All Chapters of 拗れた愛への執着: 結婚から逃げた総裁に愛された: Chapter 1151 - Chapter 1160

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第1151話

圭介は小さく「うん」と声をもらし、「そのまま寝てていいよ」と言った。「起こされちゃったから、もう眠れない。下ろして」香織は彼の肩に寄りかかりながらつぶやいた。圭介はうつむいたまま黙っていた。香織は恥ずかしそうに顔を彼の胸に埋めた。……国内。向こうが夜なら、こちらは昼間。由美は星を抱いて外で遊んでいた。おもちゃを使って気を引くと、星の視線はそのおもちゃを追いかけた。色が鮮やかであればあるほど、興味を引かれるようだった。星の視線はあちこちを見回し、時おり口を大きく開けて笑った。白くて小さな歯が数本生え始めていて、それが原因か、笑うたびによだれがたれていた。由美は星の口元を拭き、綿のよだれかけを首に着けてやった。濡れたらすぐに取り替え、顔がよだれで赤くなるのを防いだ。赤ちゃんの肌は繊細だ。顔は常に乾いた状態を保たなければ、すぐに湿疹が出てしまう。由美はそんな細やかな気遣いで星を守っていた。その甲斐あって、星は日に日にふっくらとしていく。小さな顔は白くてつややか、可愛らしさそのものだった。一方、ビビアンが目を覚ますと、台所はがらんどうで、食べるものは何ひとつなかった。彼女の表情は一瞬で曇った。少し間を置くと、彼女は由美を探し、わざとらしく平静を装って言った。「あら?もう食事したの?」「食べたよ」由美は言った。「私の分は?」彼女はすぐに問い詰めた。「松原さんに頼まれているのは星のお世話だけよ。料理係じゃない。だから、あなたにご飯があるかどうかなんて私には関係ないわ」ビビアンは言葉を詰まらせ、顔を赤くした。しばらく黙り込んだあと、ようやく口を開いた。「……でも作るなら、ついでに私の分も作ってくれればいいじゃない。別にあなたに作れって言ったわけじゃないんだから!」彼女はしばらく沈黙した後、ようやく言い訳を見つけて続けた。「ただ、ついでに少し多めに作れるでしょ、って思っただけなの」「私は余分に作る習慣はないの。これからは、掃除はあなたが担当してもらえる?」由美は淡々と返した。ビビアンは目を見開いた。「……今なんて言ったの?」「家事を手伝うために来たんじゃないの?」由美は冷ややかに言った。──最初は憲一が連れてきた人だからと、
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第1152話

しかし、ほんのトイレに行ったわずかな時間に、ビビアンに隙を突かれてしまった。洗面所から出てきた由美は、星が揺りかごにいないことに気づいた。胸が一瞬で冷え、彼女はすぐにビビアンの姿を探した。だが、家の中どこにもいなかった。慌てて監視カメラを確認したが、映像は破壊されており、何も残っていなかった。由美は怒りと焦りに震えながらも、完全には取り乱さなかった。彼女はまず警察に通報し、その後すぐ憲一に電話をかけた。繋がると、由美は慌てた声で言った。「星がいなくなりました。ビビアンが連れ去ったかもしれません。今、彼女と連絡取れますか?」それを聞いて、憲一の頭の中が、一瞬で真っ白になった。危うく罵声を吐きそうになるのを、何とかこらえた。──由美が、わざと星を危険にさらすようなことをするはずがない。彼女は、星の母親なのだ。たとえ過去に何があったとしても、星への想いに変わりはない。その点だけは、二人とも同じ気持ちだ。憲一は深く息を吸い込み、声を低く抑えた。「つまり……ビビアンが星を連れて行った、ってことか?」「ええ。今日ずっと、彼女の様子がおかしかったのですから」由美は確信を持って言った。──彼女がでたらめを言うはずがない。彼女は元法医。観察眼も洞察力もある。軽々しく断定することはない。それでも由美の胸には自責の念が広がっていた。──ビビアンにそんな意図があると気づいていたなら、もっと警戒すべきだったのに……「わかった」憲一は短く言い、電話を切るとすぐに車を飛ばした。同時にビビアンに連絡を入れた。憲一は彼女に連絡を取ることができた。「今、どこにいる?」憲一はあえて問い詰めず、落ち着いた口調で聞いた。ビビアンは今、星を自分の家に安置していた。彼女が星を連れ去ったのは、由美が星の面倒をちゃんと見ていなかったという状況を作りたかったからだ。そうすれば憲一は由美を解雇し、邪魔者がいなくなると思っていた。とはいえ、彼女は本当に星を傷つけるつもりはなかった。なぜなら、彼女にはその勇気がないからだ。そんなことをすれば、憲一が許すはずがないと分かっていたからだ。そのため、彼女はあらかじめ星の世話をする人間も用意していた。憲一からの電話にも、焦ることなく平然と嘘
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第1153話

