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第1511話

しかし、さくらは平安京の皇族や官吏たちが、北森の交渉介入を知らされていなかったらしいことに気づいた。彼らの顔には明らかに困惑の色が浮かんでいる。困惑の後に続いたのは、喜びと自信の表情だった。きっと北森の参加を、平安京への後ろ盾と受け取ったのだろう。この様子を見て、さくらはむしろ安堵した。もしそうなら、元新帝は事前に彼らに知らせることもできたはずだ。少なくとも交渉に当たる官僚たちには伝えておけただろう。なぜそうしなかったのか。考えられる理由は一つしかない。彼女もまた互いの歩み寄りを望んでおり、朝廷で支持する者が少ないため、誰もが信頼を寄せる北森の安豊親王を招いたのだ。そう考えれば合点がいく。昨夜元新帝がさくらと紫乃を宮中に招き、最初に口にした「念願が叶わない」という言葉も。女子科挙は一例に過ぎず、多くの政策を推し進めることの困難さを語っていたのだろう。この推察に至り、さくらの心は軽やかになった。宮中での宴が終わると、北唐の一行は早々に辞去した。食事以外に特に意見を述べることもなく、軽い会話を交わした程度だった。彼らが立ち去ると、大和国使節団も席を立って暇を告げる。皆準備を整えねばならない。スーランジーから渡された日程によれば、明後日にはもう交渉が始まるのだから。宿泊先の離宮へと戻った一行は、清家本宗の呼びかけで円座を組んだ。といっても、いつもの議論の繰り返しだ。ただ、今回もさらに譲歩するとなれば、地図を広げてじっくり検討しなければならない。「また同じ話の繰り返しになりそうだが……」清家が溜息混じりに切り出す。今度もまた譲歩を迫られるとなれば、皆で地図を広げてじっくりと検討しなければならない。だが、出発前に天皇から示された譲歩の限界線——それを超えれば、帰国しても面目が立たず、歴史に汚名を刻む羽目になる。重苦しい沈黙が部屋を支配した。誰も最初の一言を発しようとはせず、ただ広げられた地図を見つめながら、心の内で様々な思惑を巡らせている。一方、北森の一行は都の一角にある宿場に身を寄せていた。彼らの希望でそこを選んだのだが、スーランジーが気を利かせて宿全体を貸し切りにしてくれたおかげで、食事も夜食も、一声かければいつでも用意される環境が整っていた。案の上に広げられた地図は、両国で使われているものとは明らかに違っていた
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第1512話

その位置こそが、今回の交渉における北森の姿勢を物語っていた——完全なる中立。さくらは心の奥で呟いた。国が強いって、本当にいいものね……羨望にも似た感慨が、静かに胸に広がっていく。初日の交渉は、予想通り堂々巡りだった。「我が国の正統な領有権は……」「しかし歴史的経緯を見れば……」通訳官たちが汗を拭きながら、同じような文言を何度も行き来させる。どちらも一歩も引かない姿勢を崩さず、ひたすら過去の正当性を主張し続けた。まあ、仕方のないことではある。最初から譲歩を見せれば、後はずるずると押し切られるだけだ。結局、第一回目の会談では何の合意も得られず、互いの腹の底を探り合うだけで終わった。翌日、第二回目の交渉が始まった。またしても両国の代表が同じような主張を繰り返し始めた時、安豊親王がゆっくりと手を上げた。「これ以上同じことを繰り返しても、時間の無駄だろう」会場に静寂が落ちる。親王の声は穏やかだが、そこには確固とした威厳があった。「国境問題は数十年来の懸案だ。一朝一夕に解決できるものではない。ならば、まずその問題は脇に置いて……」親王は両国の代表を見回した。「私が聞きたいのは、貴国方が真に友好関係を築き、不可侵の約を結ぶ意思があるのかということだ」この問いかけに、両国とも前向きな返答を寄せた。「もちろんです。我々は平和への強い願いを抱いて参りました」「争いのない未来こそ、両国民が望むものです」安豊親王は懐から一束の書類を取り出すと、机の中央に静かに置いた。