All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 411 - Chapter 420

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第411話

その瞬間、一本の電話が鳴り響いた。まるで彼女の脳内をかき乱すように。見覚えのない番号。けれど、明日香はうっすらと察していた。誰なのか、心の奥ではもう答えを知っている気がした。最初は、画面上に無機質な数字の羅列が点滅していた。だがなぜか、それが唐突に「葵」という名前に変わった。呼吸を忘れたように、明日香はスカートの裾をぎゅっと握りしめた。震える手で通話ボタンを押し、そっと耳にあてる。沈黙が五秒――いや、それ以上、どちらも言葉を発さないまま時が流れた。明日香の胸の奥で、心臓だけが狂ったように脈打っていた。「もしもし、明日香です。どちら様でしょうか」その言葉の直後、電話の向こうから、鼻で笑うような嘲笑が聞こえた。そして、あっけなく通話は切れた。そのあからさまな嘲りは、まるで誰かに頬を平手で叩かれたような、鋭く屈辱的な痛みを伴っていた。木屋南緒。彼女なのだろうか。もしかすると、もうとっくに帰ってきていたのでは?あの日、彼女が姿を消していたとき、樹が自分を見つけた瞬間に浮かべた、まるで何かを失うことを恐れるような目。そしてその奥に、ほんの一瞬だけよぎった違和感。あれは、何だったのか。明日香は膝に顔を伏せ、長い髪がその表情を隠すように垂れた。無力感が全身を巡る。本当は、全部分かっているのだ。まるで、前世の悪夢が再び現実としてこの身に降りかかってくるようだった。「明日香!」聞き慣れた声がした。息を切らした日和が、必死に誰かを探すように走ってきて、ようやくここで明日香の姿を見つけたのだった。彼女は明日香のもとへそっと近づき、前にしゃがみ込んで顔を覗き込んだ。「大丈夫?どこか具合でも悪いの?」優しく背中を撫でながら、日和は不安げに言った。明日香は目をこすりながら、かすかに顔を上げた。「どうしてここに?」「さっきの明日香、明らかに様子が変だったから......心配になって、探しに来たの」明日香は唇の端をひきつらせ、無理に微笑んでみせた。「大丈夫。心配しないで。先に戻ってて」「もう少し、ここにいさせて」そう言って、日和は明日香の隣に腰を下ろし、ポケットから一本の小さな紙パックを取り出して彼女に差し出した。「牛乳。甘いものでも飲めば、少しは気がまぎれるかもしれない。何があったのか分か
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第412章

「社長」その声に、樹はゆっくりと顔を上げた。険しい表情のまま、目に陰を宿したまま、短く答える。「何だ」「署名が必要な書類が、いくつかあります」「そこに置いておけ」千尋は数歩進み、静かに書類を机上に置いた。そのとき、ふと視線が机の端に置かれたままの社用携帯に向かう。ディスプレイには、未接の着信――表示されていたのは、明日香の番号だった。やはり、彼が怒っているのは明日香のことか。そう思うと、妙に合点がいった。樹の感情をここまで掻き乱す存在など、他に思い当たらない。会いたいのなら、なぜ素直に連絡しないのか。なぜ、こんなにも長く怒りに囚われたままでいるのか。明らかに、二人の間には何かがあった。そうでなければ、この沈黙はあり得ない。「まだ用があるのか?」樹の声には、明らかな不快の色が滲んでいた。千尋は、一度言葉を飲み込み、しかし意を決して言葉を継いだ。「申し上げるべきか、迷いましたが」「何だ、言え」その苛立った声に、千尋は静かな口調で応じる。「社長。明日香さんの件で、社内全体――特に上層部は、かなり神経を尖らせています。私情を仕事に持ち込むべきではないと、私は思います」樹は口元にかすかな笑みを浮かべた。しかしその瞳は笑っていなかった。むしろ底知れぬ冷たさと、焦燥が宿っていた。「僕に、仕事のやり方を教えるつもりか?給料を払ってるのは、誰だと思ってる。用が済んだなら、出て行け」「申し訳ありませんが、会社のためにも......最後まで言わせてください」千尋は一歩も退かず、言葉を重ねた。「木屋南緒――彼女の存在は、明らかに『時限爆弾』です。帰国していることを、明日香さんはまだ知りません。もし明日香さんが、社長と木屋さんの間に何らかの繋がりが残っていると知ったら......たとえ理解しようとしても、心の奥には、必ずしこりが残ります。それを放置していれば、やがて取り返しのつかないことになります。ですから社長――彼女に、ちゃんと打ち明けるべきです」樹の目が鋭く陰った。「そんなことは、お前に指図されることじゃない。出て行け」低く唸るような声と共に、樹は手にしていた書類の束を千尋へ投げつけた。千尋は避けず、そのまま両手で受け止めた。書類の角が彼の額をかすめ、細く赤い線が滲む。ここ
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第413話

