All Chapters of 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める: Chapter 1151 - Chapter 1160

1180 Chapters

第1151話

昂司はようやく頭が冴え、自分にはまだ切り札があることを思い出した。あの部屋に監視カメラを仕掛けておいたはずなのだ。黒木お爺さんはその言葉を聞くや否や、すぐさま部下に映像の確認を命じた。だが隅々まで調べても、カメラらしきものはどこにも見当たらない。その報告を受けた瞬間、昂司の血の気がすっと引いた。「おかしい……この手で置いたんだぞ、確かに」言い終えるより早く、夢美が烈火のごとく飛びかかってきた。「昂司、あなたって人は!金を使って商売するとか言ってたけど、まさかこんな下劣なことをしてたなんて!」夫婦はそのまま取っ組み合いになり、周囲も止める暇がないほどだった。拓司も急ぎ駆けつけ、その光景を一瞥して黒木お爺さんに進言した。「おじいさん、今の昂司の評判は最悪です。一度、休ませるしかないかと」それは即ち、昂司の解任を示唆する言葉だった。本社に戻ってきたばかりの昂司が、それに応じるはずもない。「冗談じゃない!こんな些細なことで辞めろと言うのか!」拓司は冷ややかな視線で応じた。「では、どうやって収拾をつけるつもりですか。取引先はあなたの品性を問題視しており、あなたとはもう仕事をしたくないと言っています」昂司はぐうの音も出なかった。黒木お爺さんですら、もはや庇い立てはできない。「これほどの不始末を起こし、黒木家の面目を汚したのだ。当面は休むべきだろう」しかし夢美は納得がいかない。「おじい様、このまま許すおつもりですか?あんな気味の悪いことをしておいて、私が実家にどう説明すればいいんです?」数日前まで夫の良さを得意げに話していた夢美にとって、今はまるで顔に泥を塗られた思いだった。黒木お爺さんは一向に動じない。「夢美、男が浮気することなど珍しくない。広い心を持たねばならん。しかし今回は確かに昂司が悪い。昂司、早く夢美に謝れ」昂司は言われるままに謝った。「夢美、すまない。本当に濡れ衣なんだ。誓って何もしていない」「じゃあ、あのお金はどう説明するの?」夢美は引く気などさらさらなかった。金の話を持ち出されると、昂司の顔色はみるみる青ざめた。「あれは……投資に回したんだ」「じゃあ、その投資先はどこにあるの?」昂司は口をつぐむしかなかった。拳を固く握りしめ、紗枝という女から必ず
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第1152話

黒木家には何かと問題が多い。啓司の伯父の家には昂司のほかにもう一人息子がいるのだが、彼らは今、黒木グループの海外支社に身を置いている。これも、かつて啓司が断行した強硬策の賜物だった。そうでもなければ、伯父とその長男があれほど素直に出ていくはずがない。最近、紗枝は黒木グループ内部に微妙な揺らぎが生じているのを肌で感じていた。伯父たちが復帰の機会を伺っているに違いない、と彼女は踏んでいた。何人かの使用人たちは、紗枝が戻ってくる姿を目にすると、すぐにひそひそと交わしていた噂話を口ごもった。ところが、紗枝が通り過ぎると、再び彼女の話題に戻った。「彼女、本当に啓司様のことが好きみたいよ。毎日一番に帰って来てお世話をして、一番最後に帰るんだから」「顔がタイプなんじゃない?啓司様、頭はどうかしてても、やっぱりイケメンだもの」「……」紗枝は補聴器をつけていたため、彼女たちの会話は一切耳に入っていなかった。もし聞こえていたら、腹を抱えて笑い転げていたに違いない。ほんと、世間話に熱心ね。紗枝は昂司の状況を確認するつもりだったが、今ので十分に察してしまった。昂司の周囲では、いま大騒ぎになっているらしい。夢美が、あの五十億を取り返せないなら離婚すると言い出したのだ。昂司は夢美をなだめようとし、紗枝が戻ってきたと知るなり、他のことなど眼中になく、金を返させようと飛び出してきた。そして彼は決めていた。紗枝がまた何か企むようなら、今度こそ容赦しない、と。紗枝は戻るとすぐ綾子のもとを訪ね、一緒に生け花を楽しんだ。綾子は今、紗枝に対して驚くほど穏やかな態度で接しており、何から何まで丁寧に教えてくれる。「綾子様、昂司様がいらっしゃいました。さ……紗枝様にお目にかかりたいと」「昂司が紗枝に?一体何の用かしら」綾子は訝しげに眉を寄せた。使用人は小さく首を振った。紗枝が口を開く。「夢美さんの件でしょうか?」綾子もその線が濃厚だと判断し、使用人に告げた。「彼には『帰れ』と伝えてちょうだい」「かしこまりました」使用人は静かに部屋を辞した。昂司はあっさりと門前払いを食らった。彼は不満を募らせ、人目のない影で待ち伏せし、紗枝が出てきたところを捕まえて再び難癖をつけようと企んだ。しかし、その彼の背後には、昂司の目には見えな
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第1153話