「こちらをご覧いただこう」そこには両国の特産品がびっしりと書き連ねてあった——穀物、畜産品、絹織物、工芸品、茶葉、毛皮、陶磁器、紙、硯……各国でしか採れない薬草や香辛料から、岩塩、鉄鉱石、翡翠まで、ありとあらゆる品目が整然と並んでいる。両国の代表団が書類に目を通すうち、険しく結ばれていた眉間が次第にほころんでいく。巨大な利益を前にすれば、譲れないと思っていたことも案外話し合えるものだ。どうしても折り合いがつかなければ、とりあえず棚上げすることもできる。長年の戦で国庫は底をついている。どちらの国も国力回復が急務だった。北森の発展の軌跡を見れば明らかだ——農業偏重の古い政策ではもう立ち行かない。農業と商業、両輪で回してこそ国は豊かになる。何より、商税の旨味は大きい。この一枚の書類
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第1513話

二日間の視察を終えた頃、スーランジーがさくらに声をかけた。「そういえば、貴国には丹治先生という名医がいらっしゃいますね」唐突な話題に、さくらは振り返る。「ご存知なんですか?」「ええ。彼が作る雪心丸という薬——あれに使われる雪のハスのことで、少しお話が……」スーランジーの表情が真剣になった。「雪のハスは貴国では極めて希少だとか。邪馬台にはありますが、雪山の頂上付近でしか採れず、しかも滅多に見つからない。ところが、こちらでは珍しいものではありません。高山なら至る所で見かけます」さくらの目が見開かれる。「実は……」スーランジーが声を潜めた。「丹治先生が現在使っている雪のハスは、すべて平安京の薬商から密かに仕入れたものなのです。法外な値段で取引されているため、雪心丸を一粒作るたびに赤字になっているのが実情です」さくらは雪心丸の入手困難さについて聞いていたが、材料の詳細までは知らされていなかった。だが、平安京から薬草を調達していたとなれば、丹治先生が秘密にしていた理由も合点がいく。この時期まで両国間の商取引は禁じられていたし、特に薬草類の流通には厳しい制限があった。スーランジーと元新帝が、ここまで詳細に調査していたということは……両国の交易開始は既定路線だったのかもしれない。北森の安豊親王を招いたのも、計画を実現するための最後の一手だったのだろう。「雪心丸は人命を救う薬です。材料が安定供給されれば、一般庶民まで恩恵が広がる……本当に素晴らしいことですね」さくらがしみじみと呟いた時、ふと先ほどの薬草市場を思い出す。「でも、あの市場で雪のハスを見かけませんでしたが……?」スーランジーが苦笑いを浮かべた。「それもそのはず。平安京では珍しくないとはいえ、やはり貴重品には違いありません。険しい山を登らねば採取できませんし、強心作用や鎮痛効果も抜群ですから……一般の市では取引されないのです」彼は手を叩いて従者を呼ぶと、さくらに向き直った。「もしご不審でしたら、今すぐ一籠分お持ちしましょう。大和国へお持ち帰りになって、丹治先生にご確認いただければ」「それは……」「いえいえ、遠慮は無用です」スーランジーが手を振ると、従者が慌ただしく走り去った。程なくして、藤で編まれた籠がどっしりと運び込まれる。中身はたっぷりと詰まった乾燥薬草だった。枝葉ごと乾燥させた雪の
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第1514話

「いやいや」親王が手を振る。「今回のことは平安京と大和国のためでもあるが、我々北森の利益でもある。礼は無用だ。国同士の付き合いなど、結局は損得勘定。本当の友情は、個人の間にしか生まれぬものよ」なるほど、と納得するさくら。だが、気になることがあった。「もしかして……私の師匠の菅原陽雲をご存知では?」親王の目元にかすかな笑みが浮かぶ。「ああ、知っているとも。北森に滞在していた時期があってな、我が星取楼に逗留していた。護衛隊の黒羽影忍とは特に気が合ったようで、よく酒を酌み交わしていたものだ」「そうでしたか……」関ヶ原で出会った黒装束の一団を思い出すさくら。