All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 251 - Chapter 260

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第251話

「哲、冗談にも程があるだろ」悠真はうつむいて、苦笑を漏らした。そして、一呼吸置いてから真剣な口調に変わる。「もしお前が、明日香と同じように皆に晒されて、あざ笑われたら、それでも面白いなんて言えるのか?」率直すぎるくらいの言葉だった。哲には遠回しな表現は通じない。だからこそ、こうして真っ直ぐぶつけた。哲は口をつぐんだ。「それにさ、親の因果が子に報いなんてのは、時代遅れもいいとこだろ。今は法治国家なんだ。康生がやったことは、いつか必ず明るみに出る。法の裁きは、逃れられない。でも、それを明日香が背負わされる筋合いはない。彼女は、何も悪くない。淳也は無鉄砲に見えるけど、実際は一つ一つ考えて動いてる。お前が思ってるほどのクズじゃない。確かに見た目は最悪で、女とつるんでバーに通ったり、トランプ三昧の派手な生活してるけど......女と一晩共にしたところ、見たことあるか?」哲はぽかんと口を開けて、顎が外れそうになった。「え、あいつ......童貞なの?」「何言ってんだよ。南海大学のミスキャンとは、ただの見せかけの関係に決まってるだろ」「じゃあ......珠子は?あいつ、珠子のこと好きだったんじゃないのか?二人で夜中にバイク飛ばして、朝帰りしたって話、あれ、本当だろ?」悠真は湖面を見つめながら、風で揺れる前髪を指先でかき上げた。「俺の見立てじゃ、あれは......明日香に見せつけるための芝居だよ」おそらく、淳也の気持ちは、もうずっと前から明日香に向いていた。「なんでそんなことがわかるんだよ?信じられねぇ......」哲は頭を抱えるようにして、目を泳がせた。「実は、病院のときにさ。淳也は、明日香に心を動かされてたんだよ」「うそだろ......」「病院で医者が淳也の検査してたとき、腹のタトゥー見ただろ?お前、やらしいって茶化してたじゃん」哲の脳裏に、その場面がうっすら蘇る。あのとき、確かに笑って茶化した。でも淳也は何も言わなかった。ただ、静かに目を伏せていたような気がした。もしかしたら、最初から明日香に気があったのか?「だったら、なんで口説かないんだよ。なんであんなに冷たい態度取るんだ?珠子がいじめられたときだって、明日香のせいだって思って首絞めかけたじゃん。好きなら、そんなことするか?矛盾してるだ
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第252話

前回の教訓を活かして、明日香は八時前に宿舎へ戻った。そのついでに病院にも立ち寄り、無事に抜糸を済ませた。傷の治りは順調だったが、目立つ痕は残った。今はかさぶたになっており、余程の力を加えなければ裂けることはない。一方その頃、藤崎家の書斎には、見えない圧力が漂っていた。樹はデスクの後ろに腰を下ろし、ビデオ会議を終えるとようやく目の前の人物に視線を向けた。制服をだらしなく着こなし、ふざけた態度の少年――淳也がそこにいた。「この数日、家にも帰らず......外で何をしていた?」「何をって......兄さんならもう全部ご存知なんじゃないの?」ポケットに手を突っ込んだまま、淳也は指先でライターをくるくると弄びながら、首をかしげて返した。樹は無言で椅子の背にもたれ、緩やかながらも威圧的な姿勢で彼を見下ろす。「確かに、お前の行動は把握している。監視をつけているのは、お前が危険だからではない。余計なトラブルを防ぐためだ。藤崎の姓を名乗っているからといって、何をしても許されると勘違いするな」そのまま机から一枚の書類を取り上げ、音を立てて彼の前へ投げた。「今日、会社の法務部に訴状が届いた。お前が学校で暴力やいじめに関わったという内容だ」「......ただのクラスメート同士の冗談だよ。兄さんも、一方の言い分だけ鵜呑みにしないでくれよ」書類を拾い上げながら、淳也は肩をすくめて笑った。「兄さん」と呼ぶことに、特別な感情は感じさせなかった。そのとき、書斎のドアがノックされる。トレイを抱えた一人の女性が、静かに部屋へ入ってきた。牛乳と手作りのお菓子を載せたトレイをそっと置きながら、柔らかな声で言った。「お仕事でお疲れでしょうから......お菓子を作ってみたの。お口に合うかどうか、わからないけれど」入ってきたのは澪だった。年齢は四十に近いはずだが、肌は丁寧に手入れされており、三十代前半にしか見えない。大和撫子らしい柔らかさに加えて、切れ長の目が特に美しい、その目元は、確かに淳也にも受け継がれている。彼女の登場で、部屋の空気はいっそう張り詰めたものへと変わった。樹はその顔に露骨な嫌悪を浮かべ、冷たく言い放った。「誰が入っていいと言った。出ていけ」だが澪は動じず、かわりに優しく息子へ声をかけた。「またお兄さんを怒
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第253話

