Tous les chapitres de : Chapitre 931 - Chapitre 940

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第931話

だが彼を雇うということは、以前に弘次が友作と取り交わした約束を踏みにじることにもつながった。友作自身も、まさか再び呼び戻されるとは思っていなかった。弥生の件を聞いたとき、彼も非常に心配していたが、すでに弘次の下では役に立たない存在となっていたため、いくら心配してもどうすることもできなかった。だが彼はそれでも諦めず、ここ数日ずっとひそかに動いていた。そんな中、思いがけず弘次から連絡が入り、再び弥生のそばで彼女を守るよう命じられた。「彼女は今、記憶を失っている。そばにいて守るなら、君がすべきことはわかっているはずだな?」友作は無表情のまま、彼の前に立っていた。「霧島さんが記憶を失っている今でも、まだ引かないつもりですか?」この言葉に、弘次の眉間が深く寄せられた。「君を呼んだのは、彼女を守るためだ」「守ることはできます。ただ、ずっと見張るのは無理です」「君はすべきことだけをすればいい」「霧島さんを思ってきた気持ちは、必ず彼女に伝わっています。だから今は無理をせずに身を引けば、記憶を取り戻したときにきっと受け入れてくれるはずです」今さらながらでも、友作はどうにかして弘次に思い直してほしかった。だが、その言葉はもう弘次の心には届かない。彼は冷ややかな笑みを浮かべ、命じた言葉だけを告げると、その場を立ち去った。残された友作はその背中を見つめながら、心の中で深いため息をついた。やはり無理なのか。弘次が霧島さんを本当に大事にしていることは、見ていてわかる。彼女がほんの少しでも傷つくのを恐れているくらいだ。でも、彼がしていることはもう取り返しがつかない。......だが、今最も重要なのは霧島さんが記憶を失っているという事実だ。弥生は同行者としてアジア系の顔立ちの女性を一人選び、彼女と会話を交わしていた。その女性の名前は前田澪音といい、弥生よりも年下で、ここに来たのも給与が良かったからだという。澪音は話すときも恥ずかしそうに頬を染め、素朴な印象を与える少女だった。こういう子なら、一緒に出かければ自分の行動の自由もある程度確保できそうだ。弥生はそう計算しつつ、適度に相手と会話を続けた。「前はどこに住んでたの?」「私は南市の出身です。学校も南市で通ってました」「へえ、そうなの? 私も南市
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第932話

しかし澪音の考えは、他の使用人たちとは少し違っていた。ここで働いてしばらく経った彼女から見て、やはり一番怖いのは弘次だった。弘次が自ら身を屈してまで執着する霧島さんは、絶対にただ者ではない、そう感じていた。彼女の予想は当たっていた。弥生は思ったよりもずっと優しく接してくれる。ただ、使用人たちの間でよくささやかれていた噂話を思い出し、どうしても少しだけ怯えてしまう。「なんでもない。ただ......午後はどこへ散歩に行こうかと思って、このあたりは詳しいの?」澪音は頷いた。「詳しいですよ。私はここに長く住んでますから。霧島さんが行きたいところがあれば、どこでもご一緒します」「ありがとう。じゃあ、あとで行こう」澪音は身支度を整えに行き、弥生は特に持っていくものもなかったので、スマホだけを手にした。出かけようとしたそのとき、澪音が上着を手に戻ってきた。手袋や帽子まで丁寧に準備してくれている。「今日の天気予報は晴れでしたが、この地域は突然雪が降ることも多いんです。だから、出かけるときはしっかり防寒しておいたほうが安心ですよ」弥生は椅子に座ったまま、澪音に帽子と手袋、最後にマフラーまで巻いてもらった。「ありがとう」このように丁寧に世話する澪音の様子を見て、弘次も満足そうだった。すでに言い含めておいたが、ここまで気を回してくれるとは思っていなかった。「出かけるなら、もう一人つけるか」弥生は玄関を出ようとしていたところで、弘次のこの一言を聞いた。その瞬間、彼女の目の光は明らかに沈んだ。何それ。一人だけ連れていくという約束をしたはずなのに。表情にも、はっきりと不快感が浮かんだ。それを見た弘次は、軽くため息をつくしかなかった。「心配しないで。君も知ってる人だ」知ってる?弥生の表情に疑いの色が浮かんだ。彼女は記憶を失っているのだ。誰を知っているというのか。「外で会わせるよ」そう言って、弘次は弥生の手を取り、玄関の外へ連れ出した。外に立っていたその人物を見て、弥生は一瞬、動きを止めた。再び彼女と対面した友作の瞳には、深い後悔の色が浮かんでいた。もし、あのとき自分があんなことをしなければ、彼女を再び弘次の元へ連れてくることも、こんな目に遭わせることもなかった。弥生が彼を見た瞬間、友作
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第933話