ビビアンもそれなりに準備していた。彼女はニヤニヤと笑いながら言った。「どうしてそんなに沢山の警察を呼んだの?何かあったの?何か盗まれた?」彼女はふざけるように笑みを浮かべた。由美は衝動を必死に抑え込んだ。彼女も憲一と同じ懸念を抱えていた。──今はビビアンを怒らせるわけにはいかない。追い詰めれば、星にとって不利になるだけだ。すべての怒りは、星を見つけてから――その時に清算すればいい。星がいなくなった時間、ビビアンは別荘にいたため、警察は彼女にも事情聴取を始めた。「午後7時30分、あなたは何をしていましたか?」「外で夕食を食べていました」ビビアンはすらすらと答えた。「外に出た時、何か異常に気づきましたか?それと、赤ちゃんが揺りかごにいたのを見ましたか?」「私、子供の世話は担当じゃないので。子供の面倒を見るのは、あの人の仕事です」そう言って由美を指さし、笑みを浮かべながら言った。「まさか、赤ちゃんがいなくなったって?文絵、あんた終わったわね。社長が許すはずないわ。彼の子供を失くしたなんて」由美は彼女の挑発に一切反論せず、じっと耐えた。「本当に見ていないんですか?」警官の語気は強く、威圧感を伴っていた。ビビアンは胸の奥にかすかな動揺を覚えながらも、落ち着いて答えた。「本当に見ていません。私は子どもの担当じゃない。彼女に聞くべきです」ビビアンは由美を指さした。「彼女にももちろん確認します」警官は言った。ビビアンは由美に向かってにっこり笑う。「文絵、星ちゃんは社長の宝物よ。なのにあなたはその宝物を無くした。社長はどんなに怒ると思う?あなたをどうすると思う?」「きっと私を追い出すでしょう」由美は言った。その言葉を聞いた瞬間、ビビアンの顔が一気に輝いた。「前からあんたが気に入らなかったの。ようやくおさらばできるわけね!」彼女は椅子にふんぞり返り、喜びを隠すことなく浮かれていた。彼女の頭の中では、すでに由美が憲一に追い払われ、星の世話を自分が任される未来が描かれていた。──自分が心を込めて星をみれば、社長は必ず感動する。そして、社長が自分にプロポーズする。そんな妄想をしているだけで、彼女はたまらなく幸せだった。そのとき、憲一が駆けつけてきた。
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第1154話