明日香は、手にした携帯の画面をじっと見つめたまま、指先を止めていた。今夜は帰らないほうがいいのか、それとも樹にきちんと伝えるべきなのか。逡巡が、胸の内を重く支配していた。彼女もまた疲れていた。今の自分たちの関係が、いったい何なのか。ただの恋人同士なのか、互いを試すような仮初の関係なのか、それすらもう分からない。もし、彼がいまだに南緒に未練を抱き、密かに連絡を取り続けているのだとしたら、なぜ自分と付き合っているのか。南緒が黙って姿を消したことへの、ただの当てつけなのか。その程度の理由で自分を傍に置いていたのだとしたら、あまりにも浅はかで、残酷だ。自分は、二人の間にある感情の道具じゃない。そう思えば思うほど、心の奥底でじわじわと苛立ちが広がっていく。心と感情を裏切られることだけは、どうしても受け入れられなかった。だが、藤崎家を出て月島家に戻れば、待っているのは予想どおりの結末。遼一の手に落ち、再び、あるいはそれ以上に侮辱されるだけだと分かっていた。だからこそ、選択肢は二つしかなかった。一つは、腹立ちを押し殺し、何も知らないふりをして藤崎家の庇護のもとで学業を終えること。もう一つは、樹と決別し、月島家へ戻り、あの地獄のような日々に再び身を置くこと。そこまで考えたとき、明日香の中で、すでに答えは出ていた。授業が終わると、いつもの車が、いつものように校門前に停まっていた。後部座席に乗り込むと、樹がすでに車内にいた。Bluetoothイヤホンを片耳につけ、膝上にはノートパソコン。画面に目を落としながら、どうやら会議の真っ最中だった。その様子に、明日香は何も言わず、そっとドアを閉めた。二人の間には、いまだ冷たい沈黙が流れていた。明日香は、樹が仕事を終えるまで待つつもりだった。背もたれに体を預けると、知らぬ間にまぶたが落ち、そのまま静かに眠りへと落ちていった。けれど、実は樹も会議どころではなかった。耳には会話が届いていたはずなのに、内容はほとんど頭に入ってこない。彼の思考は、すべて隣に眠る彼女に向けられていた。会議は適当に切り上げ、ノートパソコンを閉じた。そっと隣に手を伸ばし、シートにかけてあったスモークグレーのジャケットを手に取ると、眠る彼女の肩にやさしくかけてやった。その瞬間、明
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第414話

