All Chapters of 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める: Chapter 1011 - Chapter 1020

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第1011話

逸之は力強くうなずいた。「うん、わかってるよ」彼は、母が少しでも傷つく姿に耐えられなかった。紗枝はうつむき、逸之の額にそっと口づけると、申し訳なさそうな声で言った。「ごめんね。さっき事情もわからないまま、逸ちゃんにきつく当たっちゃって」逸之は首を横に振り、柔らかな声で答えた。「ママのこと、絶対に怒ったりしないよ」その言葉に、紗枝の唇から自然と笑みがこぼれ、胸の奥が温かさに満たされた。彼女の人生で最も誇れること――それはこの二人の息子を産んだことだった。彼らは彼女が歩みを止めないための原動力であり、何よりも優しく、強い支えだった。逸之を部屋に送り、寝かしつけたあと、紗枝も自室に戻った。彼女は十分な睡眠をとり、簡単に心を乱してはいけなかった。何といってもまだ妊娠中なのだ。啓司が狂ったように振る舞おうとも、自分まで乱されるわけにはいかない。一方その頃。夏目家の旧宅の一室で、梓は牧野に電話をかけた。通話が繋がるなり、いきなり問いかける。「紗枝さん、啓司さんと喧嘩したの?」思いがけない言葉に、牧野は目を見開いた。「どうして急にそんなことを聞くんだ?」「だって今夜、子どもを連れて夏目家に戻ってきたんだよ!普通、女の人が子ども連れて実家に帰るなんて、たいてい夫婦喧嘩したからでしょ」梓は馬鹿ではない。紗枝が心に悩みを抱えていることはとっくに気づいていた。ただ、必要以上に問い詰めるのは避けていただけだった。それを聞いた牧野は、あわてて言った。「紗枝さんは今、妊娠中なんだ。しかも子どもも一緒にいる。時間があればできるだけ彼女のことを見てあげてくれ。絶対に何かあっちゃいけない」つい先ほど、啓司から直々に電話があったばかりだった。紗枝の護衛をさらに増やし、何としても彼女の安全を守れと念を押されたのだ。「私だって紗枝さんの友達だよ。何かあったら絶対だめ!それより私の質問に答えてよ。二人は一体どうして喧嘩になったの?」梓はしつこく食い下がった。牧野は声を低め、真剣な調子で言った。「聞くべきじゃないこともある」啓司は特に念を押していた――この件は他人に漏らすなと。まず紗枝に離婚手続きを済ませてもらい、その後なら、たとえ真実を知られたとしても構わない。その頃には自分は手術を終えているはずだからだ。
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第1012話

「啓司さん、いつ出発するの」鈴は抑えきれない胸の高鳴りをそのままに尋ねた。「九時過ぎだ」啓司は短く答えた。彼が紗枝に伝えていたのは九時半だった。その差に鈴はほっと胸をなでおろしたが、表向きは冷静を装い、こう問いかけた。「離婚なんて大事なこと、叔母さんたちに知らせなくていいの?」「離婚してからでいい」もちろん啓司には、黒木家にきちんと知らせるつもりがあった。さもなければ、彼らは事実を知らぬままになってしまう。その言葉を聞いた鈴は、啓司が紗枝ともう二度と共に生きるつもりはないのだと確信した。「そうよね。結婚するもしないも、離婚するもしないも、今はもう啓司兄さんが自分で決められることだもんね」啓司は椅子の背に身を預け、耳元で絶え間なく言葉を重ねる鈴に苛立ちを募らせた。「少し静かにしてくれないか」その一言に、鈴の頬はたちまち赤くなり、居場所を失ったように視線を泳がせた。傍らにいた家政婦は吹き出しそうになり、慌てて口を手で押さえた。啓司が鈴に何の好意も抱いていないことは、誰の目にも明らかだった。ただ、鈴という女があまりに厚かましいだけなのだ。彼女は、女が男を手に入れるのは造作もないことだと信じ込んでいるようだった。やがて九時を迎えた。鈴は待ちわびたように啓司のあとを追い、車へ乗り込んだ。助手席に座っていた牧野は、鈴が当然のように乗り込んでくるのを見て怪訝そうに眉をひそめる。「鈴さん、どうして……」問いかけを最後まで言い切る前に、啓司が遮った。「俺が連れてきた」その一言に、牧野はそれ以上口を閉ざした。いまや彼には、啓司の胸の内がますます理解できなくなっていた。九時二十分を過ぎたころ、一行は役所の入口に到着した。そこにはすでに紗枝の姿があった。「社長、奥様がお見えです」紗枝を見つけた牧野が声をかける。「ああ」啓司は軽く頷き、鈴に言った。「お前が案内しろ」「はい」鈴は急いで車を降り、ドアを開けると、啓司を支えようと手を差し出した。しかし、啓司は触れられることを好まず、その不快感を無理に押し殺した。遠くに紗枝が立っていた。一晩眠ったおかげで頭は冴えていたが、考えれば考えるほど、やはり何かがおかしいと思えた。結婚の終わりには必ず理由や経緯がある
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第1013話