あの中に黒羽影忍という人物がいたのだろうか。お目にかかれなかったのが残念でならない。さくらの心中を察したのか、親王が朗らかに笑った。「三年後、もしくは五年後に大和国を訪れる予定がある。その時は黒羽を紹介しよう」紫乃が不思議そうに首をひねる。「なぜそんなに先のことなんです?もっと早くいらしていただけませんか?お待ちしてますのに」「ありがたいお話ですが……」親王の微笑みに、何やら含むところがあるようだった。「まだ、その時ではない」これ以上は語らない様子に、二人も深く追及することはできなかった。一方で安豊親王妃は、終始無言のまま目の前の菓子を黙々と食べ続けていた。砂糖漬けの果物や燻製肉といった、どこにでもある普通の茶菓子を、まるで珍味でも味わうかのように丁寧に、そして美味しそうに口に運んでいる。さくらがふと気づいたのは、机の下で二人の手がしっかりと繋がれていることだった。なんて仲睦まじいご夫婦……てっきり両国の今後について重要な話があるのかと思いきや、世間話程度で面会は終わりを告げた。立ち上がりかけた時、それまで口を開かなかった王妃がぽつりと呟く。「上原様、沢村お嬢様……四年後に、大和でお会いしましょう」「はい。ぜひともお越しください」さくらが慌てて拱手の礼を取ると、二人は座敷を後にした。背後で障子がそっと閉められる音が響く。階段を下りながら、紫乃が困惑の表情を浮かべた。「変ね……親王様は三年か五年後って言ったのに、王妃様は四年後って……」さくらも首をひねる。どの数字も妙に具体的で、社交辞令とは思えない。本当に適当な年数なら「機会があれば」程度で十分なはずだ。
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第1515話

九月に入り、ようやく帰路に就いた。酷暑も峠を越え、頬を撫でる風に秋の気配が漂っている。スーランジーが自ら軍を率いて見送りに出向き、鹿背田城まで付き添ってくれた。今度の道中は刺客の襲撃もなく、実に順調な旅路であった。連なる山嶺を越えれば、いよいよ大和国の領内だ。佐藤大将には事前に知らせていなかったため、誰も出迎えはないものと思っていたところ、国境を跨いだ途端、北條守率いる佐藤軍の姿が目に飛び込んできた。一行が無事に戻ってきたのを見て取ると、北條守の表情に安堵の色が浮かんだ。馬を駆けて近づくと、すぐに下馬して榎井親王と清家本宗らに向かって丁寧に頭を下げる。「親王殿下、清家様、皆様方……佐藤大将の命により、お迎えに参上いたしました。関ヶ原までお供させていただきます」清家が興味深そうに首を傾げた。「大将はどうして我らが今日戻ってくると?」「いえ、大将は日時を特定しておられませんでした。毎日この場所で待機するよう命じられておりまして」「なるほど、そういうことでしたか」清家は佐藤大将の用心深さに感心したような様子で頷いた。榎井親王は道中ずっと体調を崩していたが、馬車の簾をそっと持ち上げて外を覗き、確かに大和国の土を踏んでいることを確認すると、ようやく生気を取り戻した。「さあ、出発してくれ」「はっ!」北條守が力強く応じると、片手で器用に手綱を操って馬に跨る。その身のこなしは実に鮮やかで、相当な鍛錬を積んでいることが窺えた。紫乃が手綱を握りながら、さくらに向かって呟く。「あの人……根っからの悪人じゃないのかもね。あなたのお母さまが見込んだのも、あながち間違いじゃなかったのかも。ただ、人の心だけは読み切れなかった」さくらは紫乃の言葉が北條守への称賛ではないことを理解していた。さくらの母の期待を裏切った彼への複雑な想いを、どうにか納得のいく形で整理しようとしているのだ。さくらは何も答えなかった。北條守がどのような人物であろうと、母が娘のためを思っていたことに変わりはない。あの頃は母にとって人生最悪の時期だった。母として娘の将来を案じ、必死に道筋を見つけようとしていたのだろう。きっと様々なことを考え抜いたに違いない。しかし人の心は計算できるものではなく、まして巧妙に隠された悪意を看破することなど……隊列が進むにつれ、故郷