「でも、婆さんはねえ、口がうるさくて......どうしても今、このおしるこが食べたいのよ」「私が作ります」明日香はカバンを静かに置こうとした。しかし、それを止めるように、樹が彼女の手をそっと掴み、蓉子に向き直った。「おばあ様、あなたも藤崎家の古参なのですから、もう少し節度をお持ちください。こんな夜更けに甘いものを食べれば、消化不良を起こしやすくなります。純子さん、おばあ様をお部屋までお送りして」「はい、若様」「待ちなさい......」蓉子は純子に視線を送った。「水に浸けた小豆、まだあったかしら?」「ええ、ございます」純子がうなずいた。すると、明日香が落ち着いた声で言った。「今日の宿題はそれほど多くありません。おしるこなら、お鍋で煮ておきます。四十分ほどでできるかと」「まあ、そう。それじゃ、お願いしようかしら」蓉子はほほえみ、ゆったりとした声で答えた。年齢を重ねれば重ねるほど、眠りが浅くなるのは誰しも同じ。明日香は無言でキッチンに向かった。蓉子は軽くため息をつき、樹に向き直った。「あなたと彼女はね、この器の中の米と小豆のようなもの。一緒に煮ても、それぞれの味は変わらない。でもね、ほんの少し何かが多かったり、足りなかったりするだけで、その味はがらりと変わってしまうのよ。私の言うこと、よく考えてごらんなさい。おしるこは作らせなくてもいいのよ。あさって、明日香は試験だったでしょう?この二日間、彼女を煩わせないようにして。何かあるなら、試験が終わってからにしなさい。余計なことを考えさせてはだめ。あの子は我慢強いの。あなたが思っているより、ずっと大人。争わないし、何も求めない。でもね、だからこそ、もしあなたが彼女を裏切るようなことをして、彼女があなたに失望したら......もう、取り戻すのは難しいわ。彼女を大切になさい。少なくとも、今のところ、あの子は藤崎家の孫嫁にふさわしいと、私は思っている」少なくとも、あの女より、千倍、万倍はましだわ。蓉子が去った後、樹は他の使用人たちも退け、キッチンに立つ明日香の後ろ姿を静かに見つめていた。明日香と冷えた関係が続く中で、樹自身も苦しんでいなかったわけではない。明日香が本当は自分をそれほど好きではなく、ただの「保護傘」として利用しているだけなのではないか。そ
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第415話

明日香には、すでに分かっていた。自分が何を求めているのかを。樹の好意を受け入れながら、その保護の傘の下に身を寄せることもできる。人というものは、皆どこかしら利己的な生き物だ。もし樹がいなければ、明日香は、月島家に戻った後に何が待ち受けているかを、痛いほど理解していた。だから、たとえ樹の心の奥に南緒への未練が残っているとしても......その事情には、何も気づかぬふりをすることができた。今の自分には、彼が必要なのだ。明日香が樹を利用しているのだとしても、あるいは樹が明日香をただの心の拠り所としているのだとしても、明日香は胸を張って言える。自分には、やましい気持ちなど一切ないと。なぜなら、彼女は本心から樹を好きになった。そして、彼と向き合い、きちんと関係を築いていきたいと願っているからだ。だがそのためには、まず自分自身をしっかりと立て直す必要があった。たとえ、最後に二人が袂を分かつことになったとしても、その頃にはきっと、明日香はもう誰かに頼ることなく生きていけるようになっているだろう。明日香と樹の間に、絶対的な「公平」などというものは、最初から存在しないのだ。これからの樹には、明日香が見せたいと望む「彼女」だけが映ることになる。結婚であれ、恋愛であれ、本質的には同じことだ。どちらか一方が浮気を望めば、もう一方がそれを止める術など、どこにも存在しない。「大丈夫。遅かれ早かれ、慣れるわ。どうせ私は滅多に外出しないし、ほとんど学校にいるだけだもの。彼らが何を言っても、気にしなければいいだけよ」明日香はまるで、全てを分かっているかのように穏やかで、そして、どうすれば樹を安心させられるのかを知っているようでもあった。明日香は、がらんとしたリビングを見回したあと、問いかけた。「おばあちゃん、もうお帰りになったの?」「ああ。おばあ様は認知症でね。夜中にうろつく癖があるから、純子さんに送ってもらって部屋に戻られたよ」「そうなの?見た感じではとてもはっきりしていて、認知症には見えなかったけど......」明日香はそっと彼を押しやりながら言った。「おしるこはもう作らないでおくね。先に部屋へ戻って宿題を済ませてくる。まだ少し残ってるの」「分かった」明日香は口の端をわずかに上げて笑った。「あなたも、早く
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第416話

