All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 281 - Chapter 290

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第281話

車がデパートの正面に滑り込むと、明日香は遼一と共に無言のまま降りた。彼がそのままエレベーターへ向かうと思ったのも束の間、彼の足は一階の宝石売り場へと向かっていた。遼一はあるカウンターの前で立ち止まり、まるでその場の主のように、自然に店員の視線を引きつけた。店員は彼の顔を見るなり、笑みを浮かべて話しかけた。「佐倉様、先週ご注文いただいたカルティエが入荷いたしました。お気に召していただけるかと存じます」彼女の視線がちらりと明日香に移り、営業スマイルがさらに華やいだ。「きっと彼女さんですよね?お似合いになりそうです」「違います。私は......妹です」明日香は咄嗟に否定した。胸の奥がざわつく。彼女、なんて、そんな立場、到底受け入れられない。「お兄さん、先に上の階行くね」そう言って立ち去ろうとした瞬間、手首を強く掴まれた。遼一はカウンターからダイヤモンドのネックレスを取り出し、冷静ながらも有無を言わせぬ口調で言う。「つけてみろ」「......いらない!」拒んだが、彼は動じない。店員に向かって申し訳なさそうに笑いながら言った。「すみません、妹がわがままでして」こうして他人の前では、いつだって紳士然と振る舞い、口元には穏やかな笑みを浮かべながらも、内に秘めた強引さで相手をねじ伏せるのだ。明日香が言葉を挟む隙もなく、遼一は手早くネックレスを外し、彼女の髪をそっとかき分けて、冷たいダイヤモンドの留め金を首元にかけた。シンプルで澄みきった輝きを放つそのネックレスは、明日香も雑誌で見たことがある。世界十大ジュエリーブランドの最新作で、限られたルートでしか手に入らない逸品。市場価格は六百から八百万円、十年後には数千万円にまで価値が上がるとされる代物だった。遼一がそんな高額なものをどうやって手に入れたのかはわからない。だが、それ以上に、この贈り物が欲しくなかった。それはまるで、囲い込むための鎖のようだった。あの出来事の後ではなおさらだ。高価な宝石で好意を示されることが、ただ自分を軽く扱われているようで、屈辱にすら感じられた。遼一はふと、彼女の首にかかっていた古いネックレスに目をとめた。だが、すぐに表情を整えた。店員はそのタイミングを逃さず、言葉巧みに褒めた。「さすがの目利きですね。妹さんにとてもよくお似合いですよ」
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第282話

このお金は、必ず返す。たとえ時間がかかっても、一銭たりとも遼一に借りは作りたくなかった。買い物袋を手に提げた遼一とともに歩きながら、二人は先ほどの宝石店の件について、黙して語らなかった。エスカレーター付近を通りかかったとき、明日香の目に一枚のシルクマフラーが映る。丁寧に手編みされた繊細な一品。値札には「¥40,000」の数字が静かに揺れていた。「気に入ったなら、買えばいい」遼一が何気なく言う。「いいよ......ウメさんに見せたら、きっともったいないってしまっちゃうから」ウメは決して利己的な人ではない。必要のないものにお金を使うことを、彼女は決して好まなかった。結局、明日香は実用性を優先して、赤と黒の手袋をそれぞれ一双ずつ選んだ。値段は合わせて六千円。贈り物としては高すぎず、ちょうど良い。買い物は三十分ほどで終わり、明日香は大きな紙袋を両手に抱えて帰ろうとした。自分用のものは一つも買っていない。もともと、足りないと感じるものなどなかったのだ。「......遼一さん?明日香?」不意に耳慣れた声が響き、明日香が顔を上げると、遥が正面から優雅に歩いてきた。黒服のボディガードを四人従え、お嬢様然とした出で立ちでハイヒールを鳴らし、今シーズンのシャネルのケープ付きロングドレスをまとっている。真紅の口紅がその存在感をさらに際立たせ、風をも切るような勢いで近づいてきた。「偶然ね!二人でお買い物?」遼一は軽く頷き、「こんにちは、遥」と挨拶を返した。遥は自然な流れで彼の腕に絡みつき、甘えた声で囁いた。「遼一さん、前に一緒に来ようって言ったとき、ずっと断ってたのに......今日はもう逃がさないわよ?夕食まで時間あるし、もう少し見て回らない?ね、明日香も一緒にどう?」遥の華やかな笑みとは裏腹に、明日香は無表情のまま、むしろ心のどこかで彼女が遼一を引き止めてくれればいい、とさえ思っていた。「私は用事があるので、二人でごゆっくり。お兄さん、黒い手袋、渡して」そう言って手を差し出すと、遥は断る隙を与えず、にこやかに笑った。「やだ。あなたが会いたいんでしょ?お兄ちゃん、仕事まだ終わってないわよ。家に帰ってもいないと思う。だったら、夕食のときに呼びなさいよ。その手袋、きっとお兄ちゃんにあげるつもりでしょ?似合うと思う
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第283話

