All Chapters of 離婚後、私は世界一の富豪の孫娘になった: Chapter 261 - Chapter 270

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第261話 基本な常識

鈴と悠生は、視線を交わした。二人の間に、言葉はいらないほどの暗黙の了解があった。その様子を見た佐々木は、ほとんど迷うことなく小田を引きずり出し、鈴の足元に突き飛ばした。「この大馬鹿者!鈴木くんを貶めるなんて、命知らずにもほどがある!」小田は顔を青ざめさせ、慌てて床から這い上がると、鈴の前で必死に頭を下げた。「社長……どうかお許しください!ほんの出来心だったんです……決して悪意があったわけじゃ……!」鈴は冷ややかに彼を見下ろし、表情ひとつ動かさなかった。追い詰められた小田は、今度は悠生に縋るように視線を向ける。「鈴木さん……お願いです、見逃してください……もう二度としませんから……」悠生はゆっくりとしゃがみ込み、口元に冷たい笑みを浮かべた。「……許してやってもいい。ただし、誰の指示か正直に言うならな」小田は一瞬、横に立つ佐々木をおそるおそる見上げたが、すぐに視線を落とし、すべてを自分の罪に背負い込んだ。「……誰の指示でもありません。鈴木さんが大きな契約を取ったのが妬ましくて……帝都から追い出してやろうと思っただけです」その言い訳に、悠生は冷ややかに鼻を鳴らす。小田のようなただのアシスタントに、そんな動機も権限もあるはずがない。「社長、鈴木さん……すべて僕一人の責任です。どんな罰でも受けます……」鈴は、これ以上追及しても無駄だと悟り、淡々と告げた。「それなら……会社を辞めてもらうわ」小田はその言葉に、逆に肩の力を抜き、安堵の表情を浮かべた。「ありがとうございます……社長、ありがとうございます……」佐々木はすかさず口を挟む。「社長、この件をそんなに軽く済ませていいんですか?」鈴は意味深な視線を向け、静かに問い返した。「では、あなたには何か良い案でもあるんですか?」佐々木は一瞬固まったが、すぐに笑みを作って取り繕う。「いやいや、社長がお決めになったことに異論はありません。ただ……小田は私の部下です。彼がこんなことをした以上、私にも責任があります。罰として、今月のボーナスと報酬を返上します」鈴は皮肉な笑みを浮かべた。「……さすがですね。立派な模範だこと」そして、冷たく命じた。「まだここにいるの?さっさと荷物をまとめて出て行きなさい!」佐々木が怒鳴りつけると、小田は慌
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第262話 最良のパートナー

悠生は、生まれて初めて「鈴木家の人間でよかった」と思った。「シンガポールのプロジェクト、うちだけで単独請け負うにはリスクが大きすぎる。俺の考えとしては、同等の実力を持つ会社と提携した方がいい。そうすれば、リスク分散になる」仕事の話になると、悠生の表情からはいつもの不遜さがすっかり消えていた。「浜白でうちと張り合える企業と言えば……安田グループか、MTグループ。中でもMTグループの実力は群を抜いてる」鈴は少し驚いたように眉を上げた。「……MTグループと組む、ってこと?」「そう。ベストな選択だ。ただ──」悠生は言葉を切り、ゆっくりと鈴を見た。「もう一つの選択肢がある。安田グループだ」「……安田翔平?」その名前を聞いた瞬間、鈴は軽く首を振って否定した。「安田グループは、ないわ。MTグループにしましょう」翔平とは、仕事でも私事でも、もう関わりたくなかった。「うん。MTグループなら確実に勝ちにいける。俺の方で接触してみる。ただな……あのグループの社長はかなりミステリアスらしくて、ほとんど表に出てこないみたいなんだ」「接触の必要はないわ。その社長、あなたも知ってる人よ」悠生は首を傾げた。「……知ってる?」「田中仁。田中グループの若き当主」「は……?」悠生の目が丸くなった。田中仁──その名前は、この業界で伝説と言っていいほどの存在だ。少年天才、ハーバード首席、経営の鬼才……どれも彼の異名だ。そんな彼が──MTグループの裏のオーナー?「……あいつが、ここに?いつの間に浜白に来てたんだ?」「彼は火事のとき、私を助けて怪我をしたでしょう? それからずっと国外で静養中。でも、電話ではたまに連絡を取ってるの」「……なるほど。じゃあ、最適どころか完璧な相手じゃないか」だが、悠生の胸に得体の知れないモヤモヤが湧き上がる。「……鈴さん。いくら仕事の話って言っても、田中仁に惹かれたりするなよ?まあ、確かに奴は優秀だ。俺より……ほんのちょっとだけな」彼はそう言ってから、少し間を置いて続けた。「でもな、君たちは合わない。絶対に」鈴は呆れたように笑いながら反問した。「どうして、私たちが合わないって言い切れるの?」悠生は焦った。相手が安田翔平なら、1ミリも心配しなかった。過去失敗した
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第263話 出てきたよ

