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All Chapters of 桜華、戦場に舞う: Chapter 1591 - Chapter 1600

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第1591話

さくらは振り返った。「いえ、ご家族は皆さんお優しくしてくださっているそうです。ただ、文絵さんの縁談の際に少々難しいことがあったとか……幸い今は良いお相手と結ばれましたが、彼女としては、二度も嫁いだ身で家にいては、甥御さんや姪御さんたちの評判に関わると心配されているようです。お義姉様にもご心労をおかけしたくないと」「ああ……」俺は思い浮かべた。あの気さくで心優しい三姫子夫人の顔を。三姫子夫人には息子と娘がおり、他にも庶子庶女がいる。二の御方の子供たちもまだ縁談前だろう。縁談を進める度に、どれほどの陰口を叩かれていることか。姫夫人が背負っている重荷を思うと、俺の胸は締め付けられた。俺は心から三姫子夫人を義姉と慕っている。彼女が味わっている苦労を思うと、やりきれない気持ちになる。「よく考えてみてください」さくらはそう言い残した。俺は頷いたものの、ふと周囲に人影がないことに気がついた。「あなたと俺がこうして二人きりでいて、摂政王殿下は嫉妬なさらないのですか?知らないはずはないでしょうに……」さくらは意表を突かれたような顔をした。こんな質問をするとは思わなかったようだ。答えるつもりはないらしく、足を向けかけたが、一歩進んでから立ち止まった。「これほどの信頼関係もなしに、どうして玄甲軍で大将を務められたでしょう。私は何事も彼に隠さず、彼も私に隠し事はありません。ですから今日のことも承知の上です」彼女はそのまま歩き去った。俺も後を追う。きっと摂政王はどこかに身を潜めて、俺たちの会話を聞いているに違いない。自分の妻が前の夫と二人きりになるのを許す男などいるはずがないのだから。ところが彼女はまっすぐ歩き続け、別室の左右から誰も現れることはなく、前庭に着くと、大将の傍らに座る摂政王の姿が見えた。大将と何やら話し込んでいる。摂政王はさくらを見つけると、たちまち笑顔を浮かべて手招きし、隣に座るよう促した。遠くからその光景を眺めながら、俺の胸には複雑な思いが渦巻いた。これが本当の夫婦のあり方というものなのか。だが都であろうと関ヶ原であろうと、男女が二人きりになるときは皆気を遣うものではないか。噂でも立とうものなら、名声に傷がつく。まして今の二人は高い地位にある。下手な憶測など立てられるわけにはいかないはずだ。そんなこ
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第1592話

私が本当の意味で自分の愚かさに気づいたのはいつだったろう。十一郎が戻ってきた時でもなく、守と離縁した時でもない。親房家が窮地に陥った時でもなかった。文絵の縁談話が持ち上がった時だった。親房家に災いが降りかかった頃、私は牢獄で生死の境をさまよいながら、過去を振り返って自分なりに反省はしていた。角を取って変わろうという気持ちもあった。でもあの時はまだ、心の底から目が覚めたわけじゃなかった。所詮自分一人の問題だし、どんなに苦しもうが私が味わう痛みよ。他人に代わってもらえるわけでもないし、とやかく言われる筋合いもないって思ってた。三姫子姉様には迷惑をかけて、あちこち奔走させてしまったことは分かってる。感謝もしてるし、尊敬もしてる。ただ、自分の過去を何度も噛み返して傷を深くするようなことはしたくなかった。それが文絵の縁談で、一気に変わった。自分の中身を全部ひっくり返して、後悔に食い尽くされることを許してしまった。文絵は浅野伯爵家の御曹司・浅野敏貴と気が合って、お互いに心を寄せ合うようになった。西平大名の爵位は失ったけれど、三姫子様は先帝からお褒めをいただいて诰命も賜り、家業の経営も手堅い。三弟の萌虎も沢村家の令嬢・紫乃と結ばれて、今では兵部で重用されている。両家とも釣り合いは取れていたはず。ところが敏貴が母親に文絵との結婚を申し出ると、猛反対に遭った。浅野夫人は息子が文絵に会うことすら禁じてしまった。敏貴は普段から親孝行な息子だったけれど、文絵への想いは骨の髄まで染み付いていた。この人生で文絵以外とは結婚しない、母が許さないなら出家すると言い張った。浅野夫人は激怒して、息子を座敷牢に閉じ込めてしまった。あの日、浅野夫人が乗り込んできた時のことは、死んでも忘れられない。大勢の使用人を引き連れて押しかけてきた夫人は、義姉様を指差してまくし立てた。「親房の分際で、うちの息子に手を出そうなんて身の程知らずもいいところよ!上が腐れば下も腐る、あんたたちの夕美は恥知らずの面汚しだし、この娘もそれを真似て、若いくせに男を誑かして親に逆らわせるなんて!親房一族、根っからの悪党じゃないの。この子がうちの敷居を跨ぐのは、この私が死んでからよ!」そう怒鳴り散らすと、使用人たちに家財を壊させ、文絵を表に引きずり出した。近所の人たちが見て
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第1593話

