All Chapters of あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した : Chapter 871 - Chapter 880

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第871話

瑛介の一家が南市から早川へ引っ越すと聞いて、弥生は大きな衝撃を受けた。同時に、深い尊重の念も感じていた。それでも、瑛介の母がそう決断したとき、彼女は思わず尋ねてしまった。「......瑛介の家って、もともと南市が根拠地じゃないですか? 早川に引っ越すなんて、そんな簡単に......」「なに言ってるの、馬鹿な子ね。私たち夫婦はもう年寄りなんだから、気にするのはあなたたち子供たちのことだけよ。いまは孫も二人増えて、何よりもあなたたちが一番大事。まして、私たちにとってはどこに住もうと大した違いはないわ。早川の方が水も空気も良くて、身体にもいいしね。それに、あなたは向こうで会社を始めたんでしょ? 分からないことがあれば何でもお父さんに聞いて。しっかり仕事をがんばって、子供のことは気にしなくていいわよ。私と父さんが、しっかりした子に育ててあげるから」そう言い残すと、瑛介の母はもうそれ以上話すこともなく、子供たちを連れて自分たちの部屋へ、そして瑛介の父と一緒に引っ越しの段取りについて話し合いに向かってしまった。弥生は自分の部屋に戻る途中も、そのことをずっと考えていた。まだ立ち上げたばかりの自分の会社なんて、たとえ軌道に乗ったとしても、宮崎グループとは比べ物にならない。それなのに、彼らはそんなことを全く気にする様子もなく、むしろ弥生の会社がある早川に引っ越して、孫の面倒まで見ようとしている。......本当に、彼らにとっては会社は重要じゃないのだろうか?そんな思いを抱えたまま、弥生は知らず知らずのうちに、とても自然な足取りである扉の前に立っていた。あれ、考え事をしていたのに、気づいたらここに。五年経っても、自分の身体はちゃんとこの場所を覚えていたのだ。ドアを開けると、そこには見慣れた光景が広がっていた。弥生は呆然としたまま部屋の中へと入り込んだ。五年という歳月が過ぎたはずなのに、部屋の様子はほとんど変わっていなかった。もちろん、ベッドの寝具などは新しいものに変わっていたが、それ以外は――カーテンも、机の上の小物も、すべてがあの頃のままだった彼女は目の前の部屋を見渡した。そこにあるのは、五年前のままの空気と匂い、記憶。まるで時間が止まっていたかのようだった。瑛介とまだ離婚していなかったかのようにも思えた
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第872話

でも、すぐに瑛介の目の色が変わった。画面越しに、弥生の背後が映ったからだ。「......今、家にいる?」彼が後ろの様子をじっと見つめているのに気づき、弥生はなぜか少し気まずい気持ちになった。こんなに早く彼を許したことを、知られたくないと思った。たとえあの頃互いに誤解があったとはいえ、彼は確かに自分を傷つけた。今は自分も、彼と一緒にいたいと思っている。でも、そう簡単に心を許してしまうのは......なんだか悔しい。返事をしないまま、目線を落とす弥生を見て、瑛介の瞳に少しだけ陰が差した。彼はすぐに気を取り直して、話題を変えた。「ひなのと陽平はもう寝た?」新しい話題が出て、弥生はようやく顔を上げた。「うん......たぶん寝たと思う。今夜は、二人とも......」そこまで言って、ふと口をつぐんだ。瑛介は一瞬きょとんとしたが、すぐに続きを聞いてくれた。「ひなのと陽平は、今、両親と一緒にいるのか?」弥生は静かにうなずいた。「......二人とも、お義父さんとお義母さんにすごく可愛がられてる」先ほどの沈黙や言い淀みのせいで、空気が少し重くなった。会話が途切れ、しばらくの間、お互い言葉を探すような沈黙が続いた。ようやく瑛介が口を開いた。彼は唇を引き結び、真剣な目でカメラ越しの弥生を見つめながら、静かに言った。「友作の件は、心配しなくていい。今日のところはまだ進展はないが、俺が責任持って動いてる。何かあったらすぐ連絡する」「うん、わかった」弥生は微笑んで答えた。瑛介は、彼女がまだ昼間と同じ服を着ているのに気づいて尋ねた。「まだお風呂入ってないのか?」「うん、ちょうどこれから行こうとしてたところに、君の電話が来たの」「それじゃあ、邪魔しちゃった?」「ううん、大丈夫。少し遅くなったって別に......」確かに飛行機移動で疲れてはいたが、それでもビデオ通話くらいはできる。画面の中の弥生を見て、瑛介は少し眉をひそめた。はっきりとは言わないけれど、目の下に少しだけ疲れの色が出ている。しばらく黙って考えてから、彼は優しく言った。「......今日は早く休んで」弥生は少し驚いたように目を丸くした。「君は......」「大丈夫。君がゆっくり休んだ後に、また
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第873話

