All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

遼一は明日香をじっと見つめた。まるで、観察でもするかのように目を細め、その視線はどこかいつもよりも柔らかく感じられた。思わず、明日香の胸に戸惑いが走った。こんな目をするなんて、彼は本来、珠子に対してだけのはず。普段、遼一が自分に向けるものといえば、冷たさ、嫌悪、そして決して埋まらない距離感ばかり。明日香は少し緊張しながらも、おそるおそる彼の視線に目を返した。昔の遼一は、こんなんじゃなかったのに......いったい、どこで狂ってしまったんだろう?私は、何もしていないはずなのに。「珠子ちゃんが、君がそこまで気を遣ってくれるのを知ったら、きっと喜ぶよ......で、君はどうなの?藤崎のこと、好きになったんじゃない?」「えっ?」明日香は驚いて目を見開いた。なんで、いきなり樹の話?今日の遼一、やっぱり変。まるで、誰か別人みたい。遼一は沈黙のまま彼女を見つめ、その反応をまるで探るようにじっくりと観察した。だが、すぐに腕を下ろし、いつもの冷淡でよそよそしい態度へと戻っていった。さっきまでのあの一瞬の優しさが、まるで幻だったかのように。「なんでもない」その言葉に、明日香は思わず安堵の息を吐いた。胸の重しがふと下りた気がして、その場から逃げるように立ち去ろうとしたそのとき。突然、熱くてざらついた掌が、彼女の手首をぎゅっと掴んだ。「どうしたの?まだ何かあるの?」「腹減った。ラーメン、作ってくれ」「?」この頃の明日香は、料理などまったくできなかった。遼一も、それをよく知っているはずだった。目玉焼きを作るだけで台所を爆発させかねない腕前なのに。拒否する間もなく、遼一はもう背を向けてソファに戻り、目を閉じていた。彼の体からふわりと漂う酒の匂い。どうやら、本当に飲みすぎたらしい。明日香は観念したようにため息をつき、キッチンへと向かった。冷蔵庫を開け、取り出したのは青菜と卵を二つ。遼一には空きっ腹に酒を入れる悪癖があった。しかも、翌朝には何も食べない。それが積み重なって、胃をどんどん悪くしていった。それでも今は、彼は名義上の兄。せめて将来、遼一が月島家に復讐しようとするそのとき、あの時ラーメン作ってあげたことだけでも思い出して、見逃してくれてほしい。そんな淡い願いを胸に、明日香は台所に立った。
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第32話

明日香は、息を呑んだような表情のまま、どうしていいか分からず、逃げるように部屋へと駆け戻った。勢いよくドアを閉め、ガチャリと鍵をかけた。背中全体で扉にもたれかかりながら、震える指先で唇を何度もぬぐった。まるで、そこに何か穢れたものがこびりついているかのように。初めてのキスは、すでに遼一に自分から与えていた。けれどそれは、酔いに任せて、こっそりと、誰にも知られないように触れただけのものだった。そして彼は、そのとき自分を突き飛ばした。忘れようにも忘れられない、あの冷たい、極限まで嫌悪を湛えたまなざしを向けてきたのだ。でも、もうあの頃の自分じゃない。明日香は、自分に言い聞かせるように目を閉じた。あんな男とは、もう関わりたくなんかない。気持ち悪い!身体中に、何匹もの蝿がまとわりついているような不快感。腫れあがった唇が痺れて、痛みすら感じなくなるまで、何度も、何度も、ぬぐい続けてようやく手が止まった。どうしてあんなふうに遼一の上に転がり込んでしまったのか。いくら考えても、答えは出なかった。普通に考えれば、あんな偶然は起こるはずがない。けれど、遼一は酔っていた。彼にとっても、あれはただのアクシデントだったのかもしれない。「偶然だ、気にすることじゃない」そう自分に言い聞かせたものの、ベッドに入っても明日香は寝返りを何度も打ち、とうとう眠れずにいた。頭の中では、遼一の顔が離れなかった。その頃、階下のリビング。遼一は静かに椅子に腰掛け、虚ろな目をしていた。