All Chapters of 目黒様に囚われた新婚妻: Chapter 541 - Chapter 550

558 Chapters

第0541話

その言葉を聞いた瞬間、瑠璃の眉がきゅっと寄った。彼女は扉を開けようとしたが、そっと差し出された手に手首を優しく握られた。振り返ると、瞬が温かな笑みを浮かべていた。「手続き、もう終わったよ。行こうか」そう言って、彼は彼女の手を引いて歩き出そうとした。しかし瑠璃は立ち止まり、彼の手を引き止めた。「瞬、中で女の人があのお年寄りを虐めてたの」「……他人の家庭の問題に、首を突っ込むのはやめよう」瞬は少し困ったように眉をひそめ、穏やかに語りかけた。「事情も分からないし……俺たちはもう行こう」瑠璃はもう一度病室の中を見やった。あの女の醜い顔つきと、車椅子に座る年老いた背中。その光景が、なぜか胸の奥にざわりと引っかかった。一方、青葉は瑠璃を追いかけ、ついにエレベーターまでたどり着いたが、扉はちょうど閉まるところだった。「ちっ……」不満げに舌打ちをしたその時、隣のエレベーターが開いた。そこから現れたのは、警察署から戻ったばかりの隼人だった。冷ややかな表情と張り詰めた空気を纏い、彼の一歩ごとに鋭い緊張感が走った。青葉は慌てて駆け寄った。「隼人、朝からどこに行ってたのよ?さっき瞬が瑠璃を連れて出て行ったのよ、私、やっぱり言ったとおり——」だが、言い終える前に、隼人の目に宿る怒りが彼女を射抜いた。隼人は一瞥すると、そのまま踵を返そうとした。「待ってよ、隼人!あの女のこともうほっといて、じいさんがもうすぐ退院するのに、あなたがいなきゃどうするのよ?」青葉は声を上げ、情に訴える口調で続けた。「隼人、じいさんは今や言葉も話せず、歩くこともできない……可哀想だと思わないの?昔からあなたのことを一番大切にしてたのに、女のために見捨てるつもり?あなたはこの件に瑠璃は関係ないって言い張ってるけど、人証も物証も彼女を指してるのよ!毒を盛ったのは、どう考えても彼女よ!」隼人の瞳が鋭く光り、冷ややかに言い放った。「昔、蛍が千璃ちゃんを陥れた時だって、証拠は揃っていた。結果はどうだった?全部、蛍が仕組んだ罠だったじゃないか」「そ、それは……」青葉は口ごもり、不服そうに唇を尖らせた。「でも自業自得でしょ?そんなことされる方も悪いのよ。他の人が狙われないのはなぜ?」被害者を責めるその言い草に、隼人の視
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第0542話

瑠璃がすでに瞬に連れられて退院したと知った夏美と賢は、多少の不安こそ感じていたが、取り乱すほどではなかった。瞬という人間について詳しくは知らなかったが、彼が瑠璃に害を与えるような人ではないという確信だけはあった。……一方その頃、瞬は瑠璃を以前住んでいたマンションへと連れて帰っていた。瑠璃はこの場所に特別な違和感を抱いていないようで、玄関を抜けるとそのまま寝室へと入っていき、手慣れた様子で部屋着に着替えた。瞬はそんな彼女の一挙一動を静かに観察していた。記憶喪失というものは不思議な現象だと思いつつも、瑠璃の様子を見る限り、それが事実であることを疑う余地はなかった。そして、彼女が失っているのは、隼人に関するすべての記憶だった。愛も憎しみも——隼人という存在自体を、完全に、そして綺麗に忘れてしまっていた。瞬にとって、それは嬉しいことだった。しばらくして、瑠璃が服を整理しはじめたのを見て、瞬は不思議そうに声をかけた。「ヴィオラ、何してるの?」「ここにはもう十分いたし、そろそろF国に帰りたいの。陽ちゃんに会いたい」彼女がそう答えると、瞬はその手をそっと握り、黒い瞳にやさしい光を宿して微笑んだ。「ヴィオラ、俺は君と陽ちゃんを必ず幸せにするって約束するよ」「うん、分かってる」瑠璃は柔らかく微笑みながらそう言い、彼に信頼を寄せた瞳で見つめた。「でも、瞬……先生の話だと、私、記憶の一部を失ってるって。本当に私、記憶喪失なの?」瞬は静かにうなずいた。長くしなやかな指先で、彼は瑠璃の整った眉と目元を優しく撫でた。「君が目を覚ます前、事故に遭ってね。頭に衝撃を受けたんだ。医者によれば、君は選択的に嫌な記憶だけを忘れているらしい」瑠璃は話を聞きながら、何かを思い出そうとするように眉間に皺を寄せた。だが瞬は、すぐにその思考を遮った。「ヴィオラ、不快な記憶なんてもう忘れてしまおう。これからは幸せなことだけで十分だよ。俺が、君の未来を守るから」その言葉が終わるや否や、電話が鳴り響いた。ディスプレイには見覚えのない番号が表示されていたが、瞬は気にせず通話ボタンを押した。電話の向こうからは、切迫した女性の声が聞こえてきた。「目黒瞬さんでしょうか?私は千璃の母、夏美です」瞬は瑠璃をちらりと見やり
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第0543話