身支度を終えた弥生は、ベッドに横になった。日に干された布団はふんわりとしていて、彼女の体をやさしく包み込んでいた。まるで、丸ごとその中に沈んでしまうようだった。五年前のことは、もうほとんど忘れたと思っていた。最初にこの国を離れた頃、夜になると必ず思い出していた。特に、瑛介との日々。何気ないやり取りも、細かな記憶も、眠りの中で何度も蘇った。でも、時間が経つにつれて、その夢を見ることすら減っていった。やがて、思い出そうとすらしなくなった。日々をただ静かに、淡々と生きていた。......もう忘れたんだと、そう思っていた。でもこのベッドに横になると、瑛介との記憶がまるで波のように押し寄せてくる。一つひとつの出来事が、走馬灯のように頭の中を駆け巡ってくる。どれくらいの時間が経ったのかもわからない。気づけば、弥生はそのまま眠ってしまっていた。翌朝、陽平が部屋に駆け込んできて、弥生は目が覚めた。スマホの画面を見ると、もう朝の十時を回っていた。「ママ、いっぱい寝たね!」と陽平が目を丸くして感嘆の声を上げた。弥生は寝起きのぼさぼさした髪を手ぐしで整えながら、ちょっと恥ずかしそうに笑った。「つい寝落ちしちゃった。昨夜、目覚ましもセットし忘れてて」陽平はベッドによじ登り、彼女の腕にぎゅっと抱きついてきた。「ママ、おばあちゃんがね、シェフに美味しいものいっぱい作ってもらってたよ。でもママがなかなか起きなかったから、ぼくたち先に食べちゃった。お腹空いてるでしょ? ぼくが持ってこようか?」「ううん、大丈夫」弥生はやさしく首を振った。「自分で行くよ」「じゃあ、ママお着替えしてきてね。下で待ってる!」陽平が部屋を出て行ったあと、弥生はほっと息をついた。まさか、こんなにぐっすり眠れるなんて。たぶん、それだけこの家、この空間が、自分にとって安心できる場所だったんだろう。最近は、こんなに深く眠ったことなんてなかった。階下に降りると、弥生は朝食をとり始めた。その傍らでは、ひなのが瑛介の母の膝の上にちょこんと座っていて、手首にはきらりと光るブレスレットがついている。「それ、どこでもらったの?」と弥生がつい聞くと、「おばあちゃんがくれたの!」ひなのはうれしそうに手首をぶんぶん振って、何度も彼女に見せてくる。「ち
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第874話

