All Chapters of 社長、早く美羽秘書を追いかけて!: Chapter 161 - Chapter 170

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第161話

翔太はそのまま電話を切り、同時に身をひねって彼女が飛び込んでくる体を避けた。部屋はカーテンを引いてあったので、光は全く差し込まなかった。暗闇の中で美羽は空を切り、足元でカーペットの端につまずきよろめいた。まだ体勢を整える前に、翔太が背後から覆いかぶさり、彼女をそのまま壁へ押し付け、顔を壁に向けたまま抑え込んだ。まるで猫を弄ぶように、彼女を自在に翻弄している!美羽の両手は背後で制され、呼吸が荒くなるほど怒りに震え、思わず罵声を浴びせた。「翔太!今すぐ私の部屋から出ていって!じゃないと――」「じゃないと?」酒に麻痺したような冷たい声が返った。「じゃないとどうする?もし本当に俺が何かしたら、君は騒ぎ立てる勇気があるのか?」美羽の全身が凍りついた。「当ててみようか。悠真は君に何を約束した?慶太がプロジェクトに加わって相川グループの発言力を拡大、その見返りにプロジェクト終了後、君を相川グループに入れる。違うか?じゃあ逆に、俺が相川グループをこのプロジェクトから叩き出す可能性、君は考えたことがあるか?君のせいでプロジェクトを失った相川グループが、本当に君を受け入れると思うか?その唯一の仕事すら、なくなるかもしれないぞ?」――脅迫。これは隠そうともしない、権力を振りかざした脅迫!「で、何がしたいわけ?」美羽は逆に笑い出した。「枕営業?私があんたを拒んだら相川グループを排除して、私から仕事を奪うつもり?」翔太は彼女の手をさらに強く握った。「俺をそんなに下劣だと言うのか?」「下劣じゃなきゃ、今あんたは何をしてるの!」「下劣といえばな……俺なんか、君の相川教授にはまだまだ及ばないな」「自分が腐ってるからって、他人まで巻き込むな!」「随分と庇うな――彼は婚約者がいるくせに、君と関係を持とうとしてる。要するに、君を情婦に仕立て上げようとしてるんだ。あいつが腐ってないとでも?最初から色仕掛けで近づいてきただけだろ」「私と相川教授のことを、あんたが口出しする資格はない!翔太、あんたは碧雲の社長で、夜月家の一人息子なんでしょ。女を無理やりどうにかするなんて、それこそ身分を落とす行為じゃない!」彼より、自分はずっと弱い。美羽はとりあえず言葉で矛を収めたが、胸の奥では怒りが風船のように膨らみ続けていた。―
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第162話

パシン――乾いた音が響いた。暗く静まり返った部屋の中で、その音は鮮明すぎるほどだった。翔太は28年の人生で、平手打ちを受けたのはこれが初めてだった。――いや、正確には数か月前にも彼女に打たれたことがある。そのとき彼は、「道具を使うだけだ」と言ったのだ。だが今回は、美羽の一撃は、前よりもずっと重く、容赦なかった。美羽はソファに押し倒されたまま、怒りに胸を激しく上下させ、暗闇の中で彼と向き合っていた。遮光カーテンのおかげで部屋は完全な闇に包まれ、目の前にあるはずの翔太の表情すら見えなかった。わずか30センチほどの距離しかないのに――翔太の吐息は冷たく整っていて、凍りつくような気配を漂わせている。二人はまるで檻の中に閉じ込められた獣同士のように、一歩も退かず、死闘を続けようとしているかのようだった。そのとき突然、入口から電子音が響き、誰かがカードキーでドアを開けたのだ。美羽は迷うことなく翔太を突き飛ばし、素早く身を起こして服を整えた。同時に、心に疑問がよぎった――入ってきたのは誰?この部屋には、彼女一人しか泊まっていないはずなのに。次の瞬間、部屋のライトがパッと点いた。突如浴びせられた光に視覚が刺激され、美羽は思わず目を閉じた。しばらくしてから眉をひそめ、ドアの方を見やった。……そこに立っていたのは、二人のホテル従業員だった。従業員たちは、部屋の中で一人の男と女が絡み合う姿を目にし、呆気にとられたが、すぐに何かを察したように慌てて謝罪した。「申し訳ございません!大変失礼いたしました……!実はフロントにお電話をいただきまして、『1702号室のドアが開かない』と。確認のためカードキーで入室したのですが……まさか……本当に失礼いたしました!すぐ退出いたします!」美羽は険しい声で問い返した。「誰がそんな電話を?この部屋に泊まっているのは私一人です。電話なんてしていません」「えっ……その、電話をくださったのは男性で……『自分は1702号室の宿泊客、名前は真田だ』と……」従業員が説明している間に、翔太はすでにシャツを整え終えていた。彼は無表情のまま美羽を見つめたが、彼女が視線を合わせないのを見ると、何も言わずに従業員たちを横切り、そのまま部屋を出て行った。彼が1702号室を出た直後、廊下の
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第163話

