All Chapters of 社長、早く美羽秘書を追いかけて!: Chapter 331 - Chapter 340

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第331話

黒いスーツに身を包んだ翔太が姿を現した。その隣には結意と清美、後ろには屈強なボディガードたちがずらりと並び、黒い圧迫感で場を支配した。全員が本能的に立ち上がった。翔太を知らぬ者などいない。大輔は数秒間呆然とした後、反射的に笑顔を作った。「夜月社長……夜月社長!どうしてこちらへ?」翔太の視線が一瞬だけ美羽をかすめた。美羽は呼吸を止め、彼の出現に驚きを隠せなかった。翠光市の冬は冷える。翔太は黒い革手袋をはめており、それを外しながら淡々と告げた。「こちらで舞踊の披露があると耳にしたもので、少し見聞を広めに来た。稲田副社長、俺のような招待されてない者でも構わないよね?」「もちろんですとも!夜月社長も踊りをご覧になると?」大輔の脳裏が素早く回転した――翔太が美羽を業界から追い出したのは周知の事実。これは過去の恨みをまだ忘れておらず、わざわざ笑いものにしに来たのでは?翔太は意味深に微笑んだ。「食卓で踊る姿はまだ見たことがないから、興味があってね」大輔が美羽に顔を向けた。「夜月社長がお望みなら、真田秘書は断る理由がないよね!」結意が翔太のスーツの裾を引き、美羽を庇うように声をかけた。「翔太……」翔太は片手を軽く上げて、黙らせた。美羽の喉は治っているはずなのに、またも痛みが走った。彼女が見上げると、翔太は手袋を外して手に持ち、清美が椅子を運んできたのを受けて腰を下ろした。脚を組み、手袋を膝に置いて、余裕の態度で「本気で舞踊鑑賞をする」構えだ。明香里が冷笑した。「真田秘書、早くお上がりなさい!」翔太はくすりと笑った。「俺が真田秘書に踊れと言ったか?」明香里は呆気にとられた。大輔も同じだった。彼はてっきり、美羽を笑いものにしに来たのだと思っていたのに――「で、では夜月社長はどなたの踊りをご覧に?」十人近い人間が立つ中、席に着いているのは翔太ただ一人。彼は微かに顎を上げて全員を見回したが、その視線に圧はあるが、卑屈さはなかった。むしろ、見られた側が自然と背筋を伸ばしてしまった。「ここには副社長も、秘書も、アシスタントも、営業マンもいる。皆、それなりの立場がある人間だ。――だから踊るのは彼らではない」「立場がない人間」はただ一人。明香里だ。彼は明香里に踊らせる気なのだ。美羽はそっと唇
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第332話

翔太が席に座っているおかげで、美羽と稲田副社長との交渉はまったく滞ることなく進み、わずか30分足らずで契約の日取りが決まった。美羽は杯を手に取り、「夜月社長、稲田副社長、本当にありがとうございます。将来、我々三社にも協力の機会が訪れますように」と微笑んだ。翔太は杯を持ち上げ、食卓を軽くコツンと叩いた。それで乾杯の代わりとした。それ以降、美羽の出番はなく、稲田副社長は先ほどの件で翔太の機嫌を損ねぬよう、必死にご機嫌を取っていた。しかし翔太は終始、淡々とした態度を崩さなかった。美羽は「今は自分の出る幕ではない」と判断し、アシスタントに一声かけて洗面所へ向かった。――用を済ませて戻ろうとすると、鏡の前で化粧直しをしている結意の姿があった。美羽は目を伏せて手を洗い、ティッシュで水気を拭き取り、そのまま宴席に戻ろうとした。すると結意がクッションファンデをパチンと閉じ、声をかけてきた。「美羽、まだ私に『ありがとう』を言っていないみたいね」美羽は振り返った。「ほう?私が何に礼を言うべきですか?」結意はゆったりと声を響かせた。「星煌市にいたとき、翔太が私を西宮に連れて行ってくれたことがあったの。翠光市にも似た場所があると聞いて、今夜は『レーヴ』に案内してくれることになったんだ。さっきまで別の個室にいたんだけど、店長が直々に応対してくれて、そのとき偶然、店長から中島グループの稲田副社長と相川グループの人がこちらにいると聞いたわ。そこでピンと来たのよ――ああ、美羽のことだって。だから顔を出そうと思って、翔太にも付き合ってもらったの。私たちが来なければ、美羽は今夜どうなっていたのでしょうね?」美羽は、どうして彼女たちが自分の個室に現れたのか、その経緯を聴き終えると、軽くうなずいた。結意の言葉の裏に込められた意味を理解した。――問題は「どうして現れたか」じゃない。肝心なのは、翔太がここに来たのは「結意がいるから」。美羽の個室に足を運んだのも、自分を助けたのも、すべて「結意がいるから」。緒方家のときと同じように。「なるほど、そういうことなら、確かに宮前さんにお礼を言うべきですね」美羽は彼女の完璧な化粧と、にじみ出る優越感を眺めながら、ふっと笑みを浮かべた。「でもね――宮前さんが本当に私を助けようとしたのか、それとも笑
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第333話

