All Chapters of あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した : Chapter 861 - Chapter 870

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第861話

「出発する前にね、ひなのと陽平が、『いつ寂しい夜おじさんに会えるの?』って聞いてたわ」弥生は彼の胸に顔を埋めながら、小さな声でそう言った。「......うん」瑛介は短く応じ、それから言葉を継いだ。「......今回はもう会わない」その言葉に、弥生は彼の胸元から顔を上げ、不思議そうに見つめた。「どうして? 私には会いに来たのに、ついでに子どもたちにも会えばいいのに」瑛介は目を伏せ、真剣なまなざしで彼女を見つめたあと、彼女の赤く染まった唇にそっと口づけた。「帰国してから会うよ。でも、そのときには......呼び方を変えてくれてたら嬉しいな」弥生は唇を噛み、言葉を返さなかった。「......やっぱりダメ?」彼は彼女の額に頬を寄せながら、掠れた声でささやいた。「あれだけキスしてたのに......それでもダメ?」最初は、弘次への対抗心でいっぱいだった。でも、さっきのキスのあとでは、不思議とそんな嫉妬心は消えていた。彼女の反応と、寄せてくれた身体の温もり、それだけで十分だった。あとは、自分がこの地の問題を片付けて、無事に帰国できれば、家族4人での生活が始まるはずだ。そう思うと、自然に唇の端が上がった。「帰ったら、うちの両親も会いたいって言ってて......先に一度、会わせてもいいかな?」彼女が答えないのを見て、瑛介はすぐに自分の態度を引き締めた。「もちろん、無理ならいいんだ。今の話はなかったことにする。親にも何も言わない」彼女が何を気にしているか、彼はちゃんとわかっていた。彼女はずっと、誰かに子どもを奪われることを恐れていた。だから、彼女が嫌がることは絶対にしないというのは彼の答えだった。弥生は一瞬言葉を止めた。自分は何も言っていないのに、彼はもう先に身を引いた。昔の彼だったら、こんなふうに低姿勢になることなんてなかったのに......そう思うと、弥生はふっと息を吐いて言った。「......私、何か言った?」「ん?」「まだ何も言ってないのに、勝手に先回りして答えを出すの?」この話になると、さっきまで彼女を強く抱きしめていたときの余裕などすっかり消え、まるで別人のようだった。「......だって、君が嫌がるかと思って」瑛介は静かに答えた。そしてふ
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第862話

三人が話す声が、ドアのすぐ外で聞こえた。弥生の耳には、扉越しにその声がはっきりと届いていた。彼女は一瞬動きを止めて、そっと瑛介を見上げ、小声で言った。「もう出ないと......」その言葉の途中で、瑛介がふいに身を屈め、彼女の顔にぐっと近づいてきた。彼の温かい吐息が頬にかかり、唇が彼女の唇の端に触れた。低くかすれた声で囁いた。「......もう一回だけ、キスさせて」その言葉と同時に、彼は弥生の反応を待つこともなく、再び唇を重ねた。「んっ......」弥生はまたもやキスされてしまい、押し返す暇もなく、思わず声をもらしてしまった。でも、その声が扉の外まで聞こえてしまうかもしれないと思い直し、慌てて喉の奥でその声を飲み込んだ。焦った様子で、彼の胸元に手を置いて制止しようとした。子どもたちと健司がすぐ外にいるのに。こんな時にでも彼は大胆だ。弥生は内心呆れながらも、外に聞こえる音を気にして、身動きすらできなかった。「健司おじさん、ママどこ行っちゃったの?」ひなのの声が外から聞こえた。健司は辺りを見回し、警戒した表情を浮かべていた。弥生の姿が見えないことで、彼は一瞬、弘次の仕業かもしれないと疑念を抱いた。そのとき、少し先に閉ざされたままの部屋のドアを見つけた。ピンと来た。「おそらく、ママは何か忘れ物を取りに戻ったんだよ。荷物は持って、外で待っていよう」そう言って、健司はとっさに判断し、子どもたちを連れて外へ出ようとした。しかし、ひなのは納得できずに聞き返した。「ママ、何を取りに戻ったの?私たち、手伝わなくていいの?」「大丈夫、ママ一人で十分だと思うよ。さあ、行こう。外で待とう」そう言うと、健司はまるで子どもが引き返すのを防ぐように、ひなのを抱き上げ、そのまま外へと連れて行った。その一方、部屋の中の弥生は、キスを受けながらも、外の気配にずっと神経を集中させていた。そのせいで、キスもどこか上の空だった。ようやく外の気配が遠ざかっていくと、弥生はホッと息をつき、緊張が少しだけ解けた。そのとき、彼女の腰に触れていた彼の手が、柔らかいところをつまんだ。弥生は反射的に目を開け、彼を睨みつけた。「......また、集中してない」その責めるような声に、弥生は恥ずかしくな
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第863話

