All Chapters of あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した : Chapter 751 - Chapter 760

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第751話

目を覚ますと、あたりはしんと静まり返っていた。やわらかな陽射しが差し込み、そよ風が頬を優しく撫でていた。弥生はしばらく風に当たったあと、窓を閉めてキッチンへ向かい、朝食の準備を始めた。昨晩、瑛介が去ったあと、過去の記憶を思い出してしまったせいで、眠れないかもしれないと思っていた。だが、意外にもよく眠れた。ベッドに横たわった瞬間はいろいろなことが頭をよぎったが、いつの間にか眠りに落ちていたのだった。弥生がパンをトースターに入れたとき、ドアベルが鳴った。こんな時間に誰だろう?監視カメラのモニターを覗くと、思いがけない人物の姿が映っていた。「弘次、どうして来たの?」弘次はドアの前に立ち、微笑んで答えた。「久しぶりだな。どうした?歓迎してくれないのか?」「いや、そんなことないよ......」弥生はぎこちない笑みを浮かべながら、そっと彼を家の中へ招き入れた。弘次は部屋に入ると、さりげなく視線を巡らせながら、いつものように靴箱を開けてスリッパに履き替えた。「今日は休日だね。予定はない?」「休日?」弥生はすっかり忘れていたが、問題はなかった。弥生と子供たちは休日でも寝坊することなく、生活のリズムはいつも通り保たれていた。彼女の言葉に弘次の動きが一瞬止まり、しばらくしてから靴を履き替え終え、顔を上げて彼女を見た。「忙しすぎて、今日は休日ってことも忘れてたのか?」弥生は気まずそうに口元を引きつらせるしかなかった。前回、弘次にあんな酷い言葉を浴びせてしまって以来、彼との間にぎこちない空気が漂っていた。断るために、あえてひどいことを言ったのだ。それに、弘次はもう二度と自分に会いに来ることはないと思っていた。弘次も、彼女が今どこか落ち着かない様子でいるのを感じ取っていた。「あのさ、恋人になれなかったら、友達にもなれないのか?」彼はふいに立ち止まり、問いかけた。弥生ははっとして、無意識に首を振った。「もちろんそんなことない。もし君がそう望むなら、私たちはずっと友達でいられるわ」ずっと友達?ずっと......弘次はその唇をわずかに引き結び、じっと彼女を見つめた。「じゃあ、もし僕が望まないって言ったら?」弥生は驚きに目を見開いた。「えっ?」「つまりさ、僕が友達に
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第752話

もしかして彼女は断ろうとしているのだろうか?来るのが遅すぎたのか?しばらくして、弥生は顔を上げて笑った。「都合が悪いわけじゃないの。もちろん、行くわ。友達として接してくれて、ありがとう」弥生は少し考えていた。瑛介の用事はすぐに終わるものでもないだろうし、今回は子どもを連れてちょっと出かけるだけなので、すぐに帰って来るつもりだった。彼が家に来て、もし自分がいなかったとしても、きっと電話をくれるはずだ。そのとき説明すればいい。そう思って、弥生は弘次の誘いを受け入れた。彼女の返事にほっと息をつきながら、弘次はそっと問いかけた。「陽平とひなのは? 久しぶりだけど、あの子たち、僕のことまだ覚えてるかな?」友達としての関係に戻ったことで、弥生の気持ちもだいぶ楽になっていた。彼の問いに、彼女は微笑んで言った。「それは、あとで自分で聞いてみたほうがいいわ」朝の柔らかな日差しの中で、弥生の笑顔はまばゆいほどに美しかった。瞳には星屑を散りばめたような輝きが宿っていて、思わず目を奪われるほどだった。彼女への想いは、少年のころからずっと変わらずに胸の内にあった。だが、彼女の瞳の中に、自分がいたことは一度もなかった。やっとチャンスが巡ってきたかと思ったのに、まさか......弘次の瞳が一瞬だけ曇ったが、すぐにいつもの穏やかさを取り戻した。「そうだね。あとで自分で聞いてみるよ」「ところで、今日はどこに行く予定だったの?」弥生が本題を訊いた。「ピクニックに行こう。来る途中で、もうテントを張るように手配しておいた」その言葉に弥生は驚いた。まだ誘ってもいない段階で、もう準備したの?もし断られていたら、それはすべて無駄になっていたのでは?「そういえば、前に父から聞いたんだけど......ご両親が、お見合いを勧めてるって?」お見合いという言葉を聞いた瞬間、弘次の指先が一瞬ぴくりと動いたが、すぐに笑顔で応じた。「そうなんだ。父の提案でさ。相手を何人か探してくれてるよ」「それで? 気に入った人はいた?」弥生はごく気にしないように、明るい口調で訊ねた。まるで他人事のように、家族が彼に相手を紹介しようとしていることに無関心な様子だった。たとえ気にかけているとしても、それは友人としての気遣いにす
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第753話