私の名前は沢村紫乃。他のことはさておき、まずはこれだけは言わせてもらう。とんでもないことよ!浅野家なんて小さな伯爵家の分際で、浅野夫人ときたらあの傲慢ぶり。私も長く生きてきたけれど、気の強い女は数多く見てきたものの、権力者の奥方でここまで品のない女は滅多にお目にかかれない。文絵ちゃんが引きずり出されて頬を打たれ、「恥知らずにも男を誘惑した」などと罵られたと聞いた時は、真っ先に浅野家の門を蹴破って、あの女を引きずり出して同じ目に遭わせてやりたい衝動に駆られた。さくらも怒っていたが、彼女はこう諭してくれた。「こんなことが起きた以上、仕返しは後でもできる。まずは文絵ちゃんと夕美さんの様子を見に行きましょう。二人とも思い詰めてしまうかもしれない」さすがは長年官職に就いているだけあって、さくらは物事の軽重を見極める術を身につけている。私は慌てて親房家に駆けつけたが、案の定、文絵が手首を切ったと聞かされた。さらに夕美が部屋の侍女たちを皆下がらせたと聞いて、嫌な予感がした。案の定だった。夕美は梁に縄をかけて首を吊ろうとしていたのだ。何とも短絡的で、思わず平手打ちを食らわせてしまった。この数年、私も随分と気が長くなったつもりだったが、あの様子を見ては我慢ならなかった。工房で過ごしたあの年月は、一体何だったのか。意志を強く持つことさえ覚えられずにいるなんて、自立なんて夢のまた夢ではないか。夕美を一発張り倒した後、私は浅野家へ向かった。浅野家に着いてみると、なんとさくらが玄甲軍を連れて屋敷の中にいるではないか。私の腹の虫がおさまらないまま、まずは困惑してしまった。さくらは官職にあるから、直接乗り込んで暴れるわけにはいかない。だからこそ私が代わりに一泡吹かせてやるという約束だったのに、なぜ彼女がここにいるのだろう?見れば、さくらは官服に身を包み、正座に端然と座して厳粛な表情を浮かべている。鉄男が彼女の傍らに控え、玄甲軍の兵士たちが一人の男を押さえつけていた。よく見ると、その男は浅野敏貴の兄、浅野家の世子ではないか。伯爵家の男どもが皆顔を揃え、家を取り仕切る主母である浅野夫人の姿もある。なかなか大掛かりな騒ぎのようだが、一体何事が起こったのだろう。まずは様子を見ようと脇に立って成り行きを見守ることにした。さくらったら、事前に一
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第1594話

