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All Chapters of 桜華、戦場に舞う: Chapter 1611 - Chapter 1620

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第1611話

木漏れ日が差し込む中、鬱蒼と茂る枝葉の隙間から、白い小脚がのんびりとぶらぶら揺れているのが見え、何とも長閑な光景だった。彼女の本名は影森冴子。その名は皇族の系図に刻まれた格式あるものだった。しかし後年、「室美」という幼名を持つことになった。母親が彼女のあまりに活発でおしゃべりな性格を心配し、「少しは落ち着いてほしい」と願ってつけられた名だという。冴子本人は、そんな名前を付けたところで何の効果もないと思っていた。そもそも「室美」なんて響きも気に入らない。「部屋に閉じこもる美人」という意味だろう?せっかくこんなに長い足があるのに、どこへも行かず、ただ部屋でぼんやり過ごすだけだなんて。それじゃあ、気がおかしくなってしまうじゃないか。「おやまあ、ここにいらっしゃいましたか、姫君様。お探ししましたよ」お珠は樹の下から見上げて、呆れたような、それでいて笑いをこらえているような表情を浮かべた。「早く降りてきてくださいまし。親王様と王妃様がお探しですよ」「お珠おばさん、何の用なんです?」樹上から、朗らかで、どこか満ち足りたような澄んだ声が響いてきた。「王妃様が梅月山へお出かけになるそうで、あなたも一緒に連れていくとおっしゃっていますよ。どうされます?行かれますか?」とお珠が言った。冴子はそれを聞くと、するりと素早く幹を滑り降りてきた。両方の肩には、二匹の白い愛猫がぴたりと張り付いている。彼女は満面の笑みで言った。「本当?じゃあ急がなくちゃ」その二匹の猫、一匹は「玄雀」、もう一匹は「白虎」という名を付けられていた。昨年、彼女の元へやってきて以来、冴子はそれはもう大切にしており、しつけも行き届いていて、実に聞き分けがよかった。さくらと玄武が小広間にいると、娘がぴょんぴょんと弾むように駆けてくるのが見えた。しかし、肩に乗った二匹の猫だけは微動だにせず、その姿に思わず、二人して笑みがこぼれた。冴子は二人の元へ駆け寄ると、「お母様!」「お父様!」と声を上げた。「そんな状態でくっつかれて、暑くないの?」さくらは懐紙を取り出し、彼女の額の汗を拭い、髪についていた木の葉をそっと取り除きながら、呆れたように言った。二匹の猫は、それまで目を閉じて微睡んでいたが、さくらの声が聞こえた途端、目を見開き、琥珀色の瞳をさらした。だらしなかった姿勢が、途端にぴ
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第1612話

木々に霜が降り、梅の花が幾度となく咲き誇る季節が巡ってきた。冴子には武術に対する桁外れの才能があった。これは、玄武とさくら、二人の良いところを全て受け継いだかのようだった。菅原陽雲は、梅月山の数ある弟子たちの中で、冴子が最も抜きんでた才能の持ち主であると、胸を張って語ることができるほどだ。皆無幹心ですら、この事実を否定することはできない。冴子が「私とお父様、どちらが強い?」と尋ねた時も、皆無は曖昧に答えるしかなかった。「どちらも甲乙つけがたい。それぞれに長所がある」と。冴子の武術が今日の域に達したのは、決して万華宗の功績だけではない。梅月山にある各宗門の教えを、彼女は全て吸収していったのだ。初めて梅月山にやって来た頃の彼女は、まるで飾られたかのような愛らしい女の子だった。雪のように白い肌は玉のように滑らかで、その笑顔は見る者全てを魅了した。誰が見ても、その愛らしさに心を奪われずにはいられなかっただろう。おしゃべりで、誰とでもすぐに打ち解ける天性の人懐っこさがあり、その口からは甘い言葉が絶えなかった。各宗門の師範たちは、彼女の可愛らしさにすっかり骨抜きにされ、惜しみなく奥義を伝授していった。元来、破天荒な性格だった冴子だが、武術の修練に没頭し、内功の心法を身につけていくうちに、次第に落ち着きと穏やかさが増していった。十五歳で成人の儀を迎えた年、彼女は京に戻った。屋敷では、その成長を祝う盛大な成人の儀が執り行われた。盛大な儀式にふさわしく、お祝いの品もまた山のように彼女の部屋へと運び込まれた。さくらは、その中でも一本の赤い鞭を冴子に贈った。彼女は飛び上がらんばかりに歓喜した。この赤い鞭は長年、彼女が欲しくてたまらなかったものだ。以前、母に借りて遊ばせてほしいとせがんだこともあったが、その時は頑なに断られていた。まさか、このように贈られるとは夢にも思っていなかったのだ。冴子は母に抱きつき、チュッと音を立てて頬にキスをした。「お母様、この赤い鞭は、私にくださったからには、もう返せませんからね!」さくらは呆れたように笑った。「もう貴女に渡したものなのだから、当然、貴女のものよ。そういえば、紫乃おばさまからは何をいただいたの?もう開けてみた?」「まだ開けてないよ。全部、庭に置いてあるの。お母様、一緒に贈り物を開けてくれ
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第1613話

