All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 261 - Chapter 270

270 Chapters

第261話

「......髪を、乾かせ」遼一は明日香の言葉など聞こえていないかのように、スリッパを引きずりながら化粧台の前に腰を下ろし、目を閉じて静かに命じた。その一言に、明日香の動きが止まった。空気がひときわ重くなる。しばしの沈黙。遼一は待ちくたびれたのか、鏡越しに明日香の姿を覗き込み、苛立ったように言葉を投げつけた。「聞こえなかったのか?」この声。この圧し掛かるような命令口調。まるで、あの頃に逆戻りしたかのようだった。遼一は、いつだってそうだった。サイズの合わない服を着せようとし、少しでも躊躇えば容赦なくこうして圧をかけてきた。反論すれば苛立ちをあらわにし、従えば一時の平穏をくれる。明日香は、知っていた。彼の扱い方も、付き合い方も。そして今、外は雪に閉ざされ、逃げ場などどこにもない。明日香はゆっくりと立ち上がり、ドライヤーを手に取った。化粧台のコンセントに差し込み、温風を彼の髪に当てた。彼の髪は少し長めで、前髪が目元をかすめている。その目は閉じられ、まるで眠っているかのように、呼吸も静かだった。その無防備な顔に、ふと手が止まりそうになる。けれど明日香は余計な感情を振り払うように手を動かし続けた。静寂の中で、ドライヤーの音だけが響いた。30分もしないうちに、髪は乾き、彼は何も言わずベッドへ向かい、そのまま倒れ込んだ。まるで、そこが初めから自分の寝床であったかのように。「明かりを消せ」「私は......明かりをつけたままじゃないと眠れないの」明日香はソファに身を横たえ、震える手で布団の端をぎゅっと握りしめた。けれど、その小さな抵抗も、遼一には通じない。結局、明日香は立ち上がり、天井のメインライトを落とした。部屋の片隅で、唯一残されたナイトライトだけが、仄かに灯っている。再びソファに身を沈めると、ようやく薄い眠気がまぶたを包みはじめた。午前四時半。浴室から流れるシャワーの音は、すでに一時間以上も止まらない。明日香はその水の下に立ち尽くしていた。掻けば掻くほど、痒みが広がっていく。首も、肩も、腹部も。血の筋が幾重にも走り、爪痕は赤黒く腫れていた。鏡に映る自分の顔は、腫れと赤みで原形を留めていない。まるで、別人のようだった。ドンドンドン――扉の向こうから、重い音が鳴る。「.....
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第262話

隣室から、突然ドンッという重い破裂音が響いた。ベッドの上で重なっていた男女は同時に驚き、女は悲鳴を上げて布団に潜り込んだ。哲朗は上半身裸のまま身を起こし、怒気を宿した目で叫んだ。「......クソ、誰だ!」その声が消えるより早く、ドアが乱暴に蹴り開けられた。遼一が明日香を抱えたまま、堂々と部屋へと踏み込んでくる。腕の中の明日香はぐったりとしていたが、時折苦しそうに身をよじらせていた。遼一は容赦なくソファへ彼女を放り投げた。「......服を着て、すぐに来い!」「かゆい......!放して!」明日香はネクタイで手首を縛られていたが、それでも首元を必死で掻こうとしていた。肌は赤く腫れ、爪痕が血を滲ませていた。「我慢しろと言ってるだろ!」遼一は荒々しく言い放ち、明日香が暴れるたびに、全身でそれを押さえつけた。哲朗は青ざめた顔で、静かに床からズボンを拾い上げた。歯を噛み締めながら身につけたその姿は、シャツのボタンが二つしか留まっておらず、乱れた髪と桜色の唇が不穏な艶を放っていた。やがてソファに歩み寄り、明日香へと手を伸ばしたその瞬間、遼一が彼の手首をつかんだ。明日香はその様子に怯え、身を縮めた。「何をする気だ?」遼一の瞳は鋭く、まるで刃のように光を放っていた。「傷を確認するだけだ」哲朗は遼一の手を振りほどき、明日香の袖をまくり上げた。そこには、無数の引っ掻き傷と赤い発疹が浮かび上がっていた。哲朗はその様子を見て、すぐさま舌打ちをした。「遼一......こんなくだらないことで俺の夜を邪魔するとはな。ただのアレルギーじゃないか。お前、常識すら失くしたのか?さっさと出て行け」遼一は眉を寄せ、明日香を見つめた。「......何を食べた?アレルギーだと知らなかったのか?」「スイーツなんて山ほど食べたのよ......どれが原因かわかるわけないじゃない!」明日香は鼻をすすり、涙で濡れた目で彼を睨み返した。「あなたが......私を殺そうとしてるくせに......今さらいい人ぶらないで!」彼女の叫びにも、遼一は一言も返さず、ただ哲朗に向き直った。「薬は?」「真夜中に何の薬を探せっていうんだ......出て行け」哲朗は扉を指差し、怒りと嫌悪を込めて言い放った。
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第263話