弥生は一度入力した呼び方をすべて消して、もう一度打ち直した。「今日、みんなで早川に向かってるところ」この表現なら、きっと違和感はないだろう。内容を二度ほど確認し、問題がないことを確かめてから、送信ボタンを押した。......しかし、しばらく経っても、瑛介からの返信はなかった。弥生は既読にもならないそのメッセージをしばらく見つめていたが、特に気にする様子もなく、スマホを閉じた。国内と海外では時差もあるし、メッセージやビデオ通話がすぐに返ってこないのはよくある。瑛介が返信してこないのは、たぶん今眠っているか、あるいは仕事中かもしれない。そう思うと、自然と納得がいった。きっと、時間ができればまた連絡が来ると思っていた。早川に到着したのは夜だった。街はネオンが煌めき、高層ビルが立ち並ぶ。まるで光の海の中にいるようだった。瑛介の母はこういった建築にはもう慣れているはずだが、今回は早川に来たこともあってか、どこか弥生を気遣うように言った。「早川の街も南市に負けてないわね。さっきちょっと環境や天気など調べてみたけど、住むにはすごくいい場所みたいよ。もし、ここに長く住みたいと思ったら、あの子にも本社をこっちに移させましょう?」その言葉には、弥生への気遣いと配慮がたっぷりと込められていた。弥生は苦笑しながら応じた。「それは...... 瑛介次第じゃないですか」「彼の意見なんてどうでもいいのよ。私たちが決めればいいの」そう言いながら、瑛介の母は弥生の細い手首を握りしめるようにして、真剣な眼差しで続けた。「あなたのためなら、あの子はきっと引っ越してくれる。もし渋るようなら、私があの子を動かすから」自分のためなら、彼は本社を移すことも厭わない。なぜだろう、弥生は思った。そう言われて、なぜか本当にそうかもしれないと思ってしまう。最近の瑛介の様子からしても、彼なら本当にやってしまいそうだった。でも、本社の移転なんて簡単なことじゃない。宮崎グループには地元出身の社員が多い。会社を動かせば、従業員やその家族も生活の変化を余儀なくされる。そんな大きな問題を簡単に決めていいはずがない。「......今はまだ、様子を見たほうがいいですね」「そうね、ゆっくり考えればいいわ。どうせ、あの子が戻ってくるのは
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第875話

そんな考えが頭をよぎった瞬間、弥生はすぐに連絡先を開き、瑛介に電話をかけようとした。でも、実際に発信ボタンを押す直前、彼女はふとためらい、数秒後にはまだ繋がっていない通話を中断した。彼がメッセージに返信してこないということは、今は忙しいか、何かの事情で返信できない状況なのだろう。もし今このタイミングで電話をかけて、彼の邪魔をしてしまったら......そう考えると、弥生はやはり電話をかけるのをやめた。彼の安全を第一に考えた結果だった。「彼の手が空いたら、きっと連絡してくるはず」そう自分に言い聞かせながら、彼女はスマホをどこへ行くにも肌身離さず持ち歩いた。洗面所に行くときでさえ、すぐ近くの棚に置いて、常に着信音や振動に気を配っていた。でも、瑛介から返信がないというだけで、彼女の心はどこか上の空になっていた。シャワーを浴びている間も、弥生はずっとスマホの通知音に神経を尖らせていた。振動が一度鳴るたびに、泡だらけのまま急いで確認してみるが、結局どれも瑛介からではなかった。そんなことが何度も繰り返され、最終的に弥生がシャワーを終えたのは、ほぼ一時間後のことだった。部屋に戻って髪を拭きながら、彼女の視線はずっとスマホに釘付けだった。そして髪を乾かしてベッドに横になり、白い天井を見つめながら、ふとあることに気づいた。私......瑛介のこと、気にしすぎじゃない?ただメッセージが返ってこないだけで、ここまで気持ちが不安定になるなんて......どうやって彼を「試す」っていうの?自嘲気味にため息をつきながら、弥生はスマホの画面をじっと見つめていた。それでも、考えずにはいられなかった。しばらく経ち、弥生はとうとう我慢できなくなり、健司に電話をかけた。電話口の健司の声は、まだ眠気を引きずっていて、どうやら彼女の電話で目を覚ましたらしかった。「霧島さん......何かご用でしょうか?」時間を確認した弥生は、思わず眉をひそめた。ほんの少しのつもりが、もう深夜の12時を過ぎていた。そういえば、早川に着いた時点でもう遅かったっけ。彼女は少し唇を噛んで、遠慮がちに口を開いた。「ごめんなさい、こんな時間に電話してしまって......」「いえいえ、そんな他人行儀なこと言わないでください。僕は元々、社長から24時
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第876話