会食が終わり、美羽は相川グループの人たちを連れて、翔太たちと一緒に「レーヴ」を出た。営業マンたちは空気を読んで、慌てて言った。「真田秘書、俺たち地下鉄に間に合わなきゃいけないんで、先に失礼します」美羽はうなずいた。「ええ、道中気をつけて。明日、会社で会いましょう」「では、また明日」三人が去ったあと、清美が翔太の車を回してきた。ボディーガードがドアを開けようとしたとき、美羽が先に歩み寄って後部座席を開け、声をかけた。「夜月社長」彼女は碧雲にいた頃も、翔太と外出するたびに車のドアを開けていた。今とまったく同じ仕草で。翔太は彼女を見つめ、黒い瞳は深く沈んでいる。洗面所での美羽の言葉を思い出した結意は、彼の服をぐっと握りしめた。だが翔太はまだ美羽を見ている。耐えきれず、結意は駆け寄って彼女を押しのけた。「真田さん、どうして同僚さんと一緒に帰らないの?自分でタクシーを呼ぶなら、早くした方がいいよ。遅くなると危ないわ」美羽は丁寧に答えた。「夜月社長は私と同じホテルにお泊りですよね?ついでに乗せていただけませんか?」結意はすぐさま翔太を見た。「翔太、あなたこのところホテルで眠れていないじゃない。今夜は私が泊まってるホテルに行きましょう、ね……」「荷物は全部そっちに置いてある」――つまり行かない、ということだ。翔太の視線がボディーガードに流れた。「お前、宮前部長をホテルまで送れ」「宮前部長、どうぞ」「……」結意は、ここで騒ぎ立てれば彼を連れ出せないばかりか、かえって嫌われると悟った。噛んでいた唇を放し、にっこりと気品ある笑みを作った。「分かったわ。じゃあ荷物を片付けてね。明日、ホテルに会いに行くから。一緒に朝ごはんを食べましょう」翔太は肯定も否定もしなかった。結意はボディーガードとともに去っていった。美羽のそばを通りすぎるとき、投げかけた視線は、まぎれもなく鋭利だった。――やっと本性を現したわけね。美羽は無反応だった。翔太は両手をポケットに突っ込み、車のドアのそばに立つと彼女を見て、からかうように笑った。「太陽が西から昇ったのか?真田秘書が自分から俺の車に乗るなんて?」美羽は「レーヴ」の入口にある監視カメラを一瞥した。「今はどこにでも監視カメラがあります。私が人目のあるところで夜月社長の車に乗れ
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第334話

――もちろん違う。だが美羽が今いちばん望んでいたのは、とにかく翔太の膝の上から降りることだ。ところが彼の腕がすっと伸