明日香は、涙混じりの声で小さく頷いた。遼一が手を伸ばし、シーツを解こうとしたその瞬間、部屋のドアがノックされた。「どうぞ」入ってきたのはホテルのマネージャーだった。手には氷水をたっぷり浮かべた洗面器を持っている。「佐倉様、氷水で拭くと、お嬢様の症状がいくぶん和らぐかと存じます」「ありがとう、預かる」遼一が洗面器を受け取ったのを見て、明日香は慌てて布団を頭まで引き上げ、顔を隠した。今の自分の姿がどれほど腫れ上がり、見るに堪えないかを、誰よりも自分がよくわかっていた。そんな彼女の様子に視線を向けることもなく、遼一は淡々と問った。「......他に用か?」マネージャーは営業用の笑顔を崩さず、親しげな口調で続けた。「1606号室のドア破損についてですが......新垣様より、佐倉様に賠償処理をお願いするよう仰せでした。こちらがその明細になります」目の前に立つ男がどれほどの人物か測りかねていたマネージャーは、自然と敬意を込めた話し方になっていた。遼一は洗面器を一旦脇に置き、上着の内ポケットから黒革の財布を取り出すと、静かにカードを抜いて差し出した。マネージャーは恭しくそれを受け取った。「ありがとうございます。すぐに処理いたします」やがてドアが閉じられ、室内に再び静けさが戻る。遼一の視線が、布団の中の塊へと向けられた。「......蒸し暑くないのか?手を出せ」「出て行って、自分でやる」明日香の掠れた声が返ってきた。その言葉に遼一の目がわずかに険しくなった。「無理やり引きずり出してもいいが、加減はしないぞ。痛くても泣くな」明日香はしばらく躊躇した後、そっと布団の端から手だけを差し出した。その手に、冷たいタオルがそっと触れた。思わずびくりと肩をすくめるが、予想に反して、その手つきは驚くほど丁寧で、優しかった。かつての遼一からは想像もできなかった柔らかさ。前世では決して与えられなかったものだった。明日香の心に戸惑いが生まれた。あれほど自分を苦しめた人間が、どうして今になって、こんな風に......?答えはひとつ。自分がまだ「使える存在」だからだ。明日香が死んでしまえば、康生に説明がつかない。それだけの話だ。だが、氷水の冷たさは確かに効果があった。ヒリヒリしていた痒みが徐
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第264話