紗枝はしばし呆然としていた。現れた数人は、彼女のボディーガードではなかったのだ。さらに、ようやく駆けつけた彼女本来のボディーガードたちも、状況が飲み込めないという顔をしていた。昂司を叩きのめした一団のうち、明らかにリーダー格と思われる男が、恭しく声をかけてきた。「奥様、ご無事でいらっしゃいますか」奥様、と呼ばれた瞬間、紗枝はすべてを理解した。「あなたたち、啓司の部下なの?」「はい」その返答とともに、彼らは袋に押し込まれた昂司を肩に担ぎ、その場を後にしようとしていた。紗枝は思わず呼び止める。「彼をどこに連れていくの?」「社長のもとへお連れし、指示を仰ぎます」ちょうど手が空いていた紗枝は、「私も一緒に行くわ」と言った。男たちは一瞬、どうすべきか迷ったようだったが、紗枝はさらりと言葉を重ねる。「大丈夫よ。啓司に会いに行くだけだと思って。彼も、毎日来ていいって言ってたもの」その一言に、彼らはようやく承諾した。人目を避けるため、ボディーガードたちは裏口から、紗枝は正面玄関から別々に建物へ入った。三十分後。昂司は昏倒から目を覚ました。頭が割れそうに痛む。「誰だ……誰が俺を殴った……?」うめきながら周囲を見回すと、少し離れたところで何かをつまんでいる紗枝の姿が目に入った。「お前か、このクソ女!よくも俺を殴らせやがって!」昂司は勢いよく立ち上がり、紗枝に飛び付こうとした。だが、彼女に手を上げる前に、濃紺のスーツ姿の男たちに瞬時に押さえ込まれた。左右を見渡し、ここが完全に囲まれていることにようやく気づく。昂司の顔色が変わった。「何をするつもりだ……?」急に下手に出るその態度を、紗枝はどこか可笑しく感じながら言った。「私が何をって?自分の身を守っただけよ。さっき、私を殴ろうとしたでしょう?」昂司は、紗枝がここまで変貌しているとは夢にも思っていなかった。まさかこれほどの人数を連れてくるとは。「無茶はするなよ、俺は啓司の従兄だ。黒木家の人間が俺に何かしたと知ったら、ただじゃ済まないからな」紗枝は黙って聞いていたが、怯む気配など微塵もなかった。昂司は青ざめ、さらに早口で言い募る。「あ、あの五十億はもういらない!全部お前にくれてやる。今回のことはなかったことにしよう。考えろよ
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第1154話