帰りの飛行機は、行きのときとはまったく違う気持ちだった。とはいえ、どちらも良いとは言えなかった。唯一の慰めは、行きも帰りも、子供たちが常にそばにいてくれたことだった。健司は瑛介からの連絡を受け取り、搭乗前にすでに子供たちの件を両親に伝えていた。その知らせを聞いた両親は、しばらくの間、言葉を失っていた。長い沈黙の後、ようやくこう言った。「すぐに戻るわ。あなたたちの便は何時? 空港まで迎えに行く」健司はこの言葉を弥生に伝えたが、それを聞いた弥生は少しばかり気まずそうな表情を浮かべた。それもそのはず、彼女はこの五年間、宮崎家とは一切顔を合わせていなかった。今さらどう接すればいいのか自分でもわからなかった。健司は彼女の胸中までは読み取れなかったが、その表情を見て察するものがあった。彼女があまり嬉しそうに見えなかったため、健司はおそるおそる尋ねた。「霧島さん、社長がおっしゃっていました。もし不安やご心配があれば、いつでも私にお知らせください。この件は、途中で中止していただいても構いません」思いもよらない言葉に、弥生は目を見開き、健司を見た。「途中で......中止?」健司はうなずいた。「はい」「でも、もう話したんでしょう? 今さら中止なんて......先方をがっかりさせるだけじゃないの?」「ええ、確かにお伝えしました」健司は頷きつつも、はっきりと言った。「ですが、社長はおっしゃいました。一番大事なのは霧島さんのお気持ちだと。もし不安や不快に感じられるようであれば、そのときは中止して構わないと。すべての判断は霧島さんに委ねるとのことです。後のことは、すべて私が対応いたします」まさか、そこまで徹底してくれていたとは......弥生はふっと唇を持ち上げて、かすかに微笑んだ。「不快ってことはないわ。ただ......最後に会ったのは五年前。久しぶりすぎて、どう接したらいいか分からなくて」そんな答えが返ってくるとは思わず、健司は思わず顔をほころばせた。そしてすぐに、安心させるように続けた。「霧島さん、ご安心ください。先日、おばあさまとお話した際には、あなたのことをとても気にかけておられました。いろいろとお尋ねになっていましたよ」「......本当?」彼女は、かつて何も告げずに姿を消
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第864話

