All Chapters of 目黒様に囚われた新婚妻: Chapter 881 - Chapter 890

946 Chapters

第0881話

遥は胸のあたりに鋭い痛みを感じ、視線を下に落とすと、手に握っていたスマートフォンが力なく滑り落ちた。「パタッ」足元に落ちたスマートフォンのスクリーンには、ぽたぽたと赤い血が一滴、また一滴と滴り落ちていた。受話口からは、男の怯え切った叫び声が途切れることなく聞こえてきた。「遥、遥!返事してくれ、遥!」瞬はハンドルを握る手を激しく震わせながら、狂ったようにアクセルを踏み込んで警察署の前まで車を走らせた。人だかりができているのが見えると、迷わずその中に突っ込んで群衆を押しのけ、血の海の中で雪のように顔色を失った少女を見つけた。瞬の鼓動は一瞬で氷の底へと沈み込み、全身の血の気が一気に引いていった。「遥……」目前に立っていた人を押しのけ、片膝をついて倒れた彼女を抱き上げた。「遥!遥、目を覚ましてくれ!」彼女を腕に抱きしめたまま、取り乱した声で何度も彼女の名前を呼び続けた。けれど、どれだけ呼びかけても、まるで届かないようだった。瞬の視界はすぐに滲み始め、何が目を濡らしているのかも分からなかった。ただ、心が張り裂けそうに痛み、感覚が麻痺し、息が詰まるほどだった。周囲の声は全く耳に入らず、彼の目に映る世界は真っ暗だった。唯一鮮やかに目に焼きついたのは、地面に広がる深紅の血だけだった。「瞬兄さん……」瞬は、まるで幻のように、そのとき最も聞きたかった声を耳にした。赤く充血した目を思わず見開くと、遥が疲れた様子でわずかに目を開け、自分を見つめていた。「遥……遥、怖がらないで。絶対に死なせない!」瞬はそう約束した。遥はかすかに笑みを浮かべ、血まみれの手を必死に持ち上げて、手に握っていたUSBメモリを瞬の手の中に押し込んだ。瞬はそのUSBを見つめたまま呆然とし、胸の奥まで突き刺さるような痛みが全身に広がった。彼は今の自分の全てが憎らしくてたまらなかった。そして、それ以上に、自分自身が許せなかった。「瞬兄さん……じゃあ、もうお別れだね……」瞬の涙がそっと落ちた。「遥……絶対に死なせない。約束する……お前が無事でさえいてくれたら、またやり直そう。絶対に……約束する」涙を浮かべながら、遥は力を振り絞って口元に微笑みを浮かべた。「……よかった……」「約束して……もう、あんなこと二度としない
Read more

第0882話

彼は血に染まった手を持ち上げて、ようやく大切に保管していたミントグリーンのヘアゴムまでもが赤く染まっていることに気づいた。震える指先でそのヘアゴムを唇に当て、「死ぬな、俺が許さないから」と低く呟いた。目元はさらに赤く染まっていった。「お前は言ったよね、ずっと俺にまとわりつくって。……嘘つくなよ」瞬は震える声でその言葉を繰り返したが、胸の奥に広がる恐怖はどうしても収まらなかった。そのとき、手術室の扉が開き、白衣を着た医者が姿を現した。瞬は真っ先に駆け寄って問い詰めた。「玉置教授、遥はどうなんですか?」教授である医師は首を横に振り、残念そうに言った。「弾は取り出しましたが、心臓を直撃していました。助けられませんでした。遥さんはすでに亡くなっています」まるで青天の霹靂が落ちてきたかのように、瞬の全身が石のように固まった。「どうして……どうして銃弾なんかに当たるんでしょうか?黒江堂の連中の仕業ですか?」医者は深くため息をつき、心からの無念さを滲ませていた。瞬は答えられなかった。しかし、答えは彼自身が一番わかっていた。遥を殺したのは――彼だった。彼自身の命令で部下に遥を撃たせたのだった。彼は、彼女が裏切ったと思い込んでいた。すべてを壊そうとしていると信じ込んでいた。だがその瞬間、ようやく気づいた。彼女は一度たりとも裏切ったことなどなかった。彼のことを手放すこともなかった。だから、彼女は振り返ったのだ。けれど、彼にはもう――振り返る時間がなかった。その瞬間になって、彼は初めて知った。自分がどれほど遥を大切に想っていたかを。いつから彼女が心の中に入り込んでいたのか、まるで思い出せなかった。けれど、彼女は知らぬ間に、静かに彼の心の中に入り込んでいたのだった……瞬は胸を裂くような痛みを堪えながら、誰もいない手術室へと入っていった。彼女に、最後の別れを告げるために。だが、真正面から彼女を見る勇気が突然消えてしまった。彼の脳裏には、あの元気で可愛らしい笑顔ばかりが浮かんでいた。けれど今そこにあるのは、無言で冷たい、ただの記憶だった。彼は遥のそばに立ち、無表情で身をかがめ、冷たくなった彼女の唇に自らの唇を重ねた。――遥、もし来世があるなら、今度は俺がお前を追いかける。……瑠璃は景市に戻る
Read more

