All Chapters of あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した : Chapter 781 - Chapter 790

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第781話

弥生は、ただ不愉快な発言を耳にして、少し言い返しただけだった。まさか、女たちが彼女の生い立ちまで持ち出してくるとは思ってもみなかった。彼女は唇をきつく噛みしめ、彼女たちを睨みつけた。「今、なんて言ったの?」「なに?私たち、何か間違ったこと言った?でもまあ、あんたみたいな人間じゃなきゃ、弘次みたいなやつとは共鳴しないでしょ。どっちも変な人」「ねえ、もし弘次が付き合ったら、どっちが浮気するんだろうね?」その瞬間、弥生の怒りが爆発した。思わず彼女たちに向かっていこうとしたそのとき、背後でドンという大きな音が鳴り響いた。振り返ると、学校のゴミ箱が一つ、叩き潰されたように大きく凹んでいた。手を出したのは、そばに立っていた弘次だった。少年はそこに立ち尽くし、冷たい表情を浮かべていた。凍りつくような視線は弥生の顔に一瞬止まった後、さきほどの女たちへ移っていった。そして、彼の雰囲気には不釣り合いな笑みを浮かべていた。「そんなに知りたいなら、俺に聞いてみたら?」「......怖い」女子たちは彼の姿に怯えたように悪態をつき、そそくさと立ち去っていった。彼女たちが去ったあと、弘次は弥生の前に歩み寄ってきた。さきほどまでの怖かった様子は跡形もなく消え、穏やかな少年に戻っていた。「何であんなに無茶する?あの人たちが言ってたのは俺のことだろ。君が口論する必要なんてなかった」弥生は眉をきりりと寄せて自然に返した。「間違ってると思ったから言っただけよ。君には関係ないわ」そう言って、彼女はくるりと背を向けて歩き出した。その日、弘次は弥生を家まで送った。それは、弥生が初めて、そして唯一見た弘次の激しい怒りだった。あの時ほど彼が感情をあらわにしたことは、あれ以前にも、あれ以後にもなかった。この出来事は、本来なら弥生の人生におけるちょっとしたエピソードに過ぎないはずだった。でも今になって思い返すと、弘次の子供時代はきっと、ひどく悲惨なものだったのだろう。あの崩壊寸前の家庭は、片親家庭よりもずっと恐ろしかった。少なくとも弥生の家には穏やかな日常があり、彼女は父の深い愛情に包まれて育った。そんなことを思い出しながら、弥生は目の前の友作を見つめ、淡々と言った。「少しは知ってるけど、それがどうかしたの?」その返事を聞いて、友作はすぐに
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第782話

弥生はその言葉を聞いて、すぐに陽平の前では聞かせられない話だと察した。そう思って、彼女は軽くうなずいた。「わかった。時間があったらお願い」「承知しました」長い回廊を抜けて、まもなく別荘に近づいた。遠くからでも、弘次がひなのの手を引いて門の前で待っているのが見えた。近づいても、弘次はいつものように何事もなかったかのような顔をしていた。「車酔いとか大丈夫?顔色があまり良くないように見えるけど」弘次は彼女の顔をじっと見て、優しく問いかけた。監禁同然の扱いをしておきながら、こんなふうに何でもないかのように振る舞うなんて。そんな彼の態度に弥生は腹が立ち、口を開いて反論しそうになった。だが、言葉が出かかったその瞬間、頭の中に友作が言っていた「彼の母親の自殺」がよぎり、口に出すのを思いとどまった。弥生はそっと視線を落とし、彼の言葉を聞かなかったふりをした。言い返したところで、何も変わらない。そんな中、ひなのが彼女に向かって駆け寄ってきた。「ママ!」その時ようやく弥生は、ひなのの目が赤くなっていることに気づいた。泣いたばかりのようだった。「車酔いでつらかったの?」ひなのはしょんぼりと小さくうなずいた。「いい子ね。あとでママがスイーツを作ってあげる。どう?」「うん」この様子から見て、弘次はちゃんとひなののことを気遣っていたのだろう。まもなく、使用人みたいな人が歩み寄ってきて、自己紹介を始めた。「霧島さん、はじめまして。小村勝平と申します。これからはこちらでの使用人を務めさせていただきます。何か必要なことがあれば、何でもお申し付けください。すぐに手配いたします」弥生は無表情のまま、冷たい態度を崩さなかった。勝平が何かをしたわけではなかったが、彼女自身はここに滞在するつもりもなければ、笑顔を見せる理由もなかった。ここでの人間関係に配慮するつもりはない。もし使用人の対応に問題があるなら、それは弘次自身が頭を抱えればいいだけのことだ。案の定、勝平は弥生の表情を見て、戸惑い気味に自分の頭を掻いた。......何か、言い間違えたか?そんな空気の中で、弘次が笑みを浮かべながら助け舟を出した。「長旅で疲れてるだろう。道もガタガタだったし、今はもうヘトヘトさ。勝平、まずは休ませてあげて」
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第783話