一時間も経たぬうちに、ヘリコプターは静水病院の屋上に静かに着陸した。だがそこは、明日香にとって最も足を踏み入れたくない場所だった。「......私がここに来たくないって、分かってるでしょう!」「顔がこんなに腫れてるのに、まだそんな我が儘を言うつもりか?命が惜しくないのか?」遼一の言葉に、明日香は激しく反論した。「ここの人間はみんなあんたとグルよ!私を陥れようとしてるんでしょ?絶対に行かない!」階段に足を掛けた遼一は、その言葉にぴたりと動きを止めた。隣にいた中村も驚いたように明日香を見やった。だが明日香は一歩も引かない。中村のことも信用していなかった。彼はかつて遼一に忠誠を誓い、月島家を裏切った男。遼一の片腕として、葵と共に彼を権力の座へと押し上げた人物だった。遼一は黙って振り返り、黒曜石のような眼差しで明日香を見つめた。沈黙は長く重く、空気が凍りつくようだった。苛立ちを隠しきれず、中村が口を開いた。「お嬢様、もう病院に着いたんです。わがままはやめてください。治療が遅れてしまいますよ」「あなたに言われる筋合いなんてないわ!私はタクシーで市立病院に行く!」そう言い捨てて踵を返し、明日香は迷わず階段を下りた。遼一がいなくても、すぐに命を落とすような状態じゃない。そう分かっていた。「中村、車を出して。市立病院までお願い」「遼一様......」中村が困惑したように助けを求めたが、遼一は短く命じた。「彼女の言うとおりにしろ」明日香は聞こえなかったふりをして、さっさと歩道へ向かい、走ってきたタクシーのドアに手をかけたその瞬間、大きな手がドアを押さえつけ、彼女の行動を止めた。無言のまま遼一は明日香の腰を抱き上げ、そのまま力任せに担ぎ上げた。「放して!この強盗野郎!」明日香は遼一の背中を叩きながら、激しく抵抗した。だが遼一は怯むことなく彼女を後部座席に放り込み、自分も乗り込むと声を放った。「中村、ドアをロックしろ」パチンと音がして、ドアが閉まりロックされた。明日香が慌てて窓を開けようとした瞬間、遼一の手が襟首を掴み、力任せに彼女を座席に引き戻した。「これ以上騒いだら、海に投げ込んでサメの餌にしてやる」目に険しい光を宿し、冷え切った声でそう言い放った。その脅しに明日香は思
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第265話

ウメが病院に到着したのは、正午ちょうどのことだった。彼女は朝から手間を惜しまず、お粥を作って、それを保温容器に詰めて持参していた。病室に入ると、明日香はまだぐっすりと眠っていた。ウメはその寝顔をそっと覗き込み、声をかけるのは控えた。看護の引き継ぎを終えた中村は、まるで何かから逃げるように病室をあとにし、足早にエレベーターへと向かった。ちょうどそのタイミングで、エレベーター内で藤崎グループの人々と鉢合わせた。中村は一瞬だけ怪訝そうに目を細めた。樹が病院に?まさか明日香のために?だが深く詮索することなく、地下1階のボタンを押し、その場を去った。一方、病院の廊下では、千尋が鞄を提げ、樹の背後を静かに歩いていた。「明日香さんは雪山で二日間閉じ込められていましたが、今は容体も安定しています」「今後、彼女に関する報告は、最優先で僕にまわせ」「......かしこまりました」病室番号を確認した樹は、足音を殺して中へ入った。千尋は外で待機する。突然見知らぬ男が入ってきたのを見て、ウメは驚き、思わずじろじろと観察してしまった。スモーキーグレーのスーツに、シャツの襟元から覗く刺青。見た目はどう見ても裏社会の御曹司にしか見えず、警戒心を強めた。明日香にこんな知り合いがいたなんて、これまで一度も聞いたことがない。だが、男の口調は思いのほか優しかった。「僕は明日香さんの友人です。彼女は......大丈夫でしょうか?」ウメはうなずいた。「ついさっき眠ったばかりです。何かご用でしょうか?」「いえ、ただ......顔を見たくて、様子を伺いに来ただけです」ふと、ウメの顔に思い当たる節が浮かんだ。「もしかして......あの、明日香が手作りの羊羹をお渡ししたお友達という方ですか?」樹は口元を和らげ、うっすらと微笑んだ。「......彼女が僕の話を?」「ええ、私、明日香のことは幼い頃から見てきましたが、あの子、友達なんてほとんどいなかったんです。あなたが初めてですよ。この前、台所で珍しく真剣な顔して料理してて......あれは、あなたのためだったんですね」初めての友達。その言葉に、樹の表情は柔らかさを増し、ベッドで眠る明日香へと視線を落とした。「明日香さんはまだ眠っておりますが、何か
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第266話