弘次は「準備はいらない」と言っていたが、弥生はそれでも冷蔵庫を開けて、中にある使えそうな食材を簡単に調理し、子供たちに必要なものもあれこれとまとめ始めた。準備の途中、弘次がやってきて、彼女が荷物を詰めているのを見て、思わず言った。「そんなにたくさん持っていかなくてもいいよ。スーパーで買えば済むし」「スーパーで買い物するのは手間だし、家にあるものを持っていった方がいいでしょ」そう言いながら、弥生は次々と荷物をバッグに詰め込んでいった。その様子を見ながら、弘次は冗談めかして言った。「じゃあ、化粧品や私物もぜんぶ持っていくか?」「それは要らないよ。私たち、旅行じゃなくてピクニックに行くんだから」彼女は面倒くさがりで、出産してからというもの、あまり化粧をしなくなっていた。なにせ、二人のちびっ子がいつどこで彼女の顔にキスしてくるかわからないのだ。化粧がついちゃうのがイヤで、できるだけノーメイクで過ごすようにしていた。母親って、本当に大変なものだ。弘次はそれ以上何も言わず、黙って隣で片付けを手伝った。久しぶりに弘次に会えた陽平とひなのは、とても嬉しそうだった。朝食のとき、ひなのは弘次の膝の上にちょこんと座り、牛乳をゴクゴク飲みながら言った。「おじさん、全然会いに来てくれなかったじゃん。ひなののこと、もう好きじゃないの?」弘次は手を伸ばして、彼女の頭を優しく撫でた。「今来ただろ?これからは、ひなのや陽平とたくさん会うからね」「ほんと?おじさん、うそついちゃダメだよ!」「じゃあ、ゆびきり?」大人と子供が弥生の目の前で指切りを交わす姿を見て、彼女は思わず笑って言った。「まったく、二人ともおこちゃまだなぁ」朝ごはんを食べ終わったあと、弥生はまたキッチンに立った。その間に弘次は一度様子を見に来て、「もう用意しなくていいって」と声をかけたが、弥生は「ここまでやったし、あとちょっとで終わるから」と返した。弘次はドアのところに寄りかかり、腕時計をちらりと確認した。その目元には一瞬だけ焦りのような影がよぎったが、すぐに消えた。まだ時間はある、焦る必要なんてない。弥生がすべての荷物を袋に詰め終えたとき、出発前に彼女は瑛介にメッセージを送ろうとした。「今からピクニックに出かけるわ。もし来る
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第754話