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第1516話

関ヶ原での静養も五日を数え、榎井親王の体調もようやく回復した。親王が元気を取り戻せば、都への帰路に就かねばならない。別れの時が訪れた。さくらは涙をこらえきれず、佐藤大将の前で何度も頭を下げる。その姿に老将軍も目頭を熱くした。清家は佐藤大将を心から敬慕していた。さくらが涙を浮かべる程度だったのに対し、彼は顔を覆って声を上げて泣いた。この大和国のために関ヶ原を数十年間守り抜いてきた老将軍と、これが今生の別れになるかもしれないことを悟っていたからだ。佐藤大将は既に八十を超える高齢で、前回会った時よりもさらに老いが進んでいる。たとえ天皇が都への帰参を許したとしても、長旅の過酷さを思えば、佐藤家の人々が許可するはずもない。老将軍が清家に何事か語りかけると、清家の嗚咽がさらに激しくなった。叔母の日南子は淡嶋親王妃のことを一度も口にしなかったが、別れの間際になってようやくさくらを人目のつかない場所に引き寄せた。「あの子は今……?」牢獄での暮らしぶりを聞かされると、蘭が何かと気にかけていて、それほど辛い思いはしていないこと、皇太子冊立の折に大赦があれば出獄の可能性もあることを伝えた。日南子がかすかに溜息をつく。「それならよかった……大将様は何も言わないけれど、心の奥では気にかけているのよ。親というものは、そう簡単に子を見捨てられないものだから。大将様は優しすぎるくらい。それなのに、あの子は蘭にあんなに冷たくて……今でも蘭が面倒を見てくれているなんて」「ご安心ください。蘭は今、とても穏やかに暮らしています。きっとこれからも幸せになりますよ」「そうね……きっと」日南子がさくらを見つめる目に別れの辛さが宿り、涙がこぼれ落ちる。「今度会えるのは、いつになるかしら……」さくらの声も震えた。「また必ず参ります。お暇ができれば、すぐに」日南子は指先で涙を拭い、感情を抑えて微笑みを浮かべようとする。「ええ、ええ……待っているわ」ふと視線を向けると、見送りの列に加わった北條守が呆然とこちらを見つめていた。目が合った瞬間、彼は慌てたように視線を逸らし、狼狽の色を隠せない。さくらは静かに目を戻し、出発の準備を整えた。馬蹄が砂塵を巻き上げ、風が舞い踊る。いつの間にか、季節は秋の装いを深めていた。関ヶ原を後にした一行だったが、さくらの気持ち
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第1517話

十月十五日、使節団はついに都に帰還した。玄甲軍はひとまず解散となり、清家本宗と賓客司卿らが参内して復命の儀に向かう。道中ずっと弱々しく頼りなげだった榎井親王も、この時ばかりは気力を振り絞って同行すると言い張った。一方のさくらは、城門で待ち受けていた玄武に迎えられ、とっくに屋敷へと向かっている。玄武はこの間ずっと、毎日のように人を城門に派遣していた。昼の休憩時には自ら足を運ぶこともしばしばで、今日はまさにその甲斐があった。清家本宗らが宮中で復命している頃、さくらは既に惠子皇太妃への挨拶を済ませていた。皇太妃は彼女の疲労を気遣い、早く身を清めて休むよう促す。さくらと玄武は辞去して梅の館へ戻った。沐浴を終えて着替えを済ませたさくらの唇が、なぜだか少し腫れぼったい。それを見た瑞香が目を丸くして、思わず玄武の方をちらりと窺った。王妃様の入浴にわざわざ親王様がお付きになられたのに、これでは世話になっていないではないか。書斎では、有田先生と深水青葉が既に待機していた。さくらが平安京での一部始終を語って聞かせる。交渉の結果については既に知らせが届いていたので、彼女が詳しく話したのは刺客の襲撃、元新帝の窮状、そして北森の安豊親王が口にした「三年から五年後」という謎めいた言葉についてだった。玄武は身の毛もよだつ思いで聞き入った。平安京がこれほど混乱していたとは……彼女が無事で本当によかった。安豊親王が関ヶ原を自在に行き来していたことと、あの意味深な期限について、深水が口を開く。「師匠に手紙を出してみよう。