「やった!」ひなのは思わず弥生に飛びつこうとしたが、ここは飛行機の中。二人ともシートベルトを締めているため、それは叶わなかった。そこで弥生は手を差し出し、ひなのにぎゅっと握らせて、その喜びを共有した。「ママ、寂しい夜おじさんはもう知ってるの?」彼、知ってるのかな?弥生はふっと微笑み、穏やかな目元で首を横に振った。きっと、彼が日本に帰ってきたら、わかる。「そのうち分かるわ」「じゃあママ、おじいちゃんとおばあちゃんって優しい人? 寂しい夜おじさんのパパとママのこと?」「そうよ。とても優しくて、話しやすい方たちよ。心配しないで。彼らは......」弥生は少し言葉を選んでから、静かに続けた。「......あなたたちの、本当のおじいちゃんとおばあちゃんなの」その言葉に、ひなのの目がまんまるに見開かれた。「ほんとうの......おじいちゃんとおばあちゃん!?」「うん」弥生はひなのの頭を撫でながら、隣の陽平にも目を向けた。「ひなの、陽平。ママの言ってること、わかる? 寂しい夜さんは、あなたたちの本当のパパなのよ」陽平はすぐにコクリとうなずき、納得した様子だった。しかし、ひなのはしばらく考え込んだあと、ふいに大きな瞳で言った。「でもママ、前に言ってたよね? ひなのと陽平のパパは......もう死んじゃったって」近くでそのやりとりを聞いていた健司も焦っていた......これは、さすがに気まずい。弥生もさすがにバツが悪かった。健司がいなければ、子供たちにもっと丁寧に説明できたのに......でも、もう仕方ない。五年前、まさか自分が瑛介と復縁するなんて、思ってもいなかった。あのときの自分は、ただ心に正直に生きていただけ。そう思い直した弥生は、わずかに微笑んで言った。「うん......生き返ったの」彼の口元がぴくりと引きつった。もし相手が弥生でなければ、間違いなくこう言っていた。さすがにそれは無理がありませんか?死んだって言っておいて、今度は「生き返った」って......案の定、二人の子供は固まってしまい、ぽかんと弥生を見つめていた。その様子に弥生は思わず吹き出し、ふたりの鼻を指でちょんとつついた。「冗談だよ。信じちゃったの?」「もう、心臓止まるか
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第865話

飛行機を降りた後、健司は変わらず、せわしなく弥生の荷物を運んでいた。弥生は二人の子供を連れているだけで、彼女の周囲には、大柄なボディーガードたちが複数付き添っていた。かつての誘拐事件を警戒しての配慮だった。健司はスーツケースを押しながら後ろに付き従い、出口が近づいたところで、そっと声をかけた。「霧島さん、おかあさまとおとうさまは出口のところでお待ちです。もうすぐお会いになります」その言葉に、弥生は小さく頷いた。「うん」そう答えてから、彼女は身をかがめ、子供たちに優しく語りかけた。「ひなの、陽平、聞こえた?もうすぐおじいちゃんとおばあちゃんに会うのよ。ママが飛行機の中で話してたこと、覚えてる?」「うん、覚えてる!」「心配いらないよ、ママ。ひなのとお兄ちゃん、ちゃんと礼儀正しくするから!」子供たちは元気に約束してくれた。ボディーガードたちに守られながら、彼らは空港の出口へと進んだ。その頃、空港の出口では、瑛介の母は小さな鏡を取り出し、しきりに自分の顔を確認していた。そして何度も鏡を覗いた末、やや不安げに夫に尋ねた。「ねえ、私、今日のメイク、ちょっと派手すぎるかしら?子供に会うのに、これじゃよくない?」それを聞いた瑛介の父は、ちらりと彼女を一瞥して答えた。「いいんじゃない?子供って、こういうの好きだろう」「なにそれ?子供がこういうメイクを好きって、あなた、子供の気持ちが分かるみたいな口ぶりじゃない」「......いや、分からないけどさ。君も分からないんだろ?だったら、気にする必要ないじゃないか」確かに、子供と大人の美的感覚は違う。そもそも彼女のメイクが派手か地味かなんて、子供にはわからない。ただ、大人だと認識してもらえれば、それで十分だろう。そう考えると、彼女の肩から少し力が抜けた。だが、すぐにまた別の不安が襲ってきて、彼女は鏡をバッグにしまうなり、夫の腕をつかんで語り出した。「しかし......やっぱり弥生って子はすごいわよね。一人で五年も海外にいて、しかも二人も子供を産んで......私たちには何も言わなかったなんて」その言葉に、瑛介の父は目を細めて言った。「......それで、君は何が言いたいんだ?」「何って、決まってるじゃない。全部、あのバカ息子のせいよ
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第866話