「土田、今日の予定は?」鈴は半歩前を歩きながら尋ねた。土田はすぐに応じる。「午前10時に国際ビデオ会議、午後2時に啓航グループとのプロジェクト打ち合わせ、夜7時からは明志グループ会長夫妻の金婚式パーティーが入っています」「了解」ちょうどその時、ポケットのスマートフォンが鳴った。「もしもし、鈴? 今、ちょっと大丈夫?」真理子の声だった。「この前話したでしょ?6000万円出してでも服をオーダーしたいって言ってたあのお客さん、今うちの店に来てるの。本人がね、あなたに会いたいって。今日、来れそう?」鈴はオフィスのドアを開けながら問い返す。「時間は?」「お客様いわく、12時前ならいつでも大丈夫だって」「OK、行くわ」電話が切れると、真理子は客のもとへ行き、コーヒーを差し出した。「金子様、少々お待ちください。うちのデザイナーがすぐに参りますので」金子と呼ばれた女性は黙って頷くだけだった。そのとき――ブティックのドアの外に、一人の女の姿が立ち止まった。今日、釈放されたばかりの若菜だった。最初にしたことは、翔平にもらったブラックカードで買い物三昧することだった。服にバッグ、コスメを大量に購入し、ヘアサロンで最新のスタイルにチェンジ。刑務所の数ヶ月、あれは本当に地獄だった。誰にもわからない。どんな思いで、あの日々を乗り越えたか――でも、ようやく自由の身になった。若菜は目の前のセレクトショップを睨みつける。目に映る華やかさに、唇が冷たく吊り上がった。「ふん……」そう吐き捨てて、若菜はブティックに足を踏み入れた。「これ、それとこれ、全部包んでちょうだい」入店するなり、若菜はマネキンが着ていた最新作を指さし、当然のように命じた。真理子が近づいてきて、顔を上げた瞬間、表情が一変する。それまでの笑顔が、瞬時に消え失せた。「……あんた、出てきたの?まさかまた顔出すなんてね」真理子は眉をしかめ、容赦のない口調で言った。若菜のこめかみに怒気が走った。だが、火を噴くのをこらえ、あくまで冷ややかに返す。「……何ボーッとしてるの? さっさと服、持って来なさいよ」真理子は腕を組んだまま、鼻で笑った。「うち、会員制なんで。あなた、会員じゃないでしょ?」若菜の笑
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第264章 佐藤若菜と犬は立ち入り禁止