ボディーガードは恭しく頭を下げて報告した。「全部で百二十八匹を飼っておりました。世話は行き届かず、毎日のように鳴き声がうるさいと、多くの苦情が寄せられておりました」「そんな無責任な真似をするなら、犬の餌にでもしてしまえ」啓司は興味もなさそうに言い放った。「かしこまりました」ボディーガードはすぐさま昂司のほうへ歩み出した。昂司は呆然としていたが、次の瞬間には膝から崩れ落ち、気概など微塵もなく跪いた。「啓司さん、今回だけは、どうか……どうかお許しください。二度とこんな真似はしません。俺が卑劣で下品でした。間違っていました。これからは紗枝さんをちゃんと尊重します」そう言って、自ら頬を叩いた。彼は、啓司という男が一切冗談を口にしない人間であることを痛いほど知っていた。前回は凍え死ぬ寸前まで追い詰められ、もし祖父が現れなければ命などとうに尽きていただろう。今回はどこへ連れて行かれるのか見当もつかない。祖父も、もう救いに来られまい。紗枝も、啓司がここまで手を打つとは想像していなかった。一度は止めようかと迷ったが、ふと立ち返ってみれば、昂司のような卑劣な人間に情けをかける理由など、どこにもなかった。啓司が後悔の機会など与えるはずもなく、昂司は抵抗したものの、無情に連れ出されていった。去る間際、昂司は恐怖のあまり気を失った。昂司の件を片付け終えると、啓司は部下たちを下がらせた。まだ拓司には、自分が完全に回復したことを知られたくなかったからだ。ボディーガードたちが退出すると、室内には紗枝と彼だけが残った。啓司は紗枝に歩み寄り、彼女が頬をふくらませて食べているのを目にして、思わずその膨れた頬へ手を伸ばした。紗枝の心臓は妙に規則正しいリズムで跳ね、思わず一歩身を引いた。「な、何ですか……また触ろうとして」啓司は一瞬だけ動きを止め、不承不承ながら手を下ろした。やはり自分のことが好きではないのだろう。顔に触れることすら許されない。「昨日、昂司への罰として仕事も名声も奪うと言っていたが、あれがそうなのか?」彼はいつもの厳しい面持ちに戻って尋ねた。紗枝はこくりと頷いた。「ええ。私にはこれくらいしかできませんでした」「今後は、二度とそんな危険な真似はするな」今の紗枝はあまりに大胆すぎる、と啓司は思った。もし本当に自
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第1155話

牧野はその言葉を聞いた瞬間、こめかみを押さえたくなった。女心というものは、まったく見当がつかないことばかりだ。とはいえ、もし紗枝の言葉が額面どおりの意味だとしたら……「社長、奥様は……社長に対して何か後ろめたいことでもおありなのでしょうか」言い終えるか終えないかのうちに、電話はぷつりと切れた。牧野はしばらく呆然とし、我に返った途端、さらに言葉を失った。社長は今、あまりに繊細すぎる。受け止められないのなら、なぜ自分に訊ねてくるのか。寝ようとしていた矢先、突然メッセージが届き、見ると――誰かが彼の口座に一千万円を振り込んでいるではないか。「冗談だろ……詐欺か?」独り言を漏らしていると、続けざまに琉生からメッセージが届いた。「お前の彼女に、萌と俺の娘の様子を聞いてくれ。一千万円は手数料だ」ちょうど梓との通話を終えたばかりだったが、この金額を見て、牧野は問答無用で再び彼女に電話をかけた。とりとめもなく会話を繋ぎながら、さりげなく萌の話題を出す。萌は最近とても元気で、体の回復も早く、子供も健康そのものだという。梓は怪しんだ。「どうしてそんなに萌と、その子供のことを気にするの?」「ちょっと気になっただけだよ。それより……僕たち、正月に結婚しようよ。結婚したら、僕も娘が欲しい」「あなたとの子なんていらないわ」照れくさそうに言い捨てて、梓は電話を切った。一方の琉生は、夜の十二時まで待ち続け、ようやく牧野たちが長電話を終えたのを確認すると、萌がすべて順調だと知り、ようやく胸を撫で下ろした。何しろ今は紗枝が実家に戻っている。だからこそ、萌に何か起きていないかと気が気でなかったのだ。だが琉生は知らなかった。萌が今、どれほど快適な生活を送っているのかを。夏目家の本宅。たとえ紗枝がそこにいなくても、彼女は寝る前には必ず皆とビデオ通話をし、会話を交わしていた。萌はすでに自由に歩き回れるほどまでに回復しており、体は弱るどころか、時には皆と並んで座り、仕事の話題に加わることさえある。今の彼女は仕事に強い興味を抱いており、産後の体調さえ問題なければ、すぐさま働きに出たいほどだった。「萌さん、そんなに急がなくても大丈夫よ。本当に仕事がしたいなら、心音の手伝いでもいいわ」と紗枝が言う。「本当?それなら、本当に
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第1156話