離婚手続きの窓口に着き、啓司が腰を下ろすと、鈴も当然のようにその隣へ腰掛けた。職員は女二人と男一人という組み合わせを一目にして、瞬時に壮絶な痴話げんかを想像した。彼女はわざと鈴に向かって言った。「人の家庭を壊すような人はここでも何人も見てきたけれど、最後に本当に幸せになった人はほとんどいないわよ」鈴の顔がさっと赤く染まった。「何を言ってるの。誰が人の家庭を壊したっていうの」職員は相手にせず、淡々とした表情を崩さなかった。ここで長年勤めていれば、誰が本妻で誰が愛人かなど、一目見れば分かるものだった。啓司は眉を寄せ、鈴に言った。「先に外に出て、待っていてくれ」「でも、あなたは目が見えないじゃない。もし紗枝さんが何か汚い手を使ったらどうするの」鈴は、啓司の財産がすべて紗枝に渡ってしまうことを恐れていた。紗枝の目の前で、啓司は辛抱強く言い聞かせるしかなかった。「ここには職員もいるだろう。どうしても心配なら牧野を呼べばいい」「……わかったわ」鈴は渋々といった様子で席を立ち、ようやく部屋を後にした。彼女が去ると、職員は二人の離婚手続きを始めた。まず、婚姻中の財産についての照会がなされた。啓司はあらかじめ準備させていた離婚届を取り出し、紗枝に差し出した。「目を通してくれ。問題がなければ、この内容で進めよう」紗枝は協議書を受け取り、ページを開いて中身を確認した。牡丹別荘と数台の車、不動産が自分に譲渡されることになっており、さらに離婚の慰謝料として千億もの資産が啓司から渡されると記されていた。千億。桃洲でも類を見ない、破格の財産分与だろう。紗枝は、せいぜい数億を渡されて追い払われるのだと覚悟していた。まさかこれほどの大金を提示されるとは、夢にも思わなかった。これだけあれば、自分と子供たちは何世代にもわたり金に困ることはない。「ずいぶん気前がいいのね。よっぽど私と離婚したいみたい」紗枝は皮肉めいた笑みを浮かべた。「何年も俺についてきてくれたし、子供もいる。それくらいは渡すべきだ」啓司の口調は冷ややかで、そこに感情は一切こもっていなかった。それを聞いた紗枝には、もはやためらう理由など残されていなかった。職員の立ち会いのもと、二人はそれぞれ署名を済ませた。啓司が事前に
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第1014話