人は誰しも、自分のもっとも惨めな姿を他人には見せたくないものだ。それは明日香も同じだった。まさか、こんな状態のときに、樹が突然病室に現れるなんて想像すらしていなかった。「......まだお腹すいてない。食べたくない」そう言い放ったその瞬間、パクチーの香りがふわりと鼻をかすめ、次の瞬間、彼女のお腹が正直な音を立てた。ウメが笑って場を和ませた。「明日香さん、顔がまだちょっと腫れてるから、恥ずかしくて誰にも会いたくないのよ」「顔?そんなにひどいの?......大丈夫って聞いてたけど?」樹がわざとらしく目を見開いてみせた。ウメはすぐに察して、口調を明るくした。「そういえば明日香ちゃん、もうずいぶん腫れも引いてるわよ。ね?ほら、ちょっと触ってごらん」明日香は恐る恐る頬に手を当てた。確かに、ヒリつくような痛みは和らいでいた。おそるおそる布団の隙間から顔を覗かせてみると、まだ多少の腫れは残っていたが、首元の赤い斑点も薄くなっていて、鏡を見なくてもだいぶ良くなっているのがわかった。......実のところ、お腹は空いていて仕方なかった。これ以上断るのも気が引けて、小さな声で言った。「じゃあ......自分で食べる」「点滴ついてる手じゃ無理だろ。僕が食べさせてあげる」そう言って、樹はすでにスプーンを手に取り、彼女の口元へと差し出していた。ここまで来て断ることもできず、明日香は観念したように「......お願いします」とぽつりと答えた。「そんなの、なんてことないよ」樹は穏やかに微笑み、慈しむような眼差しを向けた。「もしよかったら、これから毎日でも食べさせてあげるよ?」お粥から立ち上る湯気をふうっと吹き、明日香は小さく一口含んだ。その瞬間、ぴくりと眉をひそめた。「......ウメ、これ......前と味が違う気がするけど?」「珠子ちゃんがね、胡椒を少し加えた方が香りが立つって言ってたの。だから、明日香が気に入るか試してみようと思って......どう?おいしい?」明日香は視線を伏せ、淡々と答えた。「......まあまあ」けれど胸の奥では、やはり昔の味が恋しかった。それは、母がよく買ってくれた駅前の小さな屋台のお粥の味。ウメはわざわざその店に通って作り方を習い、材料も同じもの
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第267話

あの日以来、明日香と遥の関係は完全にこじれてしまった。結局、遥が最初に近づいてきたのは遼一のためだった。目的を果たした今、もう友人のふりをする必要もなくなったということ。あの優しさも、すべて計算のうちだったのだ。「遥のこと、僕から謝らせるよ」樹はそう言って、明日香の手の甲にそっと手を重ねた。点滴の冷たさが、彼の体温で少し和らいだ。「遥のしたことは、すべて僕のためだった。君の気持ちを知ったうえで......道を整えようと、焦ってしまったんだ。もし淳也に君への借りがあるのなら、僕が代わりに返す。君たちの関係を邪魔するつもりはないよ。でもね、僕と彼の間には、君が思っている以上に複雑な事情がある。君はまだ若いし、いずれゆっくり話すよ」樹の目が、切実な光を帯びていた。「ただ......君の心のほんの少しでいい。僕に分けてくれないか?他の誰とも違う、特別な扱いをしてほしい。瓶に一滴ずつ水を垂らすように、一日一滴でも、一ヶ月に一滴でもいい。いつかその瓶が満たされる日が来れば、それでいいんだ」明日香はそのまなざしをまっすぐに見つめ返した。そこには確かに、渇望と、そして抑えきれない占有欲が潜んでいた。けれどそれを無理やり押し殺しているのが、痛いほど伝わってくる。遼一と似ているようで、まったく違う。前世の遼一は病的な執着と、陰湿で執拗な監禁。でも、樹のそれは巨石のように胸に重くのしかかってくる。逃げ場はないが、それが彼の本意ではないと分かっているからこそ、余計に重かった。明日香の人生には、もともと誰かを入れる余白なんてなかった。ただ、束縛のない自由がほしかった。樹の感情は突然降ってきた難題で、どう扱えばいいのかも、誰に相談すればいいのかも分からなかった。沈黙が流れたまま、樹はまだ返事を待っていた。明日香は俯き、ぽつりと呟いた。「......樹。私は誰に対しても、私でいたいの。誰かのものになりたくないし、誰かの付属品にもなりたくない。私にはまだ、やりたいことも、叶えたい夢もあるの。だからまずは、自分の力で帝大に受かって、学業を終えたい。君が言った複雑な事情っていうのは、今の私には理解できない。それに、淳也に対しても......感謝の気持ちだけ。恩返しがしたいだけなんだ」「......わかった」樹は穏やかに
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第268話