昭惠は夫のことを思い返していた。青葉の後押しがあったからこそ、夫はただのプログラマーから会社社長へと昇りつめることができたのだ。青葉はさらに言った。「昭惠、もし働きたいなら、会社のひとつを任せてあげるわ」昭惠にとっては願ってもない話だった。だが残念なことに、昭子が子供の世話を口実にその申し出を断らせた。そのせいで、昭惠は昭子への憎しみを抑えられなかった。もし弱みを握られていなければ、自分は青葉の実の娘として、会社どころか鈴木家そのものを継いでいたはずだ。「ママ、ここ、すっごく広いね。公園みたい。ううん、公園よりもずっときれい」冬馬は目を輝かせて言った。世間知らずなその様子を、何人かの使用人が白い目で見た。青葉はすぐに彼らの冷たい視線に気づき、前に出る。「あなたたち、偉そうにしているんじゃないわよ。この子が私の実の孫だってわかっている?あなたたちに、この子を見下す資格なんてどこにもないわ」使用人たちは蒼ざめた。彼らは冬馬を青葉の部下の子供だと思っていたのだ。なにしろ、青葉とはどこひとつ似ていなかった。「申し訳ございません、鈴木様」彼らは慌てて頭を下げた。綾子は以前から、鈴木家の者を怒らせることだけは決してしてはならず、黒木家以上に丁重にもてなすよう、厳しく言い聞かせていたのだった。青葉の目には冷たい光が宿る。「執事はどこ?」すぐに女性執事が駆けてきた。「鈴木様、何かございましたか」「あの人たち、目障りなの。追い出してちょうだい」「かしこまりました。すぐに」執事は先ほどの使用人たちのように愚かではなかった。一分も経たないうちに、冬馬を蔑んだ使用人たちは全員、屋敷から姿を消した。冬馬は昭惠の手を握り、きょとんとした顔で尋ねた。「ママ、おばあちゃん、なんで怒ってるの?」昭惠は幼い頃から、どんな悔しさも飲み込んで生きてきた。しかし今になってようやく、強い味方である母親の存在がどれほど大きなものか理解した。最近、美枝子とは連絡が取れなくなっていたが、鈴木家での暮らしがあまりに快適だったため、美枝子の失踪すら気に留めていなかったのかもしれない。青葉は冬馬へ向き直り、穏やかだが力強い口調で言った。「冬馬くん、よく覚えておきなさい。これから誰かに軽んじられたら、すぐにおばあちゃんに言う
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第1157話

「青葉さん、この方が見つかったばかりの実の娘さんでしょう?本当に瓜二つね」綾子はそう口にしたが、その言葉に心は伴っていなかった。青葉はその賛辞にもわずかに頷くだけだった。かつて復讐の矛先から逃れるために整形を施したことがあり、昭惠が今の自分に似ているはずもないのだ。「ええ。昭惠、こちらが綾子さんよ。あなたのお姉さんの未来のお姑さん」青葉に紹介され、昭惠は綾子を仰ぎ見た。五十を過ぎているとは到底思えない。三十代か四十代といっても通るほど肌は整い、装いも上品で、立っているだけで周囲の空気が華やぐ女性だった。その目の前に立つ自分が、ひどく見劣りする気がしてならない。「綾子様、こんにちは」昭惠はどこか怯えたように挨拶をした。言い終わると、冬馬の手を引き寄せた。「冬馬くん、おばあちゃんにご挨拶しなさい」見知らぬ場所に緊張していた冬馬は、綾子を見るなり、恥ずかしそうに母の後ろへ身を隠した。青葉がたちまちフォローを入れた。「この子は私の孫です。娘と一緒に最近やっと見つかったばかりで、人見知りが激しいんです。どうかお気になさらず」「とんでもないわ」綾子は穏やかに目を細めた。その時、紗枝が前に出た。「青葉さん、昭惠さん、まずは休憩室へご案内します。お部屋の準備は整っておりますので。結婚式の詳細は、後ほどお義母さんとゆっくりお話しされればと」しかし青葉は、紗枝に対して明らかに冷たい態度だった。彼女の二人の娘がどちらも紗枝を快く思っていない以上、青葉が良い顔を見せるはずもない。青葉は紗枝の言葉を無視し、綾子に向き直って言った。「それでは、お言葉に甘えて休ませていただきます」「ええ、どうぞ」数人が奥へ下がると、綾子は胸を撫で下ろした。理由は単純だ。青葉の持つ圧の強さに、思わず自分まで呑まれそうになったからである。無理もない。綾子は長年ビジネスの最前線から身を引いているが、青葉はいまも鈴木グループの社長として君臨している。二人の立場の差は歴然だった。「紗枝、あなた……どうしてあの昭惠さんにそこまで嫌われてしまったの?この前のちょっとした誤解だけではないのでしょう?」綾子には腑に落ちなかった。もし単なる誤解だけなら、青葉があれほどまでに棘を見せるとは思えないからだ。紗枝は、昭
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第1158話

