴めなかった。だから気がかりでならない。さっきまでの甘い雰囲気も、一気に冷めてしまった。「お風呂入ってね。私はもう寝るから……」だが圭介は離さなかった。彼の腕はさらに力を込め、香織は息が詰まりそうになった。圭介は彼女の耳元に唇を寄せ、低く囁いた。「誘っておいて、無事に逃げられると思ってるのか?」囁くたびに熱い息が首筋をかすめ、香織の体がビクリと震えた。彼女は唇を噛み、彼を押しのけようとした。「ちょっと……離して……」「離さない」その言葉と同時に、唇が彼女の唇に覆いかぶさった。「んっ……!」香織の息はたちまち奪われた。もう呼吸もできないほどに。そのキスは深く、強く、まるで彼女を飲み込んでしまうかのよう。いつも主導権は彼にある。彼女はただ、されるがままだった。そして、いつだって彼に引き込まれ、抗えなくなってしまう——息が荒く乱れる中、圭介の手は彼女の腰から前へと滑り、バスローブの紐を軽く引いた。香織は驚いたように目を大きく見開いた。その頬はすでに薄紅に染まり、呼吸は浅くなった。圭介は彼女のバスローブを剥いだ。中には、何も身につけていなかった。すっかり裸で晒された彼女の体は、二人の子を産んだ後でも美しく保たれていた。圭介の視線は、あまりに熱く、そして真っ直ぐすぎて、彼女の心まで焼きつくようだった。彼女は慌てて彼の首に
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第1044話

憲一の視線が、香織の首筋にふと留まった。赤く残る痕に気づくと、彼はわずかに眉を上げた。——なるほど。すべてを悟ったように、しかし顔には何の色も出さず、あくまで無邪気を装って口を開いた。「なんでもないなら、それでいいんだけど。そんなに緊張して、話までどもっちゃって……まるで、後ろめたいことして、それがバレたみたいじゃないか?」「……」「何言ってるのよ、バカなこと言わないで!」彼女は平静を装いながら答えた。「冗談だよ、冗談。ほら、顔まで真っ赤だよ」憲一は言った。「……」香織は言葉を失った。その時、圭介が歩いてきて憲一を睨んだ。「憲一、お前本当に暇なのか?黙ってろ」「……」憲一は言葉を失った。彼は咳払いして、冗談っぽく言った。「……ちょっと嫉妬してるだけさ」——越人と愛美はようやく結ばれたカップル。そして香織と圭介も円満な家庭を築いている。なのに自分は……何もない。……いや、違う。自分には娘がいる。けれど娘には母親がいない。それが一番の痛みだ。「……誠の方が、もっと哀れだ」圭介が不意に言い放った。憲一は吹き出した。——確かに誠はまだ独身だ。自分にはせめて子供がいる。誠は子供もいなければ恋人もおらず、毎日圭介にこき使われている。そう思えば、まだ自分はましな方か。「まあ、そうだな」彼は苦笑した。香織は話が全く読めず、首を傾げた。「何の話をしてるの?」「……その服、着替えたほうがいい」憲一は言った。「……は?」彼女は戸惑い、自分の服を見下ろした。……どこかおかしいの?彼女は圭介を見た。まるで「どういう意味?」と目で問いかけるように。「別に、どうってことはないよ」圭介は淡々と答えた。彼らは正式な夫婦だ。当たり前のことだ。隠すべきことでも、恥じるべきことでもない。「準備をしておけ。午後出発だ」「もう手配できたの?」香織は聞いた。「ああ」「じゃあ、荷物まとめてくるわ」彼女はくるりと踵を返して部屋へ入っていった。圭介はその足で越人に電話をかけ、出発の知らせを伝えた。もし一緒に帰るなら、準備を早めておく必要があるからだ。部屋で荷造りをしながら、香織はふと憲一が自分の首を見
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第1045話