明日香との口づけは、遼一にとって麻薬のように中毒性があり、一度味わうと止められないものだった。夫婦として八年を共にした明日香は、すでに彼の粗暴な性格には慣れていた。最も親密な行為でさえ、前戯など一切なく、彼はただ乾いた状態を締め付ける快感のみを貪るのだった。明日香が痛みに呻けば呻くほど、遼一はより激しく喘ぎだす。自制心を失った遼一は助手席のドアを開け、彼女をシートに押し倒した。「やめて!ここは地下駐車場よ、人が来るわ!」「なら早く済ませようじゃないか」「あなた、正気?本当に狂ってる!」二度と同じ目に遭いたくない彼女は、反対側のドアから逃げ出そうとした。遼一は素早く助手席に乗り込み、ドアを閉めると、長い腕を伸ばして彼女を引き寄せた。車庫は車で溢れ、誰かに見られはしないかと、明日香は涙が溢れそうになった。「帰りましょう、お願い!せめて、ここじゃない場所で!」遼一はすでに我慢の限界でズボンのチャックを下ろし、凶暴なものを解き放った。明日香の黒いレギンスも乱暴に引きずり下ろされた。位置を調整し、腰を沈める。遼一は頭を仰け反らせ目を閉じ、至福の快感に酔いしれていた。「そうだ......お前が大人しくしてりゃ中には入れないのに......」その低く渇いた声に、明日香は屈辱を感じ、唇を噛んで涙を堪えた。30分が過ぎた頃。遼一はティッシュを取り、明日香の服に付着したものを拭った。悦楽の果てに無力に横たわる彼女を見ると、明日香の瞳は虚ろで、ぐったりしていた......たった一度の行為で、遼一は彼女の体の最も敏感な部分を見抜いてしまった。今回の遼一は、本当の行為なしでも明日香を天国と地獄の狭間に立たせられることを証明してみせた。「気持ち良かったか?」明日香は全身が痺れるように嬌らかで、彼の頬を思い切り叩いた。「遼一、私はあなたの欲望の捌け口じゃない」濡れた睫毛から大粒の涙が零れ落ちた。遼一は怒ることもなく彼女の服を整え、殴られ罵られるがままにした。「......後で藤崎家に送ってやる。他の男と遊ぶんじゃないぞ、許さないからな、わかったか?」この涙と嗚咽を見て、遼一はなぜか胸がざわつき、彼女の顎を掴んで強制的に目を合わせさせた。「チェックするからな......」深い瞳には、強烈な危険信号が灯っ
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第284話