昭子は頭の中で計算を巡らせていた。鈴木家から受け取る高額な持参金に加え、父・世隆からもいくらか援助を取りつければ、完璧と呼べる結婚式が整う――そう確信していた。結婚式の詳細を決め終えると、昭子は青葉に、昭恵と一緒に黒木家の邸内を見て回ることを提案した。「ええ、行ってらっしゃい。私はもう少し休ませてもらうわ」青葉は安堵の表情で二人の背中を見送った。昭恵と昭子の仲は驚くほど良く、まるで生まれた時からの姉妹のようだった。昭恵は青葉の前でも、よく昭子を褒めていたほどだ。しかし外へ出た途端、昭子の本性が露骨に顔を覗かせた。「子供は少し離れたところで遊ばせてきて。あなたに話があるの」「え、あ……はい!」昭恵は媚びるような声音で返事をした。冬馬をなだめて使用人に預けると、昭恵は昭子の指示に耳を傾けた。「あなたも知ってるでしょ?私、もうすぐ結婚するの。でもね、心の中にずっと棘が刺さったままなのよ。そう、紗枝のこと!この数日、黒木家に泊まってるんだけど、紗枝も来てるの。何とかして、お母さんの前で紗枝の悪口をたくさん言ってちょうだい。分かった?」昭恵は明らかにたじろいだ。「それは……さすがにいけないのでは?理由もなく紗枝さんの悪口なんて言えませんし、それに、紗枝さんこそが……」言葉が途中で途切れた。昭子の手が、鋭い音を立てて彼女の頬を打ったからだ。「私に逆らうつもり?」昭恵の頬は灼けつくように熱かった。昭子は冷たい声音で続けた。「お母さんはね、身近な人間には優しくて話もよく聞いてくれる。でも裏切ったり騙したりした者には、一切容赦しないのよ」昭恵の顔はみるみる青ざめていった。「申し訳ありません……今のは私の失言でした」「今後は気をつけなさい。二度と同じことを言わないで。本当にムカつくんだから!」昭子は睨みつけるように言い放ち、さらに低い声で畳みかけた。「理由がないなら作り出せばいいのよ。いちいち教えないと分からないわけ?」「はい……」昭恵は深く頭を下げ、表情の険しさを隠した。その胸中では、別の熱が静かに渦巻いていた。昭子なんて、いなくなってしまえばいい。そうすれば、自分が青葉の娘ではないことが露見する心配もなくなり、誰にも怯えずに済むのに。一方その頃、冬馬は使用人に付き
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第1159話