師匠なら彼らのことをよく知っているはずだ。あの言葉に込められた意味も推察できるかもしれない」一通りの報告を終えると、玄武は二人にそれ以上の質問を許さなかった。「もう十分だろう。さくら、部屋に戻って休みなさい」午後は休暇を取ろうと考えていたところへ、宮中から召集の使者が現れた。「それなら私も一緒に参りましょう」さくらがそう申し出る。三か月も留守にした以上、まずは太后にご挨拶すべきだし、何より丹治先生が宮中におられるなら、雪のハスをお見せしたい。馬車の中で束の間の甘いひと時を過ごした後、さくらが皇子たちの稽古について尋ねた。玄武の表情が明るくなる。「大皇子には確かな成長が見られる。以前とは見違えるほど熱心に取り組んでおられるよ
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第1518話

清和天皇が御書院で臣下たちを集めた評議は深夜まで続いた。丹治先生がやむなく中断に入り、時刻の遅さを告げると、天皇はまだまだ話し足りないといった様子で腕を伸ばしながら笑った。「もうこんな時間か?それでは皆、退出してくれ。宮門も閉める刻限だろう」天皇の表情には疲れの色がなく、頬にも血の気が戻っている。とても病人とは思えない元気さだった。さくらは玄武の議事が終わるのを待ち、一緒に宮中を後にした。長旅の疲労が一気に押し寄せ、馬車の中で玄武の肩に寄りかかると、まどろみに落ちていく。馬車が屋敷の門前に着くと、玄武がさくらを抱き上げた。薄らと意識があったものの、降りるのも億劫で、そのまま身を委ねる。包み込むような逞しい胸に頬を寄せていると、心地よい安らぎが全身に広がった。この三か月間、関ヶ原以外では常に神経を張り詰めていた。今ようやく我が家に戻り、警戒の糸がふっと緩む。深い眠りの淵へ落ちていく。しかし、どこか落ち着かない。熱を帯びた大きな掌が体のあちこちを撫でさすっているような……目を閉じたまま、かすれた声で呟く。「丹治伯父様のお言葉をお忘れ?」耳元で温かな息が囁いた。「丹治伯父様は『もう大丈夫』とおっしゃった」さくらがゆっくりと瞼を開くと、燃えるような熱い瞳と視線が絡み合う。「本当に?」「間違いない」言葉が終わると同時に、唇が重ねられた。炎が点火され、激流のように二人を呑み込んでいく。寝室の空気までもが熱を帯び始めた。二人は情熱の渦に身を任せ、死ぬほど激しく求め合う。久しぶりの夜は、新婚を凌ぐ甘美さだった。一か月後、大和国では市舶司が新設される運びとなった。大和国と海外の北森との貿易を一手に担う機関だ。既存の市易司も市舶司の運営に全面協力し、対外販売可能な商品の目録作成に追われている。さらに使節を平安京に派遣し、正式な貿易協定の締結を目指すことになった。この一か月の間、丹治先生は薬の調合を見直していた。最初の数日間、清和天皇は新しい処方に体が慣れず、体調を崩したが、雪心丸を惜しみなく使用することで持ちこたえた。調整から五日ほど経つと体が順応し、薬効も格段に向上した。清和天皇は自分の病が根治不可能であることを理解していたが、延命できることに大きな喜びを感じていた。朝政に全精力を注ぎ込み、丹治先生が見張っていな
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第1519話

後宮では元々、天皇の病状を推測する者が多かった。福妃の懐妊という慶事があったとはいえ、丹治先生が宮中に住み込んでいるという事実が、天皇のお体が単なる静養では済まない深刻さを物語っていた。そんな中での天皇の三皇子への偏愛ぶりに、動揺を隠せない者たちがいた。とりわけ斎藤皇后は、天皇の病状についてある程度の情報を掴んでいた。丹治先生の入宮による治療効果のほどは分からないが、天皇はおそらく……もはや風前の灯なのではないか、と感じていた。「福妃の子など、どうでもよい」男子か女子かも分からぬ胎児のことなど、皇后にとっては些細な問題だった。たとえ皇子を産んだところで、継承順位など問題にならない。しかし、天皇のあからさまな三皇子への寵愛は別だった。それは確実に危機の兆しだった。