「大丈夫だと思うよ。電話が終わったらすぐ出発するよ」そう言い終わると同時に、友作は電話を切って車に戻ってきた。弥生はそれ以上何も言わなかった。しかし、車が出発してからわずか10分も経たないうちに、彼女のそばにぴったりとくっついていた二人の小さな子供たちが、そろそろ眠気に勝てなくなってきた様子で、身をよじって彼女の肩に顔をうずめ、目をこすりはじめた。「ママ......ねむい......」弥生は視線を落とし、彼女のすべすべしたほっぺたをつまんで言った。「さっき起きたばかりでしょ?もう眠いの?」ひなのは首をふりふり、理由は分からないとばかりにぼんやりとした顔をした。その様子に弥生の心はすっかりとろけてしまい、自分の太ももをポンと叩いた。「じゃあ、ここで寝なさい」ちょうどそのとき、弘次が手を伸ばし、ひなのをふわりと抱き上げた。「車に乗ると、すぐ眠くなっちゃうんだよね。陽平もたぶん、もうすぐ眠くなると思うから、ひなのは僕が抱っこしておくよ」弥生は陽平の眠たそうな顔を見て、たしかにそうかもしれないと頷いた。「うん、お願い」ひなのは弘次の腕の中にすっぽりと収まると、あっという間に安心したように眠りについた。そのあまりに無防備な寝顔を見て、弥生は思わず心の中で苦笑した。そして弘次の予想通り、数分もしないうちに陽平も「ねむい......」とつぶやいて、弥生の膝に顔をうずめて眠ってしまった。弥生はなんだかおかしいなと思った。「昨日ちゃんと寝なかったのかしら?今日はふたりともやけに眠たがってる」「子供が車で眠くなるのはよくあることだよ」弘次は穏やかに答えた。「でも、いつもならしばらく走らないと眠くならないのに。今日は早すぎるわ」少しもやもやしつつも、弥生はあまり深く考えなかった。昨夜、自分がいなくなったあとにまた起きて遊んでいたのかもしれない、と思ったのだ。「寝るのは悪いことじゃないでしょ?」弘次はひなのの髪をそっと整え、後部からブランケットを取り出して彼女にかけながら言った。「車に乗ったらおとなしく寝て、起きたときにはもう目的地だよ」「......それもそうね」そのとき、友作が後ろから弥生にもう一枚ブランケットを差し出した。「霧島さん、寒いですから、ずっと座ってると冷えま
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第755話

弘次の指先は温かく、弥生の頬は少しひんやりとしていた。彼女の肌は白くてきめ細かく、触れた感触はとても心地よかった。友作は、弘次の指先が弥生の顔を愛おしげに撫でている様子を、目の当たりにしてしまい、慌てて視線を逸らした。弘次の指は彼女のまぶたから、小さな鼻筋へ、そしてついには赤い唇の上に落ち着いた。その唇の感触は、まるで一流のシェフが仕上げたばかりのゼリーのようだった。実際に触れたことがなくても、それがどんな感触なのか、彼にはわかっていた。彼は少年だった頃から彼女を手に入れることを願っていた。だから彼は、弥生の気を引くために、どんなことでもした。たとえその行動が彼女を怒らせたとしても、構わなかった。その結果、彼女に嫌われる時期が長く続いた。遠くから彼の姿を見かけただけで、彼女は踵を返して逃げていった。弘次は弥生の態度にしばらく落ち込んだが、後悔はしなかった。なぜなら、自分は少なくとも、瑛介以外で彼女の心に引っかかる存在になれたからだ。無関心でいられるより、嫌われてでも彼女の心に残るほうがいい。彼はそれを実現した。さらには、かつて瑛介と奈々の間に起こった出来事に関して......奈々は瑛介を助け、瑛介はその「感謝」を弘次の誘導で「特別な感情」へとすり替えていった。弥生が成人した夜、彼は彼女が木の陰に隠れていたのを知っていた。彼女は出てこられなかったのだ。だからこそ彼は、わざと瑛介にあんなことを言わせた。そうすれば、彼女もようやく、あきらめがつくだろうと思ったからだ。その後、弘次の実家にトラブルが起こり、長期間日本を離れなければならなくなった。日本の情勢はわからなくなったが、瑛介が奈々に約束をし、弥生もそのことを知っていれば、たとえ数年後に戻ってきたとしても、彼らの関係が進展していることはないだろうと思っていた。しかし、霧島家の急な変化は予想外だった。それにより二人の関係は急速に変わり、彼がそれを知ったときにはすでに手遅れだった。それでも弘次はあきらめなかった。後に彼はまたチャンスを得て、弥生を瑛介のそばから引き離すことに成功した。その中で、奈々は確かに利用しやすい駒だった。ただ、その駒はあまりにも愚かだった。今となっては、使い道すらないただの廃駒に成り果てていた。
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第756話

