All Chapters of 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう: Chapter 71 - Chapter 80

966 Chapters

第0071話

秀美が一歩前に出て、綿を背後に庇いながら怒鳴った。「輝明、何してるの?ちゃんと状況を確認してから口にしなさいよ」「何があったにせよ、人前で嬌に跪かせた綿が間違ってる!」輝明は怒気を抑えた低い声で言い放った。綿は黙って輝明を見つめた。その瞳の奥に、これまで一度も見たことのないほどの嫌悪がはっきりと浮かんでいた。――以前のどんな時よりも、彼は私を嫌っている。 綿はそっと目を伏せた。胸の奥に、説明のつかない痛みが広がっていく。――彼はこれまで一度だって、私の味方になったことはなかった。なのに、嬌を庇うためなら、ためらいもなく私を侮辱し、罵ることができるんだ。「明くん……」 嬌の目は涙で真っ赤に腫れていた。彼女は、ついに自分の味方になってくれる輝明の姿に、ぽろぽろと涙をこぼしていた。これまでずっと、彼女はこの場の全員を相手に孤独に戦っていた。その彼女のために、ようやく背中を預けられる存在が現れたのだ。「大丈夫だよ、嬌」輝明は優しく声をかけながら、彼女の肩を抱いて落ち着かせた。本当は、輝明は今回の誕生日会に嬌が出席することを快く思っていなかった。だが、嬌はどうしても祖母に喜んでもらいたいと強く願い、参加を望んだ。 輝明は、家族が冷たく接するかもしれないと忠告していたが、嬌は気にしなかった。「高杉家の人たちに認めてもらえるなら、何だって我慢する」と。嬌は南城の四大家のひとつ、陸川家の箱入り娘。大切に育てられた彼女が輝明と結婚するために、どれだけの我慢と犠牲を払ってきたか。 そんな彼女が今、綿の前で跪くなんて……輝明には到底、許せなかった。「輝明、あんたほんっとに目が節穴ね!」秀美は指を突きつけ、怒りを爆発させた。「今すぐその子から手を離しなさい!あんたが恥を知らないっていうなら、私はもう恥ずかしくて見てられない!」 こんな大勢の前で、嬌を抱きしめながら、自分の妻を罵るだなんて――それが世間に広まったらどうなると思ってるの!?いったい、私はどうしてこんな馬鹿な息子を産んだのかしら……輝明は左右を見回し、人々がこちらに注目しながら何やら囁いているのを察した。祖母の体調のことも思い出し、ようやく嬌を放した。気持ちを切り替えるように一度深く息を吸い、そして言った。「綿、ちょっ
Read more

第0072話

輝明の目に、驚きが浮かんだ。綿が最近少しおかしいとは思っていたが、まさかこんな言葉を口にするとは――「綿、自分が何を言ってるか分かってるのか?」彼は一歩前に出て、綿の手首をぐっと掴んだ。綿は唇を噛み、手首に走る痛みに顔をしかめた。彼の指先に、怒りがこもっているのがはっきりわかる。「嬌が死ねばいい」と言った自分の言葉が、彼の逆鱗に触れたのだ。――もし本当に嬌が死ねば、私はきっと逃れられない。綿は顔を上げ、ずっと愛してきたその男をじっと見つめた。けれど、そこに愛しさはもうなかった。あるのはただ、他人を見るような冷めたまなざし。以前の自分なら、もしも輝明を愛せなくなったら、きっと何もかも崩れ落ちると思っていた。でも今は違う。彼を愛さなくなった自分のほうが、ずっと自由で、ずっと生き生きとしている。綿は唇の端をゆっくり持ち上げた。つぶらな瞳が細められ、指先がするりと輝明のネクタイの結び目を引き寄せる。暗い廊下の中、彼女の顔ははっきりとは見えなかった。ほのかな輪郭だけが浮かび、幻想のように朧げだった。輝明は眉をひそめ、自然と身体が彼女の方へ傾いた。片手を壁につき、彼女との距離を詰める。綿は彼の耳元に唇を寄せ、ふっと息を吐いた。甘く、挑発的な笑みを浮かべながら、囁くように言う。「言ったでしょう?私は、彼女が、死ねばいいと思ってるのよ」その言葉が、耳にぴたりと張りついた。ささやきのようでいて、どこまでも毒を孕んだ声。輝明は反射的に綿を強く押しのけた。顔には怒りの色が浮かび、表情は険しく陰っていた。綿は数歩後ろへ下がり、背中を冷たい壁にぶつける。だが次の瞬間、彼女は笑った。その笑みは、まるで狂気を纏った美しさだった。「綿……おまえ、本当に頭がおかしいのか!」輝明は指を突きつけ、歯を食いしばるように怒鳴った。綿はふうっとため息をつき、どこか気だるそうな声で返した。「狂ってるくらいが、ちょうどいいんじゃない?」輝明がもう何も言わないのを見ると、彼女はそのまま背を向けて歩き出した。――と、その歩みをふいに止め、くるりと振り返った。あたたかいオレンジ色の灯りが彼女の髪を照らしていた。口元には薄い笑みが浮かんでいたが、瞳にはほんの一瞬、苦さが滲んだ。「ねえ、輝明、狂った人間に……
Read more

