All Chapters of あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した : Chapter 911 - Chapter 920

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第911話

弥生は痛みのあまり、反射的に頭を押さえた。弘次は、まさかそこまで強い痛みとは思っていなかったようで、すぐに彼女の体を支えながら、焦ったように声をかけた。「もういい、思い出せなくていい。まずは検査を受けよう。検査が終われば、医師が何か分かるかもしれない」弥生は彼の胸に抱かれたまま、顔色が真っ青になっていた。弘次がそう言い終わる頃には、もう力尽きていたようで、白い額には汗がにじんでいた。「ティッシュをあげて」弘次が言うと、すぐに傍の者がティッシュを差し出した。彼はそれを受け取ると、優しく弥生の額の汗を拭ってやった。彼女の唇からは血の気が引いており、弘次の腕の中でぐったりと横たわる姿は、見るに堪えないほど弱々しかった。そんな弥生の姿を見るたびに、弘次の胸は締めつけられるように痛んだ。そしてその心の痛みが深くなればなるほど、弘次の苛立ちは増していく。彼は低く冷たい声で、部下に問い詰めた。「検査はまだか?救急には入れないのか?」その言葉が終わらないうちに、外から誰かが走り込んできた。「順番取れました。すぐにご案内できます」その声を聞いた弘次は、すぐさま弥生を横抱きにし、そのまま足早に病室を出ていった。今回の検査は、主に頭部の精査が中心だった。もともとは脳に異常がないかを確認するためのものだったが、弥生が目を覚ました後に記憶を失っていることが判明し、付き添いの者がその旨を医師に伝えると、検査項目はさらに追加された。病院の検査はいつも煩雑だが、今回は特別に優先対応をもらった。それでもすべての検査が終わるまでには数時間が必要という。検査が終わると、弘次は特別病室を手配し、弥生をそこへ寝かせた。検査を終えた弥生は、すっかり疲れ果て、すぐに眠りについていた。弘次は、彼女の肩まで丁寧に布団をかけ、静かにそのそばに座った。そこに俊太が、何かの資料を持って病室に入ってきた。弘次は彼に目を向け、小声で尋ねた。「結果はいつ出る?」「至急扱いにはしましたが、具体的な時間は分かりません」その答えに弘次は不満げだったが、弥生の眠りを妨げるのは避けたいのか、それ以上は何も言わず、彼女の傍に静かに寄り添い続けた。俊太は、その様子を見て心がざわついた。彼女がここに来る前、俊太は「黒田さんも一時の興味で動いてい
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第912話

弘次は彼女を自分のそばに置いておきたい。ただそれだけだった。どうしようもなく好きなのだ。たとえ彼女が自分のことを好きでなくても、だからといって他の誰かを好きになるなんて、そんなのは絶対に許せなかった。それが、弘次の心の奥底に潜んでいるもっとも暗い欲望だった。かつて必死に努力していた頃は、彼女が自分を拒まなかった。だからこそ、彼も彼女の意思を尊重しようとしていた。無理強いはしたくない、嫌がることは絶対にしないと誓っていた。だが、あの時からすべてが変わった。彼女が帰国してから......そこまで思い出したとき、弘次は強く後悔した。あの時、彼女を帰国させるべきじゃなかった。もしあのまま、彼の手の届く場所に置いていたら......彼女は記憶を失った。すべてを忘れてしまった。その事実が、弘次にとっては、神から与えられたチャンスのように感じられた。彼女はすべてを忘れているのだ。ならば、今こそ、彼女の中に“最初から弘次しかいない世界”をつくる絶好の機会ではないか。それがつけ入る隙かどうかなんて、どうでもよかった。ただ彼女を手に入れたい。もし、このまま彼女がずっと大人しく自分のそばにいてくれるのなら、それ以上、望むことはない。そう思いながら、弘次は弥生のベッドのそばで眠りに落ちた。夜中、俊太がそっと様子を見に病室へ入ってきた。彼は弘次がベッドのそばでうつ伏せになって寝ているのを見て、そっとブランケットをかけた。だが、その瞬間、弘次は目を覚ました。眉間に皺を寄せて顔を上げる彼に、俊太は小声で言い訳をした。「失礼しました......寒いかと思いまして......」弘次は彼の意図を理解したのか、叱ることはせず、一言を言った。「もう入ってくるな。弥生を起こすなよ」「はい、承知しました」俊太は静かに病室を出て、それきり戻ってこなかった。こうして一夜が過ぎた。翌朝、検査結果が出たという連絡を受け、弘次は医師に呼ばれた。「......本当に?異常?」眉をひそめる弘次に、医師は落ち着いた口調で答えた。「ご安心ください。命に関わるような重篤な問題ではありません。ただし......」「ただし?」「お付き添いの方から、彼女が記憶を完全に失っていると伺いましたが、それが示す通り、
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第913話