友作は、ひなのを弘次の腕の中へとそっと戻した。弘次は慎重にひなのを受け取り、陽平とともに心地よく眠れるように調整しながら尋ねた。「あとどのくらいで着く?」「あと20分ほどです。ヘリコプターが出発地点まで送ってくれるはずです。全行程で一時間ちょっとかかるかと」そう言いながら、友作は少し不安げに弥生たち三人を見やった。「霧島さん......途中で目を覚ましたりしませんかね?」その問いに、弘次は淡々と答えた。「多分起きない。仮に起きたとしても、もう何も変えられない」友作は弥生に目をやりながら、ためらいがちに続けた。「実はピクニックの準備はすでに万全で......」「うん」弘次は軽く相槌を打っただけで、特に感情を見せなかった。「つまり......今から向かっても間に合いますし、霧島さんたちが目を覚ましたときには、疲れて寝ちゃってたんだなくらいにしか思われないはずだと思います」その言葉に、弘次はようやく友作を真っ直ぐ見た。「友作......何が言いたいんだ?」友作は静かに息をついて口を開いた。「社長が後悔するんじゃないかと心配なんです。霧島さんにとって、社長はずっと頼れる友達のような存在で、信頼されていました。それがもし......彼女に知られてしまったら、きっと失望されます......」「それがどうした?」弘次は皮肉っぽく唇を歪めた。「彼女を他の男に渡すくらいなら、僕はこの手で壊すほうがマシだ」それを聞いて、友作はようやく弘次の決意を悟った。ここまで話した今、自分が何を言っても、もう引き返す気などないのだろう。友作は深くため息をつき、黙り込んだ。この旅は、もう楽しいピクニックなどでは終わらないのだ。もしかしたら、これまで弘次と弥生の間に築いてきた信頼も、少しずつ崩れていくことになるかもしれない。けれども、今の弘次には、もうそれすらどうでもいいらしかった。最初から、霧島さんが帰国すると言い出したときに、全力で引き止めておくべきだった。そうすれば少なくとも、彼女の周りに「他の男」などいなかったはずなのに。まるで、長い夢を見ていたようだった。だがその夢には色がなかった。ただ、終わりのない暗闇ばかりだった。うっすらと意識を取り戻し始めた弥生は、まだ目を開けていない
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第757話

まるで「もう後戻りはできない」と言わんばかりの状況だった。弘次は、弥生に怒鳴られる覚悟をすでに決めているように見えた。弥生は深く息を吸い込み、なんとか怒りを抑えようとした。ふと窓の外に目をやると、もう地上の都市は一切見えなかった。どうやら、すでにしばらく飛行しているようだ。「ひなのと陽平は?」弥生は訊ねた。「前のキャビンにいる。ちゃんと人をつけてあるから安心して」「......子供たちに会わせて」弘次は頷いた。「いいよ、案内するよ」二人で立ち上がり、弘次に連れられて別のキャビンに移ると、そこではすでに二人の子どもたちが目を覚まし、食事をしていた。弥生が近づくと、二人はにこやかに笑いかけてきた。どうやら、すでに誰かから説明を受けたらしく、しかも二人とも弘次を信頼しているせいか、全く疑問を持っていない様子だった。ただ、陽平が小声で弥生に尋ねた。「ママ......ピクニックに行くんじゃなかった?どうして急に飛行機に乗ったの?」弥生は微笑みながら、彼の髪をそっと撫でた。「途中でちょっと計画が変わったの。どう、美味しい?」「うん、美味しい」「じゃあ、二人ともここでご飯を食べてて。ママはおじさんと少しお話してくるわ。あとでね」「うん」二人とも素直に頷いた。二人が無事であることを確認した弥生は、立ち上がって振り返った。ちょうど弘次の視線とぶつかった。彼女は怒りを堪え、無表情のまま弘次の横をすり抜けていった。弘次にとって、その反応は予想通りだった。彼は口元をわずかに引き上げて、あとをついていった。再び後方のキャビンに戻ると、弥生は足を止めて背を向けたまま尋ねた。「航路はどこへ向かってるの?」「海外だ」「あとどのくらいで着くの?」弘次は何も答えなかった。弥生は彼の返事を待たずに、冷静に言い続けた。「着いたら、すぐに帰りのチケットを買う。子どもたちを連れて帰国するつもり。今日のことは......旅行ってことにする」その言葉には、弘次への最後の信頼が込められていた。彼に対して、まだ回避の余地があると思いたかった。なにより、自分にとって彼は良い人というイメージを、壊したくなかった。だが、弘次は沈黙を続けた。その沈黙に、弥生はとうとう彼の方を振り向い
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第758話