でも、それがどうしたというの?遼一にとって、あの一夜はほんの気まぐれに過ぎない。明日香が急に距離を取ったことで、気分を害しただけ。彼の中にあったのは、愛でも恋でもなく、ただ所有欲が疼いただけだった。仮に彼が珠子を選ばなかったとしても、遥がいる。そして、いつかまた葵を「愛する」日が来るかもしれない。新鮮さが失われれば、彼はいつだって捨てることができるのだ。この人生で、遼一の周囲にどれほどの「珠子」が現れようと、どれほどの「女」が彼に縋ろうと、明日香だけは、二度と彼を愛することはない。たとえ孤独のまま歳を重ねようと、もう、決して振り返らない。甘味亭にて。遼一は個室を希望していたが、明日香はすぐに店員に告げた。「個室じゃなくて結構です。フロア席でお願いします」二人きりになると、また何をされるかわからない。そんな不安が、口より先に身体を動かしていた。遼一は笑みを浮かべて応じた。「......彼女の言う通りに」二人は窓際のテーブルへと案内された。麦茶が運ばれ、明日香は軽く頭を下げて礼を言った。遼一はメニューを手に取り、一目見て顔をしかめた。家庭的な料理が並ぶメニューに、すぐさまそれを明日香の前に差し出した。「お前が薦めた店なんだから、自分で選んで」明日香は遼一の言葉に反応せず、自分の好物を淡々と三品選んだ。それを見ていた店員が気を利かせて声をかけてくる。「お客様、それだけではお二人分には少ないかと......」「彼が何を食べるか知りません。自分で選ばせてください」明日香の声は冷たく、ぴしゃりと距離を線引くようだった。遼一は適当に辛めの料理をいくつか追加した。もともと、二人の好みは似ても似つかないのだ。店員が去ったあと、遼一が口を開いた。「......まだ怒ってる?」明日香は視線を合わせようともしなかった。「遼一、私はデパートに付き合った。食事にも来た。それで、あなたは何がしたいの?前にも言ったでしょ。私はあなたにとって何の脅威にもならない。月島家が欲しいなら、奪えばいい。私はもうどうでもいいの。高校を卒業したら、大学に行って、フランスに戻るつもり。美術を学んで、一生帰ってこない。だからお願い。放っておいて」その言葉に遼一は何も言わず、彼女の手を取ると、指先でその滑ら
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第285話

「今さら、戻れる余地があるとでも思ってるの?」運転席でハンドルを片手に握りながら、遼一はもう片方の手で明日香の手の甲を包み込んだ。「家に帰って、ゆっくり休め。冬の林間学校はもうキャンセルしておいた。もし遊びに行きたいなら、俺が付き合う」「......また勝手に、私のことを決めたの?」明日香は彼の手を勢いよく振り払い、怒りに震える声をぶつけた。「何度言わせるつもりなの!遼一、私はもうあなたのことが大嫌いなのよ!どうしてそれがわからないの!」前の人生では、どれだけ尽くしても、彼は一度たりともまともに向き合ってくれなかった。それなのに、二度目の人生で自分から距離を置こうとしたら、今度は執拗に追いすがってくる。前世では、ただ月島家のしがらみとして利用され、今世では何?気まぐれに欲望をぶつける「おもちゃ」?遼一は黙り込み、重く濁った空気を車内に漂わせた。しばらくして信号で車を停めた彼は、低く冷たい声で言った。「これから会う時は、あのネックレスを着けろ」「......これから?まだ会うつもり?」明日香は鼻で笑った。「もう会わないわ。今日のことも全部、無かったことにして」視線を真っ直ぐに向け、皮肉を込めて続けた。「珠子さんに私たちのことがバレたら、どう思うかしら?私とこうして絡みながら、珠子さんに未練もあるなんて......気持ち悪くない?」その言葉に、遼一の眉間がぴくりと動き、表情が険しく歪んだ。次の瞬間、彼は急ブレーキを踏み、車を路肩に寄せて停めた。そして、シートベルトを外すや否や、身を乗り出して明日香の胸元に手をかけた。「それなら、今ここでお前を俺のものにしてやる」「頭おかしいの!?私はまだ18よ!あなた、お父さんに殺されたいの!?」明日香は彼の手首を必死に掴み、身体を縮めて抵抗した。だが、遼一の目に迷いはなかった。むしろ淡々と、冷酷に言い放った。「ちょうどいいじゃないか。それなら、正々堂々と結婚できる」彼の唇から漏れるその言葉は、氷のように冷たかった。「学校には通わず、家で洗濯と料理をして、夫に従い、子を育てる。それがお前の仕事になる」「......わかった!私が悪かった!結婚なんて、嫌っ!」その瞬間、遼一は明日香の襟首を掴み上げ、ほとんど持ち上げるようにして睨みつけた
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第286話