夜の七時半、樹は病院を後にした。珍しく穏やかな笑みを浮かべていた彼の顔を見て、千尋はすぐに察した。きっと明日香と、いい時間を過ごせたのだろう。毎日欠かさず服用している鎮痛剤よりも、彼女のたった一言の優しさのほうが、ずっと心の痛みを和らげる。ようやく彼も、長く苦しめられてきた過去の影から抜け出せるかもしれない。そう思えた。樹はポケットから銀のケースを取り出し、中の錠剤を数錠、口に含んで飲み下した。ここ数日続いた冷え込みのせいで、古傷の足が疼いていたのだ。「......田中に伝えておいてくれ。藤崎家の屋敷に、彼女用の部屋を用意させる。好みに合わせて整えるように」「え......明日香さんが、お引っ越しを?」千尋の声に驚きが混じった。「奥様には......なんと?」「それは、僕が説明する。車を出してくれ、会社に戻る」樹の声は静かだったが、その眼差しには、揺るぎない決意が宿っていた。明日香を月島家から引き離す。それは、樹にとって非常に理にかなった一手だった。義理の妹が虐げられたのを見過ごすにする「良き息子」――佐倉遼一。康生が長年かけて育て上げた養子の本性が、ここまで邪悪だったとは。康生が戻ってきたとき、この大切な養子をどのように処分するのか。それが、今から楽しみだった。一方、病室では、明日香がベッドに腰かけ、窓の外の夜景をじっと見つめていた。遠く瞬く街の灯りが瞳に映り込んでも、心の迷いは晴れなかった。自分の選んだ道が本当に正しかったのか。それとも、ただ逃げているだけなのか。一歩でも間違えれば、取り返しのつかない結果になるかもしれない。「......遼一。私がいなくなれば、ようやく望み通りになるわね......」夜も十時を回った頃、明日香はようやく深い眠りに落ちた。その暗がりに、音もなく黒い影が病室へ忍び込んだ。ベッドで眠る明日香をしばらく見つめたのち、男は部屋の隅に立っていたウメに小声で尋ねた。「......今日は、中村の他に誰か来たか?」「はい、藤崎という方がいらっしゃって......明日香さんと、しばらくお話をなさっていました。その後、明日香さんはずっとぼんやりしていて......学校のことは解決したそうで、来週から通えると仰ってました」遼一の黒曜石のような瞳に、激しい感情
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第269話

