第1072話

「ええ、啓司によくしてくれれば、私も必ずそれに応えるわ」

綾子は穏やかな笑みを浮かべながら、鈴の肩を軽く叩いた。

鈴の瞳は喜びに輝き、顔には安堵と期待の色が広がった。

「はい！」

その声には、嬉しさと興奮が入り混じっていた。

つい先ほどまで啓司から受けた屈辱も痛みも、今の彼女にはもう遠い記憶のようだった。

しかし、夜が訪れたとき――それが真の悪夢の始まりであることを、鈴はまだ知らなかった。

綾子は、鈴がこの屋敷に残って啓司を気遣っている姿を見て、ようやく安心したように屋敷を後にした。

綾子が去るのを見届けた直後、拓司は紗枝を伴って敷地に足を踏み入れた。

執事がすぐに出迎え、拓司の隣にいる紗枝を一瞥すると、余計な詮索は無用だと悟り、ただ恭しく頭を下げた。

「拓司様」

「兄は目を覚ましたか？」

拓司の問いに、執事は静かに首を振った。

「まだでございます」

拓司は軽く頷き、紗枝を連れて屋敷の奥へと進んだ。

その様子を見た鈴の瞳に、一瞬、冷ややかな光が閃いた。

どうして、彼女までここに？

だが、拓司の前で醜態をさらすわけにもいかず、鈴は表情を整えた。

「拓司様」

声をかけたあと、彼の後ろにいる紗枝には、あえて気づかないふりをした。

紗枝もまた、鈴に視線を向けることはなかった。

だが、鈴の顔に残る傷跡には一瞬、目を留めた。

「行くぞ、上がろう」

拓司がそう言うと、紗枝は静かに頷いた。

二人は鈴の横を並んで通り過ぎた。その様子は、まるで彼女の存在を空気のように扱うかのようだった。

鈴は唇を噛み、二階を見上げた。

どうして……啓司が紗枝に甘いのはまだ分かる。でも、どうして拓司まで？

胸の奥に渦巻く不満は、簡単には鎮まらなかった。

二階では、使用人が啓司の部屋の扉を開けた。

紗枝は一目で、彼がベッドに横たわり、目を固く閉じているのを見つけた。

中に入ろうとしたそのとき、隣の拓司が低く制した。

「気をつけろ」

「兄さんは今、君を認識できない。自分を抑えることもできないんだ……傷つけられないように」

「大丈夫だよ。彼、まだ寝てるじゃない？」

紗枝はそう言って、静かに啓司のそばへ歩み寄った。

ベッドの傍らで、彼女はようやく気づいた。啓司の両手足が、荒縄で固く縛られていることに。

傍らにいた執事が慌てて口を開いた。