幸いなことに、美羽という人間は、昔から独立して生きてきた。誰かに慰めてもらう必要も、気持ちを宥めてもらう必要もない。どれほど感情が崩れ落ちても、水をぶちまけるように吐き出してしまえば、それで終わりだった。彼女は深く息を吐き、次第に落ち着きを取り戻した。焦らなくていい。焦らなくていい。もう一度挑戦すればいい。必ず、立ち上がってみせる――……その頃、翔太は部屋に戻る気になれず、下へ降りようとエレベーターの「下り」ボタンを押した。上階から降りてきたエレベーターの扉が開くと、中に立っていたのは直樹だった。直樹は彼の顔に残る赤い手形と、彼がいる階数に気づき、きりっとした眉を上げた。「真田秘書に会いに来たのか?」翔太が「真田助手」と呼ぶのは嘲りだが、直樹が「真田秘書」と呼ぶのは単なる習慣だった。なぜそんな習慣があるのか。――美羽が翔太の傍に3年間もいたからだ。その事実を思い出すと、翔太の表情はさらに冷え込んだ。彼は何も言わずにエレベーターに乗り込んだ。直樹はさすがに彼の親友だけあって、何もかも分かっているようだった。「仲違いしたんだな?その平手打ちは真田秘書にやられたのか?」翔太は無表情に答えた。「玉の輿に乗ったつもりで、自分の立場をわきまえなくなっただけだ」――それは、彼女は慶太と付き合ったということだろうか。直樹は鼻をこすりながら苦笑した。「翔太、お前……気づいてないのか?」「何を?」「真田秘書が去ってから――いや、正確に言えば、彼女が慶太と親しくなってからだ。お前、彼女のことばかり気にしてる」「俺はただ、二人が目障りなだけだ」直樹は首を振った。違う、と。彼の見立てでは――翔太はこれまで「美羽は自分を離れるはずがない」と信じ切っていた。だからこそ余裕で構えていられた。だが今、美羽は自ら離れ、しかも別の男と一緒にいる。彼の過剰な執着と振る舞いは、動揺と恐れの裏返しではないのか。翔太からすれば、直樹の言葉は恋愛脳のたわごとに過ぎなかった。――恋愛脳の人間は、恋愛中心で物事を考えるのだ。彼にとって美羽とは「借りをまだ返していない女」。それが終わるまでは、彼女が安穏と暮らすなど許すつもりはない。ただ一つ確かなのは――「……奴は本当に目障りだ」直樹は眉をひそめた
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第164話

