All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

「去年の共通テストの合格ラインは800点くらいだったから、私もきっと大丈夫だと思うの」そう言って、明日香は控えめに笑った。そのとき、康生が冷ややかな声を返した。「帝都に残るか、大学に行かないか、どちらかだ。大学に行って、何の意味がある?どうせ結婚するんだ。数日後にパーティーがある、一緒に来い。ちょうどお前に興味を持ってるおじさんたちがいる」そんなことを言い出すのは予想していた。前世でも康生は女を見下していた。彼にとって女性は子を産むための道具であり、結婚したら家にこもり、夫や子供の世話をするのが当たり前だと思っていた。「お父さん、今は昔と違うのよ。私の友達の中にはもう海外に留学してる子もいるし、静香のことだって知ってるでしょ?」康生が顔を上げた。「村田昌平(むらだ しょうへい)の娘か?」「そう。静香は今IELTSの準備をしてて、留学したらそのまま海外に住んで、国籍も変えるつもりなんだって。それに比べたら、私が朔良に行くなんてまだいいほうでしょ?休みになったら帰ってこられるんだし。いつか誰かに学歴を聞かれたとき、『高校卒業だけ』だったら笑われるよ。私が笑われるのは別にいいけど、お父さんの顔に泥を塗るわけにはいかないの」康生が何よりも気にするのは体面だった。彼は田舎出身で、自分に教養がないことを自覚していた。本も読まなければ、会社のこともすべて遼一に頼りきりだった。だからこそ、明日香の言葉は彼の胸の奥を的確に突いた。康生は不満そうに眉をひそめた。「どうしても朔良を受験したいのか?」明日香は素直にうなずき、できる限り従順な口調で答えた。「お父さんが心配してくれるの、ちゃんとわかってる。でもね、私が朔良に行けば、おばあちゃんのお世話ができるの。約束する、絶対に迷惑はかけない」祖母の存在は、明日香にとって最後の切り札だった。康生はどうしようもない男だが、親孝行だけは欠かさなかった。ここ数年、帝都に祖母を呼び寄せようと必死だったのだ。けれど祖母は頑として動かず、朔良の田舎で余生を過ごすと決めていた。康生も心配していたのか、毎年お盆になると欠かさず朔良に帰っていた。「私が説得して、連れて帰れるかもしれないし」康生は黙って考え込んだ。その沈黙を破ったのは江口だった。紅い唇をふっとゆるめ、笑み
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第42話

家の部屋数は、決して多いとは言えなかった。康生は昔から一人で眠るのを好み、二階の書斎と主寝室には誰も足を踏み入れることが許されなかった。三階はかつて明日香と遼一の部屋として使われ、四階は珠子の部屋だった。そして今、三階の部屋を明け渡すことになった彼女は、やむなく五階の部屋へ引っ越すこととなった。最上階だ。けれど、五階にはひとつだけ、どうしても気に入っている点があった。それは、静寂に包まれていること。そして、広々としたバルコニーがあり、花を育てたり、夜景を眺めながらお茶を楽しんだりできるのだ。一日中この部屋にいても、きっと飽きることはないだろう。明日香は鎮痛剤を数錠口にし、水で流し込むと、さっそく部屋の片づけに取りかかった。そのとき、ウメが入ってきて、どこか不満げな表情を浮かべた。「あの方が引っ越してきたからって、明日香さんがわざわざ部屋を譲る必要なんて、ないと思いますけど」明日香はウメの手をそっと握り、ふんわりと微笑みながら、慰めるように言った。「この部屋は、誰が住んでも同じなのよ。むしろ、私は五階の部屋の方が好き。上にはお母さんの描いた絵がたくさんあるでしょう? それに、お母さんの写真も飾ってあるから、あそこにいれば夢に出てきてくれるかもしれない。ここ数年、一度も夢で会ってないの」そこは明日香にとって、母にもっとも近づける場所でもあった。ウメはどこか切なげな表情を浮かべ、明日香の手をぎゅっと握り返した。