すると、機内は一斉に爆笑に包まれた!双は何が起きたのかわからず、目を丸くしてきょとんとした表情を浮かべていた。「みんな、何を笑ってるの?」自分が何かおかしなことを言ったのだろうか?どうして笑われてるの?自分のことをバカにしてるのか?いったい何が間違ってるの?香織は彼を自分の席に引き寄せた。「ママと一緒の方がいいわよ」「どうして?」双は尋ねた。香織は説明に困った。そこへ憲一が口を挟んだ。「邪魔だからさ」双は眉をひそめた。「僕、憲一おじさんの邪魔してるの?」「……」憲一は言葉を失った。——いや、別に俺の邪魔をしてるわけじゃない。でも、越人の邪魔にはなってるさ。「越人叔父さんは、新婚なんだよ。その奥さんに君がべったりくっついてるって、そりゃあ邪魔だろ?」「おじさんの奥さんだけど、僕のおばさんでもあるし、それに、おばさんも僕のことが好きって言ったよ!」憲一は笑いながら言った。「でもね、越人がおばさんにしてあげられることは――」「黙りなさい」彼の言葉が終わる前に、周囲から鋭い一喝が飛んだ。憲一の口の軽さが皆の怒りを買ったようで、冷たい視線が一斉に彼に注がれた。憲一はすぐに降参した。「はいはい、悪かったよ、俺が悪かった!」香織は双を抱きながら、優しく声をかけた。「少しだけお昼寝してね。起きたら飛行機も着くから」けれど、双はなかなか寝付けなかった。そこで、香織は少しお菓子をあげたり、絵本を開いたりして彼をなだめた。それでも双はまだ眠くならなかった。彼がようやく眠りについた時には、飛行機はすでに着陸していた。圭介が彼を抱いて飛行機を降りた。事前に電話していたので、恵子は使用人たちと共に家の準備を整え、早くから門の前で待っていた。一行が帰宅すると、すぐに快適に休める状態だった。食事の準備もできていた。一段落ついたところで、香織は圭介を部屋に引き入れ、由美のことで早急に帰国する必要があると打ち明けた。圭介は、彼女の切実な表情を見るなり、迷うことなく言った。「俺も一緒に行く」「あなたは来なくていいわ。お仕事もたくさんあるでしょ?鷹に一緒に来てもらえば十分よ」香織はそっと言った。圭介は何か言いかけたが、彼女にふわりと
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第1046話

病室の前に立った香織の胸は、ざわめいた。「……そんなに、ひどいの?」彼女の声は震えていた。由美に、一体何が起きたのか。「見ればわかります」香織が自らドアを開けた。個室の病室で、ベッドの横には医療機器が並んでいた。ベッドの上に誰かが横たわっているのが見えた。彼女はそろりと歩を進めた。一歩一歩がとても重たくて、呼吸が浅くなっていった。恐怖が心を覆い、胸を締めつけた。由美が、もし本当に取り返しのつかないことになったら……?突然、彼女の足が止まった。ベッドに横たわるその姿は、もはや由美とは思えなかった。その顔には包帯がぐるぐる巻きにされていた。香織が振り返ると、ドアの前の人が言った。「由美さんです」香織は息をのんだ。両足が、地に根を張ったかのように重くなった。──こんなに近くにいるはずなのに、どうしても近づけない。距離の問題ではない。近づくのが怖かったのだ。彼女は荒くなった呼吸を整えようとしながら、少しずつ歩を進めた。ようやくベッドのそばまでたどり着いたが──もし、誰かに教えてもらわなければ、この人が由美だとは絶対に気づけなかった。香織は口元を手で押さえた。──信じられない。胸が痛くて呼吸も苦しい。一体どんな目に遭えば、こんな姿になってしまうのだろうか?長い時間、彼女は感情を抑えられなかった。心臓が波のように打ち寄せ、苦しみが何度も押し寄せた。警官が中に入ってきた。「お願いしたのは、彼女に生きる希望を持たせたいからです」「どうして……こうなったの?」「隊長は任務で殉職されました。由美さんは仇を討つため、自ら潜入を志願して……」話の途中で香織が遮った。「どうして……どうして彼女を、そんな危険な任務に行かせたの!?明雄が亡くなったなら、彼女のことを……彼の大切な人を、守るべきじゃなかったの!?」言葉の途中で、彼女の声は詰まりかけた。──明雄があんなに良い人だったのに、こんな形で亡くなってしまうなんて……由美までこんな姿に……あまりにも、理不尽だ。「我々も反対したのですが、彼女の決意が固く、どうすることもできなかったのです……」重たい沈黙が病室に落ちた。しばらくして、香織が尋ねた。「……その後は?」「潜
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第1047話

