逸之は少し首を傾げながら二階へ上がった。洗面所から水の音が聞こえる。覗いてみると、啓司が手を洗っていた。その周囲は洗剤でベタベタになり、見るも無残なありさまだった。洗面台の周りをせっせと拭いていた紗枝が、呆れたように口を開いた。「牧野に使い方とか、置き場所とか教えてもらえばいいのに。なんで自分でやろうとするのよ?」紗枝は、啓司が自分を呼び上げたのは、てっきり何か大事な用事でもあるのかと思っていた。けれど実際は、視力を失った彼が高すぎるプライドのせいで牧野に細かく聞けず、何もかも曖昧なまま手探りでやっているというだけだった。今や、手を洗うにも顔を洗うにも、どこに何があるのか分からず、失敗ばかり。昨夜も洗面所をめちゃくちゃにしておきながら、今日になって平然と「片付けて」と頼んでくる。よくもまあ、そんなことが言えたものだ。「あなたの可愛い従妹にでも、頼めばいいじゃない」紗枝の不満は、次々と啓司の耳に届いていた。信じられなかった。あの従順だった紗枝が、いまや自分にこんな口をきくようになるなんて。「......紗枝。俺、ここ数年、お前に優しくしすぎたのかもしれないな」ぼそりと啓司が言った。「それ、本気で言ってるの?」紗枝は最後のひとつを所定の位置に戻すと、彼の手をつかんだ。啓司は本能的に反射しようとしたが、その動きに、どこか嫌悪の色が混じっていた。それが見えた瞬間、紗枝の怒りはさらに燃え上がった。「手をつかまなきゃ、どこに何があるか教えられないでしょ?」渋々といった様子で啓司が手を差し出した。そんな彼の、冷たくて不機嫌な態度が、なぜだか紗枝には「嫌々ながらも言うことを聞いている子ども」に見えてきて、ふと、からかいたくなった。握る代わりに、洗ったばかりでまだ濡れていた手のひらを持ち上げて、ぺちん、と啓司の頬に軽く当てた。「何してる?」啓司の声には、瞬時に怒気がにじんだ。その不機嫌な顔を見た途端、紗枝は思わず吹き出しそうになる。「別に?顔が乾いてるみたいだったから、水分補給してあげただけ」そう言いながら、もう一方の手で、啓司の頬をそっと撫で始めた。不思議なことに、啓司がスキンケアをしている姿など一度も見たことがないのに、肌は白くて滑らかで、毛穴ひとつ見当たらない。こんな間近で顔をまじまじと見るのは初めてだ
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