All Chapters of 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める: Chapter 1031 - Chapter 1040

1050 Chapters

第1031話

美希は悪夢にうなされた。夢の中で彰彦は決して彼女を許さず、周囲の人々も次々と離れていき、最後に残されたのは自分ひとりだけだった。目を覚ましたとき、美希は体を丸め、虚ろな目をしていた。これは夢ではない。まさに現実そのものだった。今の彼女は、自立した孤高の存在であり、寄り添ってくれる者は誰一人いなかったのだから。ゴロゴロ――!ひときわ大きな雷鳴が轟き、美希は窓の外の暗い夜空を見上げた。理由は分からない。ただその瞬間、なぜか少しだけ気力が戻った。無理やり体を起こし、徹夜で編みかけていたマフラーを仕上げ、あらかじめ準備しておいた品々を一つずつ大きな箱に詰めていく。最後に手紙を書き添え、ようやく全てを整え終えると、静かにベッドへ戻った。だが横たわった途端、腹部に鋭い痛みが走った。無数の刃が内側でかき乱すかのような激痛。声すら出ず、医者を呼びたくても助けを求める力はもう残っていなかった。今夜が自分の限界だと、美希には分かっていた。寝返りを打つことさえ叶わない。それでも孤独に死んでいくのだけは嫌だった。無力な恐怖が全身を飲み込み、誰かがそばにいてくれることを切に願った。「……痛い……」かすかな声を絞り出したが、深い眠りに落ちている介護士には届かない。ベッド脇のナースコールにも手は届かず、美希はただ、死へと近づく痛みに身を委ねるしかなかった。これも報いなのだろうか。胸を満たすのは悔恨ばかり。だが、後悔してもすでに遅かった。夜明け前、空がわずかに白み始めた頃、美希の命の火は尽き、完全に息を引き取った。彼女にとって、それはある種の解放だったのかもしれない。介護士が異変に気づいたのは二時間後だった。美希の鼻先に手をかざし、体温を確かめると、顔色を変えて叫んだ。「美希さん……」ベッドの上の人は、もう二度と反応を示さなかった。「どうしてこんなに深く眠ってしまったの……!」自責の念に駆られた介護士の頬を、涙が伝った。長く美希を見守ってきた彼女は、日ごとに衰弱していく姿を知っていたからこそ、胸が張り裂けそうだった。それでも現実を受け入れ、介護士は真っ先に紗枝へと電話をかけた。夏目家の本宅では、平凡な朝が始まっていた。洗面を終えた紗枝のもとへ、介護士からの着信が届く。受話器からはすぐにすすり泣く声が漏れた。「美希さんが
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第1032話

「母さん!」ベッドの上で冷たくなった美希の姿を目にした瞬間、太郎は思わず叫んだ。瞳の縁はたちまち赤く染まり、涙がにじむ。これまで彼は、美希が昭子ばかりをえこひいきすることに不満を抱き、憎しみに近い感情さえ抱いていた。だが今、母がもうこの世にいないという現実を突きつけられ、悲しみを押し隠すことはできなかった。「母さん、どうしてこんな急に逝っちゃうんだよ……母さん……」その傍らに立っていた紗枝の喉が、不意に詰まるように痛んだ。美希は実の母ではなく、常に冷たく当たってきた存在ではあった。だが十年以上を共に過ごしてきた以上、確かな繋がりはあった。悲嘆に満ちた光景に耐えきれず、紗枝はそっと踵を返し、霊安室を後にした。廊下に出ると力が抜け、その場にうずくまり、深く頭を垂れる。どれほどの時が過ぎただろう。ふと視界に影が差し、顔を上げると、そこにはダークスーツを端正に着こなした拓司が立っていた。冷ややかな表情のまま、低い声で尋ねる。「大丈夫か」紗枝はすぐに顔を背け、彼の視線から逃れた。赤く潤んだ目を見られたくなかったのだ。「平気よ」平気じゃない理由がない。あの美希がようやく死んだのだから、むしろ嬉しいとさえ思うべきだ。なのに、どうして涙があふれそうになるのだろう。拓司に、彼女の強がりが見抜けないはずはなかった。子供の頃、二人が飼っていた子猫が死んだ時でさえ、紗枝は長く泣き続けていた。ましてや美希は、幼い頃から頼りにし、模範として仰いできた母親である。深く傷つけられた後であっても、心の奥に全く感情が残らないはずはなかった。拓司は彼女の隣に腰を下ろすと、反応する間も与えず、その体を力強く抱き寄せた。「泣きたいなら泣けばいい。誰も笑ったりしない。誰も君を責めたりしない」紗枝の喉はさらに焼けつくように痛んだ。だが、今の二人の立場をよくわきまえていた彼女は、必死に手を伸ばして彼を押し返そうとした。「やめてください」拓司の腕がぴくりと硬直する。はっとして思い出した。もう子供の頃ではないのだ。紗枝は、何でも彼に頼り、実の兄のように慕っていたあの少女ではない。彼は静かに腕を緩め、申し訳なさそうに口を開いた。「……すまない、軽率だった」紗枝は何も言わず、彼を見ようともしなかった。ただ廊下の突き当たりに視線を固定し
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第1033話