浅野家の面々が私の言葉を聞いた時の反応を見れば一目瞭然だった。皆、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。都の権力者たちの輪に入れてもらえず、こんな基本的なことさえ知らないのだ。浅野夫人が驚愕している隙を突いて、私は更に冷たく言い放った。「都の誰もが知っていることよ。うちの楽章が最も可愛がっているのが文絵なの。今回これほどひどい目に遭わされて、楽章は心を痛めている。私が必死になだめたからこそ、今日のところは太皇太后様への直訴を思い留まってくれたけれど。でも私がここまで来たからには、人に手を上げた者は自分から名乗り出て罰を受けなさい」楽章は都で数多の肩書きを持っているが、最も広く知られているのは私・沢村紫乃の夫であり、万華宗の弟子であり、兵部の武器庫司であり、万華宗の都における事業の主人であることだ。彼と親房家の血縁関係は意図的に表に出さないようにしているが、肝心な時に持ち出すのに差し支えはない。虚実入り混じったこれらの身分の中で、太皇太后様との縁を持ち出しても誰も疑わないだろう。なにしろ太后様は万華宗の菅原陽雲を最も敬愛しておられるのだから。言い終えると、私も勝手に椅子を見つけて腰を据えた。表情はさくらと寸分違わぬ厳然たるものだった。この時になって、浅野家もようやく事態を理解した。摂政王妃が自ら玄甲軍を率いて浅野世子を連行したのも、文絵の件での報復が目的だったのだ。浅野夫人は夢にも思わなかっただろう。文絵にこれほど強力な後ろ盾があったなどと。「あら、すべて私が悪い者どもの讒言に惑わされて、愚かな真似をしてしまいました」浅野夫人は慌てて前に出て平謝りした。「私が必ずや下の者どもで余計な口を利いた女中どもを厳しく処分し、文絵お嬢様には必ずや名誉を回復して差し上げます。すぐにでも謝罪に参りますし、お嬢様をいじめた者どもは一人たりとも見逃しません」私はゆっくりと口を開いた。「処分する気があるなら、わざわざあの子の目を汚すこともないでしょ。見れば腹を立てるだけよ。伯爵家でお手が回らないっていうなら、ちょうど摂政王妃が人を連れて来てくれてるんだから、浅野世子を処分する時に一緒にやってもらえばいいじゃない」浅野伯爵は慌てて同意し、一緒に打擲すれば、それで一件落着だと言った。浅野夫人も急いで例の女中や下人どもを呼び出し、さくらと私の処分に委
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第1595話

ここでようやく、さくらの真意が読めた。浅野夫人が親房家であれだけ醜態を晒した以上、当然親房家へ詫びを入れに行かねばならない。そして浅野世子の不品行を材料にして浅野家の弱みを握れば、今後文絵が嫁いできても、粗末な扱いを受ける心配はない。後ろ盾も弱みも、両方手に入れたというわけだ。とはいえ、私は今日、腹いせをしに来たのだ。狙いは浅野夫人その人なのだから、このまま引き下がるつもりはない。鉄男たちが皆立ち去るのを待ってから、私は浅野夫人に向き直った。「さっき清廉な名門とおっしゃいましたけれど、随分と面の皮が厚いのねぇ。どこの名門が良家の女性を誘拐したり、他人の家まで押しかけて暴れ回ったりするのかしら?」私は一息ついて続けた。「今日は本来なら、あなた方浅野家の化けの皮を剥がして大騒ぎにしてやるつもりだった。でも敏貴さんが文絵ちゃんを本気で愛していることを思えば、あまり醜い騒ぎにして二人を困らせたくはないの」浅野夫人の顔が青ざめていくのを見ながら、私はさらに言葉を重ねた。「それでも文絵が受けた屈辱に決着をつけないまま引き下がるつもりはないわ。私が手塩にかけて育てた子を、あなたたちに虐げさせるわけにはいかない。伯爵家だからって権力を笠に着て人を虐めるなら、こちらも権力で報復するまでよ。たかが小さな伯爵家なんて、私の眼中にはないのよ」最後に釘を刺した。「浅野世子の件で被害者に許してもらうのは勝手にしなさい。でも文絵への償いが不十分なら、私が必ず大事にしてやる。一度大事になれば、あなた方の大切な爵位が保てるかどうかも怪しいものね。覚えておきなさい」浅野夫人は私の言葉で顔を真っ赤にして首筋まで紅潮させていたが、一言も言い返すことができなかった。私は都でこれまで長年、基本的には道理を重んじてきた。相手が先に道理を無視して来ない限りは。浅野世子の良家女性誘拐事件は動かぬ証拠があり、本人も禁衛府に送られている。私が本気で騒ぎ立てれば、必ずこの件を材料に使うことを、彼らも理解しているのだろう。浅野夫人は黙りこくったまま、浅野伯爵がひたすら平謝りに徹した。二人の子は元々天が結び合わせた仲だったのに、夫人が他人の無責任な噂に惑わされて親房家に偏見を持ってしまったのだと弁解した。浅野伯爵には決定権がある。もし浅野夫人が不服なら、浅野伯爵には彼女を従わせる手立てがあ
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第1596話