十数分後、友作は弥生の部屋を後にした。彼が出て行ったあと、弥生はソファに座ったまま、沈黙に沈んだ。......あんな環境で過ごしていたら、弘次の性格はおかしくなってしまうに決まっているじゃないか。当時、弘次の母親はただ自殺しただけではなく、その前に一時的に精神を病み、錯乱状態に陥っていたという。支離滅裂なことを口走るばかりか、ついには実の息子にまで手をあげてしまっていたのだ。弘次は母親に叩かれ、罵られ、体中傷だらけになったらしい。でも、若くして狂ってしまった彼女への同情からか、弘次は決して手を上げることも、誰かに訴えることもなかった。その異変に気づいたのは、弘次の祖父だった。彼が弘次を助け出し、家へ連れて帰ったその日に、弘次の母は命を絶った。一時、黒田家は大混乱に陥った。彼の祖父は、弘次の父とは正反対の厳格な人物だった。母を亡くしたばかりの弘次を後継者に据えると、迷いなく父から実権を取り上げた。そして、当時、妊娠中だった“あの女”、すなわち弘次の父を狙っていた愛人については、彼の祖父は本来ならすぐに処分したかった。だが女が妊娠していたこともあり、その場では手を下さず、まずは親子鑑定を行わせた。鑑定の結果、あの子供が黒田家の血を引いていることが判明し、ようやく彼女は黒田家にとどまることを許された。だが、肝心の弘次には、家庭の混乱や母の死によって生まれた心の傷を癒してくれる存在は、誰一人としていなかった。そこにあったのは、ただ終わりの見えない「後継者訓練」だけだった。結果、弘次は見事に優秀な跡継ぎへと育て上げられた。だが、彼の心は、冷えきってしまった。そして、弘次が狂っていると友作が感じるきっかけとなった出来事は、弘次の父の愛人が生んだ娘にまつわるものであった。その女は男の子を産めなかったことに納得できず、娘を出産したあとも諦めず、再び妊娠に成功した。ある日、その女は、弘次の前で嫌味たらしくふるまおうとした。しかし、その日、一緒にいた幼い娘は、弘次のことを親しい存在だと認識していたらしく、彼に向かって腕を伸ばし「抱っこ」とせがんできた。その頃には、娘も五歳になっていた。彼女は弘次のそばに立ち、小さな手を伸ばして「抱っこ」とせがんだのだ。弘次はその顔をじっと見つめながら、しゃがみ込んだ。「おにいち
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第784話