瞳孔はどこか焦点が定まらず、酔っているのか、いないのか、判然としないままの表情で。気づけば素麺を完食していた。その味は、どこか外では味わえない、心に沁みるものだった。こんなに料理が上手いくせに、今までできないふりをしてたのか?だが、そうでもないだろう。明日香には料理の基礎がある。専門的なコースも受けていたはずだ。麺を茹でるくらい、できて当然かもしれない。さっきのアクシデント――あれは、わざとだった。明日香の反応を見たかった。ただ、それだけ。けれど、あんな目をされるとは思わなかった。明日香の瞳は、明らかに変わっていた。もう自分が三歩近づくだけで、彼女の体は拒絶反応を示す。その反応は、珠子を思ってのものではない。純粋に、遼一自身への嫌悪と恐怖
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第33話

翌朝、明日香が目を覚ましたのは、太陽が高く昇ってからだった。昨夜は、結局三時か四時まで眠れなかったのだ。重たいまぶたを無理やりこじ開けるようにして起き上がると、明日香は下着を身につけ、寝間着に着替え、大きなあくびをひとつ抑えながら階段を下りていった。「ウメさん、今朝は何食べる?」明日香の声に、台所で慌ただしく動いていたウメが振り向きもせず答えた。「遼一様、ちょっと風邪を召されたようなので、おかゆを作りました。まず遼一様にお持ちしますね。お鍋にはまだたっぷりありますから、ご自分の分はよそってくださいね」「え、病気?昨日まで元気だったじゃない。どうして?」明日香の眉が思わずひそめられた。「私のせいなんです。遼一様がいらっしゃらないと思って、お布団をたたんでしまいました。埃が溜まらないようにって......まさか、そんな寒い思いをさせていたなんて......」そう言いながらウメはおかゆを盆に載せ、運ぼうとしていたが、ふと何かを思い出したように立ち止まった。「あら、忘れるところでした。解熱剤がもう切れてるんです。買いに行かないといけません。明日香さん、お時間ありますか?遼一様におかゆをお届けいただけますか?」「うん、わかった。行ってらっしゃい。お兄ちゃんのことは、私が見てるから」言葉とは裏腹に、明日香の胸には、うっすらと後悔が渦巻いていた。遼一が体調を崩したのは、自分にまったく関係がないとは言えない。まだ朝食も取っていなかったが、明日香はおかゆの盆を手に取り、階段を上がっていった。二階、遼一の部屋の前で足を止め、軽くノックした。「お兄ちゃん、起きてる?」中から咳き込む声が返ってきた。「ゴホッ、ゴホッ......入っていいよ。鍵、かけてない」ドアを開けて部屋に入ると、思いがけず、そこには遼一だけでなく中村もいた。遼一は書類を閉じながら、淡々と話した。「今日の会議は延期だ。このプロジェクトは引き続き俺がフォローする。とりあえず、そういうことで会社に戻ってくれ。何かあれば、連絡を」「承知しました」中村は鞄を手にし、軽く会釈してから明日香に視線を送ると、そのまま部屋を出て行った。「明日香か。ウメさんは?」「解熱剤を買いに出かけたわ」おかゆの盆をベッドサイドのテーブルにそっと置きながら
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第34話

「パンッ」大きな破裂音が階上から響いた。突然の物音に、明日香は驚いて天井を見上げた。すぐにスリッパを引っかけると、慌てて階段を駆け上がった。まさか遼一に何かあったのでは――そんな不安が胸をよぎった。「お兄ちゃん、大丈夫?」そう声をかけながらおそるおそる扉を開けると、ベッドの脇に腰を下ろし、落ちた皿の破片を拾おうとしている遼一の姿が目に飛び込んできた。「お兄ちゃん、私がやるから。ゆっくり休んでて」そう言って彼の枕を整えると、明日香は一度部屋を出て、外からほうきを持ってきた。床に散らばった破片を丁寧に掃き集め、何度か掃いても残った細かな汚れは、ティッシュで丹念に拭き取っていく。