支配人は逡巡した。「それは……恐らく難しいですね。あのフロアには他のお客様もいらっしゃいますし、プライバシーに関わる問題です。私の一存では決められませんので、上の者に確認を取る必要があるかと」美羽は淡々と答えた。「確認してもらって構いません。ただ知って欲しいです、私はいつでも警察に通報できます。ストーカー被害を受けたんですから。警察が来れば、当然監視カメラの映像を確認する権限がありますよね?」支配人は場慣れした笑みを浮かべた。「ですが、お客様は実際に被害を受けていませんよね?ストーカーというのも推測に過ぎません。警察が来ても立件される可能性は低いですし、令状がなければ、私どもも映像を提供する義務はないのです」美羽はわずかに唇を歪めた。「あら、そうですか。でも昨夜、19階に滞在していた夜月社長も17階にいらっしゃって、危うくそのストーカーに傷つかれそうになったんですよ?」「……!」「夜月社長」という言葉が出た瞬間、支配人の表情が変わった。彼は改めてサービス係に確認を取った。サービス係が耳打ちすると、支配人の顔はさらに険しくなった。彼は「少々お待ちください」と言い残し、携帯を手に廊下へ出ていった。事情を上司に報告するためだ。「……というわけなんです、紫藤様」電話の向こうの男が訝しげな声を出した。「翔太にまで関わる話か?」支配人は低く答えた。「はい。ですからお伺いしたく……監視カメラの映像を見せてもよろしいでしょうか?」「女一人だろ?名前は?」「苗字は真田といいますが、下の名前はまだ……確認いたしましょうか?」電話口の男が急に笑い声を漏らした。「真田?美羽か?へえ、あいつか」支配人には、その笑いがどこか悪ぶったように聞こえた。「なら構わねえよ。見せてやれ」「かしこまりました」電話を切った男は携帯を置き、豪邸のプライベートプールへ飛び込んだ。水しぶきを上げながら自由に泳ぎ、気分を晴らしていた。支配人は戻ってきて、美羽に伝えた。「当ホテルは常に『お客様第一』の理念で運営しております。お客様のご要望であれば、当然お応えいたします」立派な言葉を並べる支配人に、美羽はただ黙ってうなずいた。やがて映像が再生された。美羽は身を乗り出すようにして画面を見つめた。――やはり。マス
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第165話

恭介:【まだ】翔太:【あのバーチャル番号は調べられたか?】あの月咲のキス写真を送ってきた番号のこと。恭介:【……それはネットの仮想番号だから、簡単には追えない。まだ調査中】翔太:【人の監視カメラ映像を覗いてる暇があるなら、それに時間を使え。そうすれば何でも突き止められる。】恭介は悪態をついた。……美羽は携帯を持って化粧室に入り、電話に出た。「もしもし、お姉さん」「美羽、今忙しい?」姉の声は軽やかで、何かあった様子ではない。美羽は肩の力を抜いた。「忙しくないわ。どうしたの?」「お母さんがね、美羽に編んでたマフラーが出来上がったの。今度は手袋も編みたいって言ってて、すぐに美羽の好きな色を聞いてほしいって……」そういうことだったか。美羽は微笑んだ。「お母さん、そばにいるの?」「いるわ。代わるね。ほんとにね、お母さん最近せっかちなのよ。私が『今夜でいいじゃない』って言ったのに、どうしても今聞きたいって」雪乃が小言を洩らすと、すぐに朋美の声が受話器の向こうから響いてきた。「自分にあとどれだけ時間が残ってるかわからないのよ。できるうちにやっておかないと、当然でしょ」その言葉を耳にした瞬間、美羽の胸に重苦しい思いが広がった。携帯が朋美の手に渡った。「美羽」「お母さん」「美羽?」もう一度呼ばれて、美羽は答えた。「聞いてるよ、お母さん」「マフラーは編み終わったから、今度は手袋を編んであげるわ。どんな色がいい?」「何でもいいよ。マフラーと同じ色で」美羽は答えた。「お母さん、時間はまだあるんだから、急がなくてもいいよ。身体を壊さないでね」「無理なんてしてないわ。午後だけ編んでるの。すぐ出来るものよ」母はさらに続けた。「政夫(まさお)おじさんが仙草を一袋くれたの。美羽が戻ってきたら、仙草ゼリーを作ってあげるつもりなの」仙草ゼリーは夏に食べるもの。まだ冬なのに、母は焦っている。――自分がその時まで生きられないのではと、心のどこかで思っているから。美羽は喉が詰まった。「ええ。でも、黒糖は入れないで、砂糖がいいよ」「黒糖の方が体にいいんだよ」「でもちょっと苦いの」「じゃあハチミツにしよう。お父さんが養蜂家から買った天然ハチミツがあるわ」鼻の奥
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第166話