「まさか、出てきてまた騒ぎ起こしに来たわけ?」鈴は、まったく容赦のない声音で皮肉を放った。若菜の顔色がさっと変わる。怒気を喉元で押し留めながらも、口元には薄く笑みを浮かべた。「どうして私が出てこられたか、知ってる?翔平が多額の保釈金を払ってくれたの。わかる?翔平の心の中には最初から最後まで私しかいないのよ。あなたはただの、捨てられた元妻ってだけ」鈴はその言葉を聞いても、眉一つ動かさなかった。腕を組み、淡々と返す。「それならそのまま、外に出てこないで。人の迷惑にならないでくれる?」「……あんた!」若菜は歯を食いしばり、鬼のような形相で睨みつけてくる。「この数ヶ月、私がどんな目に遭ってきたか……今度はあんたが味わう番よ!」鈴の瞳が鋭く光る。「刑務所に戻りたいなら、どうぞご自由に」その一言は、まさに威圧そのものだった。今まさに釈放されたばかりの若菜には、何よりも効く一撃だった。若菜の身体がぴくりと震える。――あの場所には、もう二度と戻りたくない。「……覚えてなさいよ」吐き捨てるようにそう言った瞬間。背後のソファに座っていた女性が、ふと顔を上げた。その女は何気なくコーヒーを口に運び、そして静かに、冷たい声を落とした。「いつから愛人が、あんなに偉そうにできるようになったのかしらね」若菜は眉をひそめ、声の方へ顔を向ける。見慣れぬ女だった。肌の手入れは行き届いており、ぱっと見、三十代前半にしか見えない。鈴には手が出せないと悟った若菜は、その女を新たな標的に定めた。「……あんたに関係ないでしょ!口出すな!」指を突きつけながら怒鳴る。女の目元がすっと細くなる。「教養のない子ね。愛人になったなら、身の程ってものをわきまえなさいよ。正妻の前で堂々と吠えるなんて、誰に許されたの?」「このクソ女ッ、口を引き裂いてやろうか……!」若菜が一歩踏み出した、その瞬間だった。「佐藤若菜、いい加減にしなさい!」鈴がその腕をがっちりと掴む。「ここは私の店。彼女は私のお客様よ。手を出すっていうなら、やってみなさいよ」きっぱりとしたその声に、若菜は怯んだ。直後、鈴は彼女の腕を勢いよく振り払った。「……ッ!」バランスを崩した若菜は、盛大に床に倒れ込んだ。店内が静まり
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第265話 よく見た光景

「この前の浜白ファッションショーの主役ドレス、あれ、あなたのデザインよね。素晴らしかったわ。パリでもあなたの話、よく耳にしたのよ」そう言って、金子は手を差し出してきた。「そうだわ、まだ名乗ってなかったわね。金子緋香里って言うの」「金子様、先ほどは助けていただいてありがとうございます。これからお店でお洋服を選ばれるときは、すべて二割引でご案内しますね」金子はくすっと笑い、冗談めかして言った。「……ほんの少し正直なことを言っただけなのに、これはずいぶんお得ね」「今回のご依頼は、高級オーダードレスのご希望でしたよね?」問いかけると、金子はふんわりと微笑みながらうなずいた。「染付磁器をモチーフにしたドレスがほしいの。ある式典に着ていきたくて。真っ先に浮かんだのがあなた。どうかしら、お願いできる?」「もちろんです。すぐに採寸させていただきますね」そう言ってメジャーを手に取り、サイズを測るあいだ、ふたりは自然と打ち解け、終始穏やかで心地よい会話が続いた。帰り際、金子は名刺を一枚差し出した。「……ドレスが仕上がったら連絡してね。よろしく頼むわ」「ありがとうございます。お気をつけてお帰りください」見送りを終えると、真理子がスマホを手に駆け寄ってきた。「ねえ鈴、やっぱり見たことある顔だと思ったのよ……見て!」差し出された画面に映っていたのは、有名なファッションインフルエンサーのプロフィールだった。「……まさか、彼女がファッション界の第一線で活躍してる、何千万ものフォロワーを抱えるインフルエンサーだったなんて」「そりゃ服に対する目も肥えてるわけだ。ひとつひとつにちゃんとした意見あったし……さすがだわ」鈴は軽く頷いた。「なら、なおさら完璧な仕上がりにしなきゃね」しばらくふたりで盛り上がったあと、鈴は真理子に軽く挨拶して店をあとにした。ショッピングモールのホールに差しかかったとき――見覚えのある組み合わせが視界に入った。佐藤若菜が、安田翔平の腕に絡んで歩いてくる。まるで、昔と同じような光景。けれど今の鈴は、もうあの頃の鈴じゃない。翔平がこちらに気づき、ぱっと表情を明るくした。若菜の手をさりげなく振りほどき、そのまま鈴に向かって歩いてくる。――が、鈴は完全に無視。視線ひとつよこさず
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第266話 鈴、ただいま