紗枝は「見たくない」と即座に断ろうとした。だが、その前に太郎が手を伸ばし、手紙を受け取っていた。「姉さん、俺が読んでやるよ。母さん、一体何を書いてるんだろうな」彼の胸中には打算があった。美希と世隆の離婚裁判で多額の財産を得たことは知っている。ひょっとすれば、遺産についての言及があるかもしれない。太郎は待ちきれぬように封を切り、読み上げ始めた。だがそこに綴られていたのは、ただ紗枝への言葉ばかりだった。「紗枝、ごめんなさい。今さら何を言っても遅いのは分かっているけれど、それでも謝りたい。私は母親失格だった。あなたの母親でいる資格すらない……けれど幸いにも、私はそもそも実の母親ではなかった」実の母親じゃない。その一文に、太郎の胸がざわついた。ただ奇妙だと感じただけで、深くは考えなかった。彼は単純な性格で、複雑なことに思いを巡らすことはしない。手紙は懺悔と謝罪の言葉で埋め尽くされ、ようやく最後の数行に太郎が気にかけていた内容が現れた。「私は弁護士に依頼し、私名義の全財産をあなたに残すことにしました」その一文は雷鳴のように太郎を打ち、頭の中が真っ白になった。彼は慌てて介護士に詰め寄る。「母さん、俺には何も残してくれなかったのか?」介護士は、滅多に見舞いに訪れなかった息子を見つめ、静かに首を振った。「いいえ、美希さんは紗枝さんのことしか口にされませんでした」瞬時に怒りが胸に燃え上がった。だが拓司の前で取り乱すわけにもいかず、太郎は笑みを作って紗枝に向き直った。「姉さん、昔はよく母さんが俺ばかり贔屓してるって言ってたよな?見ろよ、死んでからは財産まで全部姉さんに残すなんて、俺には贔屓のかけらもないじゃないか」紗枝も、美希が全財産を自分に残すとは夢にも思っていなかった。介護士に確かめようとしたが、拓司が口を開いた。「紗枝、美希さんから確かに遺産整理を頼まれていた。弁護士はうちの会社の提携先で、もう呼んである。そろそろ到着するはずだ」拓司までそう言うのなら、疑う余地はない。一方の太郎は、ますます胸の内に不満を募らせていた。美希は生前、あの「偽のご令嬢」である昭子を贔屓し、今度は金を全て紗枝に渡す。実の息子である自分など、初めから眼中になかったのだ。「どうして美希さんがあなたにそんなことを?」紗枝は訝しげに
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第1034話