その少女の目鼻立ちは弘次によく似ており、誰が見ても本当の兄妹だと信じてしまうほどだった。少女が泣き始めると、弘次はその場にしゃがみ込み、まるで芝居を見物するかのように、涙を流しながら泣きわめく彼女をじっと見つめていた。本来なら、子供の泣き声など苛立ちの元でしかないはずだ。しかし、彼はまるで、美しい音楽でも聴いているかのような、そんな表情を浮かべていた。そして、しばらく「鑑賞」したあと、部下に合図すると、部下は少女の口を塞ぎ、そのまま引きずるようにして連れ去った。その日以来、その子は弘次の前に現れなくなった。......この一件で、友作は弘次にどこか狂気が潜んでいると強く感じるようになった。少なくとも精神面では、かなり危うい状態だろうと感じていた。本来であれば、弘次はカウンセリングを受けるべきだった。しかし、友作はそれを口にする勇気がなかった。うっかり口にすれば、自分の身も危うくなるかもしれないという恐怖があった。弥生自身も、今の弘次がどんな心理で自分をこの屋敷に閉じ込めているのか、正直わからなかった。本当に自分を好きなのか?それとも、奪われるのが耐えられないのか......そう思うと、弥生はこめかみを押さえて、深くため息をついた。......もし彼に精神的な問題があるのだとしたら、思っているよりもずっと厄介な事態になるかもしれない。弥生はしばらく部屋にいたが、やがて二人の子供のところへ行き、一緒に過ごすことにした。まもなく、使用人の勝平がやってきた。「霧島さん、キッチンでお菓子をご用意しましたので、ぜひお子様と一緒にお召し上がりいただければと」弥生は少し黙ったあと、頷くこともせず、ただ一言こう言った。「弘次は?」「少し用事があって外出されました」しかし弥生は、その瞬間に勝平の表情にわずかな動揺が走ったのを見逃さなかった。彼女はすぐさま警戒を強めた。「用事って、なに?」だが、勝平はすぐに表情を整え、淡々と答えた。「霧島さん、申し訳ありません。僕はあくまで使用人ですので、黒田さんの個人的なご予定までは教えることは......」弥生は心の中で笑った。「じゃあ、もういいわ」「では......お菓子はどうされますか?」「いらないわ。お腹すいてないし、夕食も大丈夫」
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第785話

由奈と浩史は空港に到着するや否や、弥生が以前送ってきた位置情報を頼りに、急いでその場所へと向かった。ホテルの前に車が停まると、由奈は弥生が言っていた建物の特徴を一つずつ照らし合わせ始めた。驚いたことに、その建物の特徴全てが完璧に一致していた。彼女は弥生の観察力と記憶力の鋭さに感嘆しながら、シートベルトを外し、ドアを開けて迷いなく車を降りた。そのままホテルへ向かおうとしたところで、浩史に腕を掴まれて引き留められた。「落ち着け、由奈。いきなり乗り込むわけにはいかない」その言葉に、由奈は目を大きく見開き、焦燥感をにじませながら問い返した。「こんな時に落ち着いていられるわけないでしょ!?中に入らないと、弥生の安全はどうにもならない!待つだけなんて何の意味があるの?」浩史はホテルをじっと見つめた後、短く指示を出した。「僕ひとりで中に入る」「......なに?」由奈の心臓がドクンと跳ねた。「君は外で待機しておいて。もし僕が30分経っても戻ってこなかったら、警察に通報して」「一人で行かせるなんて無理」彼女の肩に手を置いて、浩史は真剣な目で見つめた。その距離はあまりにも近く、彼女は自然と顔を上げるしかなかった。「いいか、由奈。もし僕たちが二人一緒に入って何かあったら、通報する人がいなくなる。どっちかは外に残る必要がある」「......言われてみれば、そうかもしれない。でも、弥生は私の友達よ!危険を冒すなら私が行くべきじゃない?外で待ってて!」浩史は、困ったように彼女を見つめた。「中に入ってちゃんとやれる自信あるのか?もし男が相手だったら、勝てるか?」「......それは、無理かも」「じゃあもう決まりだな。まだ行くって言うか?」「......わかった。じゃあ、でも30分じゃなくて20分!20分経っても出てこなかったら、私は警察に電話するからね!」「うん」浩史は落ち着いた様子で手を放し、服を整えながら続けた。「向かいにカフェがある。そこにいてくれ。僕が出てくるまで絶対に動かないで、何かあったら迷わず通報して」由奈が衝動的になりやすいことを見越してか、彼は一呼吸置いてからもう一度念を押した。「いいか、焦るなよ」その言葉に、由奈は眉をひそめ、反射的に言い返しそうになった。でも、ここまでず
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第786話