「明日香さんは本当にしっかりしてるのね」「だって、もう大人だもの。ウメさん、こう見えてもね、私、いろんなこと、ちゃんと知ってるんだから」もう少し、時間が欲しい。そうすれば、必ずウメをここから連れ出してあげられる。明日香は服を畳みながら、日用品を運び始めた。まもなく家政会社のスタッフがやって来て、彼女の使っていた部屋の古い家具をすべて取り払い、ピンク色だった壁を白い壁紙で覆っていった。二時間も経たないうちに、少女らしい雰囲気をたたえていた部屋は、すっかり別の空間へと生まれ変わった。さらに、有名ブランドのオーダーメイド会社から、大量の洋服やスカートが運び込まれた。康生は恋人に対して、決して吝嗇ではなかった。明日香が知る限りでも、康生は三年間付き合った大学生の彼女に、飽きたあとはマンションを一棟プ
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第43話

明日香は目を細めて、ふんわりと微笑みながら言った。「少しも辛くないわ」そもそも部屋を譲ったのは、遼一と江口が気兼ねなく話せるようにしてあげたかったから。「何か必要なことがあったら、お兄ちゃんに言ってね」「わかった」遼一が去った後、明日香は階下から電気ケトルを持ってきた。これで水を飲むためだけに、いちいち下に行かずに済む。そうしておけば、遼一や江口と顔を合わせる機会も自然と減る。気がつけば、時間はあっという間に過ぎていた。江口はもう何日も月島家に滞在していた。遼一は病気が治ると、珠子を連れて家を出て行ったきり戻ってこない。この家で、明日香が江口や康生と顔を合わせることは滅多になくなった。彼らはほとんど帰ってこない。明日香は、ほとんどの時間を一人で過ごしていた。家で七、八日ほど静養してから学校に戻ったが、案の定、江口の授業は大幅に減っていた。江口が教えるのは音楽。受験に直結する専門科目とは関わりが薄く、学校でも顔を合わせる機会はほとんどなかった。明日香も再びクラスに戻り、二日前に受けた模擬試験の結果が次々と発表され始めた。これらの小テストは、すべて各教員が独自に作成したものだ。明日香はすでに三教科で良い成績を収めており、文系科目の平均はほぼ100点、理系も90点台。これだけの点数があれば、朔良教育大学に合格するには十分だ。これ以上、必死に頑張ってもあまり意味はない。副担任がクラスの順位を発表したとき、明日香は五位だった。クラス中が驚きの目で彼女を見つめた。「先生、本当ですか?下から五番目じゃなくて?」誰かが冗談とも本気ともつかぬ声でそう呟くと、副担任は咳払いをしてから言った。「月島さんの最近の努力は、君たちも見ているはずだ。皆も彼女を見習うべきだよ。確かに、皆の家柄は悪くないだろう。だが、知識は努力して得た人間のものだ。お金ではどうにもならないこともある。さて、成績発表はここまで。これからは自習にする。月島さん、ちょっと来なさい」明日香は、数学のカバーをかけた恋愛小説をそっと机に置き、おずおずと席を立った。教室の外に出ると、副担任が待っていた。「先生、何かご用ですか?」担任は不在で、今は四十代の眼鏡をかけた副担任がクラスを見ていた。「江口先生から聞いたんだが、クラスを変えたい
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第44話

明日香は最後の授業を休んで、静水病院へと向かった。タクシーが病院の正面で止まり、明日香は白菊の花束を抱えて車を降りた。どんな花が好きなのかなんて、淳也のこと、よく知らない。けれど他に選択肢はなかった。花屋に着いたとき、残っていたのはこの白菊だけだったのだ。仕方なく五千円を支払い、店主に丁寧にラッピングしてもらった。受付で病室を尋ね、エレベーターで十二階へと上がる。そのときだった。「何見てんの?」サングラスに露出の多い服を身にまとった江口が、遼一の腕に絡みついていた。遼一は一瞬視線を彷徨わせたが、すぐに表情を消して目を戻した。今の、明日香じゃないか?