翔平は鈴のいる方向をじっと見つめたまま、問い返した。「若菜、お前、わざとだろ。鈴がここにいるのを知ってて、俺を呼んで、こんな茶番を見せたんだろ」「……翔平、違うの、誤解よ!」「もういいよ。お互い、どんな人間かはよくわかってるはずだろ。俺がお前を保釈したのは、ここで好き勝手に振る舞わせるためじゃない。忠告しておく。鈴に近づくな。でないと、今度は俺の手でぶち込んでやる」「……っ」若菜は悔しさに声を詰まらせ、翔平の腕を掴もうとした。だが、それを彼は力強く振り払った。「もうやめろよ。そんな見え透いた芝居、ここでやるな。カードは渡したろ。欲しいもんは自分で買え。次からは電話してくるな」そう言い捨て、翔平は険しい顔の若菜に背を向けて去っていった。その背中には、一片の迷いもなかった。――車内。翔平はスマホを取り出し、通話をかけた。「若菜の件、何か動きは?」「社長、今のところは特に……」「しっかり監視しておけ。少しでも動きがあったらすぐに報告しろ」「承知しました」通話を切った翔平は、スマホを助手席に放り投げると、フロントガラスの向こうをじっと見つめた。その目には、迷いが浮かんでいた。鈴のあの冷たい表情が、頭から離れない。――もう、あの人は二度と俺の手には戻らないのかもしれない。……【こっちに戻ってきたよ】会議を終えた鈴がスマホを確認すると、仁からのメッセージが届いていた。思わず笑みがこぼれ、すぐに電話をかける。「仁さん!浜白に着いたの?」電話の向こう、仁は金色に輝く帝都グループの看板を見上げながら言った。「……ああ、戻ってきたよ。君が私と話したい案件があるって聞いてる」「仁さん、なんでそんなに私の考えてることわかるの?エスパー?」「今、君の会社の下にいるよ」鈴は驚き、窓際に駆け寄って下を見下ろすと、見慣れた黒のロールスロイス・ファントムが停まっていた。「……仁さん、ちょっと待ってて。すぐ降りる!」電話を切ると、彼女は書類を手に取り、急いで階段を降りていった。外に出ると、仁はすでに待っていた。彼女の姿を見つけた仁は、長い脚で軽く歩み寄る。「そんなに急がなくても大丈夫だよ、ゆっくりでいい」鈴は立ち止まり、彼の身体を見て心配そうに尋ねた。「仁さん、体はもう大
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第267話 吠えたいなら他所で

仁は表情ひとつ変えずにメニューを差し出した。「これで大丈夫。足りなければ、あとで追加しよう」店員が離れていくと、鈴はようやくグラスを置き、少し首を傾げながら尋ねた。「仁さん、どうして私がネギと生姜が苦手って知ってたの?」三年も夫婦だった翔平でさえ気づかなかったのに、仁がここまで把握しているなんて、鈴には意外だった。仁はふと目を上げ、その深いまなざしを彼女に向ける。「お兄さんから聞いた」「……兄から?」仁は軽く頷いたが、それが自分の観察の積み重ねによるものだとは、あえて口にしなかった。鈴は疑うことなく、ふっと微笑む。そこに、不意に声がかかった。「……鈴さん?鈴だよね?」眉をひそめた鈴の目の前に、双葉が姿を現す。彼女の視線は遠慮もなく、鈴と仁の間を行き来していた。翔平の叔母である双葉は、もともと鈴のことを好いていなかった。だが、まさか安田家を離れた鈴が、これほどの男と一緒にいるとは思ってもいなかったようだ。「お二人って、どういう関係?」鈴は安田家の人間に良い印象を持っていない。とくに、この口の軽い双葉にはなおさらだ。「双葉さん、それ、あなたに関係あります?」前に鈴に突っぱねられてから、双葉は内心ずっと面白くなかった。今またあっさりあしらわれて、顔が少し引きつる。だからか、口から出た言葉にもトゲがあった。「なによ、うちを出たと思ったら、今度はヒモでも飼ってるわけ?その男、翔平には到底及ばないけど、あなたの男を見る目って相変わらずね」もし言われたのが自分のことだけなら、鈴は聞き流したかもしれない。でも、相手が仁だった。「……どこから迷い込んできたのか知らないけど、吠えたいなら他所でやってくれる?」「……私のこと、犬って言った!?」「違うの?」双葉の顔がみるみる赤くなった。けれど鈴は構わず続ける。「旦那さん、まだ職探し中なんでしょ?私がちょっと業界に声かけたら、どうなると思う?」的を射た一言に、双葉の勢いは一気にしぼんだ。今の鈴は、もはや以前の鈴ではない。彼女には敵わないと、双葉自身が一番よくわかっていた。仁は小さく笑い、ナプキンでそっと鈴の口元を拭ってやる。その光景に、双葉は悔しそうに唇をかみ、足を踏み鳴らしてその場を去った。二人は
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第268話 出会い