そこで彼女はすぐに店員を呼び止め、「すみません、空腹ではコーヒーが飲みにくいので、デザートを一つお願いできますか」と頼んだ。デザートが運ばれてくると、由奈はスプーンを手に取り、勢いよく大きなスプーンで二口、三口とすくって食べ始めた。早く片付けてしまいたかったのだ。しかし、急いで食べすぎたせいで、口の中がもったりしてしまい、胸がつかえてきた。彼女は慌てて、すっかり冷めてしまったコーヒーを持ち上げて一気に飲み干すと、ようやく食べ物を流し込むことができた。もうこれ以上飲みたくない。由奈の関心は、向かいのホテルに集中していた。すでに十五分が経過している。残りはあと五分。あと五分で浩史が戻ってこなければ、警察に通報するしかない。弥生とは「通報はしない」と約束していた。だが、もし本当に危険な事態なら、やはり警察に頼るべきだろう。そのとき、不意にスマホの着信音が鳴り響き、由奈は驚きのあまり椅子から跳ね上がりそうになった。落ち着いてからスマホを手に取ると、そこには「浩史」の名前が表示されていた。彼女は急いで通話を取った。「はい、浩史?」......と言ったあと、自分の口を慌てて両手で塞いだ。しまった、つい呼び捨てで呼んでしまった!相手は一瞬黙り込んだ。あまりに率直な呼び方に言葉が詰まったらしく、少し間が空いてからようやく返事が返ってきた。「......来ていい」「えっ?」由奈は聞き返した。「弥生、見つかったの?」「......いや、いない」浩史の声は冷静で落ち着いていた。「部屋はすでに空だった。どうやら、かなり前に出たようだ」それを聞いた由奈は、すぐに電話を切り、ホテルへ急行した。到着すると、浩史はホテルの入口に立っていて、隣にはホテルのスタッフが二人ほどいた。二人の表情は、少し困惑気味だった。由奈が駆け寄ると、浩史はすぐに言った。「ここだ」由奈は慌てて中に入り、一通り部屋を見回したが、やはり中はすっかり片付いていて、人気のない空間が広がっていた。「手がかりがないか、探そう」「うん」二人はそれぞれ部屋の中を探し始めた。十分ほど経っても、何の手がかりも見つからなかった。「何もない......弥生らしくない。あの子なら、もし連れ去られるようなことがあれば、私たちに『ここにいた』という
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第787話

弥生は部屋で子供たちと長い時間を一緒に過ごしていたが、弘次はずっと戻ってこなかった。そのことが、彼女に奇妙な違和感を覚えさせた。彼はわざわざ自分をこの場所に連れてきたのに、一体何の用事でこんなにも長く出かけているというのだろう?それに、先ほど勝平に問いかけたとき、彼の顔に一瞬浮かんだあの表情もおかしかった。一体何が起きているのか。弥生は考えた末、ただじっと待っているだけではだめだと決めた。そう思い立つと、彼女は二人の子供に一緒に部屋で待っているように言い、静かに立ち上がって外に出た。すると、ちょうど外に出たところで、向かいから歩いてくる弘次と鉢合わせた。彼は衣服を着替えており、眼鏡も外していた。弥生を見た瞬間、弘次はそれまでの無表情を消し、にこりと微笑んだ。「弥生」彼の妙に違和感のある装いを一瞥し、彼女は問いかけた。「どこに行ってたの?」「ちょっと、用事を片付けに」と弘次は答えた。「用事に行くのに服を着替える必要あったの?」弥生は疑いの目を向けた。その言葉に弘次はわずかに間を置き、それから唇を緩め、柔らかな笑みを浮かべた。「僕が何を着てるか気にかけてくれるなんて思わなかった。君はもう僕のことなんて全然気にしてないと思ってたよ」どうして話がそういう方向に行くのよ......彼女はあきれたものの、本題があるので言葉を選びながら言った。「今、時間ある?話したいことがあるの」「ん?」弘次は意外そうに彼女を見つめた。「やっと僕と話す気になったのか。もちろん時間はあるよ。君さえ望むなら、僕の時間なんて全部差し出すさ」弥生はそっけない口調で背を向けた。「じゃあ、どこか静かなところで話しましょう」「どこがいい?」「ここは君のお城でしょう?」「なら、下に行って食事でもしながら......」「食欲ないわ」彼女は辺りを見回し、前方のオープンテラスが目に入った。「あそこでいい」「わかった、君が行きたいところならどこでも」そう言って弘次が後に続こうとしたとき、彼はふと立ち止まった。「ちょっと待って」そう言って、自分の上着を脱ぎ、弥生の肩にふわりとかけた。「そこは屋外だ、冷えるから一枚羽織って」弥生はその上着を払いのけようとしたが、彼の少年時代の辛い過去を思い出し、今日は
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第788話