第0883話

瞬は箱の中の物を手に取った瞬間、心臓が一瞬止まるような感覚に襲われた。彼はこの赤い紐を、決して忘れることはなかった。あの年、四月山の海辺で、えくぼのある笑顔が印象的な小さな女の子と出会った。その少女は、彼を暗闇の中から陽の光の下へと引き戻してくれ、七色の貝殻を一つプレゼントしてくれた。彼はそのお返しとして、その少女に赤い紐を渡したのだった。あの日の出会い――ただ純粋で、美しかったその瞬間。彼は、その陽だまりのように明るくて無邪気な少女に一目惚れした。そして成長するにつれ、彼はその少女が瑠璃であると知った。だからこそ、彼は何もかもを犠牲にしてでも、瑠璃を手に入れようとした。だが――この赤い紐は、確かに瑠璃に渡したはずなのに、どうして遥が持っていた?しかも、大切に保管していたなんて……瞬の頭の中には疑問ばかりが浮かんだが、答えは見つからなかった。だが、今の彼にとって――あの海辺で瑠璃と出会った記憶は、もはや意味を成さなかった。遥が撃たれたあの瞬間、彼はすでに理解していた。自分の本当の想いが、どこにあるのかを。いや、もしかしたら――遥が自分のために川へ飛び込んだと知ったあの時から、気づいていたのかもしれない。どれだけこの女を手放したくなかったのか、どれほど心が痛んでいたのか――。ただ、彼はそれを認めたくなくて、目を逸らしていただけだった。そのくせ、こんなにも深く心に刻まれていた彼女を、ずっと苦しめ続けていた。瞬は目を閉じ、静かに心の痛みに耐えた。そのとき、誰かがやってきて、瑠璃が来たと報せた。瞬は赤く濡れた瞳をゆっくりと開き、遥の写真を見つめながら、しばらく黙っていた。やがてようやく立ち上がり、胸の痛みを胸の奥に押し込みながら階段を下りていった。瑠璃は一人で来ていた。リビングに立つ彼女は、容姿もスタイルも申し分なく完璧だった。しかし、その姿が瞬の目に映っても、もう心は一切揺れなかった。何の感情も湧き上がらなかった。瑠璃は足音に気づき振り返ると、瞬の整った顔立ちが感情を失ったように憔悴しきっているのを見て、不思議そうに眉を寄せた。だが、彼女が気にしていたのは遥のことだった。「瞬、遥に会いに来たの」「遥」の名前を聞いた瞬間、瞬の視線がわずかに揺れた。彼は瑠璃の顔をじっと見つめたまま、質
Read more