ビビアンは由美の視線に射抜かれ、居心地悪そうに顔をそらした。彼女は気まずさを隠しながら、再び憲一の前で由美を非難した。「社長、彼女のように責任感のない人は、絶対に置いてはいけません!」憲一はちらりと彼女を見やった。その一瞥には鋭い殺気が潜んでいた。「俺は絶対に許さない」彼は一言一言、歯を食いしばるように言った。ビビアンはその目とぶつかり、思わず身をすくめた。──なぜこんなにも恐ろしい表情をしているのだろう。その冷たい視線は、まさか自分に向けられてるの?いや、違う。それは絶対に文絵に対してのもの。ビビアンは心の中でそう自分を納得させた。すると、憲一が冷然と言い放った。「星が見つかったら……お前はすぐにここを出て行け」由美は静かにうなずいた。「……はい」二人のやり取りは妙に噛み合っていて、ビビアンは自分の思惑通りに事が運んでいると信じ込んだ。彼女はトイレに行くふりをして、その場を離れた。そこで、あらかじめ頼んでおいた子守に電話をかけ、星を警察署の入口に置いてくるように指示した。──社長はもう文絵を追い出すと決めた。それで充分だ。これ以上、子供を手元に置いておくのは危険だ。もし社長に、星を連れ去ったのが自分だとバレたら——自分も文絵と同じ結末を迎えることになる。いや、それ以上にひどい目に遭うかもしれない。しかし彼女は知らなかった。仮に由美が本当に星を失くしたとしても、憲一は由美を罰することはないだろう。惨めな結末を迎えるのは、結局彼女だけなのだ。その頃、担当の警官が電話を受け、憲一に告げた。「署の入口に、誰かが赤ちゃんを置いていったようです。確認しに来てください」同時に、憲一のもとにも連絡が入った。ビビアンの住居を調べていた部下が住所を突き止めたのだ。彼は部下にそこを見張らせた。──ビビアンが一度でも星を連れ込んだのなら、必ず痕跡が残っている。それが証拠になる。警察署に到着すると、そこには星がいた。泣き疲れて眠ってしまったらしく、頬は真っ赤に染まり、瞼も泣き腫らしてぷっくりと腫れていた。由美が思わず手を伸ばそうとしたその瞬間――憲一が先に抱き上げた。由美の手は宙で止まり、そのまま静かに下ろされた。その時、ビビアンは声を張
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第1155話

こんな状況になっても、ビビアンはなお愚かにも責任を由美に押し付けようとした。「社長、きっと全て文絵の仕組んだ計画です!彼女を捕まえさえすれば全て解決します」彼女は慌てふためいて憲一の腕をつかんだ。「彼女を厳罰に処してください……!」だが言葉が終わる前に、憲一の忍耐は切れた。ドンッ!彼は容赦なく彼女を蹴り飛ばした。ビビアンは床に倒れ込み、腹を押さえながら、信じられないものを見るように憲一を見上げた。「社長……?」だが、憲一はもう彼女と口をきく気すらなかった。彼は星を由美に渡した。「子供を抱いて車で待ってろ。ここは俺が片付ける」由美は星をしっかりと抱きしめ、力強くうなずいた。「……わかりました」その様子を見て、ビビアンは完全に混乱した。──どうして!?どうして社長は、まだあの女を信じているの?「社長!文絵は子どもを失くしたんですよ!どうして彼女に子どもを預けられるんですか?星がまた危険に晒されますよ!」彼女の必死の言葉にも、憲一は一切耳を貸さなかった。そのまま彼は警官と奥に入り、正式な手続きを取り始めた。──よくも星に手を出した……あのビビアン……絶対に許さない……たとえ星が無事だったとしても、子供に手を出そうとしたその意図自体が、絶対に許されるものではない。だから、憲一は「誘拐未遂」の罪で、彼女を訴えることにした。ビビアンの家からは、星の哺乳瓶が見つかった。彼女が子供をあやすために持ち出したものだが、戻すのを忘れてそのまま部屋に残していたのだ。それだけでも、星が彼女の家にいたことの明確な証拠となった。さらに、子供を連れてきた人間も特定され、証人として証言することになった。人証も物証も揃い、ビビアンにはもう言い逃れの余地がなかった。こうしてビビアンは収監された。それでも彼女には理解できなかった。なぜ憲一がそこまで由美を信じるのかを。ビビアンには野心こそあったが、知恵はなく、どこか抜けていた。もし星に手を出さなければ、憲一もここまで厳しくはしなかったかもしれない。だが、その大切な存在に触れた瞬間、すべては終わった。憲一にとって星は命そのもの。あの子を狙った罪、命を奪われなかっただけでも幸運――憲一の怒りは、それほど深く冷たいものだ
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第1156話

