あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した  のすべてのチャプター: チャプター 921 - チャプター 930

971 チャプター

第921話

「何が食べたい?」そう聞かれた弥生は、弘次の気遣いに対して、無理に笑みを浮かべながら答えた。「......なんでもいい」実際のところ、弥生には食欲がまったくなかった。でも、自分でもなぜなのか理由がわからない。これは拒食なのだろうか?それとも、ここ数日で記憶を失ったせいで、現実味がなくて何も実感が湧かないから?とにかく、今の弥生は、たとえ弘次に「家に帰る」と言われても、心のどこかが空っぽで、何かを見失ったような浮遊感を抱えていた。そして、何か大切な用事がある気がしてならないのに、その「何か」がどうしても思い出せなかった。いったい、自分は何をしようとしていたのだろう?記憶をなくした今の弥生には、その答えを知るすべもなかった。弘次の宅に到着すると、執事や使用人たちがずらりと並んで出迎えてきた。彼らも緊張した面持ちで姿勢を正していた。なぜなら、すでに執事から一通りの説明を受けていたからだった。弥生は事故で頭を打ち、記憶を失っている。今後は彼女を弘次の婚約者として彼女を扱うこと。どんなに不自然な状況でも、決して真実を口にしてはならない。つまり、それは失った記憶を逆手に取り、嘘を信じさせる協力をしろ、ということだった。もちろん、「嘘をつくことはよくない」と思う者もいただろう。だが、彼らは雇われの身だ。正義よりも指示に従うことが優先される。雇い主の命令は絶対なのだ。一部の者たちは、心の中で密かに興味を抱いていた。弘次がそんな手段に出るほど執着する女とは、どんな人物なのだろう?そしてついに、その伝説の婚約者とやらが姿を現した。玄関前に車が到着し、最初に降りてきたのは運転手だった。運転手がドアを開けると、弘次が降りてきた。だが、彼はすぐには建物に入らず、反対側にまわってもうひとつのドアを開けた。そして丁寧に手を伸ばし、車内の女性を庇うように、ドアの上部に手を添えていた。その優しい仕草に、皆の視線が自然と女性に集まった。彼女の姿は、実に質素だった。たぶん病院から出たばかりなのだろう。温かそうなベージュのタートルネックに、裏起毛のパンツ、短めの毛皮付きブーツ。その上に淡い水色のロングダウンコートを羽織っている。とても平凡なコーディネート。特に目を引く装飾品もなく、ど
続きを読む

第922話

弘次の強引さに、弥生は少し不快感を覚えた。弘次を見上げながら、自分との関係性がどこかおかしいと感じた。車を降りると同時に、彼女はすばやく手を引っ込めた。すでに地面に立っていたためか、弘次はそれを見ても何も言わず、追って手を伸ばすこともなかった。「使用人に部屋まで案内させよう。僕は朝食の準備ができたか見てくる」弘次が離れると、弥生はふっと肩の力が抜けたように感じた。そして黙って使用人のあとに続いた。部屋へ案内されたあと、使用人は丁寧に案内してから退室した。ひとりきりになった部屋の中、弥生はゆっくりと部屋を見回した。しかし、どこを見てもまったく心当たりのない空間だった。「......こんなところに、私が本当に住んでたの?」たとえ記憶がなくても、何かしら心に引っかかる感覚があってもおかしくない。でも、それがまったくない。それがむしろ、怖かった。以前のように、記憶を探ろうとすると頭が痛くなりそうで、弥生は考えるのをやめた。靴を脱ぎ、そのままベッドへ横たわった。目を閉じると、自然に眠気が襲ってきた。どうしてこんなにも眠いんだろう。たぶん、頭を打った後遺症かなと弥生はそう自分に言い聞かせた。そのまま深く眠り込んでしまい、次に目覚めたのは、弘次が部屋に入ってきたときだった。「弥生」彼が何度か呼びかけ、肩に触れたあたりでようやく弥生は目を覚ました。ぼんやりとした目で彼を見つめながら尋ねた。「......何?」「ごはんの時間だよ。覚えてる?帰りに約束したろ?家の料理人が君のために美味しい料理を作るって」その言葉に、弥生はようやく思い出して、小さく頷いた。「そうだった、ごはん......」ゆっくりと体を起こそうとしたその瞬間、弥生はふらりと前に倒れそうになった。弘次はすぐに手を伸ばして彼女を支えた。「大丈夫か?」「......たぶん、低血糖......かも」ふわふわとした感覚の中で、弥生はそうつぶやいた。弘次は一瞬、動きを止めた。彼女がこの数日まともに食事をしていないことは知っている。それならば、低血糖の可能性は十分にある。弘次はためらいなく、彼女を横抱きにし、そのまま食堂へと向かった。すでにダイニングでは数人が食卓につき、彼女の登場を待っていた。
続きを読む