「好きって......私と子供たちがあなたを信頼してることを利用して、私たちを眠らせて無理やり飛行機に乗せるなんて......」その言葉に、弘次の目にわずかな悲しみが浮かんだ。「ごめん......こんなこと、したくなかった。でも弥生、僕は五年間も君を想い続けてきた。それでも君は僕を受け入れてくれなかった。僕にはもう、こうするしかなかったんだ。恨まないでくれないか」これ以上、何を言っても無意味だった。しかも今は飛行機の中にいるので、怒鳴っても暴れても意味がない。彼女は深呼吸してから、冷静に言った。「目的地までどのくらいかかるかは知らないけど......その間に、もう一度ちゃんと考えて。もし今からでも考えを改めて、私たちを無事に帰国させてくれるなら、今日のことを全部、なかったことにするわ」それだけ言って、弥生は弘次に背を向け、何も言わずに座席に腰を下ろした。そして目を閉じた。体にはまだ薬の影響が残っていて、強い眠気に襲われていた。でも頭の中は全然休まらず、閉じた瞼の裏には、弘次の言葉ばかりが渦巻いていた。今さらだけど、出発前に瑛介にあのメッセージを送っておけばよかった。もし送っていたら、彼は異変に気づいて何かしてくれたかもしれない。でも今となっては......ふと気づいた弥生は、はっと目を開け、ポケットを探った。スマホがなくなっている。彼女は顔を上げ、まだ傍に立っていた弘次を見つめた。「......私のスマホ、どこにある?」弘次は微笑みながら、彼女の隣に腰を下ろした。「飛行中にスマホなんていらないよ、弥生」「使うつもりはない。ただ、返してって言ってるだけ」「うん、飛行機を降りたら返すよ」返すとは言っているが、弥生の中には疑念が残った。到着までの間に、彼が思い直してくれればいいけど。そう、淡い期待だけを抱くしかなかった。飛行機は長時間飛行を続け、昼が近づいた頃、乗務員が食事用のカートを押してやってきた。プライベートジェットで、シェフも搭乗していた。出される料理も一般的な機内食とは全然違った。だが、弥生はどうしても食欲が湧かなかった。弘次は料理を一品ずつ彼女の前に並べながら言った。「ごはんの時間だ。少しでも食べて」本当は口にしたくなかった。でも、彼がまだ考
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第759話