「また何かやらかしたの?」澪はじっと息子を見つめ、叱るような口調ながら、目元には深い愛情がにじんでいた。「お母さん言ったわよね?樹くんに迷惑かけないようにって。あの子だって、藤崎家の中で大変なのよ」「わかってるよ、お母さん。もう寝て」素直に頷いた淳也に、澪はどこか安心したように微笑んだ。母親を寝かしつけた後、彼は黙って書斎の前に正座した。夜の十一時半を過ぎても、ドアの向こうからは誰一人出てこない。ポケットに入れていた携帯が震えたが、淳也は着信画面を見ることもなく、すぐに切った。その頃――明日香はちょうど風呂から上がったところで、濡れた髪をタオルで拭いていた。本来なら、この時間帯は淳也の夜の活動が始まる頃。だが、今日は妙に気になってしまい、彼に電話をかけてみた。すぐに切られた。「......なにそれ」眉をひそめた。やましいことしてる?それとも本当に忙しい?もう一度、さらにもう一度かけ直すが、出ない。ようやく四度目の発信で通話が繋がった。「なんで出なかったの?なにしてたの?」不機嫌さを隠しきれず、少し強めの声を出してしまった。「まるで彼女の取り調べみたいだな」電話の向こうで、軽く笑う声がした。「......浮気してるんじゃないかって心配か?」「また外で遊んでたんでしょ?」明日香の声はさらに冷たくなった。「どうせ勉強なんてすぐ飽きるんだから。最初からわかってたわ。今日渡した問題集、ちゃんとやったの?私がどれだけ時間かけても、あなたがその気にならなきゃ意味ないのよ」「怖いな、将来誰がお前を嫁にもらうんだか。じゃあな、切るぞ」ツー......という無機質な音が耳に残り、明日香はイライラしたまま携帯をベッドに放り投げた。でも、冷静に考えると、電話の向こうは異常に静かだった。いつものバーのざわめきや笑い声が、まるで聞こえなかった。わざわざ静かな場所に移動してたの?本当に「取り調べ」が怖かっただけ?そんなことを考えていたところで、携帯が二度震えた。画面を見ると、淳也からのメッセージが届いていた。【問題集やったよ。数学の最後の問題、去年の入試に似てたから二通りの解き方で解いてみた。風呂上がりに写真送る?明日香先生に見せるために】呆れながらも、その茶化しには乗らず、すぐに
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第254話