そのとき、星は静かに眠っていた。由美はベビーベッドのそばに腰を下ろし、安らかに眠るその小さな顔を見つめながら、複雑な思いに揺れていた。──本当はずっとそばにいて、星の成長を見届けたい。歩きはじめ、言葉を覚える瞬間。幼稚園、小学校、大学へと進み。やがて大人になり、結婚して家庭を持ち――幸せに暮らす姿を見られたら、それで心から安心できる。けれど今は……由美はそっと、星の頬に手を添えた。「……私、あとどれくらい星を守っていられるのかな?」──星はいずれ成長する。いずれ母親の手を必要としなくなる。自分がそばにいられる時間は限られている。「でも、今こうして一緒にいられるだけで十分。先のことは、そのときに考えればいいわ」そう呟くと、彼女はやわらかく微笑んだ。……こうして、日々はゆるやかに過ぎていった。ビビアンがいなくなったことで、由美と星の暮らしは穏やかで静かになった。ただ瑞樹が時折訪れ、憲一の代わりに星を見に来ると言う。というのも、あの一件のあと、憲一は由美への配慮からか、もうビデオ通話で星を見ることをしなくなっていた。そのため、彼は瑞樹に頼み、星の映像を録って送らせていた。「まったく、憲一ってやつは無駄に手間をかけるぜ。君が直接撮って送れば済む話なのに。俺を使うのが好きらしいな」瑞樹はぼやくように言った。由美は聞こえないふりをして、黙々と星の世話を続けた。彼女にとっては、ただ静かに過ごせる今が一番大切だった。「……あいつ、もしかして君を怖がってるんじゃないか?」瑞樹は冗談めかした。由美は相手にしなかった。彼の性格を少しは理解していたからだ。反論すれば、余計にからかわれる。黙っていれば、いずれつまらなくなって引き下がるだろう。……それから一ヶ月後。憲一がようやく仕事を終えて帰ってきた。これで彼らは、また頻繁に顔を合わせざるを得なくなった。どんなに忙しくても、憲一は夜には必ず帰宅するからだ。さらに、家政婦の暁美はまだ戻っておらず、食事の準備は由美の役目になっていた。家には他の人もおらず、他人から見れば、これは三人家族に見えるだろう。彼らは確かに三人家族なのだ。ただ……お互いにその「関係」を知りながらも、口に出すことはなかった。
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第1157話

憲一はふっと笑った。どこか自嘲めいた響きが混じっていた。彼はグラスを持ち上げ、一息に酒を流し込み、低く穏やかな声で言った。「……星に、ちゃんとした家庭を与えたいと考えたことはないのか?」「……私は、あの子に顔向けできない」由美は静かに答えた。それは拒絶の言葉だった。彼女の胸の奥でははっきりとわかっていた。──自分と憲一が再び結ばれることなど、決してあり得ない。どんな意味においても。自分はあまりに多くのことを経験してしまった。そしてもう、憲一と繋がりを持つことを受け入れられない。由美はグラスを指先で回しながら、ぽつりとこぼした。「……私は、本当に明雄を愛していたの」憲一の顔色は明らかに一瞬青ざめた。彼は知っていた。──由美が明雄と一緒にいた時、きっと本当の感情を動かしていた。明雄は、確かに生涯を託すに足る男だった。かつて自分自身も、その二人の幸せを願っていた。だが――今は、彼はもうこの世にいない。「一緒にいた時間は長くなかった。でもね……あの時間は本当に安心できて、何より幸せだった。けれど私は彼を裏切ったの。私が彼を傷つけたの。もしあの時、私が彼と口論なんてしなければ……彼は私を避けようとして、あんな危険な任務に行くこともなかった。そうすれば、死ぬことも――」「人の生死は運命だ。君のせいじゃない」憲一が静かに言った。由美は彼を見つめ返した。「……本当にそう思う?」「ああ」憲一は迷いなく言った。由美には、それが慰めの言葉だと分かっていた。彼女はグラスの酒を一気に飲み干すと、ボトルを手に取り、自分のグラスへ注いだ。──酒を飲めば……不思議と口が軽くなる。普段なら言えないことも、言葉にできる。「私……汚れているの」彼女はかすかに笑ってつぶやいた。憲一は彼女を見つめた。表情は静かだったが、その眼差しには深い想いが宿っていた。彼はずっとこう思っていた。──すべては、俺のせいだ。彼女を守れなかったのは、自分の責任。彼女に信じる心を与えられなかったのも、自分の責任。もしあの時、自分がもっと強く、もっと有能で、家族の圧力に立ち向かうだけの力があったなら——彼女は自分のもとを離れずにすんだ。遠い土地へ一人で行くこともなかった。明雄と出会うことも
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第1158話

