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第39話

Author: 無敵で一番カッコいい
「今は大学受験も近いし、あなたの気持ちを乱したくないんだ。なるべく気が散らないようにしてあげたい」

遼一のその言葉に、明日香は弱々しい声で返した。

「実はね、私も......江口先生のこと、本当に好きなの。いつも学校で私のことを気にかけてくれてたから......もし先生が本気でお父さんと一緒になりたいなら、私は受け入れる。もう覚悟はできてるから」

言い淀んで、少し息を飲み込んだあと、明日香は続けた。

「それに、江口先生、私の受験のことは心配しなくていいって伝えて。もう志望校、決めたから」

「そうか?お兄ちゃんにも教えてくれないか?」

遼一が問いかけると、明日香はまっすぐ彼を見て言った。

「朔良教育大学を受けたいの。教師になりたいから。卒業したら、地方や田舎に行って教育支援をしたいって思ってる」

遼一の漆黒の瞳がわずかに揺れた。彼は伏し目がちの明日香をじっと見つめながら、低く呟いた。

「朔良、か......ここから帝都までは何百キロも離れてる。飛行機でも数時間はかかる距離だ。明日香、そんな遠くの町に行ってほしくない。どうしてわざわざ、そんな遠くに?」

望まない?

違うわ、遼一。あなたが望んでないんじゃない。ただ、私があなたの支配から逃れるのが許せないだけ。拷問みたいな日々から解放されるのが、我慢ならないのよね。

明日香は、あらかじめ胸の内で何度も繰り返した言葉を、静かに口にした。

「ウメさんに聞いたの。お母さんって、都会の有識青年で、教育支援の仕事で地方に来て、そこで父さんと出会ったんだって。だから、私も......お母さんと同じように、教師になりたいの。

人に何かを教えるって、素敵なことだと思う。それに教師を目指すなら、やっぱり一番いい教育大学に行きたいと思って。帝都の大学も調べたけど、やっぱり朔良の方が良さそうだった。

お兄ちゃん、私のこと応援してくれるよね?お父さんにも、ちゃんと説得してくれる?」

明日香は、すがるように遼一の手を握った。

「ねぇ、お兄ちゃん......お願い」

遼一の眉間に、かすかな皺が寄った。その黒い瞳の奥に、一瞬、倦んだような色が浮かぶ。

やっぱり触られるのは、嫌いなんだ。

明日香は、それとなく手を引っ込めた。

遼一は眉をひそめたまま、重い口調で言った。

「朔良に行く件だけど、本気で行きたいなら、
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