第0073話

嬌は綿の腕を掴み、「これで満足?」と問いかけてきた。 綿は思わず彼女を見た。さすが輝明が愛する女、言うことまで彼とそっくりだ。 「綿、あなたは私の失敗を笑いたいだけでしょ?」嬌は唇を噛みしめながら、怒りをぶつけるように睨みつけてくる。 綿は無言でその手を振り払った。「偽物の雪蓮草を持ってきたのは、あなたの落ち度よ。笑われたくなかったら、最初から本物を用意すべきだったわ」 「本物があんたの手にあったなら、どうして黙ってたのよ!」嬌は一気に感情を爆発させた。――綿が一言教えてくれれば、自分だって偽物なんて持ち込まなかったのに!「だって、あなた聞かなかったじゃない」綿は薄く笑って言った。皮肉の混じったその声が、嬌の胸を突いた。 嬌は言葉に詰まった。思い返せば、いつも自分のほうから「雪蓮草は手に入れた」と得意げに話していただけで、綿に確かめたことなど一度もなかった。――綿みたいな女が、そんな貴重な薬草を手にできるはずがないと、どこかで決めつけていた。 「綿……あんたが私に勝ったところで、輝明があんたを愛するわけないじゃない!」嬌は顔を上げ、綿を睨みながらその名を口にした。言い負かされそうになると、すぐに彼の名を盾にする。綿は何も言わず、その挑発に応じる気配もなかった。 嬌は綿の前に立ち、手にしたグラスをぎゅっと握りしめる。「輝明は愛してるのは、私よ!あんたじゃない!綿、あんたなんか、ただの見世物よ。輝明のためにどれだけ犠牲にしてきたの?で、結局何を得たの?」 綿は無言のまま、冷たい目で感情的な嬌を見つめていた。 「知ってる?輝明は私の目の前でこう言ったの。『綿って、ほんっとバカだよな』って」嬌は得意げに口元を歪め、さらに畳みかけるように言葉を重ねた。 綿は拳をゆっくりと握りしめた。鼓動が早くなり、喉の奥が詰まる。 その瞬間――シャンパンタワーの向こう側にいた男性スタッフが足を滑らせ、勢いよくタワーに倒れ込んだ!綿の視線が鋭くなった。高さ約2メートルのタワーが、まっすぐ自分たちに向かって傾いてくる! 脳裏に、さっき嬌と話していたスタッフの顔がよぎった。 ……まさか、仕組まれてた? 背後から秋年の「輝明」という声が聞こえ、綿は確信に変わった。次の
Read more

