「......髪を、乾かせ」遼一は明日香の言葉など聞こえていないかのように、スリッパを引きずりながら化粧台の前に腰を下ろし、目を閉じて静かに命じた。その一言に、明日香の動きが止まった。空気がひときわ重くなる。しばしの沈黙。遼一は待ちくたびれたのか、鏡越しに明日香の姿を覗き込み、苛立ったように言葉を投げつけた。「聞こえなかったのか?」この声。この圧し掛かるような命令口調。まるで、あの頃に逆戻りしたかのようだった。遼一は、いつだってそうだった。サイズの合わない服を着せようとし、少しでも躊躇えば容赦なくこうして圧をかけてきた。反論すれば苛立ちをあらわにし、従えば一時の平穏をくれる。明日香は、知っていた。彼の扱い方も、付き合い方も。そして今、外は雪に閉ざされ、逃げ場などどこにもない。明日香はゆっくりと立ち上がり、ドライヤーを手に取った。化粧台のコンセントに差し込み、温風を彼の髪に当てた。彼の髪は少し長めで、前髪が目元をかすめている。その目は閉じられ、まるで眠っているかのように、呼吸も静かだった。その無防備な顔に、ふと手が止まりそうになる。けれど明日香は余計な感情を振り払うように手を動かし続けた。静寂の中で、ドライヤーの音だけが響いた。30分もしないうちに、髪は乾き、彼は何も言わずベッドへ向かい、そのまま倒れ込んだ。まるで、そこが初めから自分の寝床であったかのように。「明かりを消せ」「私は......明かりをつけたままじゃないと眠れないの」明日香はソファに身を横たえ、震える手で布団の端をぎゅっと握りしめた。けれど、その小さな抵抗も、遼一には通じない。結局、明日香は立ち上がり、天井のメインライトを落とした。部屋の片隅で、唯一残されたナイトライトだけが、仄かに灯っている。再びソファに身を沈めると、ようやく薄い眠気がまぶたを包みはじめた。午前四時半。浴室から流れるシャワーの音は、すでに一時間以上も止まらない。明日香はその水の下に立ち尽くしていた。掻けば掻くほど、痒みが広がっていく。首も、肩も、腹部も。血の筋が幾重にも走り、爪痕は赤黒く腫れていた。鏡に映る自分の顔は、腫れと赤みで原形を留めていない。まるで、別人のようだった。ドンドンドン――扉の向こうから、重い音が鳴る。「.....
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