夫婦で昔を語り合う今、二人の胸にはただただ温かい愛情が満ち溢れていた。特にさくらは、あの頃、この結婚はまるで無理矢理押しつけられたものだと感じていたのに、まさか今日これほど幸福に恵まれるとは、夢にも思わなかっただろう。本当に、人生とは予測不能なものだ。その時、まるで旋風のように一人の人物が戸口から駆け込んできた。その姿をはっきりと捉える間もなく、彼女は玄武の胸元に飛び込んだ。声には隠しきれないほどの興奮と喜びが滲んでいた。「お父様!成人の儀のお祝い、もう最高!ありがとう、お父様、世界で一番大好き!」玄武は言った。「またそんなに早とちりして。もう立派な大人のお嬢さんなんだから、もう少し落ち着きなさい」口ではそう言いながらも、その瞳には甘やかすような色が浮かんでいた。今日の成人の儀で身につけた簪がずれないように整えてやり、そして続けた。「あの紅玉の髪飾りは気に入らなかったか?お前の母上が、丹精込めて選んだものなんだが」「好き!どれもこれも大好き!」冴子は、愛しいものにはとことん夢中になる性分で、顔中の喜びを表すかのように、目元までくしゃっと笑顔にした。玄武は娘の笑顔を見つめながら、一瞬、心がぼんやりとした。娘は成長するにつれて、ますますさくらに似てくる。かつて梅月山でさくらと出会った頃、彼女はいつもこんな風に笑っていた。だが、その後は滅多にその笑顔を見ることはなかった。たとえ喜んでいる時でも、ただ微かに微笑むだけで、本当に心から楽しんでいるようには見えなかったのだ。今は随分と良くなった。時折、心から笑い飛ばすこともある。おそらく、時間の流れが彼女の心に降り積もり、生々しい傷口を覆い隠してくれたのだろう。けれども、たとえ覆い隠されたとしても、その傷は彼女の一生を共にするものだ。いかなる愛情をもってしても、それを完全に埋めることはできない。夫であれ、友であれ、娘であれ、甥であれ、両親や兄姉の代わりには決してなれないのだ。これらのことを思い出すたび、玄武はさくらを深く憐れんだ。「お父様、どうしたの?ぼんやりして」冴子が尋ねた。玄武は気を取り直し、冴子を座らせてから尋ねた。「今しがた、お前の母上とお前の縁談について話していたところだ。お前の考えを聞かせてほしいんだが」冴子は飛び上がるほど驚き、目を大きく見開いた。「もう
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第1614話