第0074話

綿は意識がぼんやりする中、突然ふわりと体が浮く感覚を覚えた。目を開けると、唇が男性の頬をかすめ、その瞬間、彼の身体がわずかにこわばったのがわかった。綿は息を呑み、反射的に彼の首に腕を回す。視線を下げると、心なしか頬が熱くなった。「輝明、綿をすぐ病院へ連れて行って!」秀美が慌てた様子で叫ぶ。輝明は小さく「……ああ」と答えると、綿の身体をしっかりと抱き直した。司礼が眉をひそめて後に続こうとしたそのとき、輝明の鋭い視線が彼に向けられた。「俺が連れて行く。……お前がついてくる理由があるか?」その一言に、司礼は立ち止まり、口元に曖昧な笑みを浮かべた。「誤解しないでください、高杉社長。ただ心配しただけです」綿の手首から流れ落ちる血が、輝明の首筋を濡らす。その生温かさと生々しい鉄の匂いに、彼の心はざわついた。 輝明は思わず綿の顔を見下ろし、複雑な表情を浮かべながら足を速めた。綿は彼の横顔を見つめる。――見間違いだろうか。彼の目に、一瞬だけ「心配」の色が浮かんだように見えた。 その頃、嬌が追いかけようとするのを、秋年がさりげなく前に出て止めた。「陸川さん、他人の夫婦のことに首を突っ込むのはよくないよ」にこにこと笑いながらも、目はまったく笑っていない。「でも、あの二人は離婚するのよ!」 嬌は悔しさをにじませて睨み返した。「『する予定』であって、『まだしてない』でしょ?」秋年は軽く肩をすくめ、いつも通りの調子でニヤついた。嬌は言葉に詰まり、彼を避けようとしたが、秋年はまた一歩先回りして立ちふさがった。両腕を組んで、ふざけた態度のまま、しかしその場を譲る気はさらさらない。「あんた、いい加減にして!」嬌は苛立ちをあらわにし、その場に立ち尽くしたまま、輝明が綿を抱えて去っていくのをただ見送るしかなかった。唇をきつく噛みしめ、指先が震える。 ――本来なら、スタッフと仕組んだ計画通りに、綿がシャンパンタワーに巻き込まれて恥をかくはずだった。なのに、どうしてこんな展開に?*ホテルの外では涼しい風が吹いていた。綿の傷に風が触れ、まるで刃物で撫でられるようにじりじりと痛んだ。森下が車を回してきた。輝明は綿を抱き上げたまま乗せ、細心の注意を払って彼女を座らせる。森下はすぐさま車を
Read more

第0075話

応急処置の医師たちがやたらと雑で、見かねた輝明は自ら手当てを申し出た。「嫌よ」綿は身を引くように後ずさった。「お前に拒否する権利はない」輝明の声は冷たく、容赦がなかった。綿はさらに逃げ、背中がベッドの柵に当たるまで下がった。その瞬間、彼女は思わず息を呑んだ。異変に気づいた輝明は、ヨードチンキとピンセットを手に取り、声を抑えて訊いた。「……どこが痛む?」綿はうっすら涙のにじんだ瞳で彼を見上げた。あれほど鋭かった瞳には、もう力がなく、ただ頼りなさだけが残っていた。その視線に、輝明の胸が何かにひっかかれたように痛んだ。なのに、理由もなく苛立っていた。「聞いてんだ、どこが痛い!」 思わず強い口調になる。――まったく、何なんだこの苛立ちは。綿が怪我をしてからというもの、なぜか心が落ち着かない。たかが十五分、されど一刻も気が休まらない。 綿は俯き、静かに背中を指差した。輝明は彼女の後ろに回り、そっと視線を落とした。背中の蝶のタトゥーの下、白く柔らかな肌に小さなガラス片が二つ、深く刺さっていた。その周囲は赤く腫れ、痛々しく腫れ上がっている。思わず手が伸びる。冷たい指先が綿の背に触れた瞬間、彼女の身体がぴくりと震えた。その横顔を見つめながら、輝明は無言のままピンセットで破片を取り除き、消毒し、丁寧にガーゼを当てていく。さらに他に異常がないか確認しようとしたとき、蝶のタトゥーにふと目がとまる。眉をひそめ、そっと触れた指先に違和感を覚えた。――この下、なめらかじゃない。「……ここ、傷跡か?」綿はぱっと顔を上げ、彼の手をはね除けるようにして言った。「……ないわ」輝明は目を細めた。ない、だと?すぐさま綿の肩を押さえ、再びその場所をなぞる。たしかに、そこには細く残る古い傷跡があった。しかも、その位置と角度が、嬌と全く同じ。綿が振り払おうとする手を押さえ、輝明は詰問した。「この傷、どうやってできた?」綿の心が、一瞬ざわりと震えた。――認めたくなかった。それは、四年前。彼を庇って負った傷。命を賭けた愚かな行動。でも、それを話すことは、ただ自分の愚かさを再確認させるだけ。あれほど尽くしても、彼からは何も得られなかった。綿は静かにドレスの裾を整え、何でもないよう
Read more