前回の件以来、林は会社で降格処分を受けた。かつては社長秘書だったが、今は営業部の主任として働いている。当然、彼女はこの異動に納得がいっていない。これまで何度か仁のもとを訪ね、元の役職に戻してほしいと頼んでいたが、そのたびに冷たく突き放された。彼女は気づいていた。今の田中仁に影響を与えられる人間は、ただ三井鈴――その一人だけだということを。「社長」林は軽く会釈してから、鈴に向き直り、丁寧に言った。「三井取締役」鈴はにこやかに頷き返し、そのまま仁のオフィスへと入っていく。林も書類の束を抱えたまま後に続いた。「営業部からの書類です。サインをお願いできますか」仁は黙って頷き、椅子に座るとペンを取り、豪快な筆致で次々とサインしていく。その筆跡はまさに龍が舞うような力強さだった。出張などで不在にしていた間、処理が滞っていた業務が山のように溜まっており、彼はそれに集中していた。鈴はソファに腰を下ろし、その間ずっと彼を静かに待っていた。手持ち無沙汰のまま雑誌をめくっていたが、やがてページをめくる手が止まり――ソファにもたれて、そのまま眠りに落ちていた。仁は書類を片付け終えると、音を立てぬよう静かに彼女に近づき、ふわりとブランケットを肩にかけた。――時間が、ふと止まったかのようだった。彼は眠る鈴の顔を見つめながら、遠い昔の記憶へと引き込まれていった。七歳の冬。当時の仁には、ずっと抱き続けている願いがあった。それは――妹がほしいという願い。隣の家には、ふたつ結びのおさげ髪を揺らす、小さくて可愛い女の子がいた。彼はその子がうらやましくて、毎日のように母の麗にせがんでいた。「……お母さん、妹がほしい」「ねえ、ほんとに、妹ほしいんだよ」「ちゃんとお世話するし、守ってあげるからさ……!」麗も、本当は女の子が欲しかった。けれど仁を出産した際に体を痛めてしまい、もう妊娠するのは難しいと医師に告げられていた。「じゃあ……お人形さん、買ってあげようか?妹だと思って、大事にしてね」けれど仁はふてくされて言い返した。「やだ!人形なんかいらない!本物の妹がいい!」それを聞いた麗は、ただ静かにため息をついた。それでも、彼の「妹がほしい」という気持ちは、ずっと変わることがなかっ
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第269話 お兄ちゃん、旦那になって