エレベーターに滑り込んだ明日香は、閉まりゆく扉を見つめながら、胸元にそっと手をあてた。遼一、気づいてないよね......?まったく、あの二人もよくやる。ここは病院だっていうのに。人目も多いのに、もし康生にバレたらどうするつもりなんだろう。お願い、見られていませんように。ほどなくして、エレベーターは目的の十二階に到着した。花束を抱えたまま廊下を進むと、車椅子を押す中年の男性とすれ違う。乗っていたのは十九歳くらいの少年で、まるで漫画から抜け出してきたような整った顔立ちだった。手の甲から腕の奥へと続く青いタトゥーが覗き、どこか神秘的な、冷たく人を寄せ付けない雰囲気を纏っている。思わず何度も視線を送ってしまったが、すれ違った途端、明日香は慌てて目を逸らした。だが、その直後だった。車椅子を押していた男性が立ち止まり、ちらりと振り返った。彼らがちょうど出てきた病室に明日香が入っていくのを見て、男は小声で報告した。「若様、明日香さんが淳也様の病室に入りました。どうやら、あなたには気づいていないようです」前髪に隠れた樹の瞳が、陰鬱な光を宿して細められた。「......明日香が帰ったら、淳也を別の病院に移せ。今度こそ、誰にも邪魔されないように見張っておけ」「かしこまりました、若様」エレベーターに向かっていた樹の耳に、遠くの病室から怒声が届いた。床に放り投げられた白菊の花束。「明日香!俺はまだ死んでねえっての!よりにもよって菊なんか持ってきやがって......呪う気か!」明日香は思わず一歩、後ろへ下がった。投げつけられたガラスのコップが目の
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第45話

病室から、またしてもガラスのコップが投げつけられた。甲高い音とともに、怒りに満ちた怒鳴り声が響き渡った。「明日香、君はいつまでこんなことを続けるつもりだ!」思わず誰かに引っ張られた明日香のすぐ横を、砕け散らんばかりの勢いでコップがかすめていく。顔を上げると、すぐ隣に立っていたのは遼一だった。「お兄ちゃん?どうして病院に......?」驚きで声が上ずる明日香に、遼一は上から下までじろりと目を走らせた。「大丈夫か?怪我はないか?」「平気よ。入った途端、すぐ追い出されたから。あんな状態の淳也くんじゃ、私にできることなんて何もないし。お兄ちゃん、体調悪いの?」「いや、ちょっと胃の調子が悪くて診てもらおうと思ってな」遼一は眉間に皺を寄せたまま、じっと明日香を見つめた。「......君は、わざわざ淳也に会いに来たのか?」その問いに、明日香は一瞬言葉を失い、ようやくの思いで口を開いた。「お兄ちゃん......淳也くんが殴られたって、本当にお兄ちゃんがやったの?」遼一の顔に、さっと影が差した。「君まで、俺のことをそんなふうに疑うのか?」遼一じゃない?じゃあ、いったい誰が?もし遼一がやったのなら、きっと隠したりしない。逆に、彼でなければ絶対に認めるような真似もしない。「違う、そうじゃないの......」遼一の険しい表情に気圧されながら、明日香はあわてて取り繕うように言った。「お兄ちゃんが、私のためを思ってやってくれたのかと思っただけ。でも、違ったんだよね......」「つまり、俺が君のために仕返しをしなかったことを、責めてるのか?」その言葉に、明日香はびくりとして手を横に振った。「違うよ、そんなつもりじゃ......」「冗談だよ。そんなに緊張するな。学校まで送ろうか?それとも、直接家に帰る?」「ううん、大丈夫。先生にお休みもらってるから、これからピアノのレッスンがあるの。歩いて行ける距離だし、そんなに遠くないから」遼一はちらりと腕時計を見て、軽く頷いた。「そうか。じゃあ、気をつけて行きなさい。レッスンが終わったら運転手に電話しろよ、ふらふら歩き回るんじゃないぞ」「うん」明日香は小さく頷いた。けれど、正直に言って、遼一と一緒に行動する方が、よっぽど危ない。眉間を押さえ、じ
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第46話