浅野伯爵は楽章のところで散々冷たくあしらわれた末、結局は敏貴を使者に立てることになった。敏貴自らが頭を下げてようやく、浅野世子は釈放された。一件落着した後、彼らは楽章に対して恐縮至極といった様子だった。故意に弱みを握られたと分かっていても、どうしようもない。自分の息子が不品行を働き、現行犯で捕まったのだから。敏貴は母親が文絵を困らせたことを知ると、その時は何も言わなかったが、結婚後すぐに別居を申し出た。家族と決裂したわけではない。大和国の官吏査定では人格が最重視され、中でも仁孝が第一とされる。不孝の汚名を着せられれば、官界での将来は絶望的になる。分家の理由も至極もっともなものだった。立身出世が肝心で、文章生試験が迫っているのに、大家族では気が散って勉強に集中できないからというのだ。敏貴は元来孝行息子だったし、今回浅野夫人があれだけの騒動を起こして文絵の後ろ盾の強大さを骨身に染みて知ったこともあって、さほど反対もされずに分家が許された。この件は内輪で静かに処理され、世間に波風を立てることもなく、陰口を叩かれることもなかった。当初は文絵の嫁入り道具の屋敷に住む予定だったが、浅野夫人は息子が肩身の狭い思いをするのを心配して、自分の嫁入り道具の銀子で小さな屋敷を買い与えた。新婚夫婦は蜜月そのもので、見ているこちらまで嬉しくなるほどだった。敏貴には将来性がある。聡明で勤勉な青年で、若くして科挙に合格している。たとえ文章生に及第できなくても、自分なりの道を切り開いていくだろう。文絵の結婚は、夕美にとってかなりの衝撃だったようだ。彼女はしばらくの間、すっかり意気消沈していた。この数年、夕美は随分と陰口を叩かれてきたことだろう。さくらが言うには、女が過ちを犯してから立ち直るのは並大抵のことではないという。「放蕩息子の改心に金貨千枚の価値あり」とは言うが、「放蕩娘の改心に金貨千枚」などという言葉は聞いたことがない。それでも夕美は確実に変わった。何かあっても自分のことばかり考えるのではなく、家の世話を手伝い、工房でも働くようになった。工房は以前とは比べものにならないほど規模が大きくなり、離縁された女性たちを数多く受け入れている。夕美は三姫子と一緒に、彼女たちに読み書きを教えていた。深い学問は必要ないかもしれないが、文字と算術は
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第1597話

関ヶ原に来てもう一月が経った。ここで私は一体何をすべきなのだろうか。守の妻という名目上の立場にあるとはいえ、実際のところ私たちにはほとんど接点がない。彼は軍営で過ごすことが多く、たまに顔を見せに帰ってくる程度だ。そのおかげで、私には有り余るほどの自由時間がある。何か商売でも始めてみようか。関ヶ原は私の想像とは随分違っていた。辺境の地だから、きっと寒々しく物資も乏しいに違いないと思っていたのに、意外なことにここでは大抵のものが手に入る。もちろん、特別高価な宝飾品や佐賀錦、雲鶴緞子といった品は別だが。そうした贅沢品がまったくないわけではない。商隊が運んできた後、倉に保管されて平安京へ送られ、貴人や富豪に売られるのを待っている状態なのだ。関ヶ原の住民たちは、装身具を買う時も見た目の美しさを重視するだけで、高価かどうかはさほど気にしていないようだった。どんな商売が良いか考えているところだが、何を始めるにしても、まずは店舗を構えなければならない。そこで私は従者と侍女を連れて街を練り歩き、適当な店を探すことにした。関ヶ原へ来る際、三姫子姉様から当座の資金をいただき、蒼月姉様と紫乃からも心づけをもらった。元々私自身の蓄えもあるから、この土地で店を一つか二つ買うくらいなら十分すぎるほどだった。侍女の小春は十四歳の地元出身で、七つの頃に将来の嫁として他家に預けられた身の上だ。ところが嫁ぎ先の男子が重い病に倒れ、医療費を工面するため彼女は再び売りに出されることになった。本当に気の毒な境遇の子だ。二人を連れて街中を歩き回っていた時、私は本気で店舗を購入して商売を始めようと考えていたのは確かだった。ところが杏花小路を通りかかった時、私の視線はある廃屋に釘付けになってしまった。かなり大きな建物で、少なくとも今住んでいる場所よりもずっと広そうだった。ただし門の前には雑草が生い茂り、腐った扉の片方が外れて落ちている。門の隙間から中を覗くと、人の背丈ほどもある草が生えていた。地元出身の従者が教えてくれたところによると、ここはかつて書院だったのだそうだ。戦乱の時代には誰も学問どころではなく、皆生きることに必死だったため、この書院は放置されてしまった。後に学問所を再興する際、朝廷から資金が下りたおかげで新しい建物が別の場所に建てられ、こちらは
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第1598話