夏美と賢の期待に満ちた眼差しの中、瞬が彼女たちを紹介する言葉が耳に届いた。「実の……両親?」瑠璃は驚いたように大きな瞳を見開いた。その関係性について、彼女の記憶は完全に失われていた。夏美と賢は心を抑えて微笑みかけた。「千璃、私たちは本当に、あなたの実の父と母よ」目の前の夫婦の、哀しみと優しさの入り混じった視線に触れ、瑠璃の心も次第に重くなっていった。彼女が覚えている唯一の家族は、幼い頃から育ててくれた祖父・倫太郎ただ一人だった。周囲の子供たちが両親に愛されて育っている姿を見て、羨ましいと感じたことはあっても、自分が「両親」という存在を持つことなど想像もできなかった。まさか、それがこの二人だったとは——。「ヴィオラ、事故の前に君は実の両親と再会していたんだ。本当の名前は碓氷千璃というんだよ」瞬が静かに説明した。瑠璃はゆっくりと意識を取り戻すように、眉を寄せながら考え込んだ。「全然……覚えてない」小さな声でそう呟いた彼女の目には、夏美と賢の真っ直ぐな愛情が映っていた。「あなたたち……本当に、私のお父さんとお母さんなの?」その一言に、夏美はたまらず手を伸ばし、ぎゅっと瑠璃の手を握りしめた。熱い涙が自然と目に溢れてくる。「千璃、私は本当にあなたのお母さんなの!あの時、私たちの不注意で、あなたは誘拐されてしまった。あんなに長い間、一人で辛い思いをさせてしまって……もう二度と、あなたを苦しませないわ。私の大切な宝物……」そう言いながら、夏美は声を詰まらせて瑠璃をしっかりと抱きしめた。賢も目を赤くしながら、彼女の頭をそっと撫でた。「千璃、これからは父さんも全力で守るよ。命を懸けてでも、お前を守る」瑠璃は戸惑いながらも、夏美のハッグを拒まなかった。たしかに思い出せない記憶がある。けれど、胸の奥に初めて感じるあたたかさがあった。このぬくもりこそ、彼女がずっと欲しかったもの。その優しさは、凍えていた彼女の心を、そして瞳を、少しずつあたためていった。やがて、瑠璃は静かに手を上げ、そっと夏美を抱き返した。微笑みながらつぶやく。「お父さん、お母さん、もう泣かないで。私は大丈夫だから」その言葉に、夏美と賢は信じられないというように目を見開いた。彼女が「お父さん」「お母さん」と呼んだ……
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第0544話