大事なこと?どうして自分には一言も伝えてくれなかったのだろう。そう疑問に思ったものの、すぐに弥生は納得した。なるほど、だから彼はメッセージに返信できなかったのだ。やはり本当に忙しかったのだろう。なら、私が送ったあのメッセージ......邪魔にはなってないよね?「霧島さん、ご心配なさらずに。社長はきっと大丈夫です。もう遅いですし、少し休まれた方がいいのでは?」健司はそう言ってくれたが、それでも弥生の不安は消えなかった。理由もわからないまま、胸の奥には妙なざわつきが残っていた。でも、もうこんな時間だし、これ以上誰かを煩わせるわけにもいかない。「......うん」「もし何かありましたら、いつでも私に電話してください。社長に関する新しい情報が入りましたら、すぐに霧島さんにお伝えします」「ありがとう」通話を切った後も、弥生はスマホを抱きしめたまま眠れずにいた。唇を噛みしめながら、心の中はぐちゃぐちゃだった。でも、自分には何もできない。そんな無力感を抱いたまま、いつの間にかうとうとと眠りに落ちた。そして次に彼女が目を覚まさせたのは、スマホの振動音だった。目を覚まし、それが自分で設定したアラームだったと気づいた。前日は起きるのが遅すぎたため、少し早めにアラームをかけておいたのだが、その音が大きすぎたのか、振動が長すぎたのか。起きた弥生は、まぶたがピクピクと痙攣しているのを感じた。それだけではない。心拍まで異常に速くなっている。アラームを止めた後、弥生は壁によりかかってしばらく呼吸を整えた。しばらくして心拍は少し落ち着いたが、まぶたの痙攣はまだ止まらなかった。弥生は、もともと超常現象を信じる人ではなかった。でも、今はなぜか胸の奥にはっきりとした不安感が広がっていた。スマホを見ても、チャットの画面は昨日のまま、弥生が送ったメッセージで止まっていた。それ以降、彼からの返信はない。昨日からずっと待っているのに、いくらなんでも連絡が遅すぎる。いくら忙しいといっても、ここまで音信不通なのはおかしい。まさか、何かあったんじゃ......?そんな考えが浮かんだ瞬間、弥生は布団をめくり、一枚羽織を掴んで慌ただしく部屋を飛び出した。瑛介の母は、二人の子供と遊んでいる最中だった。弥生の慌
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第877話

そう考えればそうだ。一番連絡をくれる相手である自分にさえ音沙汰がないのに、他の誰かに連絡するはずはない。そう分かってはいたが、それでも弥生は諦めきれなかった。弥生がうつむき、何かを考え込むような様子を見て、瑛介の母はそっと彼女の心情を察した。長年付き合いのある娘のような存在、そしてこれまでの経緯を思えば、彼女が今何を思っているか、察しがつく。瑛介の母はそっと近づき、試すように問いかけた。「弥生、瑛介から連絡がないことで、心配になってるの?」同性同士だからか、気持ちを隠す必要もなく、弥生は素直に頷いた。「うん。普段の彼なら、連絡を無視するなんてこと、まずないですから」「......確かにそうね」そう答えながら、瑛介の母の表情にも不安がにじんだ。「どれくらい連絡が取れてないの?」弥生は、最後に連絡を取った時間や、自分が送ったメッセージに返信がないことなどを簡潔に説明した。「昨日から今日までって考えると......たしかに少し時間は経ってるけど、でも弥生、海外と日本じゃ時差があるのよ?向こうで忙しい用事を済ませて家に帰ったとしても、日本時間だともう深夜。気を遣って連絡しないだけかもしれないわよ?まだ朝だし、もう少しだけ様子見してみない?」その言葉は、弥生を落ち着かせようとしてくれたものだった。言っていることは理にかなっている。それでも不安は拭えなかった。だって、朝起きたときからずっと、まぶたがピクピクと跳ね続けている。まるで、何かを告げようとしているみたい。理由のない不安感が、心をぎゅっと締めつけていた。「電話はかけてみたの?」瑛介の母がさらに訊ねた。弥生は唇をかみしめながら、これまでの経緯を瑛介の母に語った。それを聞いて、瑛介の母の顔色が少し変わった。「......ねえ、瑛介が海外でやってることって、危ないことなの?」その質問に、弥生は驚いた。え? お義母さん、瑛介が何をしているか知らないの?てっきり、両親には話してあるものだと思っていた。......でも、ここで自分が話していいのだろうか?話せば、心配をかけてしまうかもしれない。そう思い直し、弥生は落ち着いた声で言い直した。「いえ......そういうわけじゃありません。ただ、遠く離れていて顔も見えない
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第878話