拓司が口を開くより早く、太郎が冷ややかな皮肉を吐いた。「実の娘であるあんたが来ないんだから、母さんの未来の婿である拓司さんが来るのは当然だろ!あんたみたいに薄情な人間ばかりじゃないんだ」人前で弟に面罵され、昭子の瞳に冷たい光が走る。「太郎、偉くなったじゃない。いつから私に説教できる立場になったわけ?もし私のためじゃなかったら、拓司があなたを助けたとでも思ってるの」その一言は太郎の痛いところを鋭く突き、彼はたちまち口ごもった。昭子は辺りを見回し、美希の遺体が見当たらないことに気づく。訝しげな表情を浮かべると、看護人が親切に口を開いた。「美希さんのご遺体は霊安室に運ばれました。もしご覧になりたいのでしたら、ご案内します」「誰が死人なんて見に行くもんですか」昭子は嫌悪をあらわにし、棘のある口調で返す。「私が妊娠してるのを知らないの?わざと縁起でもないことをさせようとしてるの」看護人は言葉を詰まらせ、黙って身を引くしかなかった。その時、昭子は床に置かれた段ボール箱に目を留める。中には粗末な手編みのマフラーと手袋が収められていた。彼女は嫌悪感を隠そうともせず、箱を足で乱暴に蹴飛ばした。「何これ、ゴミじゃない。こんなとこに置かないでよ」毒づいた後、がらりと話題を変えて本題に切り込む。「さっき入口で聞いたんだけど、母の遺産を分けてるって話してたわね」遺産のこととなれば、彼女はまた美希を「母」と呼ぶのだった。太郎は昭子の腹の内を察し、すぐさま言葉を差し込んだ。「母さんはもう遺言書を残してたんだ。遺産は全部、姉さん――紗枝のものだ。あんたには一銭も残してない!さっさと帰れよ、邪魔するな」「ありえない!」昭子は声を荒らげた。「お父さんは美希さんに四百億以上も与えたのよ。それを全部紗枝に残すなんて、どうしてよ」これまで昭子がどんな過ちを犯しても、美希は必ず許してきた。常に「血の繋がりこそが尊く、他人は何でもない」と口にし、その甘さゆえに昭子はずっと怖いもの知らずでいられたのだ。「昭子さん、状況は太郎さんがおっしゃる通りです」弁護士が一歩前へ進み、厳粛に告げる。「美希さんの遺言書は、私が公正証書として作成したもので、法的な効力を持っています」拓司も続けて言った。「昭子、君はとっくに美希さんと親子の縁
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第1035話

紗枝はソファの背にもたれ、体を小さく丸めるようにして、一人沈み込んでいた。今この瞬間、どうしようもなく誰かに話を聞いてほしかった。だが、連絡先のリストをいくら探しても、打ち明けられる相手は一人として見当たらない。周囲には、誰もいなかった。ふと、啓司の顔が自然と脳裏に浮かんだ。しかし次の瞬間、勢いよく首を振ってその思いを振り払う。もう離婚したのだ。とっくに関わりのない相手だ、と。時間はやけにゆっくりと流れ、眠気などかけらも訪れなかった。紗枝はスマホを取り出して画面を確認する。そこに新しいメッセージは一つもなく、ただすっきりとした待受が広がるばかり。胸の奥が締め付けられるように痛み、指先は無意識に連絡先をスクロールしていた。そして、気づけば「啓司」の名前のところで止まっていた。どうして自分がこんなことをしているのか、本人にも分からなかった。気がつけば、手が勝手に動き、発信ボタンを押していたのだ。一方、私立病院では、啓司は翌日に手術を控えていた。着信音が鳴り、画面に「紗枝」の名が浮かぶ。啓司はしばしその文字を凝視し、指を受話ボタンの上に止めたまま、何度も逡巡した。だが最後には、心を鬼にして通話を切った。そのころ、電話の向こうで紗枝は「通話終了」の表示をじっと見つめていた。胸の奥に残っていた最後の希望さえ、完全に打ち砕かれたのだ。彼女は迷うことなく、啓司の番号をブラックリストへと登録した。啓司は美希がすでに亡くなったことを知らなかった。病室のベッドに横たわり、口では「怖くない」と繰り返しながらも、心の内は不安に押し潰されそうだった。何度も祈る。どうか手術が成功しますように。もう一度光を見たい。そして何より、紗枝とやり直す機会をください、と。牧野は美希の死を知っていた。だが、明日の手術を控える啓司の心を乱すことを恐れ、その事実を伝えることは最後まで口にできなかった。太郎は葬儀を機に一儲けしようと考え、わざと三日三晩にわたる盛大な葬儀を企て、人を手配した。彼は紗枝に電話をかけ、懇願するような声で言った。「姉さん、葬儀にはどうしても来てくれないと。何と言ったって、彼女は一応姉さんの母親なんだから。娘が顔を出さなければ、周りが何を言うか分からないよ」「分かったわ。最終日には行く」紗枝は落ち着いた声でそう答えた。
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第1036話