遼一はベッドの上から、じっと明日香の後ろ姿を見つめていた。目を細め、どこか戸惑いを含んだ表情で、思案に沈んだ。自分の目で見なければ信じられなかった。明日香が、こんな雑事に手を染めるなんて。以前の彼女なら、決してしなかったことだ。何が、彼女をここまで変えてしまったのか。いや、何かがあったに違いない。そうでなければ、この変化は説明がつかない。思い当たる節はある。すべては、自分のせいだ。大学を卒業して間もなく、明日香は遼一と結婚した。あれから八年。彼の会社は着実に成長し、帝都でも名の知れた企業となった。政財界に顔が利き、誰もが一目置く存在になったその裏で、明日香はただ、家で夫の帰りを待つだけの生活を送っていた。専業主婦とはいえ、家には家政婦がいた。時間を持て余した彼女は、じっとしていられず、さまざまなことに手を出すようになった。何もしないでいると、どうしても余計なことばかり考えてしまうから。掃除をして、庭の花に水をやり、近所の奥様たちとお茶会を開いてみたり、エステやジムにも通い始めたことがある。けれど、その自由も長くは続かなかった。初めてエステの帰りに帰宅した日、遼一は彼女に言ったのだ。「恥をかかせるな、家にいろ」と。彼が嫌っていたのは、彼女の外出そのものではない。自分の所有物が、他人の目に晒されることを忌避していたのだ。ジムでは、身なりの整った若い男たちに声をかけられたこともあった。でも、遼一は知らない。明日香が出会った男たちの中で、彼に匹敵するような存在はひとりとしていなかったことを。それからの明日香は、自らを籠の鳥のように
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第35話

「気にするわけないでしょう?むしろ、君がこんなに大人びて、俺のことを気遣ってくれるなんて......」遼一はそう言って手を伸ばし、彼女の髪をそっと撫でた。明日香はふわりと微笑んで、「お兄ちゃんが病気なんだから、私が面倒見るのは当たり前でしょ」と当たり前のように言った。スプーン一杯分のお粥をすくって遼一の口元に運ぶと、彼は素直に口を開けて飲み込んだ。遼一の世話をするのは、もはや明日香にとって日常の一部となっていた。だからこそ、もしも彼の視線が、ただ食事をする間だけでも自分から外れていたならば、明日香の心に波風は立たなかっただろう。本当は、さっさと食べさせて、この場を離れたかった。けれど、たった一碗のお粥に、十五分、二十分もかかってしまった。遼一はひどくゆっくりと口に運び、合間に何度も咳き込む。明日香にはどうすることもできなかった。そのときウメが戻ってきて、明日香はまるで救い主を見たかのような顔をした。「遼一様、まずは熱を測りましょう」体温計を口に入れ、しばらくして取り出すと、すでに熱は三十九度に達していた。「こんなに高い熱......遼一様、病院に行かれたほうがいいですよ!」ウメの声には焦りがにじんでいた。だが遼一は眉ひとつ動かさず、「病院は面倒だ。まずは薬で様子を見よう」と、あっさりと言った。「では、我慢できなくなったらすぐに明日香さんに伝えてくださいね。こんなにお悪い状態だと旦那様に知られたとき、きっとお叱りを受けますから」その言葉に、明日香はふと視線を落とし、わずかな違和感を覚えた。自分という娘よりも、父・康生は義理の息子である遼一の方を大切にしている。その事実を、あらためて突きつけられたようだった。康生の怒りを恐れ、そしてウメに迷惑がかかるのを避けたくて、明日香は慌てて口を開いた。「ウメさん、大丈夫。自分を責めないで。私がここにいるから、用事があるなら行ってきて」「そうですね。では、明日香さん、三十分経ったら遼一様に薬を飲ませてくださいね。たくさんお湯を飲んで、汗をかけばきっと良くなりますよ」それは彼女にとって、聞き慣れた言葉だった。明日香は小さくうなずき、「わかった、覚えておく」と答えた。ウメが部屋を後にすると、明日香はすぐに遼一の世話を始めた。彼の布団の上に置かれていたパソコン