最初、夏美と賢は瞬に電話をかける際、少なからず不安を抱えていた。隼人が「瞬は危険な男だ」と警告していたことも、心に引っかかっていた。しかし、実際に接した瞬は、品があり、優雅で、非常に紳士的な印象を与える男だった。「目黒さん、本当にありがとうございます」夏美は丁寧に礼を述べた。瞬は微笑みながら首を振った。「礼には及びません。俺もヴィオラの笑顔が見たいだけです」そう言いつつ、彼の表情に一瞬だけ影が差した。「ただ一つ、お願いがあります。できれば、ヴィオラの前で甥の隼人のことは触れないでいただけますか。隼人は、かつてヴィオラを深く傷つけました。彼といた日々、彼女は一瞬たりとも幸せではなかった。彼女が彼の記憶だけを忘れてしまったことこそが、その証明だと思っています。それから……俺とヴィオラの間にはF国で生まれた娘がいます。名は陽菜、愛称は陽ちゃんです。本当はすべてが片付いたら、彼女を連れてF国に戻って結婚手続きをする予定でした。ですが、今こうしてご両親と再会できたのなら、彼女には碓氷千璃として、僕の妻になってほしい。そして、伯父さんと伯母さんにも、ぜひその証人になっていただきたいのです」瞬の申し出に、夏美と賢は静かにうなずいた。隼人が心から悔いていることも知っていたが、それでも彼が瑠璃に与えた傷は、あまりにも深くて大きかった。とはいえ、夏美には一つ、どうしても気になっていたことがあった。「目黒さん……陽ちゃんは、本当にあなたと千璃の子供なんですか?」瞬は一瞬も迷うことなく、穏やかに微笑んでうなずいた。「今だから正直にお話しします。実は、僕はずっとヴィオラのことが好きでした。でも、彼女が愛していたのは隼人でしたから……彼と結婚すれば、きっと幸せになれると思っていました。でも、結果はご覧の通りです。三年前、彼女の命を救うために僕は彼女をF国へ連れていきました。そして、自然な流れで僕たちは一緒になったんです」瞬の語る過去は、筋が通っていて、聞く者に納得を与える内容だった。ちょうどそのとき——「瞬、お父さんとお母さんと何を話してるの?」ふいに瑠璃が現れ、夏美と賢は驚いて立ち上がった。だが瞬は落ち着いた表情で優しく答えた。「未来の義父母と、僕たちの結婚の話をしてたんだよ。ヴィオラ、景市で籍を入れ
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第0545話

隼人は慌てて顔を覗き込み、彼女の頬に触れた。だが、彼女の瞳は虚ろに宙を見つめたまま、まるで魂が抜けたようだった。隼人は瑠璃の肩をしっかりと掴み、緊張と不安を滲ませながら必死に呼びかけた。だが、瑠璃は彼の声が耳に入っていないかのように、茫然とした瞳で事故を起こした二台の車を見つめていた。「千璃ちゃん……お願いだ、怖がらせないでくれ……どうしたんだよ?」隼人の声には焦りがにじみ、深い瞳にはどうしようもない動揺が浮かんでいた。「……っ、痛い……」ようやく、瑠璃が反応を示した。だが、彼女は頭を抱え、苦しげに拳で額を叩いていた。「頭が……すごく痛い……」眉をひそめ、辛そうにうずくまる彼女の姿に、隼人の胸は締めつけられるような痛みに襲われた。彼は迷いなく瑠璃を抱き上げ、周囲の野次馬をかき分けながら車へと向かい、素早く彼女を乗せた。「千璃ちゃん、大丈夫だよ。俺がついてる。絶対に守るから……」隼人は彼女の手を握り、優しく声をかけながら車を発進させた。瑠璃は助手席に寄りかかりながら、かすかな声で何かを繰り返し呟いていた——その頃、瞬が電話を終えて戻ってくると、瑠璃の姿が見当たらなかった。ショップスタッフに尋ねると、「とてもハンサムな男性に連れて行かれた」と言われた。その瞬間、彼の脳裏に真っ先に浮かんだのは隼人の顔だった。すぐに瑠璃のスマホに電話をかけたが、数回鳴った後すぐに切られた。次に隼人に電話をかけると、今度は一瞬で通話を拒否された。瞬の瞳の奥には、黒い波のような怒気が静かに広がった。細く目を細め、冷たい声で呟いた。「隼人……」病院へ向かう道中、隼人の胸中は不安と後悔で押し潰されそうだった。自分が出てこなければ、彼女を無理に連れ出さなければ、彼女はこんな状態にならなかったかもしれない——だが幸いにも、瑠璃は途中から痛みを訴えなくなり、まるで眠るように静かに目を閉じていた。ようやく病院へ到着し、隼人は車を停めるとすぐに助手席側のドアを開けた。「千璃ちゃん……」彼は優しく呼びかけながら、彼女を抱き上げようとした。すると、その瞬間——瑠璃がふいに目を見開き、怯えたように隼人の顔を見つめた。まるで驚いた鹿のように、警戒心に満ちた瞳。そして、弱々しい声で呟いた。「隼人……私じ
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第0546話