唯の視線は紗枝のお腹に注がれ、その声音には気遣いが滲んでいた。「最近、妊婦健診に行ってないの?赤ちゃんはどう?胎動はある?」そう言いながら、そっと手を伸ばし、お腹に触れようとする。紗枝は柔らかく微笑み、わずかに身を引いた。「まだ小さいから、胎動は感じないの」「そう……」唯はそのまま隣に寄り添い、子供のように甘える声で言った。「ねえ、この二、三日、一緒に寝てもいい?」「もちろんよ」紗枝は即座に答えた。内心では、むしろ誰かに傍にいてほしかった。ひとりになると、つい余計な思考に囚われてしまうからだ。「じゃあ今すぐ、着替えを持ってきてもらうように連絡するね」唯はスマートフォンを取り出し、軽やかにメッセージを打ち始めた。「ええ」唯が来てから、広すぎる屋敷にようやく人の温もりが戻った。ほどなく梓も仕事から帰宅し、家は一気に賑やかさを取り戻し、紗枝の周囲に漂っていた孤独感はようやく払拭された。二人の子供もまた、紗枝を案じていた。リビングで大人たちが談笑している隙に、景之が逸之を手招きし、小声で囁く。「なあ、あのクズ親父、なんで急にママと離婚だなんて言い出したんだ?」「聞くまでもないさ。絶対、外に女ができたんだ!」逸之は間髪入れずに答えた。景之は帰国前、わざわざ啓司のことを調べていた。啓司は他の御曹司とは違い、身の回りに女の影はほとんどなく、唯一関わりがあったのは初恋の相手・葵だけだと知っていた。「まさか……また葵とやり直したってのか?」景之は眉間に皺を寄せる。「あれだけ浮気されておいて、まだ懲りてないのか?」逸之は首を横に振った。「わからない。この前、こっそり会社まで後をつけたんだ。誰と浮気してるか見極めようと思ったんだけど、我慢できなくなって見つかっちゃった」「会社?」その一言で、景之の瞳に鋭い光が宿る。「どこにあるんだ?」逸之は方向音痴で有名だ。頭を掻きながらしばらく考え込む。「覚えてない……」「お前な……」景之は思わず弟の頭をこじ開けたくなった。「簡単な道順すら覚えられないのか?」「二回しか行ってないんだぞ!覚えられるわけないだろ!」逸之は拗ねた声を上げ、不満げに顔をそむける。「誰もお兄ちゃんみたいに記憶力がいいわけじゃないんだ」二度も行って覚えていない?景之
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第1037話

景之は自分のLINEアカウントにログインし、和彦へ直接ビデオ通話をかけた。その頃、和彦は翌日に控えた啓司の開頭手術について、医学の専門家たちと議論の最中だった。画面に「景之」という名前が浮かんだ瞬間、彼は思わず眉をひそめる。こんな時に、いったい何の用だ?さらに厄介なことに、彼のスマホはプロジェクターに接続されており、その場にいた全員が景之の名前の横に表示されたメモを目にしてしまった。「前世で借金を取り立てに来た生意気なガキめ!」和彦は慌ててプロジェクターを切り、会議室を早足で飛び出すと、廊下に出てから応答ボタンを押した。画面が明るくなり、瞬間、端正で幼さを残した景之の顔が、画面いっぱいに映し出された。「何だ?」彼は自分よりもはるかに目を引くその顔を見て、胸の奥に妙な嫉妬が芽生えるのを感じた。景之は答えず、背後の様子をじっと見てから口を開いた。「和彦おじさん、今M国にいるの?」和彦はまともに相手にせず、いい加減な嘘を口にする。「ああ、そうだ。どうした?……まさか、またおじいちゃんが呼んでるのか?」しかし彼は気づいていなかった。景之はすでに背後の植物を見て矛盾を察していたのだ。それは桃洲特有の品種で、M国には存在しない。この男は、やはり抜けている。「おじいちゃんじゃないよ」景之は真剣な顔で言った。「唯おばさんが、和彦おじさんがそっちでどうしてるか、元気かどうか聞いてみてって言ったんだ」彼は澤村のおじいさんに、唯と和彦を結びつける手助けをすると約束していた。和彦は時折ずるい一面を見せるが、よく観察すると、仕事の上では頼りになる男でもある。かつて唯の初恋相手・花城が結婚した際、花城の母親が大勢の前で唯を侮辱したときも、和彦は真っ先に彼女を庇ってくれた。「唯が……俺を心配してるだと?」和彦はその一言に、明らかに動揺した。唯が人を気遣う?いつからそんなふうになった?彼の頭の中は疑問符でいっぱいだった。「唯おばさんは口が悪いけど、本当は優しいんだよ」景之は言葉を継ぐ。「二人が知り合ってもう一年近いでしょ?和彦おじさん、僕より唯おばさんのこと分かってないんじゃない?彼女、自分で聞くのが恥ずかしいから、僕に頼んだんだよ」和彦はその言葉に、無意識のうちに口元を緩めていた。自分では気づいていな
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第1038話