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第36話

あまりにも生々しい夢だった。遼一は汗びっしょりで目を覚ました。まぶたを開けたというのに、明日香を失った痛みはまだ胸の奥に居座ったままだ。悲しみ、抑圧、心が引き裂かれるような、どうしようもない痛み。そのすべてが、遼一の呼吸を浅く、苦しいものにしていた。夢に過ぎない。たかが夢だというのに、なぜこれほどまでに胸を締めつけられるのか。それ以上に不可解だったのは、夢の中で明日香が死んでいたことだった。しかも、自分も彼女のあとを追うように、悲しみに耐え切れず命を絶っていたなんて。そんな、馬鹿げた話があるか。「遼一さん、お目覚めになりましたか?」耳元に、そっと差し込むようなやさしい声が届いた。珠子だった。遼一は壁の時計に目をやった。針はすでに午後を指していた。窓の外も、もうすぐ闇に沈みそうな色をしている。まさか、こんなにも長く眠っていたのか。ふと、珠子の目尻が赤く染まっているのに気づいた。つい先ほどまで泣いていたのだろう。「珠子......学校じゃなかったのか?」問いかけると、珠子は少し唇を尖らせて、寂しげに答えた。「遼一さん、忘れちゃったんですか?金曜日の放課後、迎えに来てくれるって約束してたのに......待っても来ないから、中村さんに電話してみたんです。そしたら、遼一さんが体調を崩されたって聞いて、急いで来たんですよ」「......すまない、忘れてた」遼一はゆっくりと目を閉じ、深く息をついた。あの夢が現実のようで、まだ心が追いついていなかった。「遼一さん、体調......大丈夫ですか?お水、お持ちしましょうか?」「いや、大丈夫だ」「......はい」珠子は、それ以上何も言わず、ただ遼一の手をそっと握った。どこか苦しげな彼の表情に胸を痛めながら、寄り添うように座った。そのとき、ドアをノックする音が静かに響いた。遼一はうっすらと目を開け、扉の方を見やった。「入ってくれ」「遼一様、お食事のお時間です。お加減はいかがでしょうか?」現れたのは、ウメだった。なぜだろう。彼女の姿を見た途端、遼一の胸が、また重くなった。「少し良くなった。明日香は?」「明日香さんは、階下でお食事中です。お呼びしましょうか?」明日香?なぜ、自分は今、彼女の名を口にした?気の迷いか、それと
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第37話

ウメにとって、あまりにも理不尽だった。「こんなことがまた起こったらな......おじいさんの世話をしてやった情けも忘れて、お前を月島家から追い出すぞ」「はい、ご主人様」ウメはそう答えた。 康生は手にしていた藤の棒を床に叩きつけるように投げ捨て、怒りに震えながら二階の部屋へと足早に消えていった。明日香は黙ってウメの手を取り、部屋に戻って手当てを始めた。あの一撃、どれほど痛かったことだろう。ウメは何十年もこの家に忠実に仕えてきた。それなのに、どうしてあんなひどいやり方ができるのか。手当てを終えると、ウメは逆に明日香の頬をそっと撫でて慰めた。「バカね。何を泣いてるんですか。私は平気よ、大丈夫」「でも......あの人がウメさんを殴ったのよ!信じられない、最低だよ!どうしてあんなことができるの?」その瞬間、ウメの目に鋭い光が宿った。「黙りなさい」静かな声だったが、有無を言わせぬ力があった。「明日香、あの方はあなたのお父様です。どれほどつらくても、口にしていいことと悪いことがあるのよ」明日香は俯いたまま、何も言い返せなかった。「......わかった、ウメさん。もう二度と口にしない」部屋へ戻る途中、門の前に一台の車が停まっているのが見えた。助手席には赤いセクシーなドレスを着た女性が座っている。顔ははっきり見えなかったが、横顔の輪郭だけで、明日香にはその女性が江口だとわかった。彼女は車内で鏡に向かい、化粧直しをしているようだった。少しして、康生が遼一と何やら言葉を交わし、そのまま車に乗って去っていった。