弥生は眉をぎゅっと寄せた。「弥生」弘次が数歩近づき、彼の穏やかな呼吸が彼女の頬にかかった。「君に話さなかったのは、君に同情してほしくなかったからだ。でも......やっぱり知ってたんだな。友作から聞いたのか?」距離は近いのに、弥生は彼の身体から一切の温度を感じ取れなかった。まるで氷のように冷たい存在だった。そしてその視線から、彼が友作に何か罰を与えようとしている予感が走った。そう思った弥生は、眉をひそめながら急いで口を開いた。「私が自分で聞いたのよ。彼とは関係ない」その言葉に、弘次はふっと唇をゆるめた。そして、どこか優しげな目で彼女を見つめる。「弥生。どんなときでも、君は本当に優しいんだな」あの頃と、変わらなかった。少年時代、彼のことを陰で噂する女子たちがいたが、当の本人である彼は、そんな噂話になどまるで関心を示さなかった。弥生だって、無視して通り過ぎることもできた。でも、彼女は真っ先に声を上げて彼をかばった。そんな彼女を手放すなどできないだろう?彼女はまるで太陽のようだった。それに対して、自分はまるで悪魔だ。暗闇の中で生きてきた者が、光を渇望するのは当然のことだった。「それは優しいかどうかの問題じゃないわ」弥生は落ち着いて答えた。「確かに、私が聞きたかったのよ。君が私を閉じ込めている状況で、彼には私に真実を伝える以外に選択肢なんてなかった」「うん」弘次はうなずいた。「それは、なるほど理にかなってるね」そう口では言いながらも、弘次の表情からは、弥生の言葉が本当に届いている様子はなかった。彼の心は、まるで別の場所を見つめているようだった。とにかく今は、目の前の問題、彼の心の闇に向き合うべきだ。「当時......もし必要だったなら、私たちは、友人として君を支えたわ。もう過去のことだとしても......」「弥生」いつも穏やかな弘次が、その瞬間はっきりと彼女の言葉を遮った。「その話は、もう終わったんだ。蒸し返す必要なんてない。安心してくれ、これから君と一緒にいる時間で、あの過去が二人の影になることはない。俺は絶対に、父が母にしたようなことはしない。僕は、良い夫になるし、良い父親にもなるよ」この人は、本気で自分の中に閉じこもってるんだ。彼女ははっきりと悟った。彼は
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第789話