「……飲み干せ」憲一は声を低くして言った。由美は彼を見つめた。その目は赤く染まっていた。酔っているように見えたが、本当には酔っていなかった。彼女はグラスを持ち上げ、酒を飲み干した。眉をわずかにひそめた。すぐに憲一は彼女のグラスにまた酒を注ぎ、自分のグラスを掲げて言った。「……乾杯しようか」由美は無言で応じ、彼とグラスを合わせた。「ひとつだけ本音を聞かせてくれ」彼はじっと彼女を見つめた。「……君の心の中に、俺への気持ちは……ほんの少しでも残っているか?」由美の表情が一瞬揺らいだ。だがすぐに平静さを取り戻し、きっぱりと答えた。「……ないわ」その瞬間、憲一の胸に鋭い刃が突き刺さったような痛みが走った。「君は……」──あまりに薄情だ。そう言いかけて、彼は飲み込んだ。「俺は君に本音を伝えようとしているのに……君は一つも正直にならない。……つまらないな」彼は立ち上がり、酔ったようにふらついた。「もう寝る」彼は足取りも乱れて部屋へと歩いていった。誤ってテーブルの角に足を引っ掛け、転びそうになった。由美は思わず駆け寄ろうとした。けれど、そんなことをすれば、二人の関係はさらに気まずくなるだけだとすぐに気づいた。彼女はじっと堪えた。憲一は振り返らずに言った。「……もし、君の気持ちが少しでも戻るなら……俺は、いつだって受け止めるよ」由美は何も聞こえなかったかのように、黙ってテーブルを片付け続けた。一切の返事を拒むように。憲一の胸には、抑えきれない失望が広がった。──答えは予想していたはずなのに、それでも胸が苦しい。彼は部屋に入り、ドアを閉めた。そのまま扉に背を預け、ずるずると座り込んだ。そして両腕を膝にかけ、顔を深く埋めた。……翌朝。由美は星を抱き、外で遊んでいた。憲一が起きてリビングに来ると、テーブルの上に用意された朝食と二日酔いの味噌汁が見えた。彼はテーブルまで歩み寄り、あたりを見回したが、由美の姿は見えなかった。──まさか、本当にいなくなったのか?彼は慌てて星の部屋に駆け込んだ。そこにも姿がなかった。彼はさらに慌てた。──星まで連れ去ったのか?彼はほとんど取り乱したように玄関を飛び出した。そこでようやく目にした。由美
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第1159話