午前二時、淳也が部屋へ戻ると、わずかに開いたドアの隙間から、ほのかな明かりと抑えたすすり泣きが漏れ聞こえてきた。それは必死に堪えているような、くぐもった泣き声だった。手をかけかけたドアノブを、淳也は途中で止めた。そして何も言わず、手を下ろすとポケットからタバコの箱を取り出し、廊下の突き当たりにあるバルコニーへと向かった。夜の闇は墨のように濃く、風は鋭く頬を打つ。淳也は手すりにもたれながら、静かに火を点けた。闇の中で、タバコの火だけが赤く明滅し、浮かび上がる横顔は、何かを抱えたまま無言で沈んでいた。その眼差しの奥に宿る感情は、闇よりも深く、誰にも読み解けない。夜が明ける。朝もやが薄く立ちこめる頃、明日香はベランダに出て、鉢植えに水をやっていた。路地裏からは豆腐屋のチャルメラが響き、魚屋の威勢のいい掛け声が風に乗って流れてくる。近所の台所からは、鰹節の香りが漂い、湿った空気と混ざり合って胸の奥を温める。質素で、ときに厳しいこの暮らしが、いつの間にか愛おしくなっていた。まだ乾ききっていない床の冷たさ。掃除で静まった部屋。心がざわつくたび、明日香は家事に身を投じることで、自分を立て直していた。遼一は、言ったことは必ず守る男だ。明日香はそれを知っていた。三日後、彼はきっと迎えに来る。どれほど未練があっても、この生活がどれだけ自由でも、住んでいた期間が短くても、もうすっかり慣れてしまった。だからこそ、いつかまた「追い出される」時が来たとしても、せめて帰れる場所だけは自分で守っておきたかった。正午を過ぎても、淳也は現れなかった。普段なら十一時半には来ているはずの時間。明日香は時計を見て、彼を待つのをやめた。ふと、ある思いつきが浮かぶ。そうだ、スキー場に行こう。大明山スキー場の山頂で一晩過ごせば、午前五時か六時ごろに雪山の夜明けが見られると聞いた。それは、まだ見ぬ景色だった。バスで一時間以上揺られ、山の麓に到着。人混みに混ざりながらチケットを購入し、ゴンドラに乗って山頂を目指した。およそ二十分後、山頂に到着した瞬間、凍てつくような冷気が肌を刺した。吐く息がすぐに白く凍り、風は容赦なく服の隙間に入り込む。思わず肩をすくめながら、明日香はバックパックを抱え、ホテルへ急いだ。チェックイ
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第255話

ホテルから数分歩いた先に、白銀の世界が広がっていた。ゲレンデの空気は張りつめ、雪を踏むたびに、キュッと乾いた音が鳴る。明日香はスキーウェアに着替え、ストックを握る手に力が入っていた。ぎこちなく足を動かし、そろりそろりと滑り出すその姿は、まるで歩き始めたばかりの子鹿のように頼りない。「大丈夫、思い切って身体を動かして。リズムさえ掴めれば平気。転んでも、俺がちゃんと受け止めるから」コーチの加藤邦彦が、彼女の隣でやさしく声をかけた。アウトドアスポーツとは無縁だった明日香にとって、スキーは未知の恐怖だった。プロテクターをつけているとはいえ、雪面に叩きつけられる痛みを想像するだけで、体がこわばる。けれど、山の下で風を切りながら軽やかに滑り降りる人々の姿を見ると、自分もあんなふうになってみたいという気持ちが、どこかにあった。一歩踏み出そうとして、また躊躇する。「転ぶのが怖いって気持ちばかり考えてたら、いつまでも滑れるようにならないよ」邦彦は根気強く教え続けた。「......わかったわ」歯を食いしばり、30分以上も練習を続けた。だが、その進歩は遅く、周囲との差は広がるばかりだった。隣の8歳くらいの少年はすでに堂々とした滑りを見せており、別の、どこかのお嬢様風の女性は転ぶたびにコーチに八つ当たりしていた。彼女はもともと彼氏と来ていたはずだが、その彼氏は早々に一人で滑りに行ってしまったようだった。その時だった。「パパ見て!あのお姉さん、超ヘタクソ!ぼく、もうできるのに!」少年が明日香を指差して、けたたましく笑った。父親は慌てて息子の口をふさぎ、顔を青ざめさせた。「こらっ!失礼だろ!早く......おばさんに謝りなさい!」──おばさん。その言葉が、まるで冷たい矢のように、明日香の胸を貫いた。18歳でおばさん扱い......?この親子の教育、どうなってるのよ。顔の半分をゴーグルで隠したまま、明日香はにっこりと、けれどどこか鋭い笑みを浮かべて少年に近づいた。「坊や、パパから聞いてないの?悪口ばっかり言ってるとね、口が腐るし......山のオオカミに連れていかれちゃうんだよ」少年はその言葉を真に受け、顔をくしゃくしゃにして号泣した。父親が何を言っても泣き止まず、辺りの空気が凍りついた。「加藤先生、
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第256章