「それでいいのよ!あいつからのプレゼントなんて受け取るもんじゃないわ」唯は我に返り、慌てて景之を褒めた。「物をもらったら弱みを握られるだけ。あの男、絶対ろくでもないことを考えてるに決まってる」「うん、そうだね」景之は素直に相槌を打った。その傍らで逸之は、兄が顔色ひとつ変えずに嘘をつくのを見て、胸の内で密かに呟いた。普通の人の嘘ならすぐに見抜けるのに、お兄ちゃんの嘘はまったく綻びがない。もしかすると、これまでも知らないところで、自分は騙されていたのかもしれない。「さあ、早く顔を洗って寝なさい」唯が促す。「はーい!」二人の子供は声を揃えて返事をした。子供たちを寝かしつけると、三人の女たちはソファに腰を下ろし、お菓子をつまみながら語り合った。やがて紗枝は眠気に勝てず、先に部屋へ戻って休むことにした。残された唯は、梓にふと尋ねた。「梓、牧野さんと付き合ってて、どうなの?」唯は彼に一度会ったことがある。堅物で冷たく見え、全身から「近寄るな」という空気を放っていて、とても人を大事にするような男には見えなかった。「まあまあかな、普通よ」梓は淡々と答えた。「じゃあ、牧野さんから啓司のこと、何か聞いてない?どうしても理解できないのよ。なんで急に紗枝ちゃんに離婚を切り出したのか」「正直、何も話してくれないの。どうも私を警戒しているみたいで」梓は苦笑し、肩をすくめた。脅したりすかしたりしても、牧野は口が堅く、一言も漏らさなかったのだ。「そう……」唯はソファに身を沈め、憂鬱な顔をした。やはり不可解すぎる。梓は翌日も仕事があるため、二人は長く話さず、それぞれ部屋へ引き上げた。唯と紗枝は同じ部屋で眠ることになり、ベッドに入ると、紗枝がまだスマホを手にしているのに気づいた。「眠いって言ってたのに、どうしてまだ起きてるの?」唯が不思議そうに尋ねる。「眠れなくて、ちょっとスマホを見てただけ」紗枝はスマホをベッドサイドに置いた。横になった唯は、そっと紗枝の手を握った。「妊娠してるんだから、ちゃんと眠らなきゃだめよ。スマホはもう置いて、一緒に寝ましょ」「うん」紗枝は小さく返事をした。実のところ、彼女が眠れなかったのは、美希が亡くなったというニュースを見てしまったからだった。報道では美希の生涯が「華やか
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第1039話