由美の視線は一瞬だけ揺れ、その後、静かに沈んでいった。「……私が、誰にも連絡しないでって、頼んでたのに……それでも……結局、連絡したのね」その声は、かすかで、とても弱々しかった。そして香織も、感情を表に出さないようにしていた。──由美がこんな状態なのだ。自分まで苦悩を見せたら、由美はなおさら安心して治療を受けられなくなるだろう。香織はベッドの縁に座り、由美の手を握った。その手の甲には無数の注射痕が残り、青紫色の痣が点々と広がっていた。香織は、力を入れるのさえためらわれた。少しでも強く握れば、痛めてしまいそうで——香織は俯いたまま、由美の視線を避けて言った。「連絡してくれなかったのは、ひとりで我慢しようとしてたの……?」由美は唇をほんのわずか動かした。「ただ……心配をかけたくなかっただけ」その言葉に、香織の感情が一気にあふれた。「こんな姿になってまで、私の心配を気にするの?」由美が返す前に、香織は言葉を続けた。「もう伝えてあるわ。あなたを連れていくって。医者を探して治療を受けるのよ。私の知り合いの医者はたくさんいる。きっと治せるから...」「結構よ」由美は淡々とした調子で言った。「自分の状況は分かっている。それに……体は治せても、心まで治せる?心が死んでしまったのに、体だけ生きていて何になるの?」「ばかなことを言わないで」香織は低い声で言った。「自分を捨ててはいけない。まだ子供がいるわ」「子供……」由美の瞳に一瞬だけ光が宿った。そしてすぐに消えた。──この姿では、子供を怖がらせてしまうだろう。母親として、どうやって向き合えばいいの?「私のことは放っておいて」由美は決然と言った。「私は、ここから出るつもりはないわ」「本気で……死にたいの?」香織の声が震えた。「ええ、本気よ」由美はまっすぐに答えた。香織は、涙を堪えながら必死に訴えた。「どんな姿になっても、あなたはあの子のお母さんなの。あなたがいなくなったら、その子は『母親のいない子』になってしまうのよ。たとえお父さんがいても、お母さんのいない子どもがどれほど寂しいか……それは一生の傷になるわ。約束するわ。必ず治してみせる。たとえ元の顔と違っても、きっと美しく治せるから」由
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第1048話

由美は疲れ切ったように目を閉じた。香織はそっと布団をかけ、「ゆっくり休んで」と声をかけた。——こんなところに、彼女を置いていけない。見捨てるなんて、絶対にできない。どれほど困難でも、絶対に彼女を治してみせる。香織は病室で長い時間を過ごし、たくさんのことを考えた。——この場所にいる限り、由美はきっと、明雄の死という影から抜け出せない。だからこそ、見知らぬ土地で、すべてを一新してやり直すことが必要なのだ。そうすれば、彼女にも「再生」の道が開けるはずだ。香織は決意して、警察署の担当者に再度交渉を申し出た。由美の状況を踏まえた上で、警察署は香織の要望を了承した。ただし、ひとつだけ条件があった。――由美本人の「意志」が必要だ。香織は、必ず彼女を説得すると約束した。「もし彼女が治療を受け入れて、今後の人生を前向きに生きるなら、私たちもできる限り協力します。必要なことがあれば、遠慮なくお申し出ください」警察署側は言った。香織は首を振って言った。「いいえ。ただ……彼女を連れて行くとき、車を用意していただけると助かります」「任せてください。万全の準備をしますので、ご安心を」由美の現状を考えれば、どんな立場でも最大限の配慮をするのは当然のことだった。警察署側の了承を得た香織は、あとは由美を説得するだけだ。しかし言葉で無理強いするのはやめた。今の彼女に必要なのは、焦らされる言葉ではなく、静かに寄り添ってくれる存在なのだから。数日間、由美はほとんど口を開かなかった。香織は病室に折りたたみベッドを持ち込み、由美と同じ空間で寝起きを共にした。彼女をひとりにすることが、何より怖かった。いつか突然、絶望に押しつぶされてしまうのではないかと……だからこそ、ひとときも目を離したくなかった。ある日、病室の隅で立っていた鷹が、香織にそっと声をかけた。「奥様、少しホテルで休まれては?こちらは私が見ておりますので……」だが香織は、かぶりを振った。「誰がここにいても、私は安心できないの……私じゃなきゃ、だめなの」彼女は圭介に電話をかけた。事情を話すと、彼もすべてを理解してくれた。「家のことは心配しないで。俺がきちんとやっておく」その一言が、香織にとって何よりの支えだった。
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第1049話