「外に出して......」弥生はまだ諦めずに言い続けていた。声は細く柔らかいが、必死にドアをふさぐ人を押しのけようとしていた。でも、入口には一人ではなく複数の者が立ちはだかっており、誰かが許さなければ、彼女一人ではどうにもならなかった。「本当に......どうしても行かなきゃいけない用事があるの」その時、低く鋭い声が突然響いた。「何の用事だ?」その声に、場の空気が一瞬で凍りついた。声の主に目を向けると弘次が帰ってきたのだった。彼はそのまま早足で弥生のもとへ歩み寄り、病室へと入った。周囲の者たちは彼の姿を見ると、すぐに気を利かせて部屋の外へ出て行き、ドアを静かに閉めた。弥生は目の前に立つ背の高い、美しい顔立ちの男を見つめ、自然と眉を寄せた。だが、彼が自分に優しくしてくれていると直感し、さっきの態度や行動から見ても、どうやらこの人とは近しい関係なのだと感じた。そう思うと、少し許す気持ちになった。「戻ってきたのね。彼らが私を外に出してくれなくて、『君を待ってください』って......」「うん。君の病状について、医師と話してきた」その言葉に、弥生は急に緊張し出した。「病状?」彼女の不安そうな顔を見て、弘次は可笑しくなり、唇を軽く上げて言った。「うん、ちょっと問題があるって言われたよ」「何の問題なの?」本当に悪いところがあると知り、弥生の顔はさらにこわばった。だが弘次ははぐらかすように言った。「それは後で。君に聞きたいことがある」「......え?」「さっき君がどうしても出かけなきゃいけないって言ってたのを聞いた。そんなに大事なことって、一体何なんだ?」弥生はすぐに頷いた。「......ええ、大事な用事があるの」「どんな用事だ?」そう訊かれて、弥生の動きがぴたりと止まった。表情が曇った。そうだ、自分は何をしに行こうとしていた?「私......」「うん?」弘次はさらに一歩近づき、彼女を見下ろしながら優しく問いかけた。「ねえ、教えてくれる?大事なことって、何だった?」その瞬間、弥生は眉を深く寄せて、やがて小さく首を振った。「私......思い出せないの......」「......思い出せない?」弘次は信じられない思いで彼女を見つめた。ほんのさ
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第914話