第0884話

「瞬、遥はどこにいるの?」瑠璃は問いただしたが、瞬は何も言わず、迷いのない足取りで立ち去っていった。彼が車に乗って走り去るのを見た瑠璃は、そのまま屋敷中を探し回った。地下室まで調べたが、遥の姿はどこにも見つからなかった。妙だと感じた彼女は使用人たちに尋ねたが、誰もはっきりとしたことを答えられなかった。再び遥の部屋に戻った瑠璃は、ベッドの上に置かれた一冊のアルバムに気づいた。中には、遥のこれまでの写真がずらりと並んでいた。そして、どうやらつい最近まで誰かがそのアルバムを見ていた形跡があった。――瞬が見ていたのだろうか?そう思いながら、好奇心からアルバムを手に取って眺めていたとき、彼女はその下に一枚の紙が挟まれているのに気がついた。「火葬証明書?」その五文字を見た瞬間、瑠璃の心臓が跳ね上がった。さらに目を通すと、そこには遥の名前が記されており、最後には瞬の署名があった。――遥が、死んだ?……その頃、隼人は朝から陽菜を連れて外出していた。彼は瑠璃がホテルで休んでいるものと思っていたが、帰ってくると部屋に彼女の姿はなかった。陽菜を寝かしつけたあと、瑠璃に電話をかけようとした瞬間、ドアが開いた。「千璃ちゃん、どこに行ってたんだ?」隼人は焦って彼女の手を掴み、顔色が優れないのに気づくとさらに心配した。「具合が悪いのか?また辛くなったんじゃないか?千璃ちゃん……この子のことは諦めよう。陽菜と君ちゃんがいれば、それで十分幸せだから」瑠璃は涙で潤んだ瞳を上げ、彼の心配そうな顔を見つめて呟いた。「遥が、死んだの……」隼人の表情が一変した。「遥が死んだ?」瑠璃は火葬証明書を彼に手渡した。隼人はそれに目を通すと、拳をきつく握りしめた。「絶対に瞬の仕業だ。遥が普通に生活してて、こんなことになるはずがない」「どうして瞬はあんなに非情なの?遥は十五歳から彼のそばにいて、十年以上も尽くしてきたのに……それなのに、どうして……」瑠璃は堪えきれず、ぽろぽろと涙をこぼした。隼人は彼女の目元の涙をそっと拭い、優しく抱きしめた。「遥のためにも、俺が真相を明らかにしてやる。彼女を無念のまま死なせたりはしない」そう言って彼は抱擁を解きながら続けた。「陽菜のこと、頼む。俺は瞬に会いに行く」「気をつけ
Read more

第0885話

「目黒様、うちの者がさきほど四月山に到着しました。ここの古くから住んでる人たちに聞いたところ、昔この辺りに宮沢という苗字の家族が住んでいたそうです」「その家のご主人は小規模ながら商売をしていて、生活もそれなりに裕福だったとのことですが……あるとき、仕入れの途中で事故が起きて、ご夫婦ともに亡くなったそうです」「そして、その親戚たちが家を奪い、その夫妻の娘さんを家から追い出したそうです」最後に、その人物ははっきりと確認を取るように言った。「目黒様、すべて調べがつきました。両親を亡くし、親戚に追い出されたその少女こそ、宮沢遥さんです。……それと、遥さんの幼い頃の写真も手に入りました。今、そちらへ送信します」その言葉と同時に、瞬のスマートフォンに写真が届いた。画面に表示された古びた一枚の写真を見た瞬間、瞬の瞳から涙が溢れ出た。記憶の奥深くに焼きついている、あの笑顔だった。十数年経っても忘れられなかった笑顔。瞬は笑おうとしたが、涙で顔が歪んでしまった。腕を垂らすと、手のひらに握っていた赤い紐が静かに足元に落ちた。彼は力が抜けたようにその場に膝をつき、遥の墓前にひれ伏した。――遥、お前だったんだ。君こそが、あの時、俺を闇の底から光の世界へ引き戻してくれた女の子だったんだ。ずっと探し続けていたお前は、実はいつも、俺のそばにいた。なのに――俺は一体、お前にどれだけ残酷なことをした?どうして……千璃が「私じゃない」とはっきり言ってくれたのに、それでも頑なに彼女だと思い込もうとしたんだ?どうして、お前が完全に俺の前からいなくなってからじゃないと、気づけなかったんだ?お前は、もうずっと前から、俺の心の奥深くに根を張っていたというのに。なぜなんだよ……瞬は自嘲するように苦笑した。言葉では言い表せない痛みが波のように心を引き裂いていった。瞬は墓地に長い時間立ち尽くしていた。遥の死、それだけでも十分に彼の心を壊すには足りていた。それに加えて――彼女こそが、あの時の少女だったという真実。この二重の衝撃は、瞬に生きる気力すら奪っていった。彼はじっと墓石を見つめ、そして、ひとつの決意を固めた。「遥……連れて帰るよ。俺たちが初めて出会った、あの場所へ」彼は遥の遺骨を連れて帰ることを決めたのだった。「
Read more