「ちょうどいいじゃないか。洗って丸裸で客を取らせろ。無駄な手間が省ける」「ちょっとやりすぎじゃない?」その言葉が発せられた刹那、南緒の頬に平手が飛んだ。乾いた音が小部屋に響き、彼女の身体がわずかに揺れた。「やりすぎ?ふざけるなよ。借金を返せないんなら、体で払うのが当然だろうが!」南緒の瞳が見開かれ、恐怖の色が濃く浮かび上がる。ちがう。こんな話じゃなかった。あの人と、約束したこととは違う。叫ぶ間もなく、口にはテープが貼られ、腕を掴まれたまま従業員用エレベーターへと引きずられた。同じころ、天下一のVIPルームでは、達哉が酒に呑まれ、上機嫌に隣の男の肩を抱き寄せていた。「遼一様よぉ、この前は俺、さんざん勝っちまったけど、また勝っちまって悪いねぇ。ほら、祝い酒だ。飲もうぜ!」中村が慌てて間に入る。「社長は胃を悪くしておられまして、お酒は控えております。代わりに、私が頂きますので......」「うるせえな。俺は社長に話してんだよ。部下が口出すな!」達哉は横に抱えていた女――さっきの勝負で下着姿になったばかりの、艶やかな肢体を持つ若い女を押しやった。「おい、あいつに酒を注いでやれ。遼一様が飲まねえってんなら、俺を舐めてるってことだぜ?今日は絶対に一杯やらせてもらうからな」女は若かった。年齢を偽っているのが見え見えで、部屋の暖房が効いていなければ、寒さで倒れていてもおかしくない。震える指先でウイスキーボトルを手にし、慎重に半分ほど注ぎ終えると、視線を合わせることなく男に差し出した。その男――遼一は、無言のまま、視線を女の全身に這わせた。美しく整った顔立ちに反して、瞳には獣のような光を宿していた。その視線を浴び、女の頬が紅潮し、俯いた。「いくつだ?」「私......日暮雪絵(ひぐれ ゆきえ)と申します。高校生で......17歳です」未成年。その言葉が頭に響いた瞬間、場の空気が一変した。達哉が急に声を上げて笑い、雪絵を床から無理やり立たせ、遼一の膝へと押しつけた。彼女はグラスを取り落としそうになりながら、そのまま男の膝に転がり込んだ。「そうだよ、それでいい!遊びに来たんだから、女と酒はセットだろ?雪絵ちゃんよぉ、遼一様にしっかり尽くしてやれ。あんたが取り入れば、将来なんだって手に入るぜ?
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第417話

今夜はきっと、眠れない。厚手のカーテンが夜風に揺れる音が、静かな寝室の中に細く伸びていた。バスルームから出てきた明日香は、濡れた髪をタオルで軽く押さえながら、ベッドサイドのテーブルに目をやった。壊れた携帯を充電するつもりだった。落下の衝撃で画面には蜘蛛の巣のようなひびが走っており、昼間は何とか動作していたが、いざ充電を始めると、画面が点いたり消えたりを繰り返し始めた。不意に、着信が表示された。その番号を見た瞬間、明日香の心臓がきゅっと縮み、鼓動が跳ね上がった。忘れもしない数字列だった。彼女は応答しなかった。ただ、着信が切れては再度鳴るのをじっと見つめていた。そのうち、諦めるだろう、そう思っていた。だが、代わりにメッセージが立て続けに届き始めた。【まだ起きてるんだろ】【明日香、またいい子じゃなくなったな】【電話に出ろ】【さもないと、俺が自ら藤崎家まで出向くことになる】血の気が一気に引いていく。震える手で携帯を持ったまま、次の通知を見た瞬間、息が止まった。動画だった。車内で撮られた、見覚えのある自分の姿。続いて、彼の言葉が画面に表示された。「これが誰かに見られたくないだろ?いい子にしていろ」まるで冷水を全身に浴びせられたようだった。骨の髄まで凍える感覚。肌が粟立ち、指先が冷たくなる。「ブーッ、ブーッ......」また着信。画面には同じ番号。明日香は着信が切れる寸前まで待ち、意を決して通話ボタンを押した。「何がしたいの?」できる限り、平静を装った声だった。受話口の向こうからは、シャワーの水音と、くぐもった荒い呼吸音が聞こえてくる。彼女は知らなかった。そのとき遼一は冷水を張ったバスタブの中、全裸で横たわっていた。燃え盛る情欲を冷ますように、ひたすら水に沈んでいた。だが、それでも彼の身体の一部は熱く、固く、そして彼自身の手の中で静かに脈打っていた。「テキストを送った。それを読め」着信と同時に届いていた新たなメッセージ。明日香が恐る恐る開いたその内容に、目を通した瞬間、表情がこわばる。官能小説の濡れ場の一節だった。露骨な言葉が並び、ただの文字列であるはずなのに、喉の奥が焼けるように熱くなった。「いい加減にして......」明日香はもう気づいてい
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第418話