翔太の声は冷ややかだった。「直樹が頼んだのはどれも滝岡市の名物料理だ。油っこくて辛いが、食べられるのか?」正直、食べられない。だから美羽はさっきほとんど口をつけていなかった。けれど、それが彼に何の関係があるというのか。翔太はもう電話をかけていた。「個室のB88にあっさりした料理を持ってこい。10分以内だ」美羽は彼を見つめた。これは……わざわざ、自分のために注文し直したのか。「夜月社長には驚かされますね。恐れ多いことです」彼は思っていた以上に気まぐれだ。昨夜あんな騒ぎになったというのに、今は食事の心配までしている。翔太はちらりと彼女を見やり、冷たく言った。「驚くことはない。生きていてもらわなければ、俺の質問に答えられないだろう」なるほど、目的があってのことか。美羽はもう歩く気力もなく、腹を押さえながら席についた。高級ホテルの個室には、言葉にしがたいが心地よい香りが漂っていた。翔太は間を置かず、容赦なく切り込んだ。「――あの子は、どうしていなくなった?」またその話。美羽は唇の端を引きつらせた。「夜月社長は、今度は信じるんですか?」「俺が反問を許した覚えはない」美羽は顔を上げ、彼を数秒見据えてから、真実とも嘘ともつかぬ言葉を口にした。「……拉致されました」翔太は眉をひそめた。「何だと?」「拉致されて、犯人が身代金を要求しました。でも私が夜月社長に電話したら、切られました。だから奴らは約束を反故にして、私を車道に突き飛ばしましたの」「……」一瞬、翔太は呆気にとられた。しかしすぐに顔色が冷たく沈んだ。彼は無表情のままの美羽を凝視し、ややあってからさらに冷ややかに言った。「あり得ない。俺が君の電話を切るわけがない」美羽はその言葉を滑稽に感じた。「まるで私が、夜月社長にとって特別な存在みたいな言い方ですね」「俺が切っていないと言えば、切っていない」翔太は断言した。美羽は息を吐いた。「……じゃあ、切っていないんでしょうね」彼女は枝に宿る柔らかな棘。表向き従順に見えて、その言葉は鋭く突き刺さる。翔太は彼女の目の前に立ち、低く吐き捨てた。「美羽……俺を弄んでいるな」彼は信じていない。「俺に子どもを失った罪を押し付けて、罪悪感を抱かせ
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第167話

午後から仕事が始まった。美羽はタブレットでデータを整理していた。いつの間にか傍に来ていた紫音が、画面を指さした。「ここ、間違ってるみたいです」美羽は素直に信じて視線を移した。「え?どこがですか?」だが紫音は適当に指しただけだった。実際は、仕事の話を口実に近づいてきたのだ。「昨夜、夜月社長の顔にあった手形……真田さんがやったんでしょ?」美羽は、ただの口実だと分かると、それ以上相手にせず、作業を続けた。紫音は声を落とした。「よくもあの人を殴れたんですね。何を頼りにそんなことを?」美羽は何も頼っていない。むしろ酒に酔って暴れたのは翔太の方だ。紫音は鼻で笑った。「怖いもの知らずですね」美羽は前方の男に視線を向けた。たった一晩で、翔太の顔からは跡形もなく痕が消えていた。今は冷静さを取り戻し、黒いスーツに身を包んだ彼は、清廉で威厳すら漂わせている。まるで昨夜、凶暴に脅してきた卑劣な男は別人であるかのように。その視線に気づいたのか、翔太が振り返った。美羽は再びデータの記録に集中した。だがそれはつまり――紫音は昨夜、遅い時間に翔太と会っていたということだ。ならば二人は一緒に過ごしたのかもしれない。自分にやましいことがある者ほど、他人のことも怪しむものだ。……今回のプロジェクトは規模が大きく、関わる範囲も広い。全員が常に行動を共にするわけではない。例えばデータの測定と記録を担当する美羽は、初日の開始時に一度、皆と一緒に政府側の二階堂景志(にかいどう けし)市長に同行したきりで、その後の午後は翔太と顔を合わせることもなかった。その方がずっと気が楽だった。夜、ホテルに戻ると、彼女はデータを表に整理し、チームに送信した。慶太から個別に連絡が入った。【お疲れさま。】美羽は返しついでに研究室の様子を尋ねた。【火事があって、一部のデータを失った。今も復旧中だ。】美羽は、翔太のやり方があまりに過激だと感じた。慶太はさらに気遣った。【夜月社長に、何かされていないか?】その文字を見た美羽は、昨夜の翔太の言葉を思い出し、意を決して尋ねることにした。【教授に婚約者がいるって、本当?】遠回しにするつもりだった。だが、ずっと誠実に接してくれる慶太には、率直に聞くことが礼儀
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第168話