弥生が友作を見ても拒絶の反応を示さなかったことを見て、弘次はようやく胸を撫で下ろした。彼女が記憶を失ったとはいえ、無意識のうちに友作のことを覚えているのかもしれないと思うと心のどこかがチクリと痛んだ。「彼を一緒に連れていってもいいか?」弥生は唇を引き結びながら一度視線を落とし、少しの間黙ったあと、目の前の友作をちらりと見た。表情にはそれほど反感は現れていなかった。「彼、ずっとついてくるの?買い物の邪魔にはならない?」「遠くから見守るようにさせるよ。同行するのは主に使用人だが」その言葉に、弥生はようやくうなずいた。一行はそれぞれ必要なものを持ち、出発した。澪音の丁寧な配慮に加え、友作も同行していたことで、弘次もいくらか安心できるようだった。「早めに帰ってきてな」弘次の言葉に、弥生は静かにうなずいた。車に乗り込むと、弥生は運転席のドライバーを横目で見て、さらに隣の友作、そして前の座席に座る澪音を見回し、心の中でため息をついた。本来は一人で外出する予定だったのに、なんだかんだで、四人で一緒に出かけることになっている。「何これ……」と心の中で呟いたが、表情には出さなかった。澪音が連れて行ったのは、近くにある何でもそろうショッピングモールだった。中へ入るなり、彼女はこう言った。「霧島さん、出発前に黒田様からカードを預かってます。霧島さんが欲しい物は何でも買っていいと言われていますから、気に入ったものがあったら遠慮なく仰ってくださいね」買い物などする気になれなかった弥生だったが、澪音に言われて、ひとまずうなずいておいた。「うん......」幸い、ドライバーは買い物には同行してこなかった。同行しているのは澪音だけで、友作は少し離れた場所から後をつけている。少し歩いただけで、弥生は言った。「......お腹が空いた。あんまり歩きたくない」それを聞いた澪音は、「じゃあ三階に行きましょうか?あそこに飲食街がありますよ」と提案した。「ごめん、今はあまり体力がないから、そこまで歩けないかも」そう言って、近くのベンチに腰を下ろした。澪音は戸惑い、どうしたらいいか分からず困っていたが、弥生が突然話しかけてきた。「さっき入る前に、道路沿いで何か売ってる屋台を見たの。なんか美味しそうだった。あれ買って
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第934話