恵子皇太妃には、そう言うだけの底力があった。ここ数年、特に大きな出費もなく、収入は途切れることがなかった。朝廷からの恩賞、各家から贈られる贈り物、そして今では皆一人前に自立した子や孫たちが、競って孝行の品を贈ってくる。特に紫乃は、皇太妃への孝行となれば、決して手を抜かなかった。この唯一の孫娘に対しては、惜しむ気持ちなど微塵もなかった。彼女がしょっちゅう口にしていたのは、「私が死んだら、すべての財産は孫娘のものになる」という言葉だった。今、母娘二人が皇太妃の元を訪れると、彼女はまた冴子が梅月山で武術を学ぶことについて語り始めた。「悪いこととは言わないけれど、梅月山へ行くにしても、あまりにも期間が長すぎるわ。年に数度しか帰ってこられないなんて。それに、将来はもっと外の世界へ飛び出したいなんて言うでしょう?こんなか弱い娘が、外で修行だなんて、どうしたものか。私は、玄武には逆らえないし、彼は人の心が分からない頑固者だから、何を言っても通じない。もうどうすることもできないわ」「お祖母様、私はお淑やかな娘ではございませんわ!見てください、この拳を!」冴子は拳を突き出し、恵子皇太妃の前でひらひらと動かしながら、得意げに言った。「この一撃を食らえば、イノシシでさえ気絶するほどですのよ!」恵子皇太妃は、寂しげにため息をついた。「普通のお嬢さんの手ときたら、琴を弾いたり、詩を詠んだり、せめて算盤を弾いて家計を整理したりするものよ。なのに、あんたはイノシシを殴る手に使っている。この家では、そんなに猪肉に困っているとでもいうのかい?」「お祖母様!」甘えん坊の冴子は、恵子皇太妃にべったりと抱きつき、両腕でその首を抱きしめながら、にっこりと無邪気に笑った。「琴を弾いたり詩を詠んだりなんて、ありふれてて珍しくもないんでしょ?でも、イノシシを拳一発で気絶させられる孫娘なんて、私だけじゃない!ねぇ、誇らしくない?」「別に」皇太妃は、どれほど可愛がっていても、そう簡単に騙されるような相手ではない。「他の子がぶつかり稽古をするのはまだしも、たった一人の大切な孫娘が、どうしてそんな危ない真似をせねばならぬ?怪我をするなどとんでもない。ほんの少しでも傷をつければ、それだけで私は胸が張り裂けそうになるわ」そう言う時、彼女は恨みがましい目でさくらをちらりと見た。それは、冴子を
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第1615話

成人の儀は、京での盛大さに加え、梅月山の万華宗でも改めて行われた。これが、菅原陽雲が京での成人の儀に参列しなかった理由でもある。彼の言い分はこうだ。「わが梅月山で成人の儀を執り行えないとでも言うのか?わざわざ都まで出かけて、見知らぬ人々と挨拶などして……」万華宗もこれほど騒がしいのは久しぶりだった。陽雲は、まるで吊るされた爆竹の束のような真っ赤な長袍をまとって、宗主の正座にゆったりと座り、師弟である皆無幹心が客をもてなす様子を、穏やかな笑みを浮かべて眺めていた。彼はあまり人と交流するのを好まず、特に歳を重ねてからは、社交をますます避けるようになっていた。だが、時として、賑やかな雰囲気を好み、他人が楽しむ様子を見るのも好きだった。今のように、皆が彼の愛孫弟子である冴子を取り囲む姿を見ていると、心の中には温かい安堵感と満足感が自然と湧き上がってくる。しかし、同時に別の、わずかながら寂しげな感情もまた、ゆっくりと育っていた。彼は、自分の愛弟子であるさくらのことを憐れんだ。十五歳の頃が、さくらの人生における転換点だった。あの喜びに満ちた無邪気な少女が、悲しみを秘めた、口数の少ない大人の女性へと変わってしまった。幸いにも、今は彼女も幸せに暮らしている。そして、目の前にいるこの小さな娘は、きっと伸び伸びと自由に、そして幸せに生きていけるだろう。母親が歩めなかった場所を、この子が歩む。母親が試せなかった生き方を、この子が試すのだ。宴席の時、陽雲は酒を相当飲んだようで、次第に気持ちがほぐれてきた。各宗門の宗主たちと、たわいもない話に興じている。今の年齢になると、世間の揉め事にはあまり関心がなくなり、話はもっぱら弟子たちの育成に及んだ。梅月山の弟子たちは、まるで野に生える韮のように、代わる代わる育っては、一人前になると山を下りてそれぞれの生業を立てていく。そしてまた、新たな弟子たちがやってくる。師匠たちの育成方法もまた、一辺倒ではなく、年齢や経験の積み重ねと共に変化していった。さくらの世代の人々は、今や冴子の師伯や師叔といった立場にあり、梅月山に残った者たちは、この成人の祝宴に参加していた。彼らは冴子の姿を見ながら、時の流れの早さを改めて感じていた。あの頃、冴子の母親も、まさにこのくらいの歳だったではないか、と。冴子は梅
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第1616話