「明日香さん、若様とご一緒ではなかったのですか?」朝食の席で、年配の使用人がふと尋ねた。「まだお休みだと思います」明日香は一瞬、言葉に詰まった。「でも、今朝挨拶に伺いましたら、お部屋にはどなたも......」そう言われて、彼女はようやく思い出した。昨夜、樹は「出かけてくる」と言っていた。そのまま、帰ってこなかったのだ。「会社に用事があったのでしょう。先に出たのかもしれません」作ったような笑みを浮かべてそう答えると、使用人は「ああ、なるほど」と軽く頷いた。けれど、明日香の胸には、言いようのないざわつきが残っていた。ただの出張なら、なぜ何も言わずに。なぜ、この不安は消えないのか。もしかしたら、試験前の緊張のせいかもしれない。そう自分に言い聞かせ、明日香は家を出た。帝雲中学。校門を抜ける生徒たちの表情はさまざまだった。試験前の焦燥、眠気、雑談。いつもと変わらない日常に見えた。ただし、ひとつの話題を除いては。「ねえ、聞いた?昨日、天下一で事件があったんだって。片岡達哉、殴り殺されたって」「殺された?マジで?」「正確には半殺しらしい。私、ちょうど現場にいたのよ。血の海で......救急車が二台、パトカーも来てた」「誰がやったか、分かってるの?」女子たちの輪に、ひとりがエンタメ雑誌を持って駆け込んできた。「これ見て!最新号!」ページを開くと、そこには見覚えのある人物の姿。藤崎樹。黒の外套を羽織り、金髪の女性を抱きかかえるようにしていた。まるで庇うように、包むように。女性の顔はよく見えない。横顔の輪郭だけが、わずかに写っていた。しかし、そのシルエットは、明らかに明日香ではなかった。「あれ、木屋南緒さんじゃない?」「ってことは、殴ったの、やっぱ藤崎樹......?」その場にいたほとんどの女子生徒が、同じ雑誌を持っていた。皆、同じような想像をめぐらせていた。達哉もいわゆる「成金息子」で、金持ち連中はだいたい同じような付き合いの輪の中にいる。それに彼の放蕩ぶりは、知らない者がないほど有名だ。おそらくはこの女性が達哉の目に留まり、樹が助けに行ってホテルから連れ出したのだろう。この雑誌を発行したのは、以前明日香と樹を撮影したのと同じ出版社だった。今回の事件は、明日香も
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第419話