まさかこれほど警戒心が強いとは思わず、弥生はしばし黙ったのち、率直に切り出した。「君は私のことを知っているのでしょう?」予想外の問いかけに、友作はいったん呆けたように固まったが、やがて小さくうなずいた。「......ああ」「私は記憶を失ったの。弘次は私を自分の婚約者だと言っているけど、それは本当?」その言葉に、友作の眉がぐっと寄せられた。弘次がそんなことを口にしたとは思いもしなかったのだろう。だが、弥生が失憶してしまい、それでも自分のそばに置こうとするなら、そういう言い方をしても不思議ではないとも思えた。それに......友作は弥生を見上げながらも答えを口にしなかった。「その顔を見る限り、違うんでしょう?」返事はしなかったが、その眼差しが雄弁に物語っていた。弥生の言葉を暗黙のうちに認めたのだ。ここまでくれば、弥生にもある程度確信が持てた。友作という男は、自分の味方とは限らないが、少なくとも弘次の側には立っていない。もし弘次なら、婚約者の件もそうだと言い切れば済む話だからだ。どうせ自分には記憶がないのだから。そう思いながら弥生はさらに問いかけた。「さっき、なぜあんなに罪悪感のある目で私を見ていたの?私に対して何か後ろめたいことをした?」その言葉に、友作は顔を上げ、同じような視線で彼女を見返した。だが言葉にはならず、何かを言い出せないでいる様子だった。「言いたいことがあるなら、早く言って。澪音もすぐ戻ってくるはずよ」いつまでも煮え切らない態度に、弥生は促すように声をかけた。すると彼もようやく気づいたのか、俯いたまま慎重な口調で告げた。「霧島さん、本当に何も覚えていないのですか?」弥生は一瞬固まり、すぐには答えず、逆に問い返した。「私が何か覚えていなきゃいけないことがあるの?」「霧島さんはすべてを忘れてしまったということですか?本当に大事なことも?」その問いに、弥生は無意識のうちに考え込んでいた。大事なこと?彼女の記憶はすべて消え去っていた。もし忘れたくない、大切なものがあるとすれば......確かに一つだけあった。ただし、それが何を意味するのか、自分でも分からなかった。もしかすると、目の前の男は知っているのかもしれない。そう思った弥生はすぐに口を開いた。「
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第935話

澪音は大変な苦労をして、ようやく弥生が食べたいものを買って戻ってきた。彼女の顔にはまるでとんでもない戦利品を手に入れたかのような喜びの笑みが浮かんでいた。「霧島さん、お待たせしました。ものすごい行列で......さすが霧島さん、きっと美味しいに違いないです!」そう言って、澪音は食べ物を弥生に差し出した。だが弥生は彼女に構うことなく、伏し目がちにして思考の渦に沈んでいた。不思議に思った澪音は、もう一度声をかけた。その声にようやく弥生は我に返り、澪音が食べ物を抱えて自分の前に立っているのに気づいた。「霧島さん、買ってきました」香りが鼻をくすぐった。弥生にはもともと食欲がなく、彼女を行かせたのもただ追い払う口実に過ぎなかった。まして先ほど友作の話を聞いて心が乱れていた今、食べる気分では到底なかった。しかし、澪音が期待に満ちた目で見つめてくるので、弥生は仕方なくそれを受け取った。「ありがとう」食べ物は紙袋に包まれていた。袋を開け、そっと一口食べた。「どうですか?」弥生はまだ別のことを考えていて、味などまるで分からなかった。だが問われたので軽くうなずいた。「悪くないわ」美味しいと言ってもらえて、澪音は走り回った甲斐があったと嬉しそうだった。だが、それでも弥生は二口食べただけで手を止めてしまった。「霧島さん、もう召し上がらないんですか?」澪音はおずおずと尋ねたが、弥生は答えず、再び思考に沈んでいた。先ほど友作との会話で、弥生はようやく事の大筋を理解した。彼の口からあの人物の名が出た瞬間、心の奥でずっと引っかかっていた霧が晴れたような感覚を覚えたのだ。自分にはやり残したことがあると感じていたが、それが何か分からない。だが友作の言葉で、自分には成すべきことがあると確信した。弘次はそれを隠している。でも、友作を通じて弥生は真実の断片を手に入れた。弘次が望んでいるのは、ただ彼女を自分のそばに留めておくこと。でも、彼女がここに来たのは瑛介を救うため、自ら望んで彼の側に来たのだった。その経緯を理解したことで、弥生は自分の進むべき道を悟った。しかしそれを教えてくれたのは弘次ではなく友作だった。彼女が迷っていると、友作はこう言った。「霧島さん。やりたいことをすればいいんです。
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第936話