「……」美羽は慌てて言い訳をした。「相川教授、誤解しないでください。私は別に……」「聞かない」慶太はまるで子どものように言い張った。「とにかく僕はそう思ってる。美羽ちゃんが異論あるなら、研究室の片付けが終わったら滝岡市に迎えに行くから。そこでちゃんと議論しよう」「美羽ちゃん」って……私はあなたの教え子じゃないのに。美羽は言葉を失った。「もう遅いし、早く休んで。じゃあ切るよ」そう言うと、彼女に訴える余地すら与えず、彼はそのまま電話を切ってしまった。……慶太はベランダのドアを開け、ジョウロを手にして数鉢のミントに水をやった。胸の内はこれまでにないほど晴れやかだった。彼はふと、あの日のことを思い出した。大学での休み時間、偶然耳にした男子学生たちの冗談。「野田、よく『友人の嫁は俺のもん』って言うだろ?お前の彼女すごく綺麗なんだから、ちょっと見せてくれたっていいじゃん……」――友人の嫁は、俺のもん。慶太は吹き出した。まさか本当に「友人の嫁」を奪うことになるとは。でも、あの人がいつまで経っても現れないんだから、自分を責める理由はない。……翌朝、美羽はまた慶太に電話をかけた。電話に出た彼の声は、笑みを含んでさらに柔らかかった。「そんなに急いで反論したいの?」美羽は一瞬戸惑い、ようやく気づいた。彼は、昨夜の会話の続きだと思っているのだ。――「彼を気にしていない」ということを、わざわざ否定しに来たと。慶太は少し低い声で続けた。「それなら、ちょっと寂しいな」思わず美羽は口を滑らせた。「違うよ、私はあなたを気にしてないって言いたいんじゃなくて、私はただ……」……しまった!慶太はすぐに察し、笑いを深めた。「じゃあ、やっぱり僕のことを気にしてるんだね?」「……」――恋愛経験が少ないって、本当に不利。簡単に振り回されてしまう。慶太は穏やかな教授に見えて、実際はとても人を翻弄するのが上手い。美羽はきっぱり話を切り替えた。「本当に用件があって電話したのよ」「分かってる。じゃあ冗談はここまで。どんな用件かな?」「昨日の仕事中に聞いたんだけど、二階堂市長は近々仕事のために星煌市に行くみたい」「うん」「相川社長に伝えてください。何とか二階堂市
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第169話