最初、弘次は弥生が演技をしているのではないかと思った。だが、彼女の顔色が徐々に青ざめ、医療機器の数値にも異常が出たことで、ようやくそれが演技などではないと理解した。彼の目がわずかに揺れ、すぐさま弥生のもとに駆け寄り、彼女の手を握った。「弥生、思い出せないなら、もう思い出そうとしなくていい」だがそのとき、弥生はすでに自分の思考の迷路に入り込んでいて、弘次の声など、まったく届いていないようだった。彼はただ、彼女の顔色がますます悪くなっていくのを見守るしかなかった。ついには顔が白くなり、額には細かな汗が滲み始めた。やむを得ず、弘次は彼女のうなじに手を伸ばし、軽く打って気を失わせた。意識を失った弥生の体はふわりと崩れ落ち、弘次は素早く抱きとめ、そのまま彼女をそっと胸に抱いた。しばらく彼女を見つめたあと、彼は両腕で抱き上げ、再びベッドの上へと寝かせた。その後、ハンカチを取り出し、彼女の額の汗を丁寧に拭った。これ以上、彼女に無理をさせるわけにはいかない。目覚めたときには、もうこんなに思い詰めさせないようにしなければ。第一、彼女が記憶を取り戻すのは、自分にとって都合が悪い。第二に、記憶を取り戻す過程でこんなにも苦しむのであれば、むしろ一生忘れたままのほうがいい。そう思いながら、弘次の手が弥生の白い頬にそっと触れた。そして、彼は誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。「弥生......卑怯だと思われても構わない。君のそばで、僕が君を守りたいんだ」昼頃、俊太が弘次を呼びに来た。緊急の用事があるという。弘次はすでに覚悟を決めていたため、機嫌はそれなりに良かった。「どうした?」「黒田さん、友作が会いたいと申しております」友作という名を聞いた瞬間、弥生は連れてきた件を思い出した。弘次の唇の端が一瞬だけ動いたが、何も言わぬまま、さらに俊太が続けた。「外でお待ちです」その言葉を聞いた弘次の表情は、たちまち氷のように冷たくなった。「誰が彼に知らせた?」その剣のような言葉に、俊太は思わず半歩後ずさりしながら答えた。「それは......ただ彼が......」「もういい。外で待たせておけ」「かしこまりました」俊太が退出した後、弘次は意識を失ったままの弥生に目を向け、静かに見つめた。しば
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第915話

弘次は冷たく鼻で笑った。「僕に命令するつもりか?」「ただの助言でございます」「友作......」弘次は目を細め、冷たい目で彼を見つめた。その声は低く、どこか氷のように冷たい。先ほどまでの柔らかで温和な様子は完全に消えていた。「本当に自分がいい人だとでも思ってるのか?」友作は反論した。「それはわかりませんが、黒田さん、人を無理やり引き留めておくのは、決して堂々としたやり方とは言えないと思います」弘次は唇をわずかに吊り上げた。「自分の両親のために、結局弥生を僕の元に連れてきたのは君だろう?」その言葉に、友作は一瞬で言葉を失った。少し間を置いてから、彼は口を開いた。「......確かに、僕は立派な人ではありませんが、黒田さんのやり方のほうが、よっぽど卑劣ですよ」そう言い残し、友作は背を向けて立ち去った。弘次はその場から動かず、彼の背中を無言で見送っていたが、何かを思い出したように、徐々にその目つきが冷え込んでいった。隣に立っていた俊太がそれに気づき、ふとあることを思い出して尋ねた。「黒田さん、霧島さんはもうこちらにいらっしゃいますし、あの人の件は......」彼が誰のことを言っているのか、弘次にはすぐにわかった。だが、今の弘次はその件に気を回す余裕がなかった。彼は俊太を鋭く一瞥すると、そのまま病室へ戻っていった。瑛介の存在は今でも弘次にとっては厄介な火種のままだ。本来は、弥生が自分の元に来た時点で、行動に移すつもりだった。だが、すべての計算を立てていたにもかかわらず、弥生が記憶を失うという想定外の事態が起きた。もし彼女が記憶喪失のまま瑛介のことも忘れているなら......自分の手を汚す必要もないのではないか?弘次は弥生のベッド脇に腰掛け、彼女の顔をじっと見つめながら、静かに囁いた。「もし君が目覚めて、素直に僕の言うことを聞いてくれるなら......彼のことは、見逃してやってもいい」でも、当然ながら、今の弥生にはその声は届かない。午後になって、弥生がようやく意識を取り戻した。一度目覚めた後の記憶は残っているようで、再び見覚えのある病室を目にしても、彼女は特に驚く様子はなかった。ただ、首に鈍い痛みを感じていた。無意識のうちに、手を後ろに伸ばして首筋に触れた。「目
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第916話