やっぱり、あの江口が康生を骨抜きにしてるんだ。彼女が現れてから、康生はほとんど家に帰ってこなくなった。明日香はそっとカーテンの影に身を潜めた。車が動き出すとき、江口がこちらを一瞬見たような気がしたが、気づかれたのかどうかは分からない。遼一はは異常なまでに慎重で疑り深い。もし疑いを持たれたら終わりだ。遼一と真理が手を組んでいるのは、明日香には分かっていた。彼のやり口は容赦がない。一度でも敵と見なされれば、二度と許されることはない。気づかないうちに、どうやって殺されるかも分からない。明日香は爪を噛みながら、部屋の中を行ったり来たりした。生き延びるためには、遼一の疑念を晴らさなければいけな
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第38話

明日香は冷蔵庫からコップ一杯の水を汲むと、そのまま足早に二階の自室へと戻っていった。珠子はその背中を見送りながら、どこか落ち着かない面持ちでつぶやいた。「私......今すぐご飯、持っていこうか。明日香さん、気を悪くしてるんじゃないかって心配で......」遼一は甘えるように彼女の髪を撫でながら、「俺が行くよ」と、立ち上がった。珠子は唇を噛み、言葉を飲み込んだ。本当は、遼一と明日香を二人きりにしたくなかった。でも、自分が明日香の前に出るのも怖かった。明日香はベッドに横になり、伸ばした指で照明を消そうとした瞬間、突然、ドアのロックが外れる音がして、遼一が何の断りもなく部屋に入ってきた。遼一のことを特別嫌っているわけではない。けれど、ノックもせずに勝手に部屋に入ってくるその癖だけは、明日香にはどうにも不快だった。「珠子が作った団子スープ、すごく美味しかったよ。明日香も、どう?」「私......」言葉をつなぐ前に、遼一はもうベッドの端に腰を下ろしていた。彼が放つどこか冷たい香りが、明日香の心臓を強く打たせた。スプーンで碗の中のスープをゆっくりかき混ぜながら、彼はふっと微笑んだ。「自分で食べる?それとも、食べさせてほしい?」「自分で食べる」熱を帯びた碗が指先を痺れさせるほどだったが、明日香は一言も声を上げなかった。遼一の視線は、どこまでも冷ややかだった。「明日香......最近、何かあった?お兄ちゃんのこと、何か誤解してるんじゃない?だから避けてるんだろう?」その声は穏やかに聞こえるが、言葉の端々にじわりと圧力が滲んでいた。「もし何かあるならさ......話してくれないか?お兄ちゃん、誤解されたままじゃ悲しいよ」明日香の手の中のスプーンが、小さく震えた。「......別に。何も」言葉では平静を装ったものの、心臓は喉元までせり上がりそうだった。そのとき、遼一がポケットから携帯電話を取り出し、ロックを解除して一枚の写真を明日香の前に差し出した。「明日香。こっそり......何を見てたの?」その一枚の写真を目にした瞬間、明日香は目を見開き、体がびくりと震えた。そして、手にしていた皿をひっくり返し、団子スープが布団に盛大にこぼれた。遼一の表情は冷酷だった。何かを認めさせようとするような、
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第39話

「今は大学受験も近いし、あなたの気持ちを乱したくないんだ。なるべく気が散らないようにしてあげたい」遼一のその言葉に、明日香は弱々しい声で返した。「実はね、私も......江口先生のこと、本当に好きなの。いつも学校で私のことを気にかけてくれてたから......もし先生が本気でお父さんと一緒になりたいなら、私は受け入れる。もう覚悟はできてるから」言い淀んで、少し息を飲み込んだあと、明日香は続けた。「それに、江口先生、私の受験のことは心配しなくていいって伝えて。もう志望校、決めたから」「そうか?お兄ちゃんにも教えてくれないか?」遼一が問いかけると、明日香はまっすぐ彼を見て言った。「朔良教育大学を受けたいの。教師になりたいから。