それは真っ黒に煤けた顔だった。美羽は一瞬呆然とし、「あなた……」と声を漏らした。どうやら工事現場の作業員のようだった。男は低い声で言った。「大丈夫ですか?」「ええ、私は大丈夫です。助けてくれて、本当にありがとうございます。あなたは?怪我はありますか?お名前は?」美羽は我に返り、慌てて問いかけた。彼は肩を鉄筋に打たれ、すでに誰かが医者を呼んでいた。ほかの作業員たちが彼を支えて外へ連れ出していった。美羽はまだ胸の鼓動が収まらず、周囲の人々が彼女を取り囲み、無事を確かめていた。数メートル離れた場所に、翔太が立っていた。鉄筋が落ちてくるのを見て、彼も振り返って駆けだした。だが距離が遠すぎた。――その瞬間の光景が、彼にかつての龍舟工場での事故を思い出させた。あのとき落ちてきたのは巨大な龍舟。彼は確かに、美羽が自分を引き寄せて避けさせようとする仕草を一瞬目にした。だが結局、彼は月咲の方へ飛び込んでしまった。当時は何も思わなかった。けれど今、外からの視点で思い返せば――美羽の反応なら、彼女自身は完全に避けられたはずだ。それでも避けず、自分を助けようとしたからこそ、彼女は巻き込まれた。今日も同じ。彼女は自分だけ逃げられたのに、まず紫音を突き飛ばして守った。今回は幸い作業員に庇われて無事だった。だがあのときは足を怪我して、1か月も引きずったのだ。翔太の胸に、得体の知れない不快感が広がった。なぜ不快なのか、自分でもわからない。この女は一見賢そうに見えるのに、実際は愚かしい。自分が無事でいられるのに、なぜわざわざ他人のために傷つく?彼女が正義の味方を買って出る必要があるのか?こんなバカなことをして、褒められたいのか?その時、紫音が泣き声を上げた。ヒールを履いていて足を捻ったらしい。翔太はすぐに駆け寄り、彼女を抱き上げた。美羽が振り返ったとき、ちょうど翔太が紫音を横抱きにして立ち去る背中が目に入った。同時に、周囲の人々の噂も耳に入った。「ねえ、夜月社長って、千早マネージャーにだけ態度違わない?」「前からそうだよ。じゃなきゃこんなにあからさまに庇う?怪我したのは彼女一人じゃないのに」「……」事故のため、この日の作業は中断となった。美羽は無事で、休む気もなかった。早く記録
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第170話

美羽はすぐに画像を再生し、1つ前の画像を見るボタンを押した。何度押しても終わりが見えない。画面に映るのは、すべて自分の写真――様々な場面での自分の姿だった。さらに数回押すと、なんと龍舟工場の写真まで出てきた。ようやく美羽は、そのカメラをどこで見たのか思い出し、顔を上げてマスクの男を見据えた。「数か月前、龍舟工場で……私にカメラを貸して、証言してくれた人も、あなたでしょう?」――あのときだ。月咲に縄を引いたと濡れ衣を着せられ、事故の責任を押しつけられたあの日。事後、彼女はカメラを工場長に預け、「親切な人」に返してもらうように頼んだ。電話でも確認したが、工場長は「そのブロガーが受け取っていった」と言ったので、それ以上気に留めなかった。まさか――あの時から、彼は彼女を尾行し、盗撮していたのだ。美羽はカメラを掲げ、低く問うた。「あなた、いったい誰なの?」男はマスクを引き上げただけで、答えなかった。「今日、工事現場で私を庇って飛び込んできたのも、あなたでしょう?」美羽は男の目をまっすぐ見た。「目だけは覚えている。でも、私はあなたを知らない。誰かに命じられたの?誰があなたに私を盗撮させているの?」脳裏に、ある名前が不意に浮かんだ。彼女は唇を噛みしめ、鋭く問うた。「竹内瑛司……なの?」男は一瞬だけ顔を上げ、すぐに伏せた。――その反応で、ほとんど確信した。その瞬間、耳から風の音が消えたように感じた。高所の風は鋭く、肺に吸い込めば痛いほどで、息をするのさえつらい。「……あの日、カフェの前で彼を見かけた気がした。帰国したの?帰ってきたのに、どうして私に会いに来ないの?」美羽は奥歯を噛み締めた。「会わないくせに、なぜあなたを遣わして私を撮らせるの?私がどうしているか知りたい?」会いに来ないくせに。「私がどう過ごしているかなんて、彼に何の関係があるの?」彼女はカメラを握りしめ、突然振り返ると、思い切り遠くへ投げ飛ばした!「……!」男は呆然とした。美羽は冷たい顔でテラスに登り、「瑛司に弁償させなさい」と言い放った。そうしてタクシーを呼び、去っていった。男は階下を見下ろした。――カメラは間違いなく粉々だ。胸が痛む。あのカメラは、苦労して海外通販で手に入れたものだっ
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