拓司が口を開いた。「紗枝さん」振り返った紗枝は、啓司と瓜二つの拓司の顔を見て、頭の中が一瞬混乱に包まれた。「ええ」そっけなく返し、それ以上彼と話したくはなかった。「雨が降ってきた。車に乗れよ、濡れるぞ」足を止めない彼女の様子を見て、拓司はもう一度声をかけた。紗枝はほんの少し歩みを緩め、視線を向けぬまま答えた。「大した雨じゃないから、歩いて帰れるわ。お気遣いなく」そう言って再び前へ進んだ。拓司は車のドアを片手で開けると、迷いなく紗枝に近づき、その腕を掴んだ。「そんなふうに自分を傷つけるな」思わず振り解こうとしたが、彼の手は固く、離してくれない。「紗枝、あいつは君がこんなことをする価値のある男じゃない」無理に引き剥がすのをやめた紗枝は、小雨に濡れながら、静かに口を開いた。「勘違いしてない?ここから歩いて帰っても、そんなに遠くないし、濡れるほどでもないわ」「車に乗れ」拓司は短く繰り返した。紗枝はその場に立ち尽くし、頑なに動こうとしなかった。次の瞬間、拓司は強引に彼女を抱き上げ、車へと押し込んだ。紗枝は呆然とし、彼がこんな行動に出るとは夢にも思わなかった。「ちょっと……拓司!」「車を出してくれ」彼は彼女の声を無視し、運転手に命じた。車が動き出すと、紗枝の胸には居心地の悪さが広がった。横顔を見まいとするほど、無意識に啓司そっくりの拓司を横目で追ってしまう。思い切って目を閉じ、余計な思考を振り払おうとした。拓司は彼女の様子に気づき、体調を疑ったのか、手を伸ばして甲を彼女の額に当てた。しかし熱はなかった。紗枝は反射的に目を開け、その手を振り払った。「……ごめんなさい」悪意のない仕草だったことに気づき、思わず謝罪が口をついた。拓司は軽く首を振った。「気にしないで」一方そのころ。役所を出た啓司に、鈴が駆け寄り抱きついた。だが次の瞬間、彼に突き放される。「失せろ!」鈴は呆然と立ち尽くし、信じられないという目で彼を見た。「啓司さん……」ついさっきまで普通だったのに、なぜ急に――啓司は彼女の手が触れたジャケットを脱ぎ捨て、牧野に命じる。「捨てろ」そして鋭く言い放った。「ついてくるな!」車が走り去るのを見届けた鈴は、凍りついた
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第1015話

啓司の深淵のような瞳に、一瞬、複雑な感情がよぎった。だがすぐに平静を取り戻す。「わかった。これからは、こういうことを俺に報告する必要はない」紗枝と拓司は幼なじみ。彼こそが、紗枝が子供の頃からずっと心を寄せてきた相手だ。自分は確かに誤って入り込んだ存在だった。もし今度の手術が失敗に終わったなら、紗枝には寄り添える誰かを見つけてほしい。それが拓司であろうと、辰夫であろうと構わない。ただ、彼女を大切にしてくれるのなら、それでいい。その言葉を聞いた牧野は、沈黙を守った。彼には啓司の気持ちが痛いほどわかった。もし自分が、結果の見えない手術を受ける立場だったなら、おそらく梓との別れを先に選んだだろう。病が長引けば、どんな愛情も冷めるという。梓がこれまでと同じように自分を愛し続けてくれるとは限らない。何より、彼女に苦労や悲しみを背負わせたくはなかった。やがて車は会社に着いた。啓司は何事もなかったかのように残務処理に取りかかった。以前「稲葉グループを紗枝に任せる」と口にしたが、まだ山積する問題は多く、引き継ぎには早すぎる状況だった。結局は、すべてを牧野に任せるしかなかった。「来週の月曜、手術を受ける。IMのことはすべてお前に任せる」牧野は力強く頷いた。「必ずIMをしっかり経営していきます」彼はもう心を決めていた。たとえ社長に何があろうと、この人についていく、と。「ああ」再び皆は黙々と仕事に没頭していった。しかし、ほどなくして一本の電話が鳴る。啓司が受話器を取ると、向こうから綾子の詰問するような声が飛び込んできた。「啓司、紗枝さんと離婚したって本当なの?」「ああ。今夜、ご両親にお話しするつもりだったが……誰かから先に聞いたのか?」あえてそう尋ねる。鈴が黒木家の人間に告げ口していることなど、啓司にはわかりきっていた。「鈴ちゃんが言ってたのよ。子供たちの親権まで放棄したって!」綾子の関心は、息子と紗枝の離婚そのものではなかった。黒木家の血を引く孫の存在――それだけだった。「子供はまた作ればいい。気にすることじゃない」啓司は平然と告げた。綾子は血を吐くほどの怒りに駆られる。あれは紛れもなく自分の実の孫だというのに。啓司はその親権をすべて紗枝に渡してしまったというのか。
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第1016話