遼一の隣に新しい女性がいることに、明日香は驚かなかった。彼の心に誰がいようと、外で遊び回る癖は昔から変わっていない。一応、スキーコーチの連絡先は携帯に登録したものの、このスキー場にまた来ることはないだろうと、明日香は思った。何より、自分にはスキーの才能がない。そう実感するには、今日一日で十分すぎるほどだった。雪山の頂は、零下十数度。いくら厚着をしても、冷気は容赦なく骨の髄まで入り込んでくる。明日香は身をすくめながら、遠くで遼一が笠井未祐(かさい みゆう)という女性に向かって歩いていくのを見て、静かにその場を離れようとした。ゴーグルとマスクで顔のほとんどを覆っている。話さなければ、遼一も気づかないかもしれない。見なかったふりをする。それがきっと、お互いのため。そのときだった。「どいて!どいてってば!」焦りを含んだ声が響いた。明日香が顔を上げた瞬間、別の斜面からスキーヤーが猛スピードで滑り降りてくるのが見えた。明らかに制御を失っている──このままでは、ぶつかる。逃げる間もなかった。と、誰かが明日香の腰を抱き、咄嗟に横へ引き寄せた。その勢いで、二人は雪の上に転がった。呆然としながら、斜面を転がり落ちていくスキーヤーを見送った後、明日香はようやく自分を救ってくれた相手の顔を見た。遼一だった。「......ありがとう」明日香はなるべく冷静に、それだけを告げた。「遼一!」未祐がすぐに駆け寄り、彼の腕を取った。「命が惜しくないの?大丈夫なのか見せてってば!」だが、遼一は彼女を見ることもなく、明日香をまっすぐに睨んだ。「明日香。兄に会っても、挨拶の一つもないのか?」その目には、怒りとも呆れともつかない、複雑な色が浮かんでいた。もう、逃げきれない。明日香はぎこちなく笑みを作った。「そんなつもりじゃなかったの。ただ......お兄さんの邪魔をしたくなかっただけよ」その言葉を聞いた途端、未祐の表情が一変した。敵意の火が瞬時に消え、親しげな笑顔に変わった。「あら、あなたが明日香ちゃんだったの!前から聞いてたわよ!」未祐は楽しげに声を弾ませた。「私、あなたより一つ上で、未祐っていうの。俳優養成所に通ってるの。よろしくね」手を差し出され、明日香はとりあえずそれに応じて握手した。
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第257話

未祐は自らの失言に気づき、気まずそうに笑って取り繕った。「そうよね、高校生はまず勉強が大事だし......恋愛なんて、急がなくてもいいのよ」その声には、どこか怯えたような揺らぎがあった。まるで、遼一の機嫌を損ねるのを本気で恐れているかのように。明日香は目を伏せ、手元のジュースをストローでかき混ぜた。円を描くように、カップの縁に小さな波紋が広がっていった。「私は今、停学中なの。ちょっと気分転換に......まさか、こんなところで会うなんて思ってなかった」ひと呼吸置いてから、明日香はさりげないふうを装い、問いかけた。「お義姉さんとお兄さんって、どれくらい付き合ってるの?」未祐はすぐに幸せそうな笑みを浮かべ、遼一の腕に甘えるように寄りかかった。「そうね......もうすぐ一年くらいかな?」ちらりと横目で彼の反応を窺うが、遼一はちょうどグラスを口に運んでいた。まぶたを伏せ、静かに水を飲むその横顔は、何ひとつ感情を映さない。やがてグラスをテーブルに戻しても、彼の表情に変化はなかった。その心の内を読み取れる者など、誰一人いない。明日香はそんな彼と未祐を交互に見つめながら、胸の奥に広がる違和感を押し殺そうとした。この顔、どこかで......未祐の整った顔立ち──その眉や目元には、どこか自分と似た輪郭があった。気のせいだ。そう思い直しながら、明日香は窓の外の白銀の世界に視線を移した。まさか......そんなはず、ない。「お兄さんが、こんなに長く誰かと付き合ってるなんて初耳だった。いつまで隠してるつもりだったの?」わざと軽く笑って言ったが、未祐の頬はたちまち赤く染まった。遼一はようやく視線を上げ、一瞬だけ陰を落としたような目で明日香を見た。そして、ゆっくり口角を上げて言った。「教えてもらえなかったのが不満か?」「別に。お兄さんももういい歳だし、好きな人ができたなら、それはそれで嬉しいことだよ」そう答えながらも、明日香は彼の視線を直視できず、携帯を取り出してメッセージを打つふりをした。ちょうどそのとき、注文していたデザートがテーブルに運ばれてきた。「ごめんなさい、ちょっと用事ができたみたい。先に失礼するね」明日香は立ち上がり、笑顔で未祐に言った。「お義姉さん、今度時間があったら、うちにも遊び
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第258話