「君が瑛介とケリをつけるとき、私がいつ止めたって言うんだ?君と結婚してから、この家はずっと君の言うとおりじゃないか」その言葉を聞いて、瑛介の母は少し考え込み、そして唇を引き結んだ。......確かに、言われてみればそうだ。彼女は口をつぐみ、それ以上何も言わなかった。弥生が瑛介と離婚し、家を出てからというもの、瑛介の母の性格は以前と大きく変わった。さらに祖母が亡くなってからは、その穏やかだった性格もどこか影を潜めてしまった。息子への接し方も、以前のような甘さはなくなっていた。彼女はずっと、弥生の行方不明は息子に原因があると信じて疑わなかった。結婚していた女性が家を出ていくなんて、よほどのことがなければ起こらない。つまり、男側の落ち度だ。ましてや弥生は、小さい頃から彼女が見守ってきた子だ。その性格は誰よりもよく知っている。あの子が、自分から家庭を壊すようなことをするはずがない。そう、悪いのはあのバカ息子。そう思っていた瑛介の母は、長い間このことを思い出すたびに心がざわつき、ついには息子に電話をかけて文句を言うようになった。だが、当時の瑛介も心身ともに荒んでいた。母親の小言を聞く余裕もなく、電話を取っても数言で切ってしまうことがほとんどだった。かけても切られ、またかけても切られるというやり取りが続いた。そのうち、瑛介が毎晩のように酒に溺れていると知り、母は胸を痛めた。とはいえ、胸を痛めつつも、つい責める気持ちは止まらない。「自業自得よ。あの時、大切にしなかったから。今さら後悔したって遅いのよ」「苦しみたいなら勝手に苦しんでなさい」そんなふうに口では言っても、母の心は複雑だった。結局は、我が子が可愛いのだ。数年経つうちに、弥生の存在は心の奥にしまい込まれていった。彼女から連絡はなく、祖母の葬儀にも顔を出さなかったことで、もうこの子とは一生関わることはないと、諦めるしかなかった。ちょうどその頃、奈々が瑛介のそばにずっと付き添っていた。そこで母は、そろそろ奈々と進展してもいいんじゃないかと考えるようになった。まさか、自分の息子があんなに頑なに他の女性を受け入れようとしないとは思ってもみなかった。奈々がどれだけ近くにいても、彼は一度たりとも心を動かさなかった。それだけで
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第867話

遠くからでも、瑛介の母には弥生と二人の子供の姿がはっきりと見えた。弥生のそばにいる男の子と女の子はまるで瓜二つな双子のようだった。健司から電話があったとき、彼女はそれだけで大きな衝撃を受けていた。「子供?それって、瑛介と弥生の子供なの?」「はい。間違いありません」「......弥生が瑛介の子供を!?今いくつなの?」健司が「五歳で、しかも男の子と女の子の双子です」と伝えたとき、瑛介の母は感極まって泣きそうになった。あの頃の瑛介は、誰のことも受け入れない頑なな態度で、弥生も姿を消してしまった。彼女は、もう息子に孫もできる可能性はゼロに近いと覚悟していた。それを受け入れるために、何度も心の整理をした。瑛介自身が焦っていないのに、母親が気に病む必要はないと思い直すようにしていたのだ。まさか、諦めの直後に、こんな嬉しいサプライズが待っているとは。ついさっきまで「孫がいない」と落ち込んでいたのに、今や突然、二人も目の前に現れるなんて!遠目に見ても、子供たちはまるで人形のように整った顔立ちで、歩いているだけでも周囲の視線を集めている。しかも、その顔は、どう見ても瑛介にそっくりだった。出発前、家で電話を受けたのを耳にした使用人が口をはさんできた。「霧島さんはもう五年も前に出ていったんでしょう?それなのに本当に旦那さまの子供なんですか?......もしかして、違うかもってことは?」それを聞いた瞬間、瑛介の母の表情は一変した。「変な噂を勝手にするんじゃないの」その剣幕に、使用人はビクリと肩をすくめ、慌てて謝った。「申し訳ありません。そんなつもりは......ただ、旦那様が騙されてたらと思って......心配だっただけで、悪気はなくて......」「うちの子より、あんたの方が物事が分かるっての?彼が騙されてるかどうか、自分で見抜けないと思う?」使用人はそれ以上、何も言えなくなった。そして瑛介の母はきっぱりと言い放った。「次、同じようなこと言ったら、クビにするよ」彼女は息子の目を信じていた。仮に、万が一、本当に子供が瑛介の子でなかったとしても、弥生は彼女たち一家の命の恩人なのだ。過去にあれほど苦労させたのだから、たとえその子を育てることになったとしても、それくらいの恩返しは当然だと考
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第868話