第0076話

綿は眉をひそめ、輝明の軽口にあからさまに不満を見せ、彼を押しのけようとした。だが、輝明はそのまま彼女を腕に閉じ込め、わざとらしく顎を肩に乗せ、耳元で囁いた。「……満足させてやってもいいけど?」「……」綿は言葉を失った。――何、この図々しさ。今まで気づかなかったけれど、輝明って、こんなに厚かましい人だった?堪えきれず、綿は彼の足をぐいっと踏みつけた。彼は一歩も引かず、ただ綿を離した。綿は恨みがましい目でにらみつけ、踵を返して歩き出そうとした。すると輝明が眉を寄せて声をかける。「歩けるのか?また転ぶなよ」綿は引きつった笑みを浮かべた。「高杉さんにご心配いただく筋合いはないよ」言い捨てて一歩踏み出した瞬間、またもやバランスを崩しかけた。輝明がすぐに支えようとするが、綿はとっさにベッドの端を掴んでなんとか持ちこたえた。見下ろすと、スカートの裾がベッドの脚に引っかかっていた。「……」その様子に、輝明は思わず吹き出した。低く、深く、まるでチェロのような響きで笑うその声が、綿の耳に残った。輝明は近づき、丁寧にスカートを引き抜いた。視線が合った瞬間、綿の顔は一気に熱を帯びた。……死にたい。綿は何も言わずに踵を返し、早足で部屋を出た。輝明は静かにその後ろについていき、口元にはなぜかうっすらと笑みが浮かんでいた。廊下にいた数人の医師たちが二人を見つけると、すぐに近寄り、「高杉社長、奥様」と丁寧に挨拶した。「……ああ」輝明は軽く応じ、綿のほうに目を向けた。綿はほんの少し視線を伏せ、胸の奥がざわついた。「奥様」――その呼び方も、もうすぐ終わる。医師が軟膏を手渡しながら言った。「こちらは塗り薬です。傷は浅いですが数が多いため、感染防止のために三日後に再診をお願いします」「はい、わかりました」綿は素直に頷いた。「奥様は医療の知識もおありですから、これ以上の説明は不要ですね」医師はにこやかに笑い、今度は輝明に視線を向ける。「高杉社長、しばらく奥様のケア、よろしくお願いしますよ」その言葉に、輝明は一瞬返事に迷ったように沈黙した。そして綿と目が合った。お互い、どこか気まずい。――夫婦なのに、「奥様」と呼ばれるたびに、他人みたいに距離を感じる。
Read more

第0077話

綿はふと思った。 ――もしかして、何か頼みたいことでもあるんじゃない?そんな考えに気を取られていたせいで、足元の階段に気づかなかった。足を踏み外し、バランスを崩した彼女の体は、勢いよく輝明の背中に倒れ込んだ。「っ……」綿は眉をひそめ、顔が彼の背に当たる。熱い吐息が頬をかすめる。輝明はすぐに振り返り、綿の腰を片腕で支えて引き寄せた。「今度は何だ?」「……階段、見てなかった」綿はやや気まずそうに目を逸らす。「お前って、本当にいつも抜けてるよな」やや呆れたように、輝明は吐き捨てた。その言い方に、綿はじっと彼を睨んだ。――ただ少しぶつかっただけなのに、もうこれ。これが嬌だったら、真っ先に駆け寄って、抱きしめて慰めてるに決まってる。そう思った次の瞬間、ふいに体がふわりと浮いた。「……えっ?」輝明が、綿をお姫様抱っこしたのだった。低く落ち着いた声が耳元に落ちる。「送ってく」綿は思わず彼の肩に腕を回し、彼を見つめた。その瞳は迷いと困惑に揺れていて、まるで道に迷った子どものようだった。輝明はその視線に気づくと、真正面を向いたまま、表情を変えずに言った。「……そんな目で見るな」「輝明」綿は名前を呼んだ。「何だ」いつものように冷たい声。綿は少し口を迷わせたが、結局、真正面から切り込んだ。「……誰かに乗っ取られてるの?」これが本当に、あの輝明なの?今夜の彼は、あまりにも様子がおかしい。自分の異常さ、わかってる?足が止まる。輝明がゆっくりと綿を見下ろした。その目には、まるで刃物のような鋭さが宿っていて、ほんの一瞬、本気で彼女を刺すんじゃないかと思ったほどだった。綿は思わず肩をすくめた。「……なんか、優しすぎる気がして」綿は観念したように言った。「なに?お願い事でもある?離婚手続き、早めたいなら、別にいいよ。明日の朝にでも行こうか?」やめてよ。そんなふうに優しくされたら、こっちが不安になる。輝明はしばらく黙ったまま、目の前の綿をじっと見つめていた。――なんだ、この脱力感は。「……俺、優しくしてるか?」ようやく発したその問いは、真顔すぎて、綿も一瞬返事に詰まった。夫として当然のことをしただけ。転びそうになった妻を支え、送っていくだけ
Read more