未祐の出自は、決して恵まれたものではなかった。一年前、ギャンブル依存症の父親が高利貸から多額の借金を抱え、返済の目処が立たずに追い詰められた末、娘を「天下一」と呼ばれるキャバクラへ売り飛ばした。債務の代償として、ホステスとして働かせるためだった。未祐は、ギリギリのところで身体を売ることなく、酒を注ぐだけの日々を耐え忍んでいた。ある夜、酔った客に無理やり個室に引きずり込まれ、危うく暴行されかけたところで逃げ出し、その途中で、遼一と出会った。彼は未祐を助けるだけでなく、事情を知っても一切過去を咎めず、学費を出して彼女を学校へ戻してくれた。すでに退学していた未祐にとって、それは「生き直し」の第一歩だった。遼一がいなければ、今のように穏やかに学ぶ時間など手に入らなかっただろう。一方その頃、明日香は部屋で荷物をまとめていた。チェックアウトの準備を終え、フロントに向かったところで告げられたのは、予想だにしない悪報だった。昨夜の大雪により雪崩が発生し、唯一の下山道路が完全に埋まったという。ロープウェイも停電で停止しており、さらに複数個所で土砂崩れも確認されているとのこと。ホテルは非常用電源で稼働していたが、それもあと八時間しかもたないらしい。救助隊はすでに出動しているものの、多くの人がロープウェイの中に閉じ込められているという。泣きっ面に蜂とは、このことだ。嫌な相手と遭遇したばかりで、この仕打ち。まるで呪われているような気分だった。手持ちの服も少ないし、いつになれば道路が開通するのかもわからない。ひとまず部屋へ戻るしかなかった。だが、ドアを開けた瞬間、その陰から突然伸びてきた腕に引きずり込まれ、背中が扉に強く叩きつけられた。相手が遼一だと気づいた途端、心臓が激しく跳ねたが、すぐに感情を抑え込み、明日香は淡々とした表情を作った。もはや周囲に気を使う必要はない。兄妹のふりを演じる舞台は、ここには存在しなかった。「彼女と一緒にいなくていいの?怒らせたら大変じゃない?」さっき遼一が自分の腰を抱いたとき、未祐が向けたあの目、まるで飲み込まれそうな敵意。あんな目を、もう二度と向けられたくない。それにしても、どうして彼は私の部屋を知っていたのだろう?遼一の視線は、明日香が手にしていたスーツケースに留まり、険しい
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第259話