綾子が私の味方に?綾子の言葉を聞きながら、紗枝は胸の内で悟っていた。綾子がそう振る舞うのは、ただ孫のためにほかならない、と。だが、それもまた理解できることだった。なにしろ子どもと綾子のあいだには血のつながりがあり、子を守ろうとするのは人情というものだからだ。「はい、分かりました」紗枝は静かに承諾の言葉を口にした。だがその承諾は、綾子の説得に折れたからではない。すべては啓司のためだった。彼に一体なにがあったのか。なぜ、どうしても自分と離婚しようとするのか。その理由を、どうしても確かめたかった。もし本当に自分を嫌い、愛していないのだとしたら、潔く身を引くつもりだった。決して彼にすがりついたりはしない。紗枝の承諾を聞くや、綾子はすぐに送金を済ませ、どこか母性的な響きを帯びた声で言った。「大した額じゃないけど、あなたと子どものお小遣いだと思って。好きなものを何でも買いなさい。足りなくなったら、また母さんに言って」紗枝は拒まなかった。綾子は子どもの実の祖母であり、その祖母が孫に与える金を、母である自分が断る理由などない。以前はいつも受け取りを固辞していたが、そのたびに人から陰口を叩かれたり、嫌味を言われたりした。ならば、いっそ素直に受け取った方がいい。「はい、ありがとうございます」「ええ、あなたも子どもも体に気をつけてね」綾子はそう言って、紗枝を気遣うように声を和らげ、電話を切った。スマホのネットバンキングを開いた紗枝は、口座に振り込まれた額を見て思わず息を呑んだ。十億円。綾子の気前のよさには改めて驚かされる。お小遣いと称して、いきなり十億円を渡すとは。深く考えることなく、紗枝はその大金をそのまま専用口座へ移した。その日、梓は仕事へ、逸之は幼稚園へと出かけ、夏目家の屋敷には紗枝ひとりが残された。ベランダのリクライニングチェアに身を横たえ、目を閉じてひとときの休息を取ろうとしたが、傍らのテーブルに置いたスマホがしきりに震え、眠りを妨げた。眠れぬまま画面を開くと、営業五課のグループチャットに次々とメッセージが飛び込んでいた。「課長!今日二件も契約取れました!」「おめでとうございます!僕は今日は一件だけでした。見習わないと!」「私も一件だけだけど、受注額が一億円を超えたよ!」社員たちの弾んだ
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第1017話

営業一課のオフィスで、夢美は部下の報告を聞き終えると、紗枝がご祝儀を配ったことを知り、鼻で冷たく笑った。「たかが五千円の祝儀で、あの人たちったら、まるでお金を見たこともないみたいじゃない」夢美にとって、こうした紗枝の「人心掌握の術」など取るに足らないものだった。リーダーである自分が、どうして部下の機嫌を取ってまで仕事を進める必要があるのか――そう心の底から軽蔑していたのだ。退室しようとしていたアシスタントは、心の中で舌打ちした。紗枝さんは一つだけ祝儀を配ったわけじゃない。それに、社員にしてみれば、たまに上司からご祝儀をもらえるだけで励みになるものよ。夢美さんがケチで、社員にボーナスを出すのを惜しんでいるだけなのに、よくもまあ他人を笑えるわね。アシスタントがオフィスを出ようとしたその時、夢美が声をかけて引き止めた。「一課の社員全員に伝えて。今月は必ず五課を上回ること。もし業績が下回ったら、全員の成果給を半分にするから」「……はい」アシスタントは従順に答え、その場を後にした。営業一課にこの知らせが伝わると、オフィスには一斉に重苦しいため息が漏れた。誰も夢美に正面から異を唱えることはできなかったが、陰では不満を抑えきれず、口々に愚痴が飛び出した。「夢美が勝手に紗枝と張り合ってるだけなのに、なんで無関係な俺たちが巻き添えを食うんだ」「そうだよな!五課を超えなきゃ成果給半減だとか言ってるくせに、超えたらどんなボーナスがあるかなんて一言もない」「ご褒美なんて期待するだけ無駄だろ。忘れたのか?昔は五課が会社の営業成績トップだったんだぞ?夢美がマネージャーとして天下りしてきたせいで、あの部署はめちゃくちゃになったんだ」彼らは男子トイレに隠れてこそこそと愚痴をこぼすしかなかったが、あいにく五課の社員がその場に居合わせ、すべてを耳にしてしまった。そして部署に戻るなり、紗枝に報告したのである。その頃、紗枝は会社に戻る途中だった。彼女は心の中で繰り返し自分に言い聞かせていた。啓司のことで計画を狂わせてはならない、と。黒木グループで経験を積み、人脈を築けるこの機会は二度とない。決して無駄にはできなかった。オフィスに着くと、部下から営業一課の話を耳にした。少し考えたのち、紗枝は五課の社員たちに向かって言った。「いっそのこと、一課に
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第1018話