明日香は無言のまま、勢いよくドアを開け、振り返ることもなく車を降りた。「明日香さん」門の前でパトロール中だった警備員が声をかけると、彼女はそそくさと返事をして、まるで何かから逃れるかのように駆け足でその場を去っていった。ここから樹の別荘までは、まだ十数分いや、二十分は歩かなければならない距離だ。警備員はBluetoothイヤホンをそっと押さえ、遠ざかる彼女の後ろ姿を見つめながら、淡々と報告を入れる。「明日香さんが戻られました。車種はアウディA6、ブラックです」電話の向こうで、樹の声が静かに響いた。「運転手の顔は見えたか?」「いえ、車からは降りてきませんでした」「......わかった」それだけ言って、樹は通話を切った。一方の明日香はというと、わずか十数分の道のりを、まるで永遠のように歩み、結局三十分もかかってようやく別荘に辿り着いた。玄関でひっそりと立ち尽くしていた彼女に、いち早く気づいた使用人が心配そうに駆け寄った。「明日香さん!やっとお帰りになったんですね。坊ちゃんから何度もお電話があって、とてもご心配されていました。すぐにおかけ直しくださいませ」「......わかった。あとでかける。先に上がるね」明日香の声はどこか上の空で、力なげだった。使用人はその顔を見て、目が真っ赤に腫れていることに気づいた。泣いたばかりなのだろう。着ているジャケットも、樹のものではない。何かあったに違いない。けれど、彼女の様子から、それ以上を問うことはできなかった。部屋に入ると、明日香はすぐさまドアに鍵をかけ、携帯電話の画面が真っ暗で電源が落ちていることに気づいた。バッテリーが切れていたのだ。充電器に差し込んだ彼女は、そのままバスルームへと駆け込んだ。シャワーを浴びるというより、全身をこすり洗うように、必死で体を擦った。まるで、身にまとった汚れを洗い流そうとするかのように。二時間後、ようやくバスルームを出たとき、肌には水滴が伝い、しなやかな体の曲線をつたって、カーペットの上にぽたりぽたりと落ちていった。窓ガラスにふと目をやると、自分の姿が映っていた。そこにあったのは、無数のキスマークと、爪の跡が赤く残る惨たらしい姿だった。そんな時、ノックの音が響いた。「明日香さん、坊ちゃんがご用意された
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第287話

藤崎グループの社長室。樹は机の上に広げられた写真の山に指先を添え、無意識に軽く指で天板を叩いていた。明日香と遼一が「香味居」の店先から手をつないで出てくる写真。デパートで、遼一が彼女の首元にネックレスを着ける瞬間。それらはまるで物語の断片のように、順を追って並べられている。机の半分近くを覆い尽くす写真群。その中で、ただ一つ欠けていたのは、車内で二人きりだった一時間の記録。遮光ガラスがレンズをはじいたが、誰の想像をも遮ることはできない。あの密閉された空間で何が起きたのか、もう答えなど要らなかった。「スカイブルー、最近いくつかプロジェクトを取ったのか?」樹はふいに口を開いた。千尋はすぐさま腰を折って答える。「数は多くありませんが、いずれも企業成長には欠かせない重要案件です。主に佐倉遼一が指揮を執り、あとは秘書の中村がフォローしています」「康生がいなければ、あいつも気が緩むようだな」樹は写真の一枚を指先で撫でながら続けた。「いくつかの会社に連絡して、スカイブルーとの協力を積極的に進めるよう伝えろ」「......しかし、それでは月島家に利を与えることになります」千尋の声には明確なためらいが滲んだ。「たかが数百万の取引だ。藤崎にとっては端金にすぎない。一種の気まぐれだと思えばいい」「かしこまりました。すぐに手配いたします」千尋が一礼して退室しながら、心の中で静かに思った。明日香のためなら、社長は敵にまで金を渡すのか。週末の朝。白いトレーニングウェアを身につけた樹は、汗ばんだ身体でジョギングから戻ってきたところだった。水を飲み干し、タオルで顔を拭っていると、ちょうど階段を降りてくる明日香と目が合った。彼女は眠そうな目をこすりながら、ヘアゴムを口にくわえ、慌ただしく髪をまとめていた。「おはよう」明日香は小さな声で挨拶をした。「おはよう」樹は笑顔を浮かべて彼女の目を見つめながら、味噌汁の入った器をそっと差し出した。そのやり取りを見届けた使用人は、無言でキッチンに入り、朝食を整え始めた。味噌汁、おにぎり、漬物控えめながらも心のこもった朝食だった。「昨夜はよく眠れた?」「ええ。今日はお仕事じゃないの?」明日香は首をかしげた。普段ならこの時間には、もうスーツ姿で会社に向
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第288話