「首の他に、どこか具合の悪いところはある?」そう尋ねられた弥生は、弘次の言葉に合わせるように、自分の身体の状態を静かに感じ取ってみた。しばらくして首を横に振った。「......特にはない」その答えに、弘次はさらにバツの悪そうな様子で鼻の頭をさすった。あの時、とにかく彼女をこれ以上混乱させたくない一心で首筋を叩いたが、まさか後遺症が出るとは想像していなかった。今こうして彼女が首の痛みを訴えるのを見て、弘次は胸が痛んだ。「じゃあ、揉んでやろうか?」そう言いながら、彼はすでに身を乗り出して彼女に近づき、手を伸ばして彼女の首に触れようとしていた。しかし、彼の手が自分の方へ伸びてくるのを感じた瞬間、弥生は反射的に身体を逸らして、それを避けた。前回は弥生に体力がなかったため、弘次にされるがままだった。だが今回は起き上がることができており、ある程度の力も戻っていたのだ。その仕草に弘次は手を止め、視線を彼女に向けた。彼のまっすぐな視線に、なぜか弥生は視線をそらし、ぎこちなく口を開いた。「いいえ、大丈夫......」そう言って、彼女は自分の手を使って首のあたりをそっと押さえ始めた。弘次はしばらくその様子を黙って見つめていたが、何も言わずに席に戻った。一瞬、部屋には静寂が流れた。少ししてから弘次が口を開いた。「お腹空いてないか?何か食べたいものはある?」昨日飛行機に乗ってから何も食べていないはずなので、そろそろ空腹を感じている頃だろう。脳に少し怪我を負っただけで、食事には問題ないはずだった。だが弥生は、ゆっくりと首を横に振った。「お気遣いありがとう。今はあまり食欲がなくて......」「......食欲がない?」弘次は目を細めた。「いつから食べ物を口にしていないか分かってるのか?」「え?」そう言って、弥生は自分の腹部に手を当ててみた。「......でも、全然お腹空いてる感じがしない」本当に、不思議なくらい、食欲が湧かなかった。弘次は彼女の様子を見て、無理に聞いても無意味だと判断した。何も言わずにスマホを取り出すと、手早く何かを入力し、食事の手配を済ませた。電話を終えてスマホをしまい、再び彼女を見て静かに言った。「無理に思い出そうとしなくていい。これからは僕がし
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第917話

弘次は息も乱さず、真剣な眼差しで弥生を見つめながら、はっきりと告げた。「婚約者......?」まさか、この人が自分の婚約者だったなんて。弥生は、親しい友人である可能性は考えたことがあったが、そんなに親密な関係だったとは思いもよらなかった。何だか、妙な気がする。弥生は伏し目がちに唇を噛みしめながら考えた。もし彼が本当に自分の婚約者だというのなら、なぜ自分は彼の触れた手に、あれほどまでに違和感を覚えたのだろう。「信じてないのか?」そう聞かれて、弥生はゆっくりと顔を上げ、弘次の目を見つめた。だが肯定も否定もせず、黙っていた。「弥生......君が記憶を失う前、僕たちはちょっとした喧嘩をしていた。君は口をきいてくれなかった。その怒りが、今もまだ続いてるってわけじゃないよな?」「喧嘩?」だから、あんなにも距離を感じるのだろうか。だから彼に触れられると嫌な感じがしたのか。「そうだよ。もう意地を張るのはやめよう。君の体調には静養が必要だ。これからは僕がずっと見守るから、ね?」だが弥生の胸には、拭いきれない違和感が残っていた。彼女は目を細めて弘次をじっと見つめた。「本当に私の婚約者なの?」そう問われた弘次は、表情ひとつ変えなかった。疑いようのないほど自然に、堂々としていた。「何だよ。ちょっと喧嘩しただけで、自分の婚約者すら認められないのか?」弥生は黙ったまま、何かを真剣に考えているようだった。彼女が黙り込むと、弘次もそれ以上余計なことは言わず、ただ彼女の反応を待った。しばらくして、弥生は首をゆっくり横に振った。「......違う。あなたは、私の婚約者じゃない」その言葉に、弘次の心臓が冷たい何かに締め付けられた。彼女はすべてを忘れているはずだった。なのになぜ、そう言い切れる?弘次がどう言い返せばいいのか迷っていると、弥生は真顔で続けた。「あなた......私のタイプじゃない」その何気ない一言が、鋭い刃のように弘次の胸に突き刺さった。記憶を失った状態でも、彼女は彼の心を容赦なく傷つけることができた。しかも今の彼女は、ただ純粋に直感と好みだけで話している。「......君は今、記憶がない。どうして僕が君のタイプじゃないなんて分かるんだ?」「だって、見れば分かるわよ」
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第918話