第923話

弥生が立ち去った後、弘次の温和な表情は一瞬で消え、冷ややかな目で周囲の使用人たちを睨んだ。「今後、このスープ以外の料理は、二度と作らないでいい」その声は氷のように冷たく、使用人たちは思わず背筋を伸ばし、慌てて何度もうなずいた。「はい......」弘次が部屋を出ると、残された使用人たちは小声で愚痴をこぼし始めた。「......この霧島さんって人、ちょっと気難しすぎない?せっかく私たちが何十種類も用意したのに、まったく箸をつけないなんて......黒田様も『次はもう出すな』なんか言って......じゃあ、何を作ればいいのよ?」「ほんとよね。黒田様が連れてきた女性なのに、なんでこんなに扱いづらいの......」そんなことを言いながら、先行きの見えない不安に皆が頭を抱えていた。一方で、弥生は部屋に戻ると、そのままバルコニーに出て椅子に腰を下ろしていた。彼女の部屋には広いバルコニーがついており、ガラス戸も大きく開かれていた。弥生は外の風景をぼんやりと見つめながら、椅子に深く体を預けた。どれだけ時間が経っても、彼女の心は落ち着かなかった。なにか、とても大事なことを忘れている。それだけは、なぜか強く感じていた。でも、いくら思い出そうとしても、まったく記憶は戻らず、頭だけが痛む。「はあ......」弥生はテーブルにうつ伏せになり、深いため息をついた。誰かに聞いてみたい。でも、誰に聞ける?弘次という男は本当に優しくて、まるで本物の婚約者のように世話を焼いてくれる。......でも、どうしても好きな人に対する感情は湧いてこない。彼女はしばらく真剣に考えた。もし、好きでもない人に猛烈にアプローチされたら、自分は応じるだろうか?答えはノーだ。どんなに優しくされても、どんなに尽くされても、気持ちがなければイエスとは言わない。だからこそ、彼の「婚約者」という言葉も信じられなかった。たぶん、ただの知人か、せいぜい片思いだったんじゃないかな。でも今の弥生には、記憶も居場所もない。頼れる人は弘次しかいなかった。だから仕方なくここにいる。それだけだった。考えを巡らせていたそのとき、背後から微かな足音が近づいてきた。弥生はその音に気づきながらも反応せず、聞こえないふりをした。やがて弘次が彼
続きを読む