かつて天皇に選択を迫られた時、皇后は皇后の地位を選び、命を選んだ。消沈の日々を経て、今では天皇が大皇子をそう簡単に見限ることはないと悟っていた。とりわけ最近の大皇子は勤勉で学問にも励んでおり、左大臣や玄武からも賞賛の声が上がっている。密かに探りを入れたところ、天皇も大皇子の成長ぶりに満足している様子だった。二皇子と三皇子……どちらも脅威には違いない。ただ、天皇が二皇子をそれほど気に入っているとは思えなかった。この数ヶ月、二皇子の姿を目にすることはほとんどなく、風の噂では以前ほど積極的でなくなり、怠惰な面も見えるという。德妃については、所詮は大した脅威ではないと踏んでいた。頼りになる実家の後ろ盾がないのだから。だが定子妃は話が違う。父親は刑部卿で、玄武と同じ刑部に勤める身だ。公務上の接触も私的な交流も頻繁にあるだろう。そして定子妃の母である木幡夫人はさくらに取り入ろうと、工房に多額の寄付を行っている。すでに手を組んでいる可能性は十分にあった。「皇后様、本日も大皇子殿下が玄武様よりお褒めの言葉をいただかれました」、吉備蘭子は満面の笑みを浮かべて寝殿に入ると、嬉しそうにそう報告した。皇后は表情一つ変えることなく、冷ややかに尋ねる。「陛下は今宵、どなたを夕餉にお呼びになったの?」蘭子の顔がこわばった。「……陛下は、三皇子殿下をお呼びになりました」ガシャン!皇后の手から茶碗が宙を舞い、床に砕け散った。「また三皇子じゃない!」「皇后様、そうお嘆きになりませんでも……
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第1520話

福妃の懐妊は順調だった。御典医たちも「何の問題もない」と太鼓判を押していたのに、冬に入ってから急に体調が不安定になった。二度も出血があり、宮中に緊張が走った。金森御典医が持てる技術を総動員して安胎に努め、どうにか小康状態を保ったものの、福妃は絶対安静を強いられることになった。床から起き上がることすら許されない。突然の異変に御典医たちは色めき立った。食事から日用品まで、宮中のあらゆるものを調べ尽くしたが、異常は見つからない。結局、清和天皇が長期間服薬を続けていることが胎児に影響を与えているのではないか、という結論に至った。清和天皇は福妃の身を案じ、彼女が床に伏してからは一日おきに見舞いに訪れた。時には食事を共にすることもある。そのため、定子妃の宮への足は自然と遠のいた。三皇子を御書院に呼ぶことも途絶えがちになった。一方、後宮の実務を取り仕切る德妃は、時間を見つけては二皇子を連れて福妃の見舞いに赴いた。その際、清和天皇と鉢合わせることも度々あり、結果的に天皇と食事を共にする機会が増えていった。福妃がまだ女御だった頃、彼女は宮中で頼れる後ろ盾を探していた。定子妃と德妃、両方に媚を売りながら様子を窺っていたのだ。しかし定子妃は元来高慢な性格で、福妃がかつて天皇の寵愛を受けていたことを快く思っていなかった。冷たい視線を向けられることが多く、とても近づける雰囲気ではなかった。一方の德妃は違った。後宮では寛大で慈悲深い人柄として知られ、公正な判断を下し、身分の低い妃嬪たちにも温かい目を向けてくれる。福妃は自然と德妃の元へ身を寄せることになった。ところが今、福妃は複雑な心境に陥っていた。天皇が見舞いに来られる度に、德妃が二皇子を連れて現れるのだ。その狙いは火を見るより明らかだった。かつて嫌悪していた定子妃の清高さが、今となっては美徳に思えてくる。定子妃の矜持なら、こんな露骨な真似はしないだろう。心の中で愚痴をこぼしても、どうにもならない。自分には後ろ盾がないのだ。德妃は後宮の実権を握る身、下手に機嫌を損ねるわけにはいかなかった。それでも度重なる「偶然の遭遇」に業を煮やした福妃は、德妃が来ない日を狙って天皇に甘える作戦に出た。「陛下……私、お一人でお話ししたいことがございます」か細い声で、上目遣いに訴えかける。天皇はきっと自分を愛し
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