そうして、二人の若い娘は、馬を駆り、一路関ヶ原を目指した。冴子と双月の仲は非常に良かった。双月が万華宗に来たばかりの頃、遠慮してあまり食事をしない双月の器に、冴子がしきりに料理をよそってやったものだ。双月は、「貧しい生活には慣れっこでしたから、今の毎日が夢のようです。まるで蜜のように甘い夢です」と語った。冴子は笑顔で、「じゃあ、その夢を一生見続けてやるのよ!」と返していた。二人は関ヶ原を目指す旅路を、焦らず、まるで遊びのように楽しんだ。訪れる土地ごとに、地元の名物を味わい、風土に溶け込み、時には賑やかな婚礼にも飛び入り参加し、笑い合い、騒ぎながら、これ以上ないほど楽しい時間を過ごした。関ヶ原に到着した時には、すでに雪が降り積もる冬の盛りとなっていた。冴子はまず曽祖父に謁見した。老人は白髪にひげを蓄えてはいたが、相変わらず矍鑠としており、冴子は恭しく頭を垂れた。思わず口元が緩む佐藤大将は、笑顔で冴子の道中のんびりしていたことを咎めた。手紙で彼女が来ると早くに聞いていたのに、真冬になってようやく到着した、待ちくたびれた、と。冴子が道中の出来事を一つ一つ彼に語って聞かせると、佐藤大将は親指を立てて笑いながら言った。「そうじゃ、それでこそ良い。もっと色々なものを見るべきじゃ。わしは長年ここ関ヶ原に閉じ込められ、あちこち行くことも叶わなかった。だが、悔いは全くないぞ。この関ヶ原は、何度見ても飽きることがないからな」冴子は言った。「それは当然ですわ。長年お守りになってこられたのですから、ここはひいおじい様の家も同然ですもの」「うむ、そうじゃな」佐藤大将は髭を撫でながら頷いた。ここが、自らの骨を埋める場所となるだろう。死ぬ時も、ここで死にたい、と。彼は冴子の額の髪を優しく撫で、慈愛に満ちた眼差しで言った。「あんたらがこれだけ色々な場所を巡ってきたのなら、この関ヶ原も隅々まで見て回らねばならんぞ」「もちろんですわ!」冴子は力強く頷いた。「関ヶ原の一寸たりとも、私がこの足で踏みしめてみます。ここはひいおじい様が一生涯、守り抜いてきた場所ですもの」佐藤大将は満足げに微笑んだ。自分はもう老いぼれで、棺桶に片足突っ込んだような身だ。だが、この一生で一つの大仕事を成し遂げた。それだけでもう、役目を果たしたと言えるだろう。日南子は、冴
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第1617話

冴子は翌日、双月を伴って関ヶ原をあちこち巡り歩いた。日南子は本来、案内役を立てていたのだが、冴子はそれを辞退し、「気の向くままに散策したい」と告げたのだ。関ヶ原は今、二国が交錯する国境の町となっており、多様な文化が混じり合っている。目新しいものが所狭しと並び、二人はすっかり目を奪われていた。平安京でしか味わえないはずの軽食が、ここ関ヶ原でも提供されていて驚いた。関ヶ原を歩いていた冴子は、そこで偶然にも「伊織屋」の看板を見つけ、ひどく首を傾げた。工房自体はあちこちにあるものの、「伊織屋」という名を冠しているのは、京の都にある本家だけのはず。それなのに、ここにも存在するとは一体どういうことだろう、と。訝しげに帰宅して日南子に問いただしたところ、この「伊織屋」は親房夕美が私財を投じて開いたものだという。都の本家とは異なり、こちらは刺繍専門の工房。職人たちは工房内で作業をしても良いし、自宅で仕上げた作品を持ち込んでも買い取ってくれる、という仕組みになっていると日南子は説明した。関ヶ原には、京と同様に離縁された婦人が存在した。しかし、都ほど厳格なしきたりがないため、その多くは実家に受け入れられる。行き場を失った者だけが工房に身を寄せる。だが、実際には、そこに住み着き、生活する者はほとんどいないという話だった。そのため、関ヶ原の伊織屋は、婦人たちが少しでも家計の足しになるよう、その機会を提供する場としての意味合いが強いのだ。というのも、平安京の商人がここの品物を買い求め、自国で売ることを非常に好むからだ、と。冴子はもちろん、夕美のことは知っていた。ただ、彼女はこれまであまり関心を払う機会がなく、加えて常に梅月山で過ごしていたため、夕美がこの関ヶ原に身を置いていることなど知りもしなかった。あるいは耳にしたことはあったかもしれないが、忙殺されて記憶に残っていなかったのだろう。「それじゃあ、夕美さんって、すごくたくさん儲けていらっしゃるんじゃない?だって、人の作ったもの売ってあげるんだから、きっと……いくらかは稼いでるでしょ?」と、冴子。「いや、それが違うんだよ。私が調べてみたところによるとね、彼女は、ごく僅かなお金しか受け取っていないらしい。工房の賃料を賄うために使う分だけで、大半は刺繍職人たちの収入になっているそうだよ」「へ
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第1618話