遼一の背中を見送るように、明日香はバス停の前に佇んでいた。身にまとっているのは、まだ帝雲学院の制服。胸元に輝くのは、金色の盾に騎士が馬上から矢を放つ意匠の校章。ひと目でそれと分かる、誇らしい印だった。往来の多い通りに立ち尽くす彼女は、その端正な顔立ちも相まって、目立たぬはずがなかった。不穏な視線に気づかぬふりをしても、悪意は容赦なく忍び寄る。その時だった。三人のチンピラが、ふらりと近づいてきた。当時はまだ街中には監視カメラもほとんど設置されておらず、治安管理は今に比べれば遥かに遅れていた。技術も現在と比べるとずっと未熟で、ようやく芽を出した程度。何かが起きても証拠は残らず、逃げ切れれば、それっきり見つからないような時代だった。男たちの気配を察し、明日香はそっと目を伏せた。ただ、彼らが通り過ぎてくれることを、心の底から願うしかなかった。ついていない時は、いつだって選ばせてはくれない。「おいおい、お嬢ちゃん。どこへ行くの?兄ちゃんたちが、送ってやろうか?」「へぇ、帝雲の生徒か。あの学校ってことは、家は金持ちか、それなりの家柄のお嬢様ってとこか?なぁ、ちょっと小遣い、恵んでくれよ」三人はあっという間に明日香を取り囲み、逃げ道を塞いだ。通行人たちは見て見ぬふりを決め込み、誰一人として助けようとはしない。震える指先でリュックから黒い女性用の財布を取り出したその瞬間、それはあっさりと奪い取られてしまった。「おいおい、こいつ、けっこう持ってんじゃねえか!」チンピラの一人が財布を開け、中から現れた札束に目を輝かせた。「学生証もあるぞ?」もう一人の男がそれを取り出し、名前を目にした瞬間、わずかに表情を変えた。三人は一瞬、互いに顔を見合わせた。そして明日香を見る目が、下卑た欲望に濁ったものへと変わっていった。「早く帰ってきたと思ったら、運がいいな、お嬢ちゃん。ちょっと俺たちと遊んでいかねぇか?」その言葉とともに、一人の手が彼女の肩へ伸びた。通りの向こう側。江口は窓際にもたれかかりながら、額に手を当て、隣の男の顔を楽しげに覗き込んでいた。「ねぇ、助けに行かないの?やめといたほうがいいわよ。そうすれば、私たちのこと、バレずに済むじゃない?」江口は遼一の腕にしなだれかかりながら、遠くの騒動を眺めていた。明日香の美しさ
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第47話

彼も、思っていたほど怖くはなかった。笑った顔が、とても素敵だった。「大丈夫。怖がらなくていいよ。どこへ行くのか、送っていこうか?」明日香は手の甲でそっと涙を拭った。「いえ、大丈夫です。家の運転手がすぐに来ますから......」少年は穏やかに微笑んだ。「お安い御用さ。一緒に待とうか。君、帝雲高校の生徒?」明日香は小さく頷いた。「はい......」「これは君の財布だよ」ボディーガードがチンピラのポケットから財布を取り出し、両手で丁寧に明日香へ差し出した。さっきの出来事があまりに怖すぎて、明日香は三人がどこへ連れて行かれたのか、まるで記憶に残っていなかった。「中身、ちゃんとあるか確認してみて」少年に促され、明日香は財布を開けて身分証と学生証を確認した。「全部あります。何もなくなっていませんでした。さっきの人たちは......どこへ?」「二度とこんなことが起きないよう、警察に引き渡した」その時、少年は明日香の破れた制服に気がついた。「君の服......」明日香はハッとしてうつむき、襟元を慌てて押さえた。大きく開いたその隙間から、雪のように白い肌が覗き、うっすらとブラジャーまで見えていた。途端に、顔がかっと熱くなる。二度の人生を足せば、少年の祖母になってもおかしくない年齢なのに、それでも、こんな状況ではやはり恥ずかしかった。そのとき、車の窓から少年が黒い上着を差し出してきた。「車に予備で置いてあったやつだ。まだ一度も着てないから、清潔だよ。気にしないなら羽織って。見られたくないでしょ?」