心音は、紗枝が今やすっかり「丸投げ社長」に慣れてしまったことに呆れ、ため息を混ぜながら言った。「私も女の子なんだから、いつかは結婚だってするのよ。毎日仕事に埋もれて、彼氏を探す時間もないじゃない」それを聞いた紗枝は、思わず吹き出した。「じゃあ、帰国する?私が彼氏を探してあげる」「私が帰国したら、こっちの会社はどうするのよ」心音はすぐに問い返した。「オンラインで仕事すればいいし、どうしても無理なら、国内に支社を立ち上げて、他の業務は信頼できる人に任せればいいわ」と紗枝はさらりと言った。紗枝にとって、会社の経営を何でもかんでも自分で抱え込むなんて、過労で倒れるのは時間の問題だと分かっていた。その言葉を聞いた心音は、途端に乗り気になり、二つ返事で承諾した。「いいわ!帰国する!」ふと何かを思い出したように、心音は紗枝に尋ねた。「そうだ、あなたのそばにいるボディガードの雷七さん、彼女いるのかしら」以前、心音は雷七と何度か会ったことがあり、腕の立つこの男性にかなり好感を抱いていたのだ。紗枝は、彼女がまさか雷七を気に入るとは思っておらず、隠さずに答える。「彼、前は婚約者がいたけど、その後婚約は解消されたから、今は彼女はいないはずよ」「それは良かった!」心音はすぐに念を押した。「私のために彼を見張ってて。絶対、他の女に取られちゃダメだからね!」しかし、心音は後任の責任者との引き継ぎがあり、すぐには帰国できなかった。「わかった、任せて」紗枝は請け合った。二人はそれからもしばらく話し込み、ようやく紗枝は電話を切った。半日以上仕事に追われ、さらに心音と長話したことで、紗枝の気分はすっかり晴れた。帰りには、自らキッチンに立ち、梓と逸之に夕食を作ろうと決めていた。しかし、キッチンに入った途端、以前牡丹別荘で働いていた家政婦とシェフが入り口に立っているのが目に入った。「奥様」家政婦が先に声をかけた。紗枝は少し気まずく思い、尋ねた。「どうしてここに?」「旦那様が、こちらへ行くようにと。これからは奥様と逸之坊っちゃまがいらっしゃるところに、私達もいるようにと仰いました」と家政婦は説明した。この家政婦は逸之の世話をいつも献身的にしており、これほど信頼できる人をまた探すのは容易ではないことを紗枝も分かっていた。シェフも
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第1019話