美州では、二人は多くの地元の友人たちと親しくなった。皆、路地を往来する行商人たちで、陽南郷ならではの独特の品々を取り扱っていた。その品々は主に子供向けの玩具であったが、冴子は「自分は大人だから」と口では言いつつも、実はそういう子供っぽいものが大のお気に入りだった。中でも彼女は、舞獅子を模した小型の獅子頭を二つ買い求めた。実に愛らしい工芸品である。陽南郷のあたりでは、舞獅子の風習が根付いている。正月や祝い事があると、人々は舞獅子を招き、特に正月は賑わいを増す。美州で年を越した際も、盛大な龍舞や獅子舞が披露され、二人はすっかりその魅力に取り憑かれてしまったほどだ。年が明けると、二人はいっそ家への手紙を京と梅月山へと書き送り、旅を続けた。光州に到着したのは二月で、気候は寒くもなく暑くもなく、まさしく旅には最適な季節だった。まず冴子は、陽南郷の転運使である厳田平を訪ね、姫君の令牌を提示した。厳田はたちどころに彼女を賓客として厚遇し、姫君邸の建設状況を見せるべく案内してくれた。姫君邸は光州の中心軸上に位置し、役所からもほど近い場所にあった。広大な敷地には、建設を急ぐ職人たちが汗を流していた。厳田曰く、入居できるまであと半年はかかるだろうとのこと。そこで冴子は、光州で家を借りて住むことにし、厳田には、この件を役人たちに知らせないよう懇願した。人目を気にする生活は避けたい、という思いがあったのだ。厳田は二人を食事に招き、陽南海道が現在置かれている状況について詳しく説明してくれた。陽南海道の駐屯軍は「冷刃軍」といい、本来は殿前司に属していた。数年前、燕良親王が謀反を起こした際、賊徒が各地で蜂起し、朝廷は地方駐屯軍と玄甲軍を派遣して鎮圧に当たったという。その後、玄甲軍から百名がここに残り、兵を募って冷刃軍を創設した。当初は美州に駐屯していたが、今や光州は海外との交易が盛んになった結果、多くの海賊や山賊が出没するようになったため、駐屯軍は美州から光州へと移転したのだ。以前、冷刃軍の統制司を率いていたのは、玄甲軍の甘木将軍だった。甘木将軍が亡くなった後、摂政王が伊吹正武を統制司に抜擢したという。正武の祖父はかつて上原家軍の部将として、洋平大将と共に邪馬台で戦死した人物だ。正武の父は美州の知事を務めていたが、正武は文武両道に秀で、
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第1619話