第0886話

「千璃の言う通りだ。俺たち目黒家の男は、ろくでもない奴ばかりだ。もし俺たちが祖父の半分でもマシな男だったら、あれほど愛してくれた二人の女をこんなにも傷つけることはなかった」隼人は鋭く冷ややかな目を光らせた。「瞬、お前はまだ自分の過ちに気づいていないのか?俺はもう過去を悔い、やり直そうとしてる。もし人間らしい心が少しでも残っているなら、自ら警察に出頭しろ。さもなくば、俺が証拠を集めて警察に突き出すだけだ」重く響く警告の言葉を残し、隼人は遥の墓碑を痛ましげに一瞥し、背を向けて去っていった。瞬は風の中でぼんやりと立ち尽くしたまま、遥の遺骨を取り出して、静かに胸に抱きしめた。彼の目には、深い想いがこもった光が揺れていた。「安心して。お前に約束したことは、必ず果たす。……待っててくれ」そう言って、彼は遥の遺骨を抱いて風の中を去っていった。……瑠璃はホテルで陽菜の世話をしていた。夜になってようやく隼人が戻ってきた。彼女は隼人から「実は遥は生きていた」と言われることを密かに期待していた。火葬証明書はきっと偽物だと思いたかった。だが、隼人から返ってきたのは、疑いようのない確かな事実だった。翌日、瑠璃は隼人と共に遥の墓を訪れた。二人は彼女に手を合わせようとしたが――そこには異変があった。墓が誰かに荒らされており、中にあった骨壷も消えていたのだ。瑠璃と隼人はその場を離れるしかなかった。車の中、瑠璃のスマートフォンに楓からの電話がかかってきた。「姉さん、情報が入った。目黒瞬がさっき、プライベートジェットで景市に向かったみたい。……そっちもすぐ景市に戻るの?だったら……俺、もう一度姉さんに会える?」電話はスピーカーモードにはしていなかったが、瑠璃の隣にいた隼人には、楓の言葉がはっきり聞こえていた。彼は無言でスマートフォンを取り上げ、冷ややかな声で口を開いた。「江島さん、もし景市に来るつもりなら、きちんと歓迎してやる。ただし、俺の妻は暇じゃない。用があるなら、次からは俺に直接電話をしろ」そう言い終えると、即座に通話を切り、自分の連絡先を楓に送信した。隼人がスマホを瑠璃に返すと、彼女の美しく澄んだ瞳がじっと彼を見つめていた。その視線に気づいた彼は、自分の言動が少しやりすぎたと感じて、すぐに弁解した。「千
Read more

第0887話

隼人はその言葉を聞くと、すぐに腕を上げて瑠璃をしっかりと抱き寄せた。「これが俺の妻だ。俺、隼人の妻は、最初から最後まで千璃ただ一人だけだ」彼の表情は真剣で重々しく、口調には一切の妥協がなかった。そして、彼は青葉に向けてしっかりと告げた。「母さん、もう昔みたいな態度で俺の妻に接しないでほしい。完璧な姑でなくても構わない。でも、人として最低限の礼儀と敬意は持ってほしい」「……」青葉はその場で固まった。顔色がすぐさま曇り、ちらりと視線を向けると、瑠璃が静かに微笑んでいたのが余計に癇に障った。「隼人、一体どういうこと?この前は春奈って女と婚約するって言ってたじゃないの。なのに、どうしてまたこの女と……あの時彼女が言ったこと、忘れたの?あれは全部、あんたに復讐するためだったのよ!」青葉が遥の名前を口にしたことで、瑠璃と隼人の胸に痛みが広がった。隼人は瑠璃の手をぎゅっと握り直し、真剣な表情で語った。「俺はずっと春奈のことを妹のように思ってきたし、あの子も俺を兄のように見ていた。そこに男女の感情は一切なかった。俺が愛しているのは、最初から今までずっと千璃だけだ」そう言い終えると、隼人は瑠璃の手を引き、中へと歩き出した。青葉はもはや料理を作る気にもなれず、その場で邦夫に電話をかけた。そして、ずっと不機嫌な表情のままで食事の時間を迎えた。目黒家の祖父は、瑠璃と隼人が並んで座る姿を見ても、先日の騒動については一切触れず、ただ意味深な笑みを浮かべた。「お前たちが元気そうで、わしはそれだけで安心だよ」「おじいちゃん、ご安心ください。これから千璃と一緒に、きちんと生きていくよ」隼人はそう約束しながら、気配りよく瑠璃の皿に料理を取り分けた。食後、瑠璃は祖父の書斎に行ってもよいかと尋ね、祖父は快く承諾した。隼人は、彼女が書斎で何をするのか気になって一緒に中へ入った。彼女が机の上の写真立てを手に取り、真剣なまなざしで眺めているのを見て、彼も近づいて一緒に見つめた。彼の目にやわらかな光が宿り、そして申し訳なさそうに口を開いた。「覚えてる?あの頃、海辺で一緒に遊んだとき、どれだけ楽しかったか。でも……俺は、そんな君を他の人と勘違いしてしまった」「勘違いしたのは、あなただけじゃない。瞬も同じよ」瑠璃は眉を寄せながら、写真
Read more