第0078話

輝明は車のドアを開け、腰をかがめて綿をそっと下ろした。声はいつになく柔らかく、「……ほら、先に乗ってろ」と言った。けれど、綿は彼の首に腕を回したまま、離そうとしなかった。今ここで聞かせなきゃ、彼女は絶対に離してくれない。その頑固さは、輝明自身が誰よりもよく知っている。彼は観念したように中腰の姿勢を保ったまま、やや諦めたように言った。「……聞けよ」綿は顔を上げ、まっすぐに彼を見つめる。ぱちりとまばたきしながら、淡く、優しい声でこう尋ねた。「もし……嬌がいなかったら、私のこと、好きになってた?」——嬌がいなかったら、私のこと、好きになってた?三年もの間、喉の奥に引っかかったまま、どうしても口に出せなかった問い。でも、今夜はどうしても、聞きたかった。輝明は綿の目を見つめた。その瞳に浮かぶ真剣さに、適当な言葉でごまかすことはできなかった。本当なら、きっぱりと「ない」と言うべきだった。けれど……その二文字が、どうしても口をついて出てこない。綿は彼の目の揺らぎを見逃さなかった。その迷いの色に、すべてが詰まっている。ああ、たとえ嬌がいなくても、この人は、きっと私を好きにはならなかった。答えないのは、迷っているからじゃない。ただ、彼なりに、私の心をこれ以上傷つけたくなかっただけ。綿は腕をほどき、悲しみを隠しきれず、ぽつりとつぶやいた。「……わかった」輝明は彼女の瞳の奥に浮かぶ寂しさを感じ取った。しぼり出すように問う。「……何が」「あなたの答え」綿はそう言った。「……まだ答えていない」綿はふっと笑った。背もたれに身を預け、目を閉じながら穏やかに言う。「私たち、知り合って七年だよ。あなたのことなら、表情ひとつ、視線ひとつでわかる」輝明は運転席に回り、無言のまま車に乗り込んだ。窓の外を見ながら、ぼそっと呟く。「……そうか」「うん」綿の声はどこか遠く、そして弱々しかった。輝明は横目で綿を見る。疲れているのか、それとも彼を見たくないのか。乗り込んだとたん、彼女は目を閉じたままだった。森下がバックミラー越しに確認する。「社長、これからは……?」「……綿を桜井家に送れ」輝明の声には、言いようのない苛立ちと虚しさが滲んでいた。「かしこまりました。そういえば誕生日会は無事に
Read more