樹は味噌汁をすすりながら、腕をまくった袖口から覗く青みがかったタトゥーが、ちらりと視界に入った。スプーンを動かすたびに手首の筋が浮き上がり、どこか神秘的で近寄りがたい雰囲気をまとわせている。「田中、今日の用件は?」ふとした口調で尋ねた樹の声に、田中の視線がわずかに横へ滑った。視線の先には、静かにお粥をすすっていた明日香の横顔があった。「......おばあさまからの伝言です」その一言に、明日香の指先が反応した。スプーンを持ったまま、裾をきゅっと握りしめる。明らかに、気配に神経を尖らせている。「遠慮はいらない、はっきり言え」促された田中は、小さく息を吐き、続けた。「おばあさまが風邪を召されたとのことで......あなた様と、明日香さんにお会いになりたいそうです」明日香の手が止まった。会いたい?本当に体調が悪いのか、それとも別の思惑があるのか......警戒心が一気に顔を出し、彼女の目の奥に怯えの色が滲む。樹はテーブルを人差し指でトントンと叩きながら、しばし考え込んだ後、優しく尋ねた。「おばあちゃんに会いに行くかい?」その瞬間、明日香の手が跳ねるように動き、スプーンが皿の縁にぶつかって金属音を響かせた。音に自分で驚いたのか、あわてて拾い上げながら、声も震えていた。「ご、ごめんなさい......レッスンに遅れちゃうから、先に行くね!」言うが早いか、鞄を手に取り、ほとんど駆け足でリビングを飛び出した。「車を出そう」樹も立ち上がりかけたが、「大丈夫、運転手が待ってるから!ありがとう!」その言葉を背中に残して、明日香の姿は玄関の扉の向こうに消えていった。テーブルの上の朝食は、まだ湯気を立てたまま残っていた。だが、そこにいるべき人影はもうない。樹は額を押さえ、静かに息を吐いた。せっかく距離を縮めるはずだったのに、逆に遠ざけてしまった。明日香はまるでハリネズミだ。柔らかい内側を守るため、鋭い棘を全身にまとい、近づく者すべてを拒絶する。月島家から連れ出すことはできた。けれど、それだけでは何も変わらなかった。今の彼女は、自室に閉じこもり、ひたすら本を読み、絵を描き、誰とも言葉を交わそうとしない。ただ、もっと広い世界を見せたかっただけなのに。それが逆に、彼女を追い詰める結果になってしまっ
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第289話