時として生徒たちに人生と向き合う勇気について、過ちに正面から立ち向かうことについて教えながら、自分自身ができていないのだから。この数年間、彼とはほとんど顔を合わせていない。彼が出席しそうな場には、意識的に近づかないようにしてきた。まだ強情だった頃、三姫子姉様から厳しく叱られたことがある。十一郎に借りがあるのに、と。でも当時の私は納得できず、むしろ不当だと感じていた。今思えば、何が不当だったというのだろう?誰が私に借りを作ったというのだろう?天はこれほど私に恵みを与えてくれているというのに。全て自分で台無しにしてきただけなのに。何度も便箋を広げては、彼に心からの謝罪を綴ろうと試みた。けれど筆を取った瞬間、紙に墨が落ちても、一文字として書き進めることができない。突然の謝罪の手紙など、奥様を不安にさせてしまうかもしれない。守にも余計な心配をかけるだろう。今の私たちは夫婦とは名ばかりの関係だとしても、この穏やかな日常を壊したくはなかった。その間、守が何度か帰宅した。書斎に捨てられた紙の塊を目にしたのだろう、ある日酒を温めさせ、小皿に料理を並べて私を誘った。以前から彼が戻る時は一緒に食事をしていたが、会話はほとんどなく、ましてや酒を酌み交わすなど初めてのことだった。何か話があるのだと察して、私は彼に酒を注ぎ、自分の杯にも注いで彼の言葉を待った。一杯飲み干した彼は、満足そうに杯を置くと私を見据えて尋ねた。「このところ帰る度に、書斎に便箋が重ねてあるのを見かける。筆を取りかけては結局書かずじまい……一体誰宛ての手紙なんだ?」関ヶ原に来てから、私たちの間の会話は少なかった。ただし、話す時は用件を率直に伝え合い、回りくどいやり取りは一切しない。そのやり方が気に入っていた。余計な誤解を避けることができるから。だから私も隠さずに、胸の内をすべて打ち明けた。話し終えると、こう付け加えた。「他意はないの。ただ、生きているうちに犯した過ちを全て認めて、伝えるべき謝罪の気持ちを相手に届けたい……そうすることで、自分の心に安らぎを得たいのよ」日に焼けた彼の顔に困惑の色が浮かんだ。「都にいた時になぜ直接言わなかった?」私は溜息をついた。「怖かったの」彼は声を上げて笑い、白い歯を見せた。「確かにな。面と向かって謝るには相当な勇気がいる
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第1599話