隼人の言葉に、瑠璃は明らかに驚いた様子を見せた。彼女は隼人の顔をじっと見つめ、まるで目の前の男が本当に隼人なのかを確かめるように、その視線は疑念と困惑を帯びていた。その反応に、隼人は一層自分の罪の重さを痛感していた。彼が彼女に与えた傷は、数えきれないほどだった。どう償えばいい?何をすれば、彼女の心を取り戻せるのか——彼は瑠璃を連れて、商業施設から最も近い病院へと急いだ。そして診察室で顔を合わせた医者は、なんと大学時代の同期・南川先生だった。しかも、彼は若年の親友でもある。それを思うと、隼人の表情には自然と警戒心が滲んだ。「お前、いつから脳神経の専門医になったんだ?」隼人は疑いの目を向けた。南川先生は穏やかな微笑みを浮かべ、引き出しから名札入りのスタンドを取り出して見せた。そこには「精神科医・南川類」と書かれていた。「暇だったから、ついでにいくつか専攻を増やしただけ。違法じゃないよね?」その軽い口調に、隼人は言葉を失った。彼が瑠璃の病状について話そうとしたその時——「隼人、ちょっと……外で待っててくれる?」と、瑠璃が静かに口を開いた。唐突なお願いに隼人は戸惑ったが、問い詰めることはせず、素直に部屋を出た。彼が出ていくや否や、瑠璃はすぐさま南川先生に頼み込んだ。「南川先生……隼人に、私が病気だってこと、絶対に内緒にしてほしいんです」南川先生はその言葉に驚いたが、彼女の澄んだ瞳を見て、心がチクリと痛んだ。しばらくして診察室のドアが開き、瑠璃は何事もなかったように笑顔を見せた。「ちょっとトイレに行ってくるね。隼人は駐車場で待ってて」隼人は彼女が見ている間はうなずいて見せたが、彼女が背を向けた瞬間、すぐさま診察室へ引き返した。彼は南川先生に、瑠璃の状態について打ち明けた。すると南川先生は躊躇なく診断を口にした。「初見の段階だけど……彼女はおそらく、強い精神的ショックで解離性健忘を発症している。自我認識に混乱が生じているようだ。つまり——二重人格の可能性が高い」「二重人格?」隼人は驚き、心の底が崩れるような痛みに襲われた。南川先生は真剣な面持ちで続けた。「詳細はまだ要観察だが、彼女の記憶は病気を発症した六年前で止まっている可能性が高い。さっき君を外に出したのも、君に病気のこと
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第0547話

瑠璃は不思議そうに問いかけながらも、その視線にはどこか怯えが混じっていた。彼女の記憶の中で、目の前の隼人は、かつて深く愛したけれど、決して自分を愛してはくれなかった、むしろ憎んでさえいた男だった。隼人は、瑠璃のその怯えたような視線に胸を痛めた。まるで氷の上を歩くような不安を映す瞳が、彼にはあまりにも辛かった。彼はそっと彼女の手を握り、優しく囁いた。「千璃ちゃん、俺を怖がらないで。もう二度と、傷つけるようなことはしない」その言葉に、瑠璃は呆然と彼を見つめた。まさか、この言葉が彼の口から聞けるなんて——。ほんの少し前まで、彼は冷酷に自分の首を締め上げ、蛍のために怒り狂っていた。その氷のように冷たい目は、今でも鮮明に記憶に残っている。なのに、今の彼は……「隼人……あなた、大丈夫なの?」瑠璃は思わず尋ねた。隼人はその言葉に、哀しげな笑みを浮かべた。「千璃ちゃん、俺が間違ってた。蛍の嘘を信じて、お前をあんなに苦しめて……何度も傷つけて……本当に、すまなかった」瑠璃の瞳がぱっと明るくなった。「隼人……ついに信じてくれたの?私が蛍を傷つけていないって……信じてくれるの?」彼女は何度も問いかけた。その目には、信じてほしいという切実な想いが滲んでいた。その姿に、隼人の心は一層痛んだ。「千璃ちゃん……俺は、信じる。これからは、お前の言うことをすべて信じる。お願いだ、もう一度だけ、俺に償う機会をくれないか?」瑠璃の目には涙が浮かび、うるんだ瞳がかすかに揺れていた。彼の真っ直ぐな眼差しを見て、彼女は静かにうなずいた。「うん……」彼女の赦しを得たはずなのに、隼人の胸には喜びよりも、深い苦しみと後悔が満ちていた。彼は、彼女がどれほど深く自分を愛していたかを、いまさらながら痛感していた。その時、再び電話が鳴った。表示された番号は見知らぬものだったが、隼人には誰からか察しがついた。彼は迷わず、スマホの電源を切った。このひとときを、ただ彼女とふたりで過ごしたかった。黄昏時の四月山は、静かで素朴な美しさに包まれていた。海風が頬を優しく撫で、波の音が砂浜を洗い流す。まるで、あの頃のように——。ただ一つ違うのは、彼らがもう子供ではないということだった。隼人は瑠璃の手を取り、海辺へと連れ出した。四月の風は柔ら
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第0548話