第888話

その言葉を口にした後、隼人は少し後悔したようだった。彼は不安げに瑠璃の表情を窺い、まるで昔、彼女が自分に気を遣っていた時のような慎重な様子だった。「ごめん、千璃ちゃん。過去のことを持ち出すべきじゃなかった。……また嫌な気持ちにさせてしまったね」彼は低く謝りながら、薄く開いた唇でそっと彼女の耳元にキスを落とした。「明日はまず南川先生のところに連れて行って、問題ないか確認してから、遥のことに取りかかる」瑠璃が頷くより早く、彼は彼女の腰を抱え上げた。「もう遅いし、一緒に休もう」反射的に瑠璃は彼の首に腕を回していた。彼はそのまま彼女を抱えて、ふたりの寝室へ戻っていった。不思議なことに、瑠璃の胸は高鳴っていた。それは、かつて隼人と結婚したあの夜と同じような感覚だった。緊張とときめき、それに微かな期待が入り混じった――そんな不思議な鼓動。ベッドに横たわると、隼人は彼女を抱きしめ、髪の上に優しくキスを落とした。「千璃ちゃん……ようやく君を抱いて、安心して眠れる夜が来た」その声は、夜の静寂に溶け込むように甘く響き、どこか誘惑めいていた。瑠璃は彼の温かく広い胸に身を預け、そのまま静かに夢の世界へと落ちていった。翌日、彼女はまず身体検査を受け、その後すぐに妊娠検査も行った。付き添ってくれた隼人の不安そうな表情を見て、瑠璃の心にもさまざまな想いがよぎった。君秋を身ごもったとき、彼に一緒にいてほしいとどれだけ願ったことか――けれど、その頃の彼女の願いは、すべて蛍によって踏みにじられていた。瑠璃は楓に連絡を取り、彼は「蛍はすでに警察に引き渡した」と伝えてきた。F国の国際警察が景市の警察と連携して、蛍を法に基づき再逮捕する手続きを進めるという。蛍が法の裁きを受けること――それが何よりも、天国の祖父への慰めとなるだろう。そしてもちろん、命を奪われた宝華への鎮魂にも。南川先生は瑠璃の検査結果と超音波画像を見ながら、眼鏡を軽く押し上げた。彼は真剣な表情で問いかけた。「千璃、この子を本当に産むつもりなのか?」瑠璃は数秒黙考した。返事をしようとした瞬間、隼人のほうが先に口を開いた。「もし、母体に危険が及ぶなら……俺と千璃は、この子を諦める」隼人の言葉には、彼女の身体を何よりも心配する気持ちがにじんでいた。
Read more