第924話

弘次は「ある」か「ない」かを明言しなかった。言い回しもうまく、すべては弥生自身の受け取り方次第だった。案の定、記憶を失った弥生は彼の言葉を聞いて眉をひそめたが、それ以上何も言わなかった。彼女は父の連絡先を新しいスマホに保存したあと、ふと思い出したように尋ねた。「お父さん以外に......私たちの共通の知り合いとか、親しい友達とかはいる?」弘次は唇を引き結び、淡々とした目で彼女を見た。「いるよ」「誰?」「この辺りにはいない。君、忘れたんだろ?」そう言ってから、弘次は「ああ、そうだった」とでも言うように表情を変えた。「君が記憶を失ってること、うっかり忘れてたよ」妙に冷たいユーモアだった。彼女は仕方なく唇を引きつらせ、愛想笑いを浮かべてみせた。「じゃあ、その友達の連絡先、教えてもらってもいい?」「うん。スマホのデータが復元できたら、教えるよ」弘次がそう言うと、弥生は素直にうなずいた。「わかった」弘次が部屋を出たあと、弥生は新しいスマホを手に取り、連絡先アプリを開いた。登録されていたのは先ほど自分で入力した父の番号と、弘次のものだけだ。......たとえ性格が悪くても、普通は一人くらい友達がいるはずだ。家族の番号さえ、彼に言ってもらわなければ分からなかった。この状況、どう考えてもおかしい。おかしすぎる。どちらかに問題がある。自分自身か、あるいは弘次か。弥生は深く息を吸い、さっき登録したばかりの父の番号をタップして電話をかけた。弘次があえて電話をさせないようにしていたのか、単なる深読みなのか、それを確かめるためにも、彼女はこの電話をかけなければならなかった。コール音が何度か鳴った。長い間応答がなかったため、彼女は一瞬、「もしかして間違った番号を教えられた?」と不安になった。「もしもし?」出たのは、優しい中年の女性の声だった。落ち着いた口調で、どこかあたたかい。声を聞いた瞬間、弥生は直感的に「この人が義母なんだろうな」と思った。相手がそうなら、自分のことを知っているはずだ。しかし、今の自分には記憶がない。それを悟られたくなくて、弥生は少し戸惑いながら口を開いた。「......あの、お母さん?」一瞬の沈黙のあと、電話口の女性はぱっと明るい声になった。
続きを読む

第925話

相手は長々と話し続けていたが、弥生は一言一言を丁寧に聞いていた。なぜだか胸がじんわりと温かくなる。まさか、継母と自分の関係がこれほど良好だったとは思わなかった。でも、弘次からの話では、「この継母との関係はうまくいっていなかった」とのことだった。だが、実際はまったくそんな様子ではなかった。そう思った弥生は、わざと冷たい口調で言ってみた。「......私のことは放っておいてください」案の定、その言葉を聞いた相手は一瞬言葉を失い、気まずそうに笑って答えた。「弥生?今日はちょっと機嫌が悪いのかしら?それとも、仕事で何かあった?」......やはり、関係は良好だったらしい。ちょうどそのとき、弥生は外に人影がよぎったのを見た。表情を変えず、そのまま電話口で冷たく言った。「......ええ、ちょっと疲れてるので、今日はもう寝ます」そう言い残し、相手の返答を待たずに電話を切った。スマホを閉じたあと、弥生は視線を遠くに向けた。やっぱり、弘次には隠し事がある。今はまだ、波風を立てるべきじゃない。そう判断した弥生は、スマホをバッグにしまい、立ち上がって部屋を出た。しかし、何も食べていないせいで身体に力が入らず、歩き出すとすぐによろめき、倒れそうになった。それでも何とか廊下に出ると、俊太がさっと近づいてきた。「霧島さん、どちらへ行かれるんですか?」弥生は彼をじっと見つめた。その視線に気づいた俊太は、数秒沈黙した後、自ら名乗った。「あっ、小倉俊太と申します。黒田さんの指示で、これからは霧島さんに随行し、身の安全をお守りいたします。よろしくお願いします」「......守ってくれる?」弥生は小さく疑問の声を漏らした。「霧島さんは事故で記憶を失っていますから、外出時のリスクが高まります。常に同行して安全を確保する必要があります」彼の言葉は一見「護衛」のように聞こえる。だが弥生は、内心すぐに察した。これは、見張られているのだ。さっきもそうだった。自分が電話をかけていたとき、彼はすぐ近くまで来ていながら、声をかけるでもなく外で立ち聞きしていた。すべてが不自然すぎる。彼女は俊太に冷ややかな視線を送っただけで、言葉は返さず、部屋へ戻って上着を羽織り、階段を下りた。俊太は、
続きを読む