隼人の目は涙で霞み、視界がぼやけていた。かすかに、瑠璃の目元にも赤みが差しているのが見える。「じゃあ……私のふりをしてたあの悪い女の子って、蛍なの?」瑠璃は、胸の中にあった疑問をそのまま口にした。隼人は後悔と罪悪感に満ちた表情で、そっとうなずいた。「ごめん、千璃ちゃん……あんな思いをさせてしまって」彼は彼女を優しく抱きしめ、真心と謝意を込めてそう伝えた。瑠璃は呆然と隼人の胸に身を預けた。熱い涙が頬を伝い、静かに流れ落ちる。「そっか……あなたが蛍に優しかったのって、あの子を私だと思ってたからなんだね……」唇を噛みしめながら、涙に濡れた唇で言葉を続けた。「……昔、私が子供の頃に言ったあの言葉を、ずっと大事な誓いとして守ってくれてたなんて。嬉しい、本当に」責めるどころか微笑んでくれる瑠璃に、隼人の胸はますます痛んだ。彼女は本来、もっと彼を責めてもよかったはずだ。——たとえ人違いだったとしても、彼は彼女をあまりにも冷たく突き放し、無情に扱った。再会して心が傾いた後ですら、自分の気持ちに嘘をついたままだった。もし、もし時を巻き戻せるなら——大学で彼女と再会したあの日に戻って、すべてをやり直したい。あのとき、もう隠しごとはしない。ただの約束のために、本当に好きな女の子を見捨てたりなんて、絶対にしない。たとえすべてを間違えていたとしても、子供の頃に出会った彼女と、再び出会った彼女が同じ人だったという奇跡に、今は心から感謝している。けれど、その奇跡に気づくまでに、彼らはあまりにも多くの時間を失ってしまった。——すべては、最初から。隼人と瑠璃は、蛍の仕掛けた罠の中にいたのだ。瑠璃の記憶と人格が、このままずっと続いてくれたら。隼人はふと、そんな利己的な願いを抱いた。また、彼女の瞳に自分への愛しさと優しさを見つけられたことが、ただ嬉しかった。夕陽の光が彼女の頬に散りばめられた金のようにきらめき、彼はついに、その顔に太陽のような笑顔を見つけた。それは、美しかった。本当に、美しかった……その夜、彼らは宿で共に過ごした。隼人にとっては、久しぶりに安らかに眠れた夜だった。朝目覚めたとき、腕の中で丸まって眠っている小さな彼女を見て、彼はそっと微笑み、眉間に優しくキスを落とした。朝食の時間になると、近くの宿にも多
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第0549話