本来なら弥生はその食べ物を捨てるつもりだった。だが澪音はもったいないと思い、彼女の食べ残しを自分で食べてしまった。自分の食べ残しを食べる姿を見て、弥生は頬がほんのり熱くなり、気まずさを覚えた。でも澪音は微笑みながら慰めるように言った。「大丈夫ですよ、霧島さん。私にとって霧島さんはお姉さんみたいに親しい人だから、全然気にしません」「そう......気にしないならいいわ」弥生は、この少女の素直な気質を珍しく感じていた。友作は車の中でずっと二人の会話を聞きながら、弥生の後頭部を見つめていた。脳裏をよぎっていたのは、澪音が来る前に弥生から投げかけられたあの質問だった。「ひとつだけ聞くわ。私は自分の意志でここに来たの?」そのとき友作は自分を試されているのかもしれないと考え、ありのままを答えた。もし信じてもらえなければ仕方ないと思った。だが車に乗ってから、ようやく彼は気づいた。あの問いは、不信からではなく、信頼しているからこそ向けられたものだったのだ。そして、自分の答えは彼女の今後の行動を左右するほどに重要なものだった。そのことを思うと、友作の視線は重く沈んだ。あの質問と関係があるなら......彼女がこれから何をしようとしているのか、おおよそ見当がついてしまう。止めなければならない。だが口を開いても言葉は出てこなかった。自分自身の身も危うい立場で、何を言えるというのか。やがて車は別荘に近づき、降りる間際になって、ようやく彼は絞り出すように口を開いた。「霧島さん、本来私が言うべきことではありませんが......何をするにも、よく考えてからにしてください」その言葉に弥生の足が一瞬止まった。すぐに意味を察した彼女は振り返り、友作の目に深い罪悪感を読み取った。唇を結び、彼女は心の中で確信した。彼はもう分かっている。自分が何をしようとしているのか。でも、自分が成すべきことを変えるつもりはなかった。弥生はただ一瞥を返しただけで、視線を逸らした。屋敷に入ると、彼女はまっすぐ澪音に尋ねた。「あなたはここに長くいるんでしょう?普段、この時間、弘次はどこにいるの?」澪音は少し考えたあと、答えた。「黒田様は、以前はほとんどここに帰ってこなかったんです。最近になってやっと......」
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第937話

弥生が眠っていると聞き、弘次はようやく焦りをおさめた。使用人から電話を受けたときは、また何かあったのかと思った。以前の怪我の件がまだ尾を引いており、弥生に万一のことが起こるのではと、弘次は人一倍神経をとがらせていた。だから電話を受けるや否や、手にしていた仕事をすべて放り出して帰宅したのだった。眠っていると分かって、ようやく胸をなでおろした。弘次はその場に立ち、澪音を見て尋ねた。「どうしてこんなに早く戻った?」「スーパーに入ったとたん、霧島さんが疲れたと言って......それで少し食べ物を買って、何も見ずに帰ってきました」弥生が食べ物を買ったと聞いて、弘次の表情が一瞬変わった。「......何を買った?」澪音が食べ物の名前を告げると、さらに付け加えた。「でも、あまり食べませんでした。数口だけで、あまり興味がないようで」「その食べ物を覚えておけ。後で作らせよう」たとえ数口でも口にしたのなら、それだけで価値がある。覚えておくに越したことはない。「分かりました」まだその場に立っている彼を見て、澪音はつい聞いてしまった。「黒田様、いつ霧島さんのところに行かれるんですか?」「急ぐことはない」弘次は淡々と答えたが、その目には柔らかな色が浮かんでいた。「彼女は眠っているのだろう。目を覚ましてからでいい。君は台所に伝えて、食べ物をいつでも用意しておくように」「はい」澪音はそのまま厨房へ向かった。歩きながら心の中で思った。黒田様は、霧島さんを本当に大切にしている。霧島さんも想像していたよりはずっと接しやすい。二人がうまくいけば、自分の仕事環境もずいぶん楽になるに違いない。ただ......霧島さんは黒田様をあまり好いていないようにも見える。よく考えてみれば、黒田様がわざわざ自宅に迎え入れ、しかもあれほど優秀な彼が、女性にここまで心を傾けるのは初めてだ。そんな男性を嫌う女性などいるのだろうか?そう思い直して安心し、それ以上考えるのをやめた。部屋に戻った弥生は、実際には眠っていなかった。ベッドに横たわり、これから弘次が来たときに伝えるべき言葉を反芻していた。少しすると、ドアの外から物音がした。眠っていなかった彼女にはドアノブを回す小さな音すらもはっきり聞こえた。音を耳にした瞬間、弥
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第938話