それでも彼女は、当時まだ結婚していた弥生と瑛介に対して、孫を産めと急かすようなことは一切しなかった。二人には、二人なりの考えがある。年上の人はがあまり口を出すべきではないと考えていたからだ。そもそも、自分自身が若い頃に瑛介を妊娠したのも、まったくの予想外だった。本当は、もう少し夫と二人きりの時間を楽しんでいたかったし、瑛介の祖母もとくに孫を急かすようなことは言わなかった。だからこそ、蜜月のような生活を満喫していたが、うっかり妊娠してしまったのだ。だから、彼女は弥生たちにも「焦らず、自分たちのタイミングで」と思っていた。まさか、その二人が離婚し、弥生が姿を消すとは......想像もしていなかった。それ以来、まわりから「孫がいない」ことを冗談交じりにからかわれることも増えたが、瑛介の母は微笑んで受け流すだけだった。そういう時は連絡を一方的に打ち切った。相手方は取り乱した様子で深夜に謝罪に訪れ、涙ながらに必死に許しを請うていた。その後、数年間は本当に静かだった。もう望みはなかった。まさか、今、近づいてくるあの子達が孫なんて。瑛介の母は無意識にしゃがみ込み、目を細めてその姿を見つめた。弥生も遠くから彼女たちの姿を見つけた。何年も会っていないのに、瑛介の母はまったく変わっていない。相変わらず美しかった。にっこりと微笑みながら、彼女はこちらに向かって手を広げ、しゃがみ込んだ。弥生は小声で言った。「ひなの、陽平......おばあちゃんとおじいちゃんはあそこにいるよ」機内で話していた通り、二人はすぐに声をそろえて挨拶をした。「おじいちゃん、こんにちは。おばあちゃん、こんにちは」まだ初対面のためか、どこか警戒したような目つきをしていたが、それでもはっきりとした声だった。その様子に、瑛介の母は少しも気を悪くすることなく、むしろその愛らしい声に感極まり、目に涙を浮かべた。「......ああ、ああ......」二度も応えるように声を出しながら、彼女はふたりを思いきり抱きしめた。その光景を見ていた瑛介の父も、最初は冷静だったが、次第に顔をほころばせ、静かにふたりの子どもの前にしゃがみこんだ。弥生は少し離れた場所からその様子を眺めていた。目の前で、おじいちゃんとおばあちゃんがすっかり
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第869話