今回、弘次はようやく、弥生の言葉に正面から応じた。「弥生、僕たちはこれから一緒に生活するんだ。毎日顔を合わせるんだ」「だからって、どうしてそこまでしなきゃいけないの?まだ戻れる道はあるのに。どうして、全部が取り返しのつかない状態になって、友達としてもやっていけなくなってからじゃないと、手を放そうとしないの?」「もちろん、そんなつもりはない」弘次は一歩前に出て、弥生の肩をそっとつかんだ。その声は低く、しかし強く響いた。「僕は、絶対に手放さない」その次の瞬間。彼女が反応する間もなく、弘次は彼女の身体を抱き上げ、そのまま部屋の方へと歩き出した。弥生は驚いて小さく叫び、我に返ってからは思わずもがいたが、彼との力の差はあまりにも大きく、逃れることはできなかった。ただ、彼の腕に抱えられたまま、無力なまま、自分が連れて行かれるのを見つめるしかなかった。彼が向かっているのは、自分のベッドだった。弥生の目が変わった。声のトーンも鋭さを帯びた。「......なにをするつもり? 弘次、言っておくけど、もしあなたが私に何かしようとしたら――私は命に代えてでも抵抗する」その言葉に、弘次の足がぴたりと止まった。そしてベッドの脇で静かに立ち尽くす。「放して!」弥生が叫ぶと、弘次の目に、一瞬、深く傷ついたような影がよぎった。「君の目には、僕がそんなふうに見えていたのか?君は、本気で僕が君に乱暴するような男だと思ってる?」「分からないわ」彼女がそう返すと、弘次はそれ以上何も言わず、彼女をそっと床に下ろした。その拍子に、彼女の肩にかかっていた上着が床に落ち、小さな音を立てた。弘次は目を伏せ、その上着をしばらく見つめたあと、静かにしゃがみ込んで拾い上げた。「君が望まないことは、絶対にしないよ」そう言って、優しくその上着を畳んだ。「じゃあ......今すぐ、私とひなのと陽平を外に出してよ」「......それ以外なら、何でも聞くが。もう遅い、少し休むといい」そう言って、弘次は部屋から出て行った。残された弥生は、さっきのやり取りで息が乱れていた。扉が閉まり、彼が本当に出て行ったと確認して、ようやく弥生は安堵の息を吐いた。もしさっき、本当に何かされそうになっていたら......自分は抵抗できただろうか?一
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第790話

最初、弥生は友作のことを弘次の悪事に加担する者だと思っていた。だが、彼が自ら進んで弥生に事実を話してくれたことで、彼に対する見方は少し変わった。彼は本心では弘次のやっていることを良しとしていないと思っていたのではないか。ただ、彼は助手という立場上、従わないわけにもいかない。弥生が階段を下りていくと、使用人の勝平が出迎えた。「霧島さん、お腹が空きましたか?何かご用意しましょうか?」「いえ、結構」弥生は即座に断った。勝平は少し戸惑った。お腹が空いていないのに、なぜわざわざ下りてきたのだろうと不思議そうにしていた。「眠れなくて、少し歩きたくなっただけです」それを聞いた勝平はすぐに提案した。「でしたら、私がご案内しましょうか?敷地内をご説明できます」「結構。自分で歩くから」「しかし......」「何?」弥生の声が突然冷たくなった。「まさか私にはこの別荘の敷地内すら、歩き回る自由がないの?」そう言って、弥生は両手を彼の前に突き出した。「それなら、今ここで縄を持ってきて私を縛って部屋に放り込んだらどう?食事だって、いちいち呼ばずに人に持ってこさせればいいわ。そうすれば完璧ね?」その一言一言が、勝平を居たたまれなくさせた。「霧島さん......」「ほら、縛れば?」そう迫られて、勝平はついにため息を漏らした。「......わかりました、霧島さん。ご自由にどうぞ。ただ、今はもう夜で、敷地周辺には街灯があるとはいえ、見えにくい場所もございますので......」そう言いながら、勝平は脇の戸棚から懐中電灯を取り出して、弥生に差し出した。「よろしければ、これをお持ちください。足元が見づらいところは、照らしていただければ」歩かせるのは嫌がるくせに、懐中電灯の用意はしてるの?......でも、あったほうがマシだ。弥生は無言で手を伸ばし、懐中電灯を受け取った。「まさか、誰かにつけさせたりしないでしょうね?」勝平は笑顔を浮かべて答えた。「ご安心ください。どうぞご自由に」つまり、どう歩き回っても、どうせこの屋敷からは出られないよと言っているようなものだった。実際、弥生はあの防犯ガラスを見たときから、弘次が周到な準備をしていたことに気づいていた。これだけの設備を整えるのは、
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