明日香は、典型的な回避型人格だった。感情的な苦悩に直面すると、真っ先に「逃げる」という選択肢を取る。痛みに襲われるたび、誰とも関わらず一人で過ごし、静寂の中で心の安定を取り戻そうとする。時には記憶の一部を曖昧にすることで、自らを守ろうとさえする。それが、彼女なりの自己防衛だった。向き合いたくないわけではない。ただ、周囲の空気やちょっとした気配が、ふとした拍子に心をざわつかせ、不安を増幅させる。だからこそ、予期せぬ刺激を避けるために、彼女は人との距離を置くことを選ぶ。藤崎家でも、食事の時間を除けば、ほとんど部屋に閉じこもっていた。絵を描き、課題をこなし、音楽を聴きながら、他者との接触を徹底的に拒んでいた。天下一ゴルフ倶楽部にて。「ちょっと休もうか。何か甘いものを食べて」平井はケーキの皿を手に、静かに彼女の前に置いた。明日香はクラブを手放し、ペットボトルの水をひと口含んでから、小さなケーキを受け取った。「ありがとう」「午前中、ずっと集中してなかったみたいだから。甘いものは、気分転換になるよ」「......なんで分かったの?」明日香が微笑みながら尋ねると、平井は保温カップに口をつけた。「見抜くのは難しくないよ。悩みがある人には、それぞれ癖が出る。顔に出る人もいれば、身体を動かして忘れようとする人もいる」「たぶん、勉強のストレスかな。宿題だけでも手一杯なのに、習い事も多くて......自分の好きなことをする時間なんて、ほとんど残ってないの」平井は足を組み、膝の上で手を組み直した。「それは息が詰まるね。でも、その習い事の中に、本当に好きなものは一つもないの?」少しの沈黙の後、明日香はぽつりと答えた。「......ないかも。ほんとうに好きなことは、お父さんが絶対にやらせてくれないの」「絵を描くのは好きだろう?ちょうど一枚、面白い絵があるんだ。見てみる?」「え、どんな絵?」平井は時計を見て、予定していた練習時間が過ぎていることを確認すると、立ち上がって言った。「ついてきて」明日香を伴って階上のオフィスへ向かった。休憩室の一角に、3メートルほどの絵画が黒い布で覆われていた。平井は静かにそのカーテンをめくった。「部屋、少し散らかっててごめんね」「ううん、大丈夫......ていうか、すご
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第290話

「間違いないわ」明日香は、小さな確信にも自信をみせて軽く頷いた。平井は腕を組み、口元に微笑を浮かべた。その穏やかな表情には、ようやく彼女の笑顔を見られた安堵が遠慮がちに表れていた。「どうやら、あの人は僕を騙していなかったようだね。それで、どうして本物だとそう確信できたんだ?」「うまく説明できないけど、この筆遣いにね......何か懐かしい感じがするのよ」明日香の指先はまだ額縁に触れたまま離れなかった。「でも、これは間違いなく本物だと思うわ」平井の微笑みはさらに穏やかになった。「君がそう言うなら、僕も疑わないよ」「この絵を渡した人は、きっとあなたに命を救われたのでしょうね。こんなレベルの芸術品を人に贈るなんて、そう簡単にできることじゃないわ」「そうだね、身に余るものだよ。自分にふさわしくない物を受け取れば、それは借りを作ることになる。いずれその借りは返さねばならない」明日香は微笑んで冗談半分に問いかけた。「もしかして、本当に命を救ったりとか?」平井は目線を少し外しながら、かすかな微笑みを浮かべ、話題をそっと横に置いた。「まあ、その話はまた今度にしよう。さ、そろそろ食事に行こう。僕も久しぶりに戻ったところだし、レストランで新メニューが出たと聞いたんだ。一緒に試してみようじゃないか」「いいわね」明日香が微笑み、二人はエレベーターへと向かった。明日香にとって平井は特別な存在だった。13歳でゴルフを始めた以来の5年間、平井はいつも彼女と程よい距離を保ちながら、その一線を決して越えないやさしさと誠実さを見せてくれた。落ち込んでいた時も、彼はまるで自然に振る舞うようにして、彼女を笑顔に変えてくれたのだ。今日のように、絵というさりげない一場面を通じて。平井は、明日香がひそかに絵を描くことが好きだという、誰にも明かしたことのない趣味さえ見抜いていた。二人はレストランに到着すると、相変わらずの窓際の席に通された。この時間帯、多くの賓客たちが食事を楽しんでおり、その顔ぶれを見るだけで、この場がいかに特別な空間であるかが分かる。天下一......このホテルの名は、それだけでも圧倒的な権威と高貴さを示していた。しばらくして、料理の注文を済ませると、明日香は一言断りを入れてトイレに向かった。しかし、薄暗い廊下の
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