家に着くと、瑛介の母は弥生に対してとても丁寧だった。彼女の手を取り、何度も何かを言いかけては言葉を呑み込んでいた。もっとも、そうしたのは瑛介の母だけではなかった。弥生もまた、何度も口を開いては閉じた。どうやって口にすればいいのか、何と呼べばいいのか、それが分からなかったのだ。子どもたちは「おじいちゃん」と「おばあちゃん」と呼んでいるが、自分は「お母さん」と呼びかけることはどうしてもできなかった。......五年という年月が流れた。きっと、目の動きや表情から、瑛介の母は彼女の迷いに気づいたのだろう。やさしく弥生の耳元にかかる髪をそっと払うと、穏やかな声で言った。「いい子ね......この数年、外で本当に大変だったでしょう?」たったそれだけの一言だったのに、弥生の目には、ふいに涙が浮かんだ。いろんな言葉を想像していた。でも、まさか、そんなふうに言われるとは。その一言が、なぜだか、胸にずしんと響いた。溢れかけていた気持ちは誰にも言えなかった。まるでずっと憧れていた母に、ようやく出会えたかのようだった。それを感じ取ったのか、瑛介の母もまた、胸が詰まるような思いだった。彼女はそっと弥生の頬をつまみ、微笑みながら言った。「泣かないで......いい子ね。帰ってきてくれて、本当にうれしいわ。今まで瑛介があなたを苦しめてしまって......これからは、母さんがちゃんとあなたを守るから」母さん? 弥生の視界は、もうぼんやりと滲んでいて、彼女の表情はよく見えなかった。でも、涙越しに見える瑛介の母の顔は、まるで自分のことを大切に思ってくれているように感じた。ふいに耳に入った母さんという自称に、弥生は一瞬、戸惑った。......私に母さんって言った?じゃあ......私も、お母さんと呼んでいいの?そんな思いがよぎって、弥生は唇をきゅっと噛みしめた。小さく声を震わせながら言った。「......五年も経ったから、てっきり......もう、私のこと、認めてもらえないと思ってました」「馬鹿ね、そんなわけないでしょう? あなたのこと、小さい頃から好きだったのよ。あのときあなたが出ていった後、母さんだって自分を責めたわ......夫婦の間に問題があったのに、母親として早く気づいて助けてあげられな
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第870話

彼がまだ海外にいて、しかも怪我までしていると思うと、弥生の唇に浮かんだ笑みも、少しだけ陰りを見せた。「......もういいわ、他のことは考えないで。一日中飛行機に乗って疲れたでしょ?ちょうど料理ももうすぐできるみたいだし、今夜は何も考えずに、美味しいご飯をゆっくり食べて。それで、明日またゆっくり話しましょう」夕食はとても豪華だった。しかも、どれもどこか懐かしい味、海外で食べてきた料理とは、まったく違っていた。何より驚いたのは、この味、まるであの頃と同じだった弥生は思わず顔を上げて、瑛介の両親に目を向けた。心のわだかまりは少し解けたとはいえ、長い時間が空いてしまったせいか、やはり気後れしてしまい、少し恥ずかしそうに、そして戸惑いながら問いかけた。「ここの料理人さん、もしかして......この数年ずっと、変わっていないんですか?」瑛介の母は、穏やかな笑みを浮かべながらうなずいた。「ええ、変えていないのよ。もう長く我が家で働いてもらってるし、私たちもすっかり彼の味に慣れてしまってね。どうして?もしかして、すぐに分かった?」「......うん、すごく懐かしい味でした」料理だけじゃない。家の中のインテリアや空気感も、まるで五年前から何も変わっていないようだった。もし何かが変わったとすれば、それは、食卓に、二人の小さなお客さんが増えたこと。今、その二人は瑛介の両親の間にちょこんと座っている。瑛介の両親は、一通り弥生の質問に答えたあと、交互に子どもたちにご飯を食べさせていた。「はいはい、ひなの、これ好きだったわよね?たくさん食べて」「陽平、これも食べてみて」弥生が何かを手伝う必要は、まったくなかった。彼女はただ、自分のご飯をゆっくり味わえばいいだけだった。食後、瑛介の母が声をかけてきた。「お部屋は、以前あなたと瑛介が使っていたところよ。毎日メイドさんが掃除してるし、寝具も新しくしておいたから、そのまま使ってちょうだい」「はい」「それでね、ちょっと相談があるの」瑛介の母は、どこか言い出しにくそうに弥生を見つめた。その様子に気づいた弥生は、先に口を開いた。「......お母さん、どうかされましたか?」「ええと......今日、あなたたちきっとすごく疲れてると思うの。だから、も
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