「すみませんが、存じ上げない方からのものは受け取れません。間違われたのでは?」明日香の声は、氷のように冷たかった。「本日、同じテーブルでお食事されていた男性の方からのお届けです」「その方とはもう関わりがありません。お引き取りください」毅然とした口調に、ウェイターはそれ以上食い下がることなく一礼し、無言でワゴンを引いて退室した。ドアを閉めると、明日香は迷わず「休憩中」の表示を押した。12階、バーラウンジ併設の景観デッキ。淡雪がちらつく中、哲朗は女の腰を抱いたまま、高級茶を二杯淹れた。そのうちの一杯を、向かいの男に差し出した。男──遼一は黙って杯を取り、香りを確かめた。清らかで芳醇な香りが、静かに鼻をくすぐった。ひと口含み、音も立てずに茶を飲むと、そっと杯をテーブルに置いた。「で、あの子はどうした?一緒じゃなかったのか。ケンカでもしたか?」その時、ウェイターが近づいてきた。「......遼一様」「何だ」遼一の鋭い一声に、ウェイターの肩が小さく跳ねた。「先ほどお届けしたデザートですが、あちらの女性には受け取りをお断りされまして。さらに、ご自身とは無関係だとおっしゃっておりました」その報告に、もともと険しかった遼一の表情が、さらに氷点下まで冷え込んだ。横にいた哲朗は唇の端を吊り上げ、面白がるように言った。「持ってこい。俺たちで直接届けに行こう」すぐに、カラフルなスイーツが並ぶワゴンが再び運ばれてきた。皿の上には、まるで舞台を飾る道化のように、華やかな菓子たちが整然と並んでいる。「......明日香も賢くなったってことか。素性の知れないモノは口にしない、と」からかうように言ってから、哲朗は茶を啜り、話題を切り替えた。「思い切って動いたんじゃなかったか?康生が死ぬまで耐える覚悟があるって思ってたのに......たったあの子一人のために、早々と気持ちが揺らぐとはな」遼一の目には、暗く濁った感情が渦巻いていた。「......余計な口出しはするな」低く唸るように言い放つと、遼一は席を蹴るようにして立ち上がり、その場を荒々しく去っていった。明日香は、見知らぬモノを口にすることができなかった。一度、あの事件で思い知らされたのだ。昼寝から目覚めたとき、部屋にはすでに夕方の色が差し込んでい
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第260話

頭皮の痛みがまだ残る中、明日香の体はソファへと乱暴に叩きつけられた。起き上がろうとした矢先、すぐにその肩が押さえつけられ、再び倒れ込む。「お兄さんに会った途端に逃げるなんて......まだ逃げるつもりか?」遼一の顔に浮かぶ笑みは、毒の塗られた刃のように冷たく、そして不吉だった。「いったい何が目的なの......!」明日香はソファの隅へ身を寄せ、膝を抱えるようにして縮こまった。恐怖に濡れた瞳が、彼の顔を捉えて離さなかった。遼一は白いチョコレートケーキの箱を手に取り、まるで何事もなかったかのようにその隣へ腰を下ろした。そして丁寧に包装をほどいた。「明日香、甘いものが好きだったよな?......お兄さんが、食べさせてあげる」スプーンですくった一片を、彼女の唇へ向けて差し出した。明日香の目には、涙の膜が浮かんでいた。声はかすかに震え、赤く染まった瞼の奥で、怒りと警戒心が交錯していた。「今度は何を入れたの?毒でも薬でも......好きにすればいい。けど私は、もう騙されない」遼一の反応を探るように、明日香はその手を力強く払いのけた。「あっちへ行って!」明日香が突き飛ばすと同時に、涙がついに頬を伝った。立ち上がろうとした刹那、遼一の腕が伸び、彼女の首を捕らえた。強引に胸元へ引き寄せられ、背中が熱を帯びた肉体に触れた。明日香は叫びながら、必死にもがいた。「遼一、やめて!離して!」「死ぬのが怖いのか?前はもう少し肝が据わってたじゃないか」遼一の声が耳元で低く響いた。ぞっとするほどの冷静さを纏っていた。「俺がまだ優しいうちに従っておけ。それが一番、楽な道だ」そう言いながら、遼一の指が彼女の髪に伸びた。明日香は条件反射のように身を縮め、それを避けた。遼一はふと手を止めたが、それでも指先で優しく髪をかき分けた。皮膚の下、暴力の痕跡がうっすらと紫に浮かんでいた。その指の動きを感じながらも、明日香の心は凍てついていた。「飴とムチ」。それが彼の常套手段だった。だが遼一は、今もなお自分を、都合のいい操り人形だとでも思っているのだろうか。一時間後。再びスプーンで差し出されたケーキに、明日香は嫌悪を込めて顔を背けた。「......もう食べない」これで五つ目。限界を超えた甘さが、胃を裏返すほど
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