唯はもともとそそっかしい性格で、景之と逸之がその日まったく同じ服を着ていることに気づかなかった。そこにこそ、兄弟の仕掛けた計画の肝があった。「逸ちゃん、あとはお前に任せるぞ。お前の『名演技』が試される時が来た」景之は真剣な面持ちで言い含める。「うん、お兄ちゃん、任せて!」逸之は幼い声ながらも自信に満ちた口調で答えた。屋敷に大人が一人だけ残っているという状況でなければ、景之も本当はこの手を使いたくはなかった。何しろ二人は性格も習慣もあまりに違いすぎ、少しでも綻びがあればすぐに見破られてしまう危険があったからだ。「じゃあ、僕は行くね」そう言って、景之はくるりと踵を返し、裏口からそっと抜け出そうとする。その袖を逸之が慌ててつかんだ。「お兄ちゃん、帰ってきたら、中で何があったか絶対に教えてね!」あのクズ親父に何が起きているのか、逸之はどうしても知りたかった。「うん、大丈夫」景之は静かにその手を振りほどき、足早に裏口から古びた屋敷を後にした。ほどなくして、唯がドアをノックした。「景ちゃん、逸ちゃん、おやつにフルーツを持ってきたわよ!」逸之は深呼吸し、兄の口調をまねて真面目な顔で部屋を出た。「唯おばさん、逸ちゃんは寝ちゃったから、僕だけでいいよ」唯は一瞬目を瞬かせたが、目の前の子供が逸之だとは少しも疑わず、ただ心配そうに問いかける。「逸ちゃん、大丈夫?こんな時間に寝るなんて……病院に行ったほうがいいんじゃない?」逸之はフルーツを一つつかんで口に放り込み、首を振った。「いいえ、彼の病気はこんなもので、習慣的に眠くなっちゃうんだ」「そう」唯は景之を以前からませた子供だと思っていたので、その言葉を信じ込んだ。しかし、今日の「景之」にはどこか違和感を覚えた。普段は決して食いしん坊ではなかったのに、今は頬をパンパンに膨らませ、途切れることなくフルーツを口へ放り込んでいるのだ。「景ちゃん、前はこういうの、あまり好きじゃなかったんじゃない?」唯が何気なく問いかける。逸之は一瞬、言葉を失った。普段の兄がこうしたものを欲しがらないことをすっかり忘れていたのだ。慌ててフルーツを置き、平然を装って言った。「もうお腹いっぱい。部屋に戻るから邪魔しないでね」これ以上失敗して正体を疑われるのを恐
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第1040話

景之はタクシーを降り、楓木通りにある私立病院を探し始めた。その建物は、まるで「ここに怪しいものがありますよ」と自ら白状しているかのように、不自然な存在感を放っていた。昨日突き止めた和彦の位置情報を頼りに進むと、案の定、目立たぬ病院の入口には私服姿のボディガードが何人も出入りしており、ただ一目見ただけで普通の病院ではないことが分かった。景之は足音を殺し、慎重に病院の周囲を迂回した。小柄な体は茂みや壁の影に容易く紛れ、隠れる場所を見つけるのに苦労はなかった。しかも、ボディガードたちの警戒はあくまで大人に向けられており、幼い子供を脅威とみなす者はいなかった。だが正面玄関まで来ると、隠れる場所が途端になくなり、彼は裏口の位置も分からず立ち尽くした。「どうやって入ろうか」と心の中で呟きながら、思案に沈む。彼は道端の大木に背を預け、腕時計を取り出して和彦に電話をかけた。どうにか内部へ潜り込めないか試そうと思ったのだ。しかしその頃、和彦は多くの医師に囲まれ、手術室で忙しく立ち働いており、スマホを手にしているはずもなかった。コール音がむなしく続くだけで、応答はない。景之はやむなく一度電話を切った。その時、若い医療スタッフの男女が連れ立って病院へ入っていくのが見えた。景之はぐっと覚悟を決め、思い切ってその背後についていった。予想通り、入口で私服のボディガードに遮られる。「坊主、ここで邪魔するな。あっちへ行って遊んでろ」冷ややかな声音に、険しい顔。普通の子供なら泣き出していただろう。しかし景之は一歩も退かず、病院を指差して言った。「お父さんはここのお医者さんなんだ。お父さんが僕に来いって言ったんだよ」ボディガードは一瞬きょとんとし、目を丸くした。本当にそんな医者がいるのか――命令を知らずに自分の子を呼び寄せるなど考えられない。中へ確かめに行くべきかどうか迷っていると、景之が突然腹を押さえ、苦痛に顔を歪めて叫んだ。「うっ……!」「どうした?」ボディガードが慌てて身を屈める。「お腹がすごく痛い、もう我慢できない、トイレに行きたい!」景之は必死の表情で訴える。「おじさん、話してる時間なんてないよ!早く中に行かないと。僕、前からよくお父さんに会いに来てたんだ!」言うが早いか、彼は一目散に院内へ駆け込んだ。ボ
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