卒業したら、地方や田舎に行って教育支援をしたいって思ってる」遼一の漆黒の瞳がわずかに揺れた。彼は伏し目がちの明日香をじっと見つめながら、低く呟いた。「朔良、か......ここから帝都までは何百キロも離れてる。飛行機でも数時間はかかる距離だ。明日香、そんな遠くの町に行ってほしくない。どうしてわざわざ、そんな遠くに?」望まない?違うわ、遼一。あなたが望んでないんじゃない。ただ、私があなたの支配から逃れるのが許せないだけ。拷問みたいな日々から解放されるのが、我慢ならないのよね。明日香は、あらかじめ胸の内で何度も繰り返した言葉を、静かに口にした。「ウメさんに聞いたの。お母さんって、都会の有識青年で、教育支援の仕事で地方に来て、そこで父さんと出会ったんだって。だから、私も......お母さんと同じように、教師になりたいの。人に何かを教えるって、素敵なことだと思う。それに教師を目指すなら、やっぱり一番いい教育大学に行きたいと思って。帝都の大学も調べたけど、やっぱり朔良の方が良さそうだった。お兄ちゃん、私のこと応援してくれるよね?お父さんにも、ちゃんと説得してくれる?」明日香は、すがるように遼一の手を握った。「ねぇ、お兄ちゃん......お願い」遼一の眉間に、かすかな皺が寄った。その黒い瞳の奥に、一瞬、倦んだような色が浮かぶ。やっぱり触られるのは、嫌いなんだ。明日香は、それとなく手を引っ込めた。遼一は眉をひそめたまま、重い口調で言った。「朔良に行く件だけど、本気で行きたいなら、
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第40話

明日香は、遼一が去っていく背中を静かに見送った。扉が閉まったのを確かめてから、胸に手を当てる。高鳴る鼓動が、まだ落ち着かない。このやり取りで、彼の疑念は消えただろうか。彼女はそれとなく伝えた。大学入試が終われば帝都を離れ、遥か遠くの朔良へ行くつもりだと。そして、大学を卒業した後は地方に赴き、教育支援に身を投じるつもりであると。それはつまり、遼一が進めようとしている月島家への復讐。その計画の邪魔をしないという意思表明でもあった。彼にとって、彼女はもう透明な存在。遠ざけるべき異物でしかない。ならば、この家を出てしまえば、それで役目は終わる。明日香はもう、二度と戻ってこない。視線を落とすと、布団の汚れが目に入った。ため息が漏れた。これも遼一の仕返しか。つい先ほど、新しい布団とシーツに替えたばかりだったのに。夜中に布団がないって、どんな気分か味あわせたかったのかもしれない。クローゼットの中にある布団は、もう半年以上も干してもいなければ、洗ってもいない。ほこりアレルギーのある明日香がそれをかぶれば、即病院送りだ。なんて根に持つ男なんだ。ほんと、ケチ!とりあえず、汚れた布団は床に置いておいて、明日洗うことにした。それから厚手の上着を取り出して体に掛け、明かりを消してベッドに横たわった。翌朝。雲ひとつない、すがすがしい快晴。明日香は伸びをしながら目を覚ました。頭痛も鼻づまりもない。体が軽い。不思議に思って目をやると、灰色の縞模様の布団が掛けられていた。驚いて跳ね起きる。その柄は、遼一の布団にしか見覚えがない。まさか......昨夜、彼がこっそりこの部屋に入ってきた?一瞬、背筋が凍る。顔がさっと青ざめ、頭に鈍い衝撃が走った。最近、遼一がこの部屋に来る頻度が増えている。鍵をかけたはずなのに、どうして......?これは本当に、良くない兆候だ。明日香は苛立ちまぎれに髪をかきむしった。その時、扉をノックする音がして、ウメが顔をのぞかせた。「明日香さん、もう起きてください。旦那様がお食事をお待ちですよ」「え......お父さん、帰ってきたの?」「ええ。しかも、女性もご一緒でして......」ウメの表情が一瞬曇ったが、すぐに引き締めて、続けなかった。「とにかく、急いで支度を」「うん、わかった」明日香は
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