隼人が彼女の名前を呼んだその瞬間——瑠璃の美しい瞳に宿っていた柔らかな光は、一瞬にして消え失せ、鋭い棘を帯びた眼差しへと変わった。「……あなた?」彼女は険しい表情で隼人を見つめ、問いただすように言った。「ここ、どこ?どうして私をこんな場所に連れてきたの?」その言葉を聞いた瞬間、隼人はすぐに察した。——また、人格が入れ替わったのだ。そして今の彼女は、まったく自分のことを知らないもう一人の瑠璃。先ほどまでの柔らかな彼女とは違い、この人格は過去二日間の記憶を引き継いでいないようだった。そうでなければ、あんな冷たい目で自分を見るはずがない。一緒に過ごした穏やかな時間が、まるで夢だったかのように、儚く散っていく——まるで打ち上げ花火のように、一瞬の輝きを放った後には、冷たく暗い現実だけが残った。瑠璃は隼人の手を振り払うと、そのまま背を向けて歩き出した。我に返った隼人は、慌てて後を追った。「千璃ちゃん……どこへ行くの?」「千璃ちゃんなんて呼ばないで。私、あなたの知り合いじゃないから」彼女は冷たく言い放ち、振り返ることなく歩き続けた。人ごみの中、隼人は彼女を見失うことを恐れて、再び手を掴んだ。「お願いだ、行かないで……」その腕を掴まれた瑠璃は、露骨に嫌悪を表しながら隼人を睨んだ。「瞬を叔父って呼ぶなら、私のことは叔母としてちゃんと扱ってくれる?」その言葉に、隼人の目から一気に優しさが消え、代わりに強い独占欲が宿った。「お前は俺の叔母なんかじゃない。お前は……俺の妻であり、俺の女だ」「はっ……」瑠璃は小さく鼻で笑った。「本当にバカバカしい。私はあなたのことなんて知らない」そう言い放ち、再び彼の手を振り払った。彼女は辺りを見回し、混乱したような表情を浮かべた。ここがどこか、まったく思い出せなかった。スマホを取り出そうとポケットを探ったが、見つからなかった。代わりに、指先に触れたのは冷たい何か——取り出して見ると、それは葉っぱで作られたしおりだった。隼人が追いついた時、彼女はそのしおりをじっと見つめていた。その光景に、隼人の胸は熱くなり、顔に安堵の笑みが広がった。「千璃ちゃん……まだこのしおりを持っててくれたんだな。ってことは、お前の心の中には、まだ俺
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第0550話

二日間……私、行方不明だったの?なぜその二日間の記憶が、まったくないのか——彼女の頭に残っているのは、隼人にショッピングモールで突然連れ去られ、そして交通事故を目撃した、そこまでだった。その先の記憶は、空白。隼人は、ただその場に立ち尽くし、瞬と共に人混みの向こうへ消えていく瑠璃の後ろ姿を見つめていた。その瞳の奥には、どこか虚ろで、狂気すら滲むような執着と、深い執念が宿っていた。——千璃ちゃん、もう二度と君を俺の元から離させたりしない。絶対に。瑠璃は瞬と共に、マンションへと戻った。帰りの車中、彼女の手にはまだ、あの葉っぱで作られたしおりが握られていた。そして耳には、隼人の言葉が何度も反響していた。「千璃ちゃん、まだこのしおりを持ってくれていたんだな。ってことは、お前の心の中には、まだ俺がいるってことだろ?」——このしおりって、そんなに大事なものなの?部屋に戻ってすぐ、瑠璃は抱いていた疑問を口にした。「瞬……私とあの隼人って、何かあったの?私が忘れてしまった記憶って、彼に関係してるの?」その問いに、瞬は一瞬だけ表情を硬くしたが、すぐに諦めたように苦笑した。「やっぱり……隠しきれないか」「瞬?」「そうだよ、ヴィオラ。君の失われた記憶の中には、隼人が関係している」瞬は、包み隠さずに認めた。その答えに、瑠璃の心拍が乱れた。隼人が「自分は彼女の夫だ」と言っていたあの言葉が、頭の中でぐるぐると回る。「じゃあ……私と彼って、本当に夫婦だったの?」「君たちは、たしかに一時期、夫婦だった。だけど君は、彼を愛していなかった。そして彼の君への扱いは、それはもう酷いものだった」瞬の声は、重く沈んでいた。「彼は君を踏みにじった。君の感情を無視し、別の女と公然と関係を持ち、その女に君を傷つけさせることさえ黙認していた。最終的に君が死にかけるまで追い詰めても、彼は君の命よりも復讐を優先していた」瞬は彼女の手をそっと握り、真剣な目で言った。「ヴィオラ……君はもう、彼とは何の関係もない。だから、絶対にあの男に騙されないで。あいつは、いま君に近づいているのも、結局はその女の復讐のためなんだ」彼女が疑わないように、瞬はさらに続けた。「もし俺の話を信じられないなら、ご両親に聞いてみて。それか、ネッ
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