厳田は、若い陽南姫君であれば、そして側に智謀の士もいない小娘であれば、手玉に取るのは容易いだろうと踏んでいた。まさか、このようにやんわりと拒絶されるとは、思いもよらなかった。戦船建造の嘆願書を提出して久しいが、いまだ返答はない。彼らは焦燥に駆られていた。近年、朝廷は軍事費に惜しみなく金を投じてきたゆえ、この件も難なく承認されると思っていたのだ。しかし、まさかこれほどまでに滞るとは。たかが姫君邸ひとつ建てるのに、言えばすぐに実現するのに、なぜ数隻の戦船ごときで、これほどまでに躊躇するのか。厳田の心中には、鬱積した不満が渦巻いていた。とはいえ、彼は実利を重んじる性格ゆえ、変えられないことに無理に抗うのは得策ではないと弁えていた。人を敵に回しても何の得にもならない。いっそこの娘を通じて事を進めてはどうかと算段していたのだ。柔らかな拒絶に遭ったものの、彼は決して落胆しなかった。陽南姫君を怒らせてはならないと心得ていたからだ。彼女が助けてくれなくとも構わない。しかし、もし彼女を怒らせてしまい、摂政王に讒言でもされようものなら、戦船建造の望みは永遠に潰えるだろう。厳田は、二人を手厚くもてなし、後は自由にさせてやった。ただ、万が一に備え、密かに部下を付けて、彼女たちの動きを監視させていたのだ。しかし、まさか自分の差し向けた部下が、たやすく冴子に撒かれてしまうとは、思いも寄らなかった。結局、冴子がどこに滞在し、どこに家を借りたのか、厳田には全く分からなかったのである。厳田はやや緊張していた。姫君が光州に入ったからには、もしここで何かあれば、摂政王の咎めを受けることになる。それは厳田には耐え難いことだった。彼の心の中には、不満が募った。護衛も付けず、たった一人の侍女を連れてくるなど。光州には不慣れで、言葉も通じない。土地勘もないのに、もし誰かに目をつけられたり、風俗や慣習に触れてしまったらどうなるのか。ましてや、彼女の身分を知らぬ者が相手では、一体どんな災難に遭うことか。本当に勝手な娘だ。彼は伊吹正武を呼び出し、この件を告げると、巡視の際に彼女たちに気を配るよう命じた。正武は今年二十歳。顔立ちはすっきりとした涼やかな印象だが、いかにも武人らしいがっしりとした肩幅に引き締まった腰、そしてどこか冷徹な光を宿した瞳が特徴的だ。厳田が陽
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第1620話

年が明け、いよいよ陽南江から貨物が運び出される季節となり、港は活気を帯び始めていた。南海県は絹織物の産地であり、いずれも高価な品々だ。これまでは積み込みの際、事前に役所へ届け出て、役人がその周辺を警護していた。賊の襲撃を避けるためである。だが、ここ一、二年、賊の出没がめっきり減ったことで、一部の商人は手間を省くようになっていた。役人が護衛を配置するまでには、最低でも一、二日を要し、その分船の積み込みが遅れるからだ。彼らは危険はないと判断し、そのまま貨物の積み込みを命じたのである。結果として、船が陽南湾を出た途端、五、六隻のボロボロの船が接近してきた。船上からは一群の賊が飛び出し、素早く鉤付きの縄を商船に投げつけ、そのまま縄を伝って素早く乗り込んできた。その間にも、一隻の漁船が商船にぐんぐんと近づいていた。船頭の他には、たった二人。それが冴子と双月だった。二人は、くたびれた粗末な衣服を身につけ、下働きのような扮装で、すでにこの港に三、四日滞在していた。厳田から賊の横行について耳にして以来、彼女たちは港に紛れ込み、実態を調査していたのである。先ほど商船が荷を積み込んでいる最中、冴子は不審な者が物陰からあたりを窺っていることに気づいた。官兵の姿もない。これは賊が動き出す、と直感した冴子は、漁船を借りて追跡していたのだった。海賊たちが船に乗り込む様子を冴子が目にした途端、双月を伴って軽身功を駆使し、一気に飛び移った。船上の人々は不意を突かれたかと思いきや、すでに戦闘が始まっていた。そして、海賊の数は非常に多いものの、その中に二人、際立って勇猛果敢な者がいた。彼らの武術は相当なもので、次々に賊を打ち倒していた。冴子と双月も、すぐさま加勢に入った。海賊たちの武術はさほどでもないが、石灰を撒いたり、闇討ちを仕掛けたりと、卑怯な手口を多用する。しかし、それは一般の船員には通用するものの、冴子たちにとっては無力だった。身を翻すだけで、全ての攻撃を避けることができた。冴子は、黒衣の若い武人の身のこなしが並外れて優れていることに気づいた。その技は俊敏で、幼少の頃から武術を習得してきた証しだろう。二人の賊を片付け、もう一人に目をやった途端、冴子は驚愕に目を見開いた。「伯父様?」まさか、十一郎伯父様!?いつの間に?伯父様までこの
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