紗枝の頭の中は、今、ただ一つの考えで埋め尽くされていた――啓司の身に何かあったのではないか、それを確かめなければならない。一方、啓司はすでに入り江別荘に引っ越し、一時的に身を寄せていた。その夜も彼は眠れず、頭の中では昼間の離婚の出来事が繰り返し再生されていた。すると、聞き慣れた着信音が突然鳴り響き、啓司は思わず息を呑む。紗枝には専用の着信音を設定しており、それを聞けばすぐに彼女からの電話だと分かるのだ。啓司はスマホを手に取り、出るべきか出ないべきか躊躇っていた。一方、電話の向こうの紗枝は、心の中でとっくにパニック状態になり、本当に悪い知らせを聞いてしまうのではないかと恐れていた。ついに、着信音が切れそうになる寸前、電話が繋がった。「何の用だ」啓司の、冷たく聞き慣れた声が受話器から響く。紗枝の張り詰めた心は少し緩んだが、それでも平静を装って答えた。「別に用はないんだけど、眠れてるかなって思って電話してみたの」啓司は喉が微かに詰まるのを感じたが、口調は依然としてそっけない。「君が電話してこなければ、よく眠れたはずだがな」その言葉に、紗枝は呆れて思わず笑いそうになり、スマホを握りしめたまま、しばらく声を出さなかった。長い沈黙の後、紗枝は一方的に電話を切り、布団に潜り込んで目を閉じ、無理やり眠ろうとした。啓司が元気そうで、こんなに腹立たしいくらいなら、自分が馬鹿みたいに心配する必要もない。かえって安心して眠れるというものだ。一方、啓司は受話器から聞こえるツー、ツーという音を聞いて、ようやく紗枝が電話を切ったことに気づいた。彼はスマホを握ったまましばらく静かに座っていたが、やがてゆっくりとそれを脇に置いた。翌日、和彦が啓司の健康診断に訪れた際、彼の目の下の隈を一目見るなり問いかけた。「よく眠れませんでしたか」啓司は否定せず、淡々と「ああ」とだけ応えた。「あまり心配しないでください、手術は必ず成功しますから」和彦は人を慰めるのが得意ではなく、気休めの言葉しかかけられなかった。しかし、啓司が眠れなかった原因が手術の心配ではないことは、彼には分からなかった。和彦は手順通りに啓司の術前検査を一通り行い、結果は全ての指標が正常で、完全に手術条件を満たしていた。「今日にでも入院しましょう」
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第1020話

「お父さん、お金は美希さんに振り込んでおいてください。私はまだ用事があるので、財産公正証書の手続きには付き添えません」昭子の頭の中は、紗枝の離婚のことでいっぱいで、父・世隆の財産分与など気にかける余裕は全くなかった。世隆は思わず訝しむ。「何があったんだ、そんなに急いで」「紗枝と啓司が離婚したの。拓司が彼女に取られやしないか心配で」昭子は慌てて答えた。拓司ほど優秀な婿であれば、当然狙っている者も少なくない。それを聞いた世隆は、即座に昭子に指示した。「それなら早く帰って見張っておけ。しくじるんじゃないぞ」「ええ」昭子は車に乗り込むと、一瞬ためらったが、やはり運転手に黒木グループへ向かわせた。前回黒木に来た際、拓司を怒らせてしまい、二度と勝手に会社に来るなと釘を刺されていた。今回は拓司の怒りを買わぬよう、わざわざ青葉の名を借りてやってきたのだ。昭子は本社ビルの最上階まで進み、社長室の周囲を見回したが、紗枝の姿はない。そこで秘書に尋ねた。「紗枝はどこ?」「紗枝さんはすでに営業部に移動されています」昭子は少し安堵し、手を上げて社長室のドアをノックした。「入れ」聞き慣れた男性の声が中から響く。昭子がドアを開けて中に入ると、拓司はデスクの前で書類を処理していた。顔を上げた彼は、慌ただしい様子で綺麗に着飾った昭子を見て、眉をひそめる。「言っただろう?何か用があるなら家で話せと。どうしてまた会社に来たんだ」「拓司、まあ怒らないで。お母様の代わりに来たの」昭子は急いでスマートフォンを取り出し、事前に準備しておいたチャット履歴を拓司に見せた。「この間、鈴木家と黒木家で共同プロジェクトがあったでしょう?お母様から、鈴木グループの代表として提携の件で打ち合わせに来るように言われたの」このチャット履歴は、昭子が途中で青葉と相談して急遽作ったものだった――拓司と紗枝が内密に接触するのを阻止するため、提携先の担当者という名目で黒木に留まり、ついでに紗枝を「懲らしめる」機会を窺う必要があったのだ。拓司は当然、彼女の下心を見抜いていた。しかし、目下、鈴木家との提携は確かに必要であり、自身の黒木グループにおける社長の地位を固めるためにも青葉の助けが必要だったため、それを指摘することはなかった。「妊娠しているんだか
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