第926話

その言葉を聞いた弘次は、すぐさま眉をひそめた。「どういうことだ?」「どうやら、霧島さんが到着する前に空港で女子大生と会って、少し会話をしたようです。その女子大生が、霧島さんの様子を少しおかしいと感じて......」そこまで聞いた弘次の目に、もう理解の色が浮かんでいた。「警察としても、あくまで誤解の可能性を考えての訪問ですが......今の霧島さんの状態では......」そう続けた部下は、言葉を途中で止めた。弘次はその意味をよく理解していた。今の弥生は記憶を失っており、警察に対して何を話すか予測がつかない。「ですが、面会を断れば逆に......」「会わせろ」「......会わせる?」部下は驚きの表情を浮かべた。思いのほかあっさりとした承諾に、一瞬言葉を失った。「ですが......」「何も問題ない。彼女がここへ来たのは自分の意志だ。無理やり連れてきたわけじゃない」弘次はそう言いながら、微笑すら浮かべた。「表面上はたしかに強制してないけど......彼氏を人質に取ったようなものじゃないですか......」部下はそう思いつつも、それを口に出せるはずもなく、すぐに指示どおり準備へ向かった。弥生は庭を一周したが、特に何も見つけられず、体力も限界が近づいていた。目蓋が重くなってきたところで、部屋へ戻った。部屋に入ると、弘次が待っていた。彼女が部屋に入ったのを見るなり、弘次は立ち上がって歩み寄った。「お腹空いてない?何か食べたいものある?」さっき少し食べたばかりなのに、また訊かれるとは。どれだけ自分の体調を気にしているのかが伝わる。弥生はたしかに空腹を感じていた。体はエネルギー補給を求めていたのだ。いや、食欲というよりは気力が湧かない。「甘いスープでも頼もうか?」弘次の提案に、弥生はしばらく考えた末、頷いた。届けられた甘いスープは、種類も豊富だった。酸味のあるもの、ただ甘いだけのもの、あっさりしたものなど沢山並ばれたこれほどの種類を見る限り、キッチンは朝からずっと準備に追われていたのが分かる。結局、彼女は一番あっさりとしたものを選んだ。その間ずっと、弘次は彼女の唇を見つめていた。あまりに真っ直ぐ見つめられるものだから、弥生は落ち着かなくなり、スープを置いて言った。
続きを読む

第927話

弥生は、ほとんど迷うことなく質問を口にした。どうせいつかは聞くべきだから、今のチャンスを見逃したくない。「私は本当に、あなたの婚約者なの?」彼女は弘次の目を見つめ、真剣に尋ねた。弘次は一瞬だけ動きを止めた。意外ではあったが、想定の範囲内でもあった。彼が愛する彼女なら、たとえ記憶を失っていても、鈍感なはずがない。もう疑い始めている。今ここで「そうだ」と認めれば、彼女はきっと信じないどころか、ますます不信感を抱くだろう。記憶喪失は、彼に与えられた新たなチャンスなのだ。だからこそ、簡単に失ってはいけない。「違うよ」弘次は静かに言った。「君が僕の婚約者だって言ったのは......ちょっとした私心だった」弥生は目を細めて問い返した。「私心ってことは、私たち、恋人ですらない?」「恋人だよ。プロポーズはまだ受けてもらえてなかったけどね」弘次は目を伏せ、どこか寂しげな表情を浮かべた。「しかも君は、僕と別れたいって言ってた。理由は......正直、僕にもよくわからない」それは彼の本音だった。彼にとっては五年間も付き合っていた恋人だと信じて行動してきた。だから今言っていることも、すべてが嘘ではない。弥生はしばらく黙っていた。信じたのかはわからない。ただ、思案に沈んだ。少ししてから顔を上げた。「はい、じゃあ警察には何を言えばいいの?」協力することにした理由は、弘次が少なくとも悪意を持っているようには見えなかったからだ。彼に私心があるのは確かだ。彼女を手放したくない一心で、事実を曲げていることも察していた。でも彼女自身もまた、何か不思議な感覚に突き動かされていた。記憶が戻っていない今、ここを離れるべきではない。だから、協力することにした。「特別なことを言う必要はない。聞かれたことにだけ答えればいい。僕との関係については、好きに答えてくれて構わない」「好きに?」弥生は眉を上げて聞き返した。「じゃあ、あなたが誘拐犯だって言ってもいいの?」弘次は少し黙り込み、やがてこめかみに手を当てて苦笑した。「それを言われたら、ちょっと困るかな」怒るわけでもなく、ただ呆れたような顔で彼女を見つめた。その様子を見た弥生は、少し何かを察したように頷いた。「....
続きを読む