明日香は唇を噛み、彼の手の甲にある刺青と上着を交互に見つめた。少し迷った末に、そっと受け取った。「あ、ありがとうございます。後で返します。ご住所を教えてください。明日、お返しに伺います」「いいよ、そのまま着てて」「でも......」その時、運転手がバックミラーに映ったベンツを見て、小さく声を上げた。「あ......あの車、お屋敷のものでは?」明日香もそれに気づき、頷いた。「ええ」何か言おうとした瞬間、ベンツはすでにその場を離れていた。運転手が車を明日香の前に停め、窓越しに心配そうな顔を向けた。「お嬢様、どうなさいました?何かありましたか?」「何でもないの。ただちょっと転んで、制服
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第48話

樹はちょうど明日香とは反対の方向へ車を走らせていた。だが、前方の信号でUターンを切ったその瞬間、彼女からのメッセージが届いた。【樹くん、どこにいるの?】彼は常に携帯を手放さず、明日香からの連絡を心待ちにしていた。彼女のメッセージには、いつも即座に返信する。それが彼の習慣だった。だが、このときばかりは、彼は黙って携帯の電源を切った。運転席から、運転手がバックミラー越しに静かに尋ねた。「明日香さんからですか?何か気づかれたのでしょうか」「多分......でも、もう騙したくない」否定も肯定もせず、ただぽつりとそう言うと、視線を窓の外へと戻した。もう少し時間が経てば、きっと自分が立ち直ったときに、ようやく本当の自分を彼女に見せることができる。壊れたままの自分じゃなく、誇れる姿で。運転手が言葉を選びながら口を開いた。「もしかすると、明日香さんは、気にされないかもしれませんよ?」「彼女がどう思おうと、僕が気にするんだ。まずは家に帰るよ」言い終えると、樹は疲れたように目を閉じた。さっきは、本当に危なかった。もし病院の前で待っていなかったら。もし、あのまま立ち去っていたら。明日香がどんな目に遭っていたか、考えるだけで寒気がする。やがて目を開くと、そこには氷のような光が宿っていた。「あの三人、署に連絡を入れておけ。僕の許可があるまで絶対に釈放するな」「承知しました」一方、明日香はしばらく返信を待ってみたが、何も返ってこなかった。結局、それ以上メッセージを送ることもなく、胸に微かな違和感を残したまま携帯を閉じた。やっぱり......さっきの少年は、樹ではなかったのかもしれない。もし本当に彼だったなら、なぜ自分に名乗ろうとしなかったのだろう?そう思いながら、明日香はスカイタワーにあるピアノ教室へと足を運んだ。選んでいたのは、講師とのマンツーマンレッスン。今日弾く曲は、もう百回以上繰り返し練習したものだったから、指が自然に鍵盤の上を滑る。およそ三時間の練習を終えると、すっかり空は暗くなっていた。迎えの車が到着したが、運転席にいたのはいつもの加藤ではなく、遼一だった。長時間の練習で指の関節が少し痛む。窓がスッと開いたその瞬間、明日香は一歩を踏み出せず、躊躇した。どうして、遼一がここに?自分を責めに来たの?病院であのこ
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第49話

「ううん。お兄ちゃんが心配してくれるのに、鬱陶しいなんて思うわけないよ」遼一は、明日香の服装にふと目を留めた。それはぶかぶかで、明らかにサイズが合っておらず、見慣れないデザイン。どう見ても男性用のものだった。「今日は制服じゃないんだな」その言葉に、明日香は自分の服に目を落とし、はっと気づいた。しまった。着替えるのを忘れてた。「き、着てたんだけど......制服のボタンが壊れちゃって。これは借りた服なの。後で返さなきゃ」「誰から?男か?」問いに、明日香は隠すことなく頷いた。「うん」遼一は口元をゆるめたが、その笑みに感情の色は乏しく、どこか冷え冷えとしたものがあった。「どうやら明日香、恋をしてるみたいだな」「ち、違うよ......」