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第1071話

Author: 豆々銀錠
拓司はその言葉を聞くと、しばらく沈黙した。

紗枝の瞳には、切実な懇願の色が宿っていた。

「お願い、啓司に会わせて」

啓司が今のような状態になってからというもの、紗枝はどうしても落ち着かなかった。

彼女はすでに覚悟を決めていた。もし拓司が承諾しなければ、綾子に頼みに行こうと。

あの人は子供の祖母なのだから、「父親に会いたい」と願えば、きっと許してくれるはずだ、と。

「……わかった。でも、身の安全には気をつけて」

拓司は少しの間を置いてから折れた。

「うん」

紗枝は安堵の色を浮かべて頷いた。

拓司はさらに念を押した。

「仕事が終わったら一緒に行こう。兄さんは今、とても不安定なんだ。屋敷の使用人たちは、ほとんど全員が殴られている」

「わかったわ。じゃあお願いね。先に仕事に戻るから」

紗枝は礼を言い、踵を返した。

「ああ」

彼女の背が遠ざかるのを見送ると、拓司はすぐに屋敷の使用人へ電話をかけ、啓司の様子を尋ねた。

使用人によれば、啓司は相変わらず気性が荒く、些細なことで人に手を上げるという。鈴は殴られただけでなく、汚水まで浴びせられたらしい。

それを聞いた拓司は、声を低くして問い詰めた。

「医者には診せたのか」

「啓司様は先ほどお休みになられました。今、お医者様が診察をされています」

「わかった。何かあったらすぐに知らせてくれ」

「かしこまりました」

電話を切ると、拓司は深く息を吐いた。

夜になり仕事を終えると、彼は紗枝を連れて屋敷へと向かった。

到着前、屋敷の執事から電話が入り、綾子もすでに来ていると告げられた。

「……どうして早く言わないんだ」

拓司の声には苛立ちがにじんだ。

「綾子様が突然お越しになるとは、我々も存じ上げず……止めることも叶いませんでした」

執事は一拍置いてから、言葉を続けた。

「ですが、啓司様には鎮静剤を投与いたしましたので、一、二時間は目を覚まされないかと」

これまで拓司は、万が一に備えて、執事に厳しく言い含めていた。

自分の許可なく啓司に会いに来る者があれば、決して軽々しく通すな、と。

彼にはどうしても信じられなかった。兄が本当に正気を失ってしまったなどということは。

むしろ、狂気を装いながら、密かに助けを求めているのではないか――そう考えていたのだ。

「今後は気をつけろ」

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