相変わらず紫乃よ。今度も愚痴らせてもらうわ。今回は私の夫について。楽章、あなたって本当にとんでもない人ね。結婚前にきちんと取り決めたはずでしょう?これから私が何をしようと、口出しも説得もしない、参加もしないって。なのに結婚してたった一年で、その約束を完全に破って、一緒にやりたいなんて言い出すのだから。私がやっていることに、彼が関われるわけがないでしょう?万華宗の掟は厳格で、あの恐ろしい師叔様もいらっしゃるのよ。もし楽章を連れて首狩りに行くなんて知られたら、私は骨も残らないほど処罰されてしまう。でも彼ったら「俺だって元々武芸界の人間だ。義侠心で恩讐を晴らすのが武芸界の流儀、それには他人の恨みも含まれる」なんて言うの。それに「こっそりやれば万華宗にはバレない」ですって。でも楽章、あなたは兵部に勤めているのよ?一応は朝廷の官吏でしょう?それなのに武芸界の義侠心なんて言えるの?私がしていることは、さくらにだって全部は話していないのよ。もし彼女が知っているとしても、見て見ぬふりをしてくれているだけ。立場が相反するからよ、分かる?私、沢村紫乃は官の世界に足を踏み入れない。自分のやりたいことだけをやって、どんな結果も一人で引き受ける。長年にわたって京都奉行所に数多くの手がかりや証拠を提供してきた。本当に証拠が見つからない場合に限り、私自身の手段で犯行過程を聞き出している。その過程が事実と合致すれば、冤罪はほぼない。もちろん紅羽が調査を手伝ってくれているおかげだ。私一人では調べきれないことも多いから。ただし紅絡は調査の手伝いのみ。それ以外は全て私がやっている。楽章もさくらも、その立場上どうしても陽の当たる場所に立たなければならない。私は闇に身を潜めているしかない。白と黒の間に灰色が許されるのかは分からない。でも法律が罰せるのは、証拠を残して捕まった者だけ。残りの連中は天罰を待てとでも言うの?それなら私が彼らの天罰になってやる。楽章が私の考えに賛同してくれるのは嬉しい。でも一緒に行動したがるのは困る。彼の理屈は、夫婦は運命共同体だというもので、兵部では武器開発をしているだけだから、昼間は武器奉行、夜は音無楽章として、音無楽章が何をしようと兵部には関係ないというもの。押し問答が続いて、私も口では勝てず、根負けしてし
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第1600話

とはいえ、私のような娘は男性にかなり人気があった。梅月山では私を慕う者が大勢いて、青い髭がうっすら生え始めた少年たちが、恥ずかしそうに恋文を渡してくる。それも次から次へと。私は一通も読まずに、彼らの目の前で全て破り捨てた。当時はまだ誓いの論理を整理できていなかったから、心の中には「結婚しない」という一言が大きく横たわっていたのよ。彼らの前で恋文を破り捨てる自分が残酷だということは分かっていた。でもごめんなさい。生涯恋愛沙汰に関わらないと決めた女として、私は冷酷でなければならなかった。彼らに一片の幻想も抱かせるわけにはいかない。今泣くのは、後になって深く嵌って身を引き裂かれるような思いをするよりもずっとましだから。さくらに渡してくれと泣きべそをかいて言われても、私は動じなかった。ふん、まだ男になってもいないのに、もう男の駆け引きを覚えているのね。梅月山で私の一番の遊び仲間は、もちろんさくら、饅頭、あかり、棒太郎の数人だった。そうそう、一時期あかりの兄弟子も私たちと遊んでいたけれど、後に下山して俠客の道を歩むことになった。でもあかりが言うには、失恋の傷を癒しに行ったのだとか。青春時代には面倒なことはそれほどなく、山野を駆け回る喜びと……武術稽古の苦痛があるだけだった。最初は楽章とそれほど親しくなかった。彼はさくらの五番目の兄弟子で、私とさくらが和解してから交流が増えた。この人のことを今振り返って言うなら、かなり気取っていたわね。私たちが集まっても、武術の型や拳法、剣術、足技、刀法の話しかしないのに、彼だけは扇子を手に持って、詩や歌を口ずさんで文才をひけらかしていた。梅月山で扇子を振りながら詩を詠んでいいのは、深水兄弟子だけよ。彼は本当に書物から抜け出てきたような美しい書生で、温厚で上品だった。楽章は多少なりとも猿真似をしていたのね。よく山を下りては、私たちに珍しい物を持ち帰ってくれたし、芝居を見に行っては話を聞かせてくれた。面白い話や不思議な話もたくさんあって、私たちは喜んで聞いていた。一時期、私は妖怪や幽霊の話が特に好きで、ちょうどその頃彼が山から持ち帰る話は全てそんなものばかりだった。ただ、そういう怪談話は他の皆が嫌がって、私だけが彼にせがんで聞いていた。彼の話し方には独特の調子があって、自
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