拉致事件は、富裕層の間でもそう頻繁には起きない。それは多くの家庭が子供たちを厳重に守っているからだ。だが、もし隙を見せてしまえば、犯人たちは金ではなく、命を狙ってくる。金は惜しくない。だが、子供に何かあったら、それだけは避けたい。だからこそ、保護のためのボディーガードが周囲にいることに、瑛介の母もまったく疑問を抱いていなかった。「わかったわ、気をつけて行ってらっしゃい」そう言って送り出したあと、弥生は自室に戻り、外出用の私服に着替えて下に降りた。本当はすぐに出かけるつもりだったが、ちょうど通りかかった家政婦に呼び止められた。「おはようございます。朝食を少しでも召し上がりませんか?」断りきれず、弥生はテーブルに着いた。心ここにあらずのまま、スマホを見つめながら、数口だけ無理に口にしただけだった。そのとき、健司からの電話が鳴った。画面に映る名前を見た瞬間、弥生の心臓が一拍遅れて鼓動した。急いで通話ボタンを押した。「もしもし? 何か情報があったの?」しかし、相手の返事は思ったよりも静かだった。「霧島さん、どうか落ち着いてください。こちらではまだ社長と連絡は取れていません。ですが、きっとご無事ですので――」そう言われた瞬間、弥生の目から希望の光がすっと消えた。「......どういうこと? まだ連絡が取れていないの? でも、あのとき一緒にいた人たちとは? 彼の周りには何人もいたはずでしょ? 誰とも連絡つかないの?」「ええ、数人には連絡が取れました。ただ......」「ただ?」声が思わず大きくなる。昨日から募りに募った焦燥と不安が、抑えきれずに声に出てしまっていた。言いすぎた。そう思って口を閉ざし、深呼吸した。「ごめんなさい」「はい。昨日、社長は外出されたそうです。残った数名が連絡を中継していたのですが、その後、外出した方々と連絡がつかなくなってしまって......何度か電話をかけたのですが、ずっと繋がらない状態で......」「......繋がらないの?」「ですが霧島さん、ご安心ください。向こうはもともと電波が不安定な場所なんです。携帯の電波が届かないことも珍しくない。社長の周りには複数人ついてますし、大事にはならないと思います」そう説明されても、弥生の不安は拭
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第879話