「どうして……どうしてそんなに私を連れて行きたいの?」由美は言った。香織はその問いに、怒りと悲しみを押し殺しながら答えた。「放っておいて、あなたが死のうとするのを見ているべきなの?人生って誰だって平坦な道ばかりじゃないわ。でこぼこ道だってある。でも、そんなことでみんな死のうと思ったら、この世に生きている人なんてほとんどいなくなってしまうわ」「でも……私ほど不幸な人、いる?」由美は言った。香織は言葉に詰まった。確かに由美は一般人では耐えられないほどの苦しみを味わってきた。「でも……苦あれば楽ありって言うじゃない?」由美はゆっくりと首を振った。「……もう疲れた」それ以上話す気がないようだった。香織は、彼女がまだ心を閉ざしていることを感じた。「誰のためでもない。あなた自身のためじゃなくてもいい。せめて……子どものために生きて。考えてみて。もし憲一が将来、別の女性と結婚して、その女性があなたの娘を虐げたら?あなたはどうするの?あなた自身が、それを体験したでしょ? あなたの継母に、どれだけ辛い思いをさせられたか……」香織は心の中で分かっていた。憲一は子供を思うあまり、簡単に再婚などしないだろう。彼がどれほど娘を愛しているか、よく知っている。わが子に少しの屈辱も味わわせまいとする男だ。こう言ったのは、ただ由美を説得し、生きる気持ちを持たせるためだ。たとえ子供のためだけでも、生きて欲しかった。由美の表情に一瞬の動揺が走った。——母親とは、そういうものだ。苦しくても、絶望していても、子どもを思う心だけは、決して消えない。香織はさらに続けた。「彼が結婚して、その相手があなたの子に酷いことをするようになったら、あなたが引き取ればいい。彼女を守れるのは、実の母親であるあなただけよ。世の中、継母に虐待されるニュースがいくらあるか、知ってるでしょ?」香織はわざと彼女の心の傷をつついた。「それでも、あなたは自分の子を苦しめるつもりなの?可哀そうな思いをさせるつもりなの?」「もう……やめて」由美は呟いた。「やめないわ。もしあなたが自分の子どもすら顧みず、自分だけが楽になりたいなんて思ってるなら──それはただの、身勝手な母親よ。産んだのに、守れない。守る覚悟がないなら、最初から産まな
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第1050話

道中、由美はずっと不安そうだった。決心はしたものの、本当に治療に専念できるかどうか、自分でも確信が持てずにいたのだ。香織は優しく語りかけた。「大丈夫、きっとよくなる。心配しないで。誰にも知られたりしないから」由美は小さくうなずいた。やがて飛行機が着陸した。空港には病院からの車がすでに待機していた。すべて香織の手配だった。彼女は知り合いこそ多くないが、その少ない知り合いはすべて医療関係に集中していた。それに圭介という強力な後ろ盾があるおかげで、金銭的な心配なく最高の環境を整えることができた。最高の環境、最高の医師──由美のために、香織は最上級の治療を用意した。今回依頼したのは、美容整形分野において世界的に権威のある医師。本来なら連絡も取れないはずだったが、彼が休暇中にもかかわらず、香織は粘り強く交渉し、特別に診察を受けてもらえることになった。救急車で病院に着くと、すぐに精密検査が始まった。検査結果を待っている間、香織の携帯が鳴った。電話の相手は──双だった。「ママ、いつ帰ってくるの? とっても寂しいよ。パパも寂しがってるよ」「すぐ帰るからね」香織が答えた。「すぐって何日後?前もすぐって言ってたのに、まだ帰ってこないじゃない。子供だましはやめてよ」「お土産買って帰るから、何が欲しい?」香織は苦笑いしながらごまかそうとした。「何もいらない。ママに会いたいだけだもん」双の声は不満げだ。「もしかして、僕を邪魔だと思って、一人で遊びに行ってるんじゃないよね?」「……」香織は言葉を失った。この子ったら……「そんなことないわ。本当にすぐ帰るから。いい子にしててね」香織は優しく言った。「ママも双に会いたいわ」「パパにも会いたい?」双が尋ねた。香織は眉をひそめた。これは双らしくないセリフだ。「双、そばに誰かいるの?」双は瞬きをしながら、自分に話を教えてくれた憲一を見つめた。憲一は慌てて手で制止するジェスチャーをした。「誰もいないよ」双は答えた。「そうなの?」香織は疑わしげだった。「ママ、いつ帰るか教えてよ!一体何してるの?パパも僕もすごく寂しがってるんだから……」「……憲一、暇なの?」ちょうどそのとき、通りか
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