冬馬は先天性の糖尿病を抱えて生まれつき体が弱く、明一の相手になどなるはずもなかった。どすんと尻もちをついたまま地面に座り込み、堰を切ったように泣き出す。彼を連れてきた使用人は、瞬時に顔色を変え、慌てふためいた。「坊ちゃま、ご無事ですか」明一は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。「病弱のくせに、僕を睨むなんて。べーだ」そこへ明一の家政婦が駆け寄ってくる。「坊ちゃま、どうして冬馬様を突き飛ばしたりなさるんですか」「なんで突き飛ばしちゃいけないんだよ。ここは僕の家で、僕の縄張りだぞ。僕はしたいようにするんだ。お前はただの家政婦だろう!今、僕を責めてるのか?クビにしてやる!」明一は一切手加減をしない。こんな扱いにくい子供を前にして、家政婦も為す術がなかった。一、二歳の頃はあれほど可愛らしかったのに、今ではこの有様だと思うと、胸の奥から深い落胆が込み上げる。その間に、冬馬を世話する使用人が家政婦にそっと視線を送った。早く明一を連れて行ってくれ、さもないと鈴木家の人間に見られたら大事になる――そんな意味が込められていた。実際、今日鈴木家の人々が屋敷に来た際、使用人たちが冬馬に向けた冷たい目つきを昭惠が目にしただけで、執事はその者たちを即座にクビにしたばかりだった。今こんな現場を見られれば、確実に大騒ぎになるし、雇われの身である自分たちも巻き添えになる。「坊ちゃま、そういう意味ではありません。まずはお部屋に戻りましょう」家政婦もその危うさを理解していて、声を潜めながら明一をなだめた。だが、明一は彼女の弱気な態度を見てますます図に乗る。腕を胸の前で組み、わざと泣き止まない冬馬をじっと見据えた。「戻らない。この泣き虫、しっかり見ておくんだ」毎日退屈で仕方なかった彼にとって、これは久しぶりに見つけた面白い遊びだった。見逃すつもりなどさらさらない。家政婦は完全に困り果て、どうすればいいのか分からなかった。無理やり連れ帰る勇気もない。明一は冬馬に歩み寄り、吐き捨てるように言った。「何泣いてんだよ。さっきの威勢はどこ行ったんだよ?もう一回睨んでみろよ!」「この意地悪!おばあちゃんに言いつけてやる!絶対に追い出してもらうんだから!」冬馬は地面からよろめきながら立ち上がり、告げ口に向かおうとした。使用人
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第1160話

逸之が声のする方角に目を向けると、明一が誰かを殴りつけている光景が飛び込んできた。「本当にたちが悪いな」明一にいじめられている子供を見ると、明一よりもさらに痩せ細った、ひどく弱々しい体つきだった。このまま殴り続ければ、ただでは済まない。逸之は即座に配信を切り、まっすぐ明一たちのいる場所へ向かった。「明一、何してるんだ」聞き慣れた声に、明一はビクリと振り返った。家政婦は逸之の姿を認めた途端、頭を抱えた。逸之と明一の間には日頃から揉め事が多く、ここでさらに火花でも散れば、現場は混乱の渦に呑まれるのは目に見えていたからだ。しかし家政婦の予想に反し、明一は冬馬から手を離し、不承不承ながらこう言った。「お前も見てただろ?僕がそいつを殴ってたんだよ」「この泣き虫がさ、さっき僕のこと睨んだんだぜ」今の明一は景之の子分の立場にあるため、逸之に向かって無闇に悪態をつく度胸はなかった。逸之は一歩踏み出し、低く言う。「お前、正気か?この子がちょっとお前を見ただけで殴り倒したのか?」明一は一瞬、言葉を失った。「殴っちゃダメなのかよ」「ダメってわけじゃないけど、お前は理不尽すぎるだろ。睨んだのか、たまたまそういう目つきだっただけなのか、どうして分かるんだよ」そう畳み掛けられ、明一は困ったように頭を掻いた。「そりゃあ……僕には分かんねえよ」そのやり取りを聞いていた冬馬は、誰かが自分の側に立ってくれたことに胸を震わせ、逸之を見つめた。明一よりずっと整った顔立ちで、肌は雪のように白く、黒曜石のような瞳。まるで絵本に登場する王子様のように見えた。救いの手を差し伸べてくれた英雄に縋るように、冬馬は逸之の背後へ身を寄せる。「助けてくれてありがとう。僕、おばあちゃんに話して、お礼してもらうよ」逸之は彼を安心させるように柔らかく目を細めた。「大丈夫。僕が見た以上、見て見ぬふりはしないから」そして再び明一に向き直る。「明一、弱い者いじめなんかして、僕がお兄ちゃんにこのことを言うのは嫌だろ?」景之の名前を出され、明一はすっかり気勢を削がれた。「わかったよ……もう二度と、そのツラ見せるなよ」冬馬を指差して吐き捨てるように言うと、むすっとしたまま足早に家へ引き返した。家政婦と使用人は、肩から力が抜
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