第0889話

日記の最初のページには、少女の清らかで丁寧な筆跡でこう書かれていた。「あなたに出会えたことが、何よりの幸せ――瞬」俺に出会えたことが、何よりの幸せ?瞬の視界は一気に滲んだ。――遥、お前に出会えたことこそ、俺の人生で一番幸せな出来事だった。でもお前にとって、俺と出会ったことは……決して幸せなんかじゃなかった。心が切り裂かれるような痛みを抱えながら、彼は日記をめくっていった。最初の記録は、瞬が彼女を支援することを決めたあの日から始まっていた。【すごく幸せ。家の前で出会ったあのお兄ちゃんと、また会えた。いや、今はお兄さんかな。何年も経っているのに、私は一目で彼だとわかった。でも、彼は私のこと……覚えていないみたい。泣昔、彼がくれた赤い紐はずっと大切にしてる。私があげた貝殻、彼はまだ持っててくれてるかな?彼はすごくかっこよくなってて、優しくて、頭もいい。こんなに完璧な人、きっとたくさんの女の子が好きになっちゃうよね。羨ましいうん、頑張って勉強して、彼の支援に報いるような人になりたい。何かを望むなんて、おこがましいけど……この先もずっと、そばにいられるだけで十分幸せ。たとえ妹としてでも嬉しい。もちろん、もし叶うなら……妹だけじゃなくて……】その最後の一文を読んだ瞬間、瞬は目を閉じ、声もなく泣き崩れた。もう……これ以上は読めなかった。呼吸をすることすら、罪に感じた。瞬はすぐに衣服や持ち物をまとめ、遥の骨壷を手にして、車を走らせて四月山へ向かった。空は重く曇っており、まるで彼女の死を悲しんでいるかのようだった。瞬は四月山の海辺へ着くと、手に赤い紐と貝殻を握りしめ、広がる浜辺に静かに立った。目を閉じれば、あの頃の記憶が鮮やかに蘇る。だが、彼を光へと引き戻してくれた少女は、今――もう二度と戻らない、闇の向こう側に行ってしまった。瞬は深い哀しみを胸に、遥の昔の家だと聞いた場所へ向かった。目の前の小さな一軒家は、質素ながらもどこか趣のある佇まいで、庭には色とりどりの花が咲いていた。この世界には、まだ色が残っていた。けれど、瞬にとってはすでに全てが灰色だった。彼はしばらく門の前に立ち、入ろうとしたとき――赤いパーマをかけた中年の女が家の中から出てきて、軽蔑するような口調で言った。「誰よ、うちの前に突っ立
Read more

第0890話

瞬の目が冷たく細められ、鋭い眉がぐっと上がった。「俺は遥の夫だ」「……なに?あの小娘の、夫?」「あなた……本当に私の従姉の遥のお婿さんなの?」母娘は同時に衝撃を受けたように言葉を失った。だが瞬は、彼女たちと長々と話すつもりはなかった。「一日やる。明日中にここから出て行け」「は?出ていけだって?あの小娘が出て行ってから何年経ったと思ってるの、この家なんかとっくにあの子とは無関係よ!」中年の女は腕を組み、勝ち誇ったような態度で瞬を上から下まで見下ろした。「ふん、あの小娘の男の趣味がどれほどのもんかと思えば、しょぼくれた貧乏男じゃない。家を取り戻して結婚でもする気か?バカも休み休み言いな!男のくせに家も持ってないなんて、よく結婚したもんだわ!」瞬は鋭い目つきで冷ややかに女を一瞥した。その目に射すような気迫を感じた女は、背筋が凍るような感覚に襲われ、思わず身をすくめた。「明日までに出ていけ。さもなくば、俺のやり方で追い出す」「……」そう言い捨てて、瞬は踵を返し、その場を後にした。「この貧乏男め……あたしと家を争うつもり?百年早いわ!」中年女はしばし呆然としていたが、すぐにあざけるような表情に戻った。だが次の瞬間、自分の娘が瞬の後を追って出て行くのを見て、怪訝そうに目を細めた。瞬は村の人々から、遥の両親が眠る場所を尋ねた。彼らは、それが四月山の中腹にあると教えてくれた。彼は遥の骨壷を胸に抱え、道具を持ってその場所を探し回った。ようやく遥の両親の墓を見つけたとき、彼はその傍らに適当な場所を選び、土を掘り始めた。穴を掘り終えると、骨壷と遥が生前好んでいた服やワンピース、そしてぬいぐるみを大切に土へと埋めた。そして自ら筆を取り、木の板にこう記した。「愛妻 宮沢遥 之墓 夫 目黒瞬 建之」すべてを終えたとき、空からはしとしとと雨が降り始めた。瞬は疲れ切ったように墓の傍らに寄りかかり、雨と混じるように頬を涙が伝っていった。――遥。見てるか?お前は……俺の妻だったんだ。援助を受けていた妹なんかじゃない。その一部始終を目撃したのが、遥の従妹である白浜悦子だった。彼女は慌てて家へ戻り、母親にその様子を報告した。「何ですって?あの小娘……死んだの?」「そう、確かに死んでた」
Read more
PREV
1
...
8788899091
...
95
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status