午後。実験棟の片隅にある、数学オリンピックの特別講義室。冷房の効いた室内には、鉛筆の走る音だけが響いていた。「今日教えるのは、これで最後だ」清治はホワイトボードに残された数式を指し、短くそう言った。淡々とした声。その語尾に、ほんのわずかな緊張が滲む。「質問がなければ、早く帰って要点を復習しておけ。ちゃんと休んで、明日に備えること。それと、もう一度言う。遅刻厳禁。受験票、忘れるなよ」彼はそのまま教科書を脇に抱え、教室を後にした。室内に静寂が戻った。生徒たちはそれぞれに荷物をまとめ、立ち上がっていく。そんな中、圭一が明日香の肩を軽く叩いた。「二位さん、今日は早く終わったし、ちょっと遊びに行かない?」「ごめん。用事があるの」「またそれ?もう何回目の用事か、数えられないぞ?家、厳しいのか?」明日香は苦笑いを浮かべただけで、返事はしなかった。すぐ横で成彦が圭一にさりげなく目配せを送った。それを受けた圭一は、「あっ」と小さく声を漏らし、口元を覆った。「やっべ。そうだ、忘れてた!ごめんごめん。じゃ、俺と成彦は先に出るわ」「うん。行ってきて」二人が教室を出たあと、今度は珠子が明日香の前にやってきた。その表情には、少しだけ心配の色が浮かんでいた。「明日香、大丈夫?」「うん。大丈夫よ」カバンを片付けながら、明日香は努めて無表情を保った。けれど、心の中には重たい何かがずっと沈んでいた。藤崎樹が天下一で女性を連れて出た。その噂は、もう学校中に広がっていた。写真に映っていた女性の顔ははっきり見えなかったが、誰の目にも明日香ではないと分かるものだった。「私は先に教室に戻るね。もし何かあったら、いつでも私のところに来て。どうしても家に帰りたいなら......遼一さんが力になってくれるはずよ」「ありがとう。でも、私はもう少しここにいる」「わかった」珠子が去り、教室には明日香ひとりが残された。張り詰めていた何かが緩み、視界が滲んだ。誰もいない静かな空間に、心のざわめきだけが残る。明日香は額に手を当てて、深く息をついた。指先が自然と髪に絡まり、額の奥の鈍い痛みに気づく。こんな目線を、いったい何度浴びてきたんだろう。樹には他に女がいるって、そんな憶測を、あと何回聞けばいいの?それでも、顔を
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第420話

「そうよ。もしあの女が樹様に何か告げ口でもしたら、私の両親が......」彩の声がわずかに震えた。一瞬、目に宿る毒気。その奥に、焦燥と恐怖がのぞいている。「まったく、使えない連中ばっかり。まあいいわ。安心して、明日香と樹の関係なんて、そう長くは続かないから」その言葉には確信めいた響きがあった。最初こそ注目のカップルだったが、今や樹は別の女性と親しげにしているという噂が校内を席巻していた。明日香の存在は、今や嘲笑の的だった。放課後、明日香は人気のない通用口から、そっと校舎を抜け出した。送迎の車には知らせていなかった。彼女は一人、携帯修理店へ向かった。「これは......かなりひどいな。最新機種なのに、ここまで壊れてると修理代の方が高くつくよ」店主は苦笑しながら言った。「新品、見てくか?今ちょうど、防水・耐衝撃のタイプが入ってる」明日香は少しだけ躊躇したが、頷いた。「ええ。お願いします」結局、選んだのは頑丈でシンプルな古い機種だった。機能は少ないが、今の明日香にとってはそれで十分だった。明日香は通話記録を見ながら、ひとつひとつ番号を移し替えていく。帰り道、明日香は俯きながら歩いていた。ふと、前方に気づかず人とぶつかってしまう。「すみません!本当に......わざとじゃなくて......」慌てて顔を上げた瞬間、見覚えのある輪郭が目に入った。「おばさん?」「大丈夫よ、明日香ちゃん。あなたこそ大丈夫?」その柔らかな声。間違いない。澪だった。「おばさん、どうしてここに?」明日香の問いに、澪は苦笑するように微笑んだ。「先生から連絡があってね。淳也が何日も学校を休んでいるって......あの子ったら昔から、自分勝手で未熟で......今じゃもう私にはどうにもならなくて......ごほ、ごほっ......」突然の咳。澪が口元をハンカチで覆うと、そこには赤い染みが広がっていた。「おばさん......!?血......!」「大丈夫。持病なの」澪は明日香の手を握り、ゆっくりと言葉を続けた。「お願い。淳也にはこのこと、言わないで。あの子に心配はかけたくないの」「でも、こんな状態じゃ......」明日香は眉を寄せた。澪の顔色はひどく悪かった。ただの疲れや風邪とは明らか
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