弥生は眉をひそめ、小さく呟いた。「私......」弘次に冷たくするのは、たしかに彼にとって不公平かもしれない。でも、自分はどうしても、彼に近づかれることを受け入れられない。だから、弘次が身を寄せてきたその瞬間、弥生は思わず体をそらしてしまった。それを見た弘次は動きをぴたりと止め、苦笑いしながら小さくため息をついた。「......そうか。今の君は記憶を失っていて、僕に対して抵抗があるんだよな。わかってる」弘次は穏やかな声で続けた。「君がまた僕に気持ちを向けてくれるまで、無理に触れたりはしない。でも......僕が君の婚約者だということだけは、否定しないでほしい。いいかな?」まるでお願いするような口調だった。弥生はやはりどこか引っかかる思いがあったが、なぜ拒みたくなるのか、自分でもわからなかった。「あとでご飯が来るから、まずは食べよう。ね?」その優しげな口ぶりに、弥生も強くは反発せず、こくりと頷いた。「......うん」あまりお腹が空いているわけではなかったが、反対する理由も見当たらなかった。それに、自分は記憶もなく、行く場所もない。家族がそばにいてくれたらどれだけ心強いか。そう思った弥生はふと尋ねた。「そうだ、私の携帯ってどこにあるの?」その問いに、弘次の目が一瞬鋭くなった。思ったより早くその質問が来た。彼女がそこまで頭が回るとは予想していなかった。「病院に運ばれたときには、もう見当たらなかった。探したけど、どこにもなかったんだ」「え?」「とにかく君を助けるのが最優先だったからな。携帯のことまで気が回らなくて。新しいのを用意しようか?」確かに、失くした携帯はもう誰かに拾われているかもしれない。新しいものを買うしかないのだろう。弥生は渋々うなずいた。「......それじゃあ、父と母の電話番号を教えてもらえる?」その言葉に、弘次の眉がわずかに動いた。「お父さんに、君が事故に遭ったことで連絡するつもりか?」「......お父さん?」「そう。君は小さい頃から、お父さんと一緒に暮らしていた」「......母は?」この問いに、弘次は黙った。目を伏せ、答えを口にしようとしなかった。その沈黙が弥生にも伝わったのか、彼女は胸の奥から、何とも言えない悲しみがこみ上げてき
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第919話