スマホを置いた弥生は、もう朝食を取る気になれなかった。本来は出かけるつもりだったが、今はすでに状況がわかったので、無理に外に出る必要もない。「霧島様......?」先ほどの電話中に急に様子が変わったため、そばにいた使用人は声をかけるのを控えていたが、通話が終わった後も食事に手を付けないままだったので、そっと声をかけた。「お料理が冷めてしまいますよ」その声に、弥生は目の前の食事をちらりと見てから、使用人の顔を見た。口を開きかけ、「食べられないから下げて」と言おうとしたが......結局、彼女は数口だけ無理に口にしてから席を立った。......いつも子供たちに「食べ物を粗末にしてはだめ」と言っているのに、自分がそれを破るわけにはいかない。階段を上がって自室に戻った弥生は、瑛介の番号に電話をかけた。健司から「どうせ繋がらない」と言われていたのに、どうしてもあきらめきれなかった。ツー、ツーコール音が二度鳴ったところで、自動的に切断された。電源が入っていないというメッセージもなく、ただ繋がらない。その音が消えた瞬間、弥生の胸の奥が再びざわついた。いったい、何が起きているの?ちょうどそのとき、スマホが鳴った。静まり返った室内で突然響いた着信音に、弥生は飛び上がるほど驚いた。まさ、―瑛介!?でも、画面に表示された名前を見て、彼女の顔から期待の色がすっと消えた。「......もしもし」「社長?ご無沙汰しております。最近はどうでしょうか?なんか元気がなさそうな気がしますけど?」数日ぶりに聞こえたのは、博紀の声だった。今の彼女にとって、瑛介以外からの連絡にはまったく興味が湧かない。そのため、博紀の問いにも気のない声で答える。「......何でもないわ。何か用?」「いえ、用というほどではございませんが、社長は最近会社にいらしておりませんよね。以前お電話を差し上げたのですが繋がらなくて、高山さんにお伺いして、ようやく海外に行かれていると知りました」会社。そうだ、自分にはまだ会社の責任があるのだ。弘次に突然連れて行かれてから、もうかなり時間が経っていた。その間、一度も会社に顔を出していない。「ごめんなさい、最近......ちょっといろいろあって」真実を話すつもりはなかったので、
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第880話

何度も「社長」と呼ばれて、ようやく弥生は我に返った。正気に戻った彼女は、目の前で困り顔をしている博紀を見て、ひどく申し訳なさそうに言った。「ごめん、ちょっとぼーっとしてたわ」「社長、重要なことでお悩みなのは理解しております。ただ……せめてこの契約書だけでもご確認いただけませんか? これをご覧になってからお考えいただければ、私からは何も申し上げませんので」弥生は薄く笑みを浮かべて頷き、今度は集中して契約書を最後まで読み終え、署名した。契約書を博紀に手渡しながら言った。「この間、いろいろ任せてしまってごめんなさい。ありがとう」「いえいえ、僕は管理担当ですから当然のことです」博紀は軽く笑って契約書を受け取った。本来ならそのまま退室するところだが、どうしても気になって、ついに口を開いてしまった。「......社長、もしかして恋愛の悩みとか......」しかし、彼の質問は無視され、弥生は再び沈黙の世界に入ってしまった。仕方なく、博紀は苦笑しながら言った。「……まあ、いいです。お帰りの際はどうかお気をつけて。何かあったら大変ですから」そう言って博紀はドアに向かったが、そこで思わず足を止めた。スーツに身を包み、サングラスをかけたごつい男たちが六、七人、ずらっと並んでいたのだ。「......どちら様で?」先頭の男が冷たく博紀を見やるが、彼が弥生の会社のマネージャーであることがわかると、少し態度を和らげて答えた。「こんにちは。我々は霧島さんの専属ボディーガードです」一時行方不明になっていたかと思えば、戻ってきた途端にこれだけの護衛を連れてくるとは、弥生は何も語っていなかったが、博紀は勘がいい。これはただの多忙だけではないとすぐに察した。何かあったのだ。だからこそ、今は彼女の周りにこれだけの護衛がいる。契約書を読んでいたときも、上の空だったのはそういうことだったのか。博紀は内心でため息をついた。詳しい事情は知らないが、おおよその見当はついている。だが今、それを本人に聞いても、気を重くさせるだけだろう。彼は余計なことを考えず、契約書を持ってその場を後にした。その後、先頭のボディーガードがドアをノックし、中へと入った。そこには、弥生がぼんやりとデスクに座っていた。何か考え込んでいたようで、物
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