第928話

その言葉を聞いて、警察の二人は再び視線を交わした。お互いの目には、明らかな疑念が浮かんでいる。彼女が最初に部屋へ入ってきた時、静かだったが、尋ねたことには素直に答え、態度も良好だった。彼らはすでに、弥生と弘次の身元を調査済みで、確かに昔からの知り合いであり、特に怪しい点はないと判断していた。そのため、これは単なる誤解だろうと思いかけていたのだ。だが、今になって弥生が「記憶を失っている」と口にしたことで、状況が大きく変わった。もし本当に記憶喪失であるならば、先ほどの証言の信憑性が揺らぐことになる。二人がじっと見つめてくるのに気づいた弥生は、やんわりと口を開いた。「そんなに緊張なさらないでください。彼とは友人ですし、無理やり連れて来られたわけでも、脅されたわけでもありません」「それなら......」一人が言いかけると、弥生は続けて言った。「ただ、自分でも分からないことがあって......よかったら、少し相談に乗っていただけませんか?」その頃、弘次は数名の部下と共に外で待機していた。待ち時間があまりにも長引いたため、ついに部下の一人が口を開いた。「霧島さんを警察と二人きりにしておいて本当に大丈夫なんでしょうか?」弘次は無言だった。その沈黙が、逆に部下の不安を煽った。「もし......霧島さんがなにか」「何を焦ってる?」弘次は冷たく目線を投げてきた。表情は極めて冷静だった。さすがは黒田さん......この状況で、どうしてこんなに落ち着いていられるんだ?きっと、霧島さんのことを誰よりも理解しているのだろう。だからこそ、動じない。そう思うことで、彼もようやく不安を抑えることができた。そんな時、室内の扉が開き、二人の警察官が出てきた。部下は真っ先に駆け寄り、にこやかに口を開いた。「すみませんが、調査の結果に関しては誤解だとお分かりいただけましたよね? 黒田さんと霧島さんは長年のご友人なんです。まさか誘拐なんて、あり得ませんよ」警察官たちはまた顔を見合わせ、やがて弘次に向き直って軽く頷いた。「誤解だったようです。確認は完了しました」部下は顔を輝かせた。「やっぱり!やはり大丈夫だったんですね」彼が話を長引かせようとしたところで、警察官たちは簡単に挨拶を済ませ、そのま
続きを読む

