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第288話

Author: 無敵で一番カッコいい
樹は味噌汁をすすりながら、腕をまくった袖口から覗く青みがかったタトゥーが、ちらりと視界に入った。スプーンを動かすたびに手首の筋が浮き上がり、どこか神秘的で近寄りがたい雰囲気をまとわせている。

「田中、今日の用件は?」

ふとした口調で尋ねた樹の声に、田中の視線がわずかに横へ滑った。視線の先には、静かにお粥をすすっていた明日香の横顔があった。

「......おばあさまからの伝言です」

その一言に、明日香の指先が反応した。スプーンを持ったまま、裾をきゅっと握りしめる。明らかに、気配に神経を尖らせている。

「遠慮はいらない、はっきり言え」

促された田中は、小さく息を吐き、続けた。

「おばあさまが風邪を召されたとのことで......あなた様と、明日香さんにお会いになりたいそうです」

明日香の手が止まった。

会いたい?本当に体調が悪いのか、それとも別の思惑があるのか......

警戒心が一気に顔を出し、彼女の目の奥に怯えの色が滲む。

樹はテーブルを人差し指でトントンと叩きながら、しばし考え込んだ後、優しく尋ねた。

「おばあちゃんに会いに行くかい?」

その瞬間、明日香の手が跳ねるように動き、スプーンが皿の縁にぶつかって金属音を響かせた。音に自分で驚いたのか、あわてて拾い上げながら、声も震えていた。

「ご、ごめんなさい......レッスンに遅れちゃうから、先に行くね!」

言うが早いか、鞄を手に取り、ほとんど駆け足でリビングを飛び出した。

「車を出そう」

樹も立ち上がりかけたが、「大丈夫、運転手が待ってるから!ありがとう!」

その言葉を背中に残して、明日香の姿は玄関の扉の向こうに消えていった。

テーブルの上の朝食は、まだ湯気を立てたまま残っていた。だが、そこにいるべき人影はもうない。

樹は額を押さえ、静かに息を吐いた。

せっかく距離を縮めるはずだったのに、逆に遠ざけてしまった。

明日香はまるでハリネズミだ。柔らかい内側を守るため、鋭い棘を全身にまとい、近づく者すべてを拒絶する。

月島家から連れ出すことはできた。けれど、それだけでは何も変わらなかった。

今の彼女は、自室に閉じこもり、ひたすら本を読み、絵を描き、誰とも言葉を交わそうとしない。

ただ、もっと広い世界を見せたかっただけなのに。

それが逆に、彼女を追い詰める結果になってしまっ
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