由美は星を抱いて家の中に戻った。憲一は食卓で朝食を取っていた。まるで由美が去らないと知って、安心しているかのようだった。彼女が入ってきても、憲一は顔を上げず、まるで気づかないふりをしていた。由美は椅子を引き、彼の向かいに座った。しばらく躊躇った後、憲一がもうすぐ食事を終えそうなのを見て、彼女は口を開いた。「もしあなたが将来結婚するなら、星を……私に預けてもらえない?」憲一は一瞬、耳を疑った。──彼女がついに考え直して、星のために一緒に生きていこうと言うのではないか。そう期待していたのに、返ってきた言葉はまるで逆だった。彼はゆっくりと顔を上げた。由美は慌てて言葉を継いだ。「あなたのためでもあるの。子供がいると、やっぱり重荷になるでしょう?それに……私のわがままでもあるの。継母が星に冷たくするんじゃないかって怖いの。あなたはまだ若いし、これから子供も持てる。でも私はもう無理……だからこんなことを言うのは不公平だってわかってるけど……」「夢を見るな」憲一の声は低く、はっきりしていた。「俺は一生結婚しない。星も手放さない」彼は立ち上がり、手を差し出した。「……星を渡せ」由美がためらっていると、彼は冷たく言い放った。「忘れるな。君は俺が雇った保育士だ。まさか子どもを独り占めするつもりか?」由美は黙って星を渡した。憲一は娘を抱き、リビングを出ていった。彼はわかっていた。──もし今ここで了承すれば、由美は本当に星を連れて出ていくだろう。彼女の心は、それほどまでに固い。自分の気持ちは、これ以上ないほど示しているはずだ。それなのに、どうして一度も考えようとしない?どうして一片の希望すら与えてくれない?星のためなら、頑なな心も動くと思っていたのに。ロッキングチェアに腰を下ろし、憲一は星を胸に抱いた。そっと星の背中をトントンと叩きながら言った。「ママは冷たいな。……俺を要らないと言うだけじゃなく、君まで俺から奪おうとするなんて」もちろん、赤ちゃんにその意味は伝わらなかった。ただ小さな手で、父の服をぎゅっと掴んでいるだけだ。憲一は娘を見下ろし、低く笑った。「……君を掴んでる限り、彼女を掴んでるのと同じだ」──由美の唯一の拠り所は、この子なのだ。星がいれば、彼女は離れて
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第1160話

──この部屋で寝れば、星のそばにいられるから。……由美はぐっすりと眠ってしまい、目を覚ましたのはほとんど正午になる頃だった。しかも星も部屋にはいなかった。彼女が出ていくと、リビングでは憲一が星の世話をしていた。由美は近づかず、そのまま台所へ向かった。「昼ご飯はあとで届けさせる。作らなくていい」憲一が言った。由美は彼から少し離れた場所に立ち、「星はいつ起きたの?」と尋ねた。「だいぶ前だ」由美は唇を噛んだ。「どうして起こしてくれなかったの?」「気持ちよさそうに寝てたから」憲一は彼女に視線を向け、事務的な口ぶりで続けた。「星の面倒を見て、家事までしてくれてる。大変だろ。給料を少し上げるよ」もし以前の関係がまだベールに覆われたままだったら、その言葉は単なるねぎらいに聞こえただろう。しかし今、彼は彼女が由美だと知っていながら、こう言うのは、明らかに彼女を適当にあしらっているに違いない。「いいわよ」由美は淡々と答えた。それは、憲一にとって空振りのような答えだった。──彼女は微動だにしない。つまらない……由美はリビングにいるのが気まずくて、外へ出た。憲一は星を抱いたまま、あとを追って外に出た。「俺を避けなくていい」彼は言った。「避けてなんかいないわ。ただ新鮮な空気を吸いたいだけ」由美は答えた。彼は娘の頬に口づけした。「星も外の空気が好きみたいだ」由美は彼の腕に抱かれた星を見た。星はまんまるの目をぱちくりさせ、この世界を不思議そうに見つめていた。由美は思わず微笑んだ。──こんなに小さくて柔らかく、愛らしい存在を前にすると、不思議と心まで柔らかくなる。すべての幸せをこの子に与えたい。そう思うのに、自分はあまりに無力だ。「ちゃんとした家族」すら与えられない。彼女は視線をそらした。そよ風が頬を撫で、髪が額にかかった。彼女はその髪を、そっと耳にかけた。……やがて昼食が届き、由美が受け取ってテーブルに並べた。「星を渡して。あなたが先に食べて」だが憲一は抱いたまま、渡そうとしなかった。「君が先に食べろ」「私はまだお腹がすいてない」「俺もだ」こうして、空気は凍りついた。……およそ一時間後。料理はすっかり冷めていた。由美は温め直した
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