「弥生、ごはんだよ」先ほど約束してしまった手前、弥生は弘次に支えられながらベッドを下り、テーブルの前まで来た。弘次はご飯をよそい、それを彼女の前に差し出した。「どうぞ」「......ありがとう」弥生はお椀を受け取った。弘次はすかさず箸も渡した。目の前にはたくさんのおかずが並び、彩りも香りも豊かだったが、弥生はただ一口だけ白ご飯を口に運んだ。しかし、その白ご飯すら味がほとんど感じられず、なぜか少し苦く感じられた。隣に座る弘次は、彼女がご飯だけを食べているのを見て、そっと箸を取り、おかずをいくつか弥生の茶碗に入れた。弥生はそれを止める間もなく、されるがままだった。「栄養あるものも食べなきゃ。白ご飯だけじゃダメだよ」「......ありがとう」彼女は礼を言ったが、内心ではなぜだか吐き気を感じていた。無理やりでも食べようと口に運んだが、口に入れた途端、また吐き気が込み上げてきた。弥生は反射的にお椀と箸をテーブルに置き、口を押さえて立ち上がった。「弥生!」弘次は驚いてすぐに立ち上がり、彼女のあとを追った。弥生は洗面所の洗面台に突っ伏し、乾いた咳と共に必死に吐こうとしていた。やがて額には汗が滲み出し、呼吸は荒くなった。胃の中はすでに空っぽで、何も出るはずがなかったのに、嘔吐の感覚は止まらず、何度も何度もえづいた。弘次はそんな彼女の背をそっと撫でながら、心の中で「自分が代われるなら」と何度も思った。ようやく吐き気が落ち着いた頃には、弥生の体力はすっかり尽きてしまっており、その場に崩れ落ちそうになっていた。弘次はすぐに彼女を抱き上げ、病室へと戻った。「大丈夫か?」弥生はもう一言も口をきけないほど疲れており、目を閉じたまま横たわっていた。弘次は彼女をそっとベッドに寝かせ、毛布を掛けてやった。すると、弥生が小さく寝言のように呟いた。「......くさい......」「え?」弘次は聞き取れなかったため、身を乗り出して耳を近づけた。「くさい......」今度ははっきり聞こえた。「何がくさいんだ?」弥生は手で食事が置かれていたテーブルの方を指さした。弘次はすぐに気づいて、茶碗に残された食べ物の匂いを嗅いだが、ごく普通の香りがするだけで、悪くなっているような気配はな
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第920話

「うん、多分そうかも」「じゃあ、あとで甘いものを持ってこさせようか?」甘いものの味を想像すると、弥生は不思議と嫌な気持ちにはならなかったので、うなずいて了承した。弘次はすぐに部屋を出て、指示を出しに行った。そして俊太にも、自分の抱えている疑念を伝え、弥生にどんな検査を受けさせるべきか調べさせた。それを聞いた俊太も眉をひそめた。「体調が悪くて、脂っこいものが受けつけないだけかもしれませんね。いっそ、この数日は食事をすべてあっさりしたものにしてみては?」「そうだな。しばらくは消化にいいものだけにして、まずは体を整えよう」しかし、届いた甘いものを口にしても、弥生の食欲はあまり戻らなかった。吐き気はしなかったものの、数口食べたところで箸を置いた。弘次はその様子が気がかりで、弥生が茶碗を置いた後、自ら茶碗を手に取り、お粥をすくって冷ましながら、彼女の口元に運んだ。「もう少しだけ、食べて?」弥生は眉をひそめ、その差し出された粥をじっと見つめた後、顔をそむけた。「......もう、食べたくない」「でもさっきの量じゃ、夜にはお腹空くだろう?もうひと口だけ......」弥生は目を閉じて、完全に無視する態度をとった。「......弥生?」彼女はそのままぷいっと背中を向けて横になってしまった。弘次はなんとか説得しようとしたが、何を言っても弥生はもう口を開こうとはしなかった。結局、弘次はため息をつき、茶碗を置くと、友作に電話をかけ、弥生がここ数日何を食べていたかを尋ねた。「この二日間、ほとんど食事を摂っていません。飛行機の中で少しだけ、出発前の夜はビールを半分ほど......」と友作が答えた。それを聞いた弘次は思わず額を押さえた。「......冷たいビールなんて飲んだら、そりゃ胃を壊すに決まってるだろ」きっと、夜に冷たいビールを飲んだことで胃が荒れ、今は食べる気が起きないのだろう。胃の検査もした方がいいかもしれない。そう思いながら弥生の方を振り返ると、もう彼女はベッドに寄りかかって眠っていた。弘次は俊太に指示を出し、万が一彼女が夜中にお腹が空いたときのために、食べ物を準備させた。だが、どれだけ用意しても意味はなかった。弥生は一晩ぐっすり眠り、夜中に目を覚ますことは一度もなかった。そし
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