弘次は弥生の前の皿に目をやり、わずかに眉をひそめた。「まだほんの数口しか食べてないよ」弥生は何も答えなかった。彼女が明らかに自分を拒絶しているのは、弘次にもよく分かっていた。彼は一度唇を引き結び、何かを思いついたように言った。「......そうか、きっとシェフの料理が気に入らなかったんだね。大丈夫、飛行機を降りたら、もっと美味しいものを食べに行こう」そう言って、弘次はすぐに乗務員を呼び、お皿を片づけさせた。そして今度は、赤ワインが差し出された。「ちょっと飲むか?」「......いらない。ありがとう」弘次はひとりでそのワインをゆっくりと口に運んだ。飲み終わると、弥生の方をじっと見つめたが、彼女は視線を合わせようとせず、目を閉じて腕を組み、眠っているふりをしていた。しばらく無言で彼女を見ていたが、弘次はやがて静かにため息をついた。まあいい。着いたら、ちゃんと大事にすればいい。そんな複雑な思いを抱えたまま、一行はついにM国に到着した。M国と日本の間には時差があった。日本ではすでに深夜だったが、こちらはまだ昼間だった。「まず空港近くのホテルで少し休もう。君たちが目を覚ましたら、それから別荘に案内する」すべての手配はすでに終わっている。もし弥生が機内でしっかり休んでくれていたら、そのまま別荘に連れて行くつもりだった。弥生は座席から動かず、静かに言った。「......こんなに時間が経っても、まだ考え直せないの?」「弥生、この決断は何年もかけて出した答えだよ」弘次は微笑みながら、彼女の腕に手を添えた。「さあ、行こう。飛行機を降りよう」だが弥生は動かなかった。「......弘次、私はずっと、君は友達だと思ってた」「もちろん」弘次は頷いた。「これからも君の友達でいられるさ。君にとって、いちばん近しい存在としてね」その言葉を聞いた瞬間、弥生は彼の手を振り払った。「......君、狂ってるわ」振り払われた弘次は、自分の腕を一瞥しただけで怒りの色を見せなかった。「......今はこの話をやめよう。まずは飛行機を降りて」「......もし、私が降りなかったら?」弘次はそっと金縁の眼鏡を押し上げて言った。「君が疲れて動きたくないなら、僕が抱えて連れて行くよ。力
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第760話

たとえ子供たちを連れていなかったとしても、弥生一人でもこの場から逃げ出すのは無理だった。ましてや今は、彼女のスマホも弘次の手元にあった。ここまでして自分を国外に連れてきたのだから、きっと彼は弥生の身分証やパスポートまでどうにかして手に入れているのだろう。一体どうやって?食事を作っていたとき、部屋に入って探したのか?そんなことを考えながら、弥生は内心苛立っていた。だから、弘次が自分のそばに来た瞬間、弥生は切り出した。「......私のスマホ、返してもらえる?」万が一、またごまかされないように、先に念を押した。「飛行機を降りたら返すって、さっき言ったわよね?」「うん」弘次は今回、約束を破らずにポケットからスマホを取り出し、彼女に手渡した。弥生は一瞬、彼の行動は自分の錯覚かと思った。もしかして、飛行機の中での自分の言葉が少しは響いた?いや、たとえそうでも、本当に少しだけなのだろう......ところが、スマホの電源を入れた瞬間、弥生は異変に気づいた。中に入っていたはずのSIMカードが差し替えられていた。今使われているのは、どうやら現地仕様のカードらしい。これじゃ、スマホを返されたって意味がない。弥生は呆れて、弘次の方を見た。「......なんで、私の同意もなくSIMカードを替えたの?」そう言いながら、自分でも可笑しくなった。何を今さら聞いてるの?同意もなく国外に連れ出されたのに、SIMカードごときで驚くなんて。「日本のSIMカードはここじゃ使えないから」弘次はいつも通りの穏やかな口調で答えた。「だから、事前に新しいのを用意しておいたんだ。安心して使って」弥生がラインを開くと、アプリは再インストールされており、アカウントも新しく作られていた。連絡先に登録されているのは、弘次と友作の二人だけだった。連絡帳もまっさらで、まるでスマホ自体が完全に初期化されたようだった。もう我慢できそうになかった。弥生は怒りを爆発させそうになった。「......ママ?」ちょうどそのとき、下で待っていた子供たちが彼女を呼んだ。弥生が目を向けると、二人の澄んだ瞳がじっと自分を見つめていた。子供の前で怒っちゃダメ。絶対怒っちゃダメ。何度も何度も心の中でそう繰り返して、
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