啓司は目を開けず、低い声で言った。「入れ」牧野がそっと入ってきて聞いた。「お邪魔じゃないですか?もうすぐ五時ですよ。逸ちゃんを迎えに行くって仰ってましたよね?」「逸ちゃん?」啓司は怪訝そうに眉をひそめて、「誰だ?」と聞き返した。その瞬間、牧野の表情が固まった。社長、またお子さんのことを忘れてしまったのか。「社長、恐れ入りますが、一つ質問させてください。今は何年でしょうか?」啓司は剣のような眉をわずかにしかめた。「牧野、最近暇すぎるんじゃないのか?ドバイ行きのチケットは用意できてるのか?初級チップの件、詰めて話す必要がある」そう言いながら、目を開けようとし、体を起こそうとした。だが、目の前は真っ暗だった。「なんで何も見えないんだ?」困惑した声が漏れた。初級チップ......それはたしか、紗枝と結婚してから1年以内のことだったか?牧野は内心、ショックを受けていた。当時は黒木グループが一番苦しい時期で、啓司が世間に嘲笑されていた頃だ。「社長、少しお話したいことがあります」「......話せ」牧野はレコーダーを取り出した。ただし中に録音されていたのは啓司自身が語った内容を事細かに記録したものだった。約1時間後、啓司はようやく状況をある程度理解できた。牡丹別荘に戻ると、逸之が車から飛び出し、啓司の脚にぎゅっと抱きついた。「パパ!今日迎えに来るって言ったじゃん!なんで約束守らなかったの!」啓司の瞳が一瞬揺れて、感情が乱れた。そして逸之をひょいと抱き上げ、別の場所に放り投げるようにした。「あっちで遊んでろ」逸之は戸惑ったように牧野を見た。牧野は目線で「今はまずい」と合図を送った。バカパパの病気、こんなにひどいなんて。2日くらいでまた全部忘れちゃうなんて、逸之は思いもしなかった。彼は二階に駆け上がり、紗枝に状況を話すと、真剣な表情で言った。「ママ、今のうちにここ出ようよ」「どうして出て行くの?」紗枝はびっくりして聞き返した。「パパ、もうダメな感じがするからさ。新しいパパ、探そうよ」逸之は真顔でそう言った。紗枝は呆れたように言った。「パパはそんな簡単に変えられるもんじゃないよ」彼女は腰をかがめて、逸之に優しく語りかけた。「逸ちゃん、今のパパはね、あなたの本当のパパなのよ」
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