第0079話

輝明の胸の奥に、彼女を今すぐこの手で奪い取りたいという、狂気じみた衝動が湧き上がった。指の動きが無意識に強くなり、綿の口紅を少し乱してしまう。弱い光が彼女の美しい頬を照らし、綿は眉をひそめて、かすかに声をもらした。「ん……」その柔らかく甘い吐息に、輝明の理性は完全に崩れ去った。彼は顔を伏せ、貪るように唇を重ねた。自制心には自信があったはずなのに。だが、綿に対してだけは、あの日バーでキスを交わしてからというもの、心の防御が崩れていた。顎をつかみ、夢中でキスを続けたくなる。けれど、彼女を起こしてしまえば、状況をどう説明すればいいのかわからない。仕方なく、輝明は名残惜しそうに綿の唇から離れ、もう一度、指で彼女の唇をなぞりながら、そっとキスを落とした。綿が輝明の肩に寄りかかったまま眠っている。輝明の呼吸は乱れ、体は正直に反応を示していた。深く息を吸い込み、欲望を押し殺しながら、前方の森下に目を向ける。「森下、別荘に戻れ」森下は驚いたように目を見開いた。「奥様は……桜井家にお戻ししなくて?」輝明は答えず、ただ黙っていた。それだけで、森下はすべてを察した。――ついに、社長が奥様に本気になったのか。綿を抱きかかえたまま、輝明の視線は自然と彼女の背中へ向かった。薄布の下、彼女の背中にある傷跡を指先でなぞる。ざらついた感触が、脳裏に疑問を呼び起こす。――こんな偶然、あるのか?あの傷跡、嬌のそれと全く同じ位置と形だ。それに、綿の背中のタトゥー……一体、いつ入れた?疑念が膨らむなか、輝明はふいに声を落として言った。「森下、ちょっと聞きたいことがある」「はい、なんでしょう」彼は口を開きかけて――やめた。しかし、その質問をすると、どうしても奇妙に聞こえた。綿の夫である自分が、彼女の背中のタトゥーについて他の男に聞くなんて、どう考えてもおかしい。だが、頭の中に残る違和感は、そう簡単には消えなかった。少しの沈黙の後、輝明は別のことを訊いた。「俺が誘拐されたとき……綿は、助けに来てたか?」森下は眉をひそめ、しばらく記憶をたどるように黙ったあと、口を開いた。「正直、あまり覚えていません。でも……あの日、奥様の姿はほとんど見かけなかったですね。周りの人も言ってましたよ。い
Read more

第0080話

車は別荘の前に停まった。輝明は綿を抱き上げたまま車を降りた。玄関のドアを開けると、綿はうっすらと目を開け、眠たそうに言った。「……もう着いたの?」輝明は彼女を見下ろす。眉間に小さな皺、寝ぼけた顔には痛みの影も見えた。おそらく、体の傷がじわじわと疼いているのだろう。「……ああ」低く応えると、そのまま彼女を抱えて階段を上った。綿は頭が重そうで、再び意識を手放すように目を閉じた。 ――よくもまあ、こんなに無防備に寝られるもんだな。輝明は思わず苦笑する。――今日たまたま俺が送り届けたからよかったものの、もしも韓井司礼だったら?奴の家に運ばれていたとしたら?……想像するだけで腹が立つ。寝室のドアを開け、灯りをつけた瞬間、がらんとした室内に、心の奥がわずかにざわついた。綿が出ていって以来、この部屋には一度も足を踏み入れていなかった。久しぶりに入ると、見慣れたはずの空間が、ひどく他人のものに思えた。ゆっくりと布団をめくり、綿の体をベッドに横たえる。彼女はすぐに寝返りを打ち、布団を抱きしめたまま、小さく呻いた。「……いたい……」その寝言に、輝明は少しだけ眉を下げ、無意識に口元に微笑が浮かんだ。腰を屈めて服を整え、頬にかかる髪をそっと耳にかける。長い睫毛、華やかな顔立ち――やはりこの女は、美しい。高校の頃は、ラブレターをもらいすぎて机が埋もれた。大学では、毎日誰かに告白されていた。周囲の誰もが「輝明は運がいい」と言っていた。だが、綿だけは「結婚できたのは自分の方が幸せ」と思っていた。……今は、どうだ?彼女はまだそう思っているのか?それとも、もうただ恨んでいるだけなのか。喉の奥がじんわりと詰まる。その時、突然綿のスマホの着信音が鳴った。バッグを探り、表示を見て眉をひそめる――韓井司礼。この時間に電話?……非常識じゃないか?綿を見下ろす。寝息は穏やかだ。しばらく鳴り続ける着信に、輝明はためらいなく通話ボタンを押した。「綿さん……家に戻ったか?傷、ひどくない?」電話口の声は落ち着いていたが、確かな心配がにじんでいた。輝明は唇を引き締め、低く応じた。「もう寝てる」沈黙。切ったかと思い、画面を見ると通話は続いていた。輝明は目を細め、口角をわずか
Read more
PREV
1
...
678910
...
97
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status