そのとき、千尋が一歩前に出て声をかけた。「社長、会議のお時間が迫っております」樹は頷くと、明日香の首元にネックレスをそっとかけ、口元にうっすらと満足げな笑みを浮かべた。「ゆっくり休んでて。夜には戻るから」「うん」明日香はそう答えて、小さく手を振った。樹の乗った車が門を出るまでを見送っていた田中は、ようやく胸の奥で安堵の息をついた。あの病が宣告された日、家中に絶望の空気が広がった。医師は「数ヶ月の命」と告げ、家族はただ祈ることしかできなかった。肉体の病は奇跡的に快復したが、心の深い傷だけは、誰にも触れることができなかった。だが今、樹は以前と同じように働き、笑い、誰かを想っている。それができるのは、きっと明日香のおかげなのだ。田中は、あの女よりも、今の明日香にそばにいてほしいと、心から願っていた。「明日香さん、お部屋の準備が整っております。どうぞ、こちらへ」田中に案内されて、明日香は専用のエレベーターで五階へと上がった。ドアの前で立ち止まった田中が、丁寧に告げた。「こちらが明日香さんのお部屋です。若様のお部屋はお隣にございます。慣れないかと思い、室内の配置は月島家のお部屋に極力近づけております」ドアを開けた瞬間、明日香は思わず足を止めた。壁に掛けられた絵画の角度、化粧台の向き、ベッドサイドに置かれた香りの小瓶。細部に至るまで、月島家で過ごしていた寝室と寸分違わなかった。ベッドに近づき、そっとシーツに手を伸ばした。これは、どこから運ばれてきたのだろう?「クローゼットの仕様が合わなければ、すぐに調整いたします」田中の声に、明日香は我に返り、軽く会釈した。「......ありがとうございます。ご丁寧にしていただいて」部屋を見渡すと、広さは月島家の二倍はある。だがその広さも、豪奢さも、心を満たしてはくれなかった。病院を出てからずっと、背後にまとわりつくような不安が消えない。気のせいだろうか。そのとき、廊下の奥から女中たちの囁き声が聞こえてきた。「さっきの方、ちゃんと見た?若様が昔好きだったあの人じゃない?」「違うと思うわ。顔中に発疹があって、何の病気かも分からないし......あの人なら、樹様をひどい目に遭わせた上に、海外に逃げたって聞いたから」「でも私、初めて見たよ。若様
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