第929話

弥生が振り返ると、ちょうど弘次と視線がぶつかった。弘次の視線が自分の顔に注がれているのを感じて、弥生は口を開いた。「言った通り、警察には全部話しました」まるで、自分の発言が弘次の指示によるものだったかのような言い方だった。弘次は唇を引き結び、しばし黙ってから「よくやった」と答えた。その言葉に、弥生は少し目を細めた。「褒められてるってこと?」「そうだ」「じゃあ、褒美をもらえる?」その言葉に弘次は少し黙り込み、考えるような表情を浮かべてから尋ねた。「何が欲しい?」「外に出て歩きたい」弘次が「いいよ」と言う前に、弥生は続けて言った。「一人で行きたいの」弘次は「いいよ」という言葉を飲み込み、彼女をじっと見つめた。「君は今、記憶を失ってる。一人で外に出るのは危ないじゃないか」「記憶を失ってるだけで、頭が悪くなったわけじゃない。何が危ないの?」「道がわからないだろう」「今どき、ナビがあるじゃない」だが弘次の答えは、きっぱりとしていた。「だめだ」弥生は眉をひそめた。「ナビが使えるとしても、外の世界は危険がいっぱいだ。君はこの土地のことも知らないし、今の時代は物騒なんだ」「でも、俊太をつけるなら、監視されてるのと変わらないわ」「俊太が嫌なら、僕が付き添う。どこに行きたい?」弘次が付き添うにしろ、俊太が付き添うにしろ、監視であることに変わりはない。弥生は笑みを浮かべながら、口の端を上げた。「君は弘次っていうんだよね?」弘次が返事をする前に、弥生は続けた。「ただ出かけるだけで、そんなにビクビクするなんて、、ほかにも私に隠してることがあるってことじゃないの?」その問いに対しても、弘次は落ち着いていた。「ないよ。婚約者って言ったのは確かに僕の勝手だけど、それ以外は全部本当だ。君を一人で行かせたくないのは心配だから。それが嫌なら、女の子を一人つけてもいい。誰でもいい、必ず一緒に誰かついてもらうこと」彼の態度が頑なであることに、弥生は一人で外出するのは無理そうだと悟った。だが、彼女の目的は元から「一人で出かける」ことではなかった。それでも表面上は、しぶしぶ譲歩したような態度で返した。「じゃあ、女の子でいい?男の人がついてくるのはちょっと......」「
続きを読む

第930話

しかも彼が言うには、自分たちは恋人同士だというのに、彼の自分への接し方は、本当の意味での恋人同士のように自然ではなかった。むしろ彼に触れられることに、弥生は本能的な拒否感さえ覚えていた。「うん、分かったわ」そう答えてから、弥生は自分と同じくらいの年齢に見える女の子を一人選んだ。その子はこの別荘の中で唯一のアジア系の顔立ちをした子でもあり、背丈も弥生とほぼ同じだった。このことを知った俊太は、すぐさま弘次に意見を伝えた。「黒田さん、霧島さんが選んだ人は、この別荘の中でも一番小柄な子です。彼女に同行させるのは、ちょっと......」しかし、彼の言葉が終わる前に、弘次は冷ややかな目で彼を睨んだ。「彼女に選ばせたのは僕だ。お前は何を疑っている?」その一瞥だけで、俊太の背中に冷や汗が流れ落ちた。外の人間たちは皆、弘次を礼儀正しく温厚な紳士だと思っている。しかし、彼の決断力と冷酷さを知る者にとっては、そんなのは幻想にすぎない。弥生だけが、彼にとって唯一の「優しさ」だった。俊太は口をつぐみながら、再び進言しようとしたが、弘次の冷たいオーラに圧倒され、それ以上言葉を続けることができなかった。そのとき、弘次の淡々とした声が再び響いた。「佐奈はどう?認めたか?」この名前が出ると、俊太の顔色が少し変わり、やがて首を横に振った。「いいえ、霧島さんを突き飛ばしたことは認めていません」「ふん」弘次は小さく鼻で笑った。「認めていない?じゃあ、お前はあの日、何を見たんだ?」その一言で、俊太の表情がさらに変わった。しばらく逡巡したのち、口を開いた。「黒田さん......内山さんにも非がありますが......でも、今の結果は......霧島さんが記憶を失っているというのは、黒田さんにとってはむしろ好都合では?」その瞬間、室内の温度が一気に下がった。「記憶喪失が僕にとって好都合だ?もし、彼女が記憶を失っていなかったら、もっと酷いことになっていたかもしれないんだぞ」彼がドアを開けたとき、床に倒れていた彼女の姿を見て、どれだけ恐怖を感じたか。今はただの記憶喪失だが、もし命に関わることだったら?もう二度と会えないとしたら?そんな思いが胸をかき乱し、弘次の瞳は再び冷たく光った。その目を見た瞬間、俊太は自分の言葉を後
続きを読む
前へ
1
...
9192939495
...
98
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status