「お兄ちゃん!」その一言で、小さな仁の胸はふわっと甘く膨らんだ。妹の手をしっかり握りしめて、庄園の庭を一緒に馬で歩いていく。鈴の瞳がくるくると動き出す。「ねえ、なんでお馬さん、おしゃべりしないの?」「どうして空は青いの?」「鳥はどうして飛べるの?」「男の子と女の子ってなんで違うの?」「……」まるでなんでなんで星人みたいに、次から次へと飛び出す質問。けれど仁はひとつも嫌な顔をせず、真剣な顔で、全部答えてあげた。「わぁ……お兄ちゃんってすごいね!なんでも知ってる!」鈴はうっとりとした顔で彼を見上げ、きらきらとした目に、小さな憧れの光がにじんでいた。その姿に、仁の胸はむずがゆいほどの幸福で満たされた。――こんなに可愛い妹、他にはいない。「……ねえ、鈴ちゃん、ずっと僕だけの妹でいてくれる?」仁が真剣な顔で尋ねると、鈴は首をふりふり。「だーめ!」と元気よく言いながら、指を一本一本折って数え始めた。「うちにはね、お兄ちゃんが三人いるの。だから、仁お兄ちゃん入れて、四人め!」その瞬間、仁の表情がしゅんっと沈む。知らなかった……ライバルが、そんなにいるなんて!「えっ、もう三人もいるの……?でも僕には、妹なんて鈴しかいないのに!」すると鈴が、またくるくる目を動かして、ふいに彼の手をそっと握った。「じゃあさ、仁お兄ちゃん……お兄ちゃんじゃなくて、わたしの『だんなさん』になってくれない?」「……えっ!?」七歳の仁は、その言葉にびっくり。でも、結婚すると赤ちゃんができるってことも知っていたし、男の子と女の子が大きくなったら、一緒に住んでずっと一緒にいられることも知っていた。結婚したら「お兄ちゃん」じゃなくて「だんなさん」と「およめさん」になる。そして、ずーっと、ずーっと、離れずに一緒にいられる。でも、ママが言っていた。「結婚は、ちゃんと大人になってからにしなさい」って。だから仁は、少し困った顔で聞いた。「なんで僕が、鈴のだんなさんになるの?」すると鈴は、ぱっと顔を輝かせて、「だってね、うちのお兄ちゃんが言ってたの。女の子はね、大きくなったらだんなさんが一人だけできるんだって。だから……仁お兄ちゃん、鈴のだんなさんになってみない?」仁はそれを聞いて、ぽん
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第270話 片想い

コンコン……控えめなノックの音が、仁の思考を遮った。はっと我に返った彼は、我知らず物思いに耽っていたことに気づく。ソファでは鈴が気持ちよさそうに眠っている。仁は彼女を起こさないよう静かに立ち上がると、ドアを開け、仕事の報告に来た社員たちを廊下で止めた。「……仕事の話は全部、会議室で頼む」社員たちは顔を見合わせた。突然の変更に戸惑いながらも、誰も逆らわず、指示通り会議室へ向かった。鈴はぐっすりと眠っていた。目を覚ましたとき、広いオフィスには誰の姿もなかった。彼女が身を起こすと、肩にかけられていた薄いブランケットがふわりと滑り落ち、床に落ちた。慌てて拾い上げたその瞬間――扉が開き、仁が戻ってくる。目が合い、彼の落ち着いた声が響いた。「起きた?」鈴は気まずそうに微笑みながら、髪をかきあげた。「寝ちゃってた……結構、長く寝てた?」「まあ……そんなにでもないよ」仁はそのまま彼女の前まで来ると、柔らかく口元を緩めた。「少し、外を歩いてみない?」「えっ、いいの?」「もちろん」思いがけない誘いに、鈴は目を丸くしたが、すぐに頷いた。それから、仁に案内されてふたりで社内を回ることに。MTグループの本社は思った以上に大きく、ここに移転してまだ半年とは思えないほど整備されていた。社員たちはきびきびと動き、どの部署も無駄がなく、見ていて気持ちがよかった。仁は鈴に社内の主な部門を案内し、責任者たちを一人ずつ紹介していった。話しながら歩いているうちに、いつの間にか営業部の前へと辿り着く。その頃、営業フロアでは社員たちが小声でざわついていた。「林主任、あの社長の隣にいる女性……誰ですか?」こっそりと聞いた若い社員に、林はちらりと目を上げる。視線の先にいるのは、鈴。一瞬、目の色が変わる。「……うちの取締役よ」「取締役?もしかして、この前の全体会議で紹介されてたあの三井取締役……?」「社長と、なんかすごく親しそうですよね……ただの取締役って感じじゃないような……」「彼女、社長の彼女じゃないですか?」別の社員がひそひそ声で割って入る。「だってさ、社長が女性をあんなふうに案内して回るなんて初めて見た。大事なお得意様だって、あそこまで丁寧じゃないよ?」「そうそう
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