「......私が記憶を失う前に、助けようとしていた人はどこ?」弥生がこの件を口にするだろうとは予想していた。だが、弘次はこれほど率直に切り出されるとは思っていなかった。もっとも、それも彼女らしいと言えば彼女らしい。当初、自分を拒んだときでさえ、真剣に、はっきりと拒絶したのだから。そう思いながら、弘次は口元をわずかに歪めた。「......友作から聞いたのか?」しかし弥生は落ち着いた眼差しで返した。「君が彼に機会を与えたんじゃないの?」彼は真実を知り、罪悪感を抱いている。そんな友作を自分のそばにつけたのは、弘次自身ではないか。それはつまり彼女に知らせる機会を与えたということに他ならない。案の定、その言葉を受けた弘次はしばらく無言で彼女を見つめ、それから口元に笑みを浮かべた。「......記憶を失っても、やっぱり僕の考えは見抜かれるんだな。弥生、君は本当に僕をよく分かっている」あまりに露骨すぎて誰にでも分かるでしょう。そう心で呟いたが、言葉にはしなかった。今はそんなことに拘るつもりはない。自分が解決すべき目的のほうが先だ。「それで......今、彼に会えるの?」話題を逸らさず、彼女は執拗に問いを重ねた。弘次の黒い瞳に、不快の色がかすかに走った。記憶を失ったというのに、なおこの件にばかり心を向けるのか。「弥生......会わせるわけにはいかない」その返答に、弥生はすぐ眉をひそめた。「なぜ?会わせないつもりなら、どうしてわざわざ友作に私へ伝えさせたの?」弘次は答えず、ただ彼女を見つめていた。弥生は数秒間沈黙したのち、言い放った。「私は何をすべきなの?」「会うことは許さない。だが、治療して外へ送り出すことならできる。あと......条件付きだ」弘次はそこで一度言葉を切り、続けた。「その条件が何かは、もう分かっているはずだ」弥生は唇を引き結んだまま答えなかった。「決めた?」弘次は彼女を凝視する。「僕が彼を解放する代わりに......君は僕のそばに留まる」彼女がこうして尋ねに来た時点で、答えはおおよそ決まっていることは分かっていた。それでも彼は、彼女の口から自分のそばにいると言ってほしかった。だが弥生は、まるで心の中を読んだように、その望み通りの言葉は決して口にしなか
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第939話