明日香は慌てて否定した。「ただのクラスメートの友達なの」「女の子が恋をするのは、別に悪いことじゃない。思春期には、好きな人ができて当たり前だ。もしこれから恋愛で悩むことがあったら、いつでもお兄ちゃんに相談してくれていいんだぞ」「うん......ありがとう、お兄ちゃん」遼一と話す時、明日香はいつも心に警戒心を張り巡らせていた。少しでも気を抜けば、彼のペースに巻き込まれてしまう。優しさの皮をかぶった罠に、ずるずると引き込まれてしまいそうで。南苑別荘。遼一が車をガレージに滑り込ませると、明日香はすぐにでもドアを開けて逃げ出したかった。だが、ドアのロックはまだ解除されていなかった。ドクン、と胸の奥が強く鳴った。瞬時に身体がこわばった。そのとき、不意に遼一が身を乗り出してきた。男性特有の香り――それに混じって、彼の身からほんのりと椿の香りが漂ってくる。「お兄ちゃん......まだ、何かあるの?」明日香の問いかけに、遼一は黙ったまま手を伸ばし、そっと彼女の頬に触れた。そして親指の腹で、明日香の唇をなぞった。うっすらと色づいた唇に、彼の指先が淡いピンクを帯びた。明日香は硬直したまま動けず、瞳にははっきりと恐怖の色が浮かんでいた。「リップ、つけてたのか?」「ううん、これは......色つきのリップバームで、自分で買ったやつ......」遼一が何を考えているのか、明日香にはわからなかった。ここ数日、彼を怒らせるようなことはしていないはずだ。むしろ、極力関わらないようにしてき
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第50話

遼一の視線がふと逸れたその瞬間、明日香はハッと我に返り、思わず彼の胸を強く突き飛ばしていた。「ダメ!」心臓が、鼓膜を破りそうなほど激しく打ちつけた。遼一はゆっくりと身を起こし、どこか諦めを湛えたような、それでいて明日香には理解し難い色を瞳に宿して呟いた。「......明日香も、お兄ちゃんを拒むようになったんだな」明日香は黒のプリーツスカートの裾を、強く握りしめた。「お兄ちゃんは、お兄ちゃんだって言ったでしょ。だから......もう、変なことしないで。珠子さんが知ったら、きっと悲しむわ」二股をかけていたのよね。前世、私が家であなたの帰りを待っている間、あなたは車の中で、別の女とこんなことをしてたの?遼一への想いは、明日香の中からすでに消え失せていた。彼が愛しているのは、珠子だけ。たとえ葵が珠子に少し似ていたとしても、遼一にとって彼女は、ただの出産のための道具でしかなかった。あんなにも心を捧げたのに。結局は惨めに、踏みにじられただけだった。恐怖が、じわりと胸の奥に広がっていく。遼一の目が冷たく沈んだ。「明日香も大人になったな。すまない、軽率だった。前のことも、謝るよ」「いいえ、もう忘れました」「そうか......じゃあ、なかったことにしよう」遼一がロックを外すと同時に、明日香は素早くドアを開け、逃げ出すように車を降りた。玄関に足を踏み入れたとき、ちょうど江口が紫のセクシーなネグリジェ姿で階段を降りてくるのが見えた。「明日香、今帰ったの? お父さん、今夜は接待で帰らないのよ。ちょうどいいわね、一緒に夕飯どう?」食事なんて、とても無理だった。江口の姿を見るなり、今日、彼女と遼一がどこで情事にふけっていたのかが脳裏に浮かび、吐き気を催すほどの嫌悪感がこみ上げてくる。胃がきりきりと痛んだ。断ろうとしたその刹那、背後から遼一の声が響いた。「鞄、忘れてない?」江口の視線が、入口に立つ遼一へと向けられた。「遼一、会社行ってなかったの?ちょうどご飯できたのよ。退屈だったから手作りしてみたの。ねえ、味見して?」江口が振り返ると、明日香がその場に立ち尽くしているのに気づき、意味深な笑みを浮かべた。「どうしたの? ぼーっとしちゃって。さ、座って食べましょうよ」逃げられない。そう悟っ
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