「退院?」ウメと珠子は、まるで声を合わせたように田中の方を振り返った。戸惑いの色がその顔に浮かぶなか、ただ一人――遼一だけは冷ややかな表情を崩さず、凍てつくような気配を周囲に漂わせていた。明日香はその底知れぬ視線を避け、唇をかすかに噛んだまま、何も答えなかった。「......明日香、どういうことなの?」静寂を破ったのは珠子の声だった。田中は恭しく腰を折り、理路整然と説明を始めた。「若様が明日香様のお料理を大変お気に召され、しばらく藤崎家にてお世話になるようにと。月島様ともすでにお話はついております」「お世話って......でも、明日香さんの病気はまだ治りきっていないのに。どうして旦那様がそんなことを?」心配げなウメの問いに、田中の視線が冷たく揺れた。それを見た明日香の心には、思わず冷笑が浮かんだ。康生が断るわけがない。彼女は幼い頃から、月島家にとって「道具」として育てられた。売り渡されるための駒。藤崎家は帝都でも屈指の名門、政財界に睨みを利かせる頂点の一族。商人あがりの月島家とは、比べものにならない。むしろ康生は、この縁組を喜んでいるだろう。藤崎家からの打診を受けた時点で、娘を差し出すことに一切のためらいなどなかったはずだ。「月島家のことに、使用人ごときが口を挟んでいいと思っているのか?」田中の声は、まるで氷柱のように冷え切っていた。「ウメ、心配しないで」明日香は、静かにウメをなだめた。「すぐ戻ってくるから」ウメは黙って頷いたが、その視線は隣に立つ遼一へと向けられていた。「明日香さん、車椅子はご使用になりますか?」「いいえ。着替えたらすぐ出ます」「若様は現在、お電話中です。入口でお待ちしております」田中が一礼し、音もなく部屋を出ていった。彼の背が完全に見えなくなった後、珠子はようやく肩の力を抜いた。「......名門の執事さんって、ほんと雰囲気が違うのね。なんだか、圧倒されちゃった」その言葉に明日香は曖昧に笑ったが、視線の端で黙り込んだままの遼一の横顔を捉えていた。見なくても分かる。今の彼の表情は、きっと最悪だ。出発の支度が整うと、ウメはお粥をプラスチック容器に詰め、そっと持たせてくれた。温かいうちに食べられないのは残念だけど、せめてこの気持ちだけは持っていこ
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第270話

藤崎家の本邸は、まるでひとつの独立した王国のようだった。その広大な敷地には、四季折々の草花が咲き誇り、自然と調和するように緻密に設計された庭園が広がっている。なかでも屋敷のそばに佇む銀杏の大樹は、すでに五、六百年の樹齢を数え、枝葉を広げながら藤崎家の興亡を静かに見守ってきた。百年前、ただの商人として出発した藤崎家は、乱世の渦中で頭角を現し、やがて帝都の商会を束ねる存在へと成長した。その根は深く、今なお一族の誇りとして揺るぎない威厳を保っている。厳格な家風を持つ藤崎家では、本邸に住むことは一族の義務とされていた。だが、唯一の例外が、樹だった。彼はほぼすべての規則から解き放たれていた。それは彼がただの嫡男ではなく、一族の未来を背負う者として、特別に育てられてきたからに他ならない。両親は彼を宝石のように大切に扱い、藤崎家の象徴としてその存在を守り抜いてきた。その樹が住まうのは、主屋に隣接する別棟。両親はもう少し離れた離れに静かに暮らしていた。明日香はてっきり、南苑にある藤崎家の別荘に案内されるものだと思っていた。まさか本邸の中心部に、自分の身が置かれることになるとは――まるで夢のような話だった。車窓から見える光景に、思わず言葉を失った。本邸は山に囲まれ、湖に面した風光明媚な地にあり、静謐な空気と緊張感を併せ持つその空間には、24時間体制で警備員が目を光らせていた。一歩入れば、もう外界とはまったく異なる世界だった。これが、帝都の頂点に立つ家の姿。その圧倒的な格差に、明日香は知らず胸を締めつけられた。だが同時に、悔しさがこみ上げてくる。前世では遼一が淳也を利用して藤崎家を蚕食し、最終的には百年の歴史を持つ名家を大火で灰に帰し、この土地さえも免れなかった。遼一はわずか三年で藤崎家を完全に打ち破り、手中に収めた。今世では、明日香は前世の悲劇が繰り返されないことを願うだけだった。 遼一の冷酷さを考えると、明日香は心配になった。月島家から逃げた後、彼はどんな手段で報復してくるのだろうか?「ここ、気に入った?」思考の底から、樹の穏やかな声が彼女を呼び戻した。明日香は周りを見回した。広さでいえば「天下一」など比にもならず、かつて自分が暮らしていた場所が、まるで玩具のように思えてしまうほどだった。
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