ただ一度会うだけなら、弘次も承諾するだろうと弥生は思った。だが、すぐに「いや、彼は承諾しないかもしれない」とも思い直した。友作や自分が考えつくことを弘次が考えないはずはない。それでも彼女は賭けてみたかった。記憶を失っていようといまいと、ここに来たのは自分の意志だからだ。過去の記憶はなくとも、体に残る本能的な反応や、自分の性格ははっきりしている。自分で選んだ決断は、必ず熟慮のうえに下したもののはずだと彼女は信じていた。「弥生、言っただろう。会わせることはできない」弘次は微笑み、温和な視線を向けた。「会うこと以外なら、何でも応える。君の望みを言ってみて」その言葉に、弥生の眉は自然と寄った。「......それじゃ困るの。私の望みはひとつだけだから」弘次は逆に問い返した。「本当にそれだけでいいのか?」弥生は言葉を失った。「会うだけで満足か?彼の傷を癒やしたくはないのか?彼を元の場所に帰りたいとは思わないのか?」そう言いながら、弘次の手が弥生の手首にそっと触れ、次の瞬間には強く掴みこんでいた。「もし僕が君の要望一つだけを認めるとしたら......会うことか、それとも彼を治療させて帰すことか、どっちを選ぶ?」弥生はじっと彼を見つめ、数秒の沈黙の後に問い返した。「......これも、私たちが以前に約束したこと?」「いや、違う」弘次はあっさりと答えた。「これは約束ではなく、今この場で僕が君に与える選択肢だ」弥生は彼をしばらく見据え、それから掴まれた手をすっと引き抜いた。背を向け、口を閉ざした。その態度に弘次は動きを止め、やがて言った。「......考える時間が欲しいのか?構わない。僕たちには時間がある。急ぐことはない。答えが出たら教えてくれ」彼は急がない。だが、病床にいるあの人はどうだろう。この数日、記憶を失っている間に、きっと何の治療も受けられず放置されていたのではないか。もうすでに何日も遅れている。これ以上迷えば......「じゃあ、あとでまた来る」そう言い残し、弘次は立ち上がり、部屋を出ようとした。弥生は彼の背中を長く見つめ、扉を閉めようとしたその瞬間、思わず呼び止めた。「......待って」「会わせてくれないのなら、せめて彼の状態を見せてほしい
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第940話

弥生は唇の端に嘲るような笑みを浮かべた。「......私にほかの選択肢がある?」だが弘次は、彼女の瞳に宿る皮肉など気づきもしない。ただ、彼女がここに残ると受け止め、しかも記憶を失った今なら、自分にとってはいいことだと思っていた。彼の顔に心からの笑みが広がった。「もう腹は空いてないか?食べ物は大丈夫か?」「食べたくないわ。代わりに友作を呼んでちょうだい」そう言って、弥生ははっきりと背を向けた。彼女の苛立ちが極限まで達しているのは、弘次にも十分伝わった。だが今の彼は、嬉しさに満たされていたので、たとえ彼女に罵られようと殴られようと、心地よいとすら思えるほどだった。そう思うと、弘次の唇にはまた笑みが浮かんだ。「分かった」扉が閉まり、部屋は静寂を取り戻した。彼が出て行くときの愉悦に満ちた声音を思い返し、弥生は胸が塞がれるような苦しさを覚えた。彼に会うことはできない。彼の容体を自分の目で確かめることも許されない。今は友作に頼るしかない。心の奥では、彼なら信じてもいいと思っていた。だから彼が来たら、何とか会える方法がないか、必ず聞こうと決めていた。ほどなくして、扉が叩かれた。弘次が上機嫌だったせいか、出て行ってからほんの数分で友作が呼ばれたのだ。「霧島さん」扉の外から友作の声がした。弥生はすぐに立ち上がって扉を開け、彼を中へ招き入れた。そして先ほど弘次とのやり取りを簡潔に伝えた。「......分かりました」友作の表情は険しい。「僕たちが考えることは、黒田さんも当然考えているはずです」「そうね」弥生はうなずいた。「でも、どうにかして私を彼に会わせられないかしら?」友作は唇を噛み、思案に沈んだ。だが今は弘次が瑛介をどこに置いているのかも分からない。探し出すだけでも難しいのに......彼の顔に浮かぶ困惑を見て、弥生は胸の奥でため息をついた。「もし本当に難しいならいいわ。せめて、あなたが私の代わりに見に行って、彼の無事を確かめてきて」「......黒田さんのほうは?」「もう話をつけた」話をつけた?その言葉に、友作の眉が深く寄った。「霧島さん......まさか、黒田さんの条件を受け入れたのですか?」その問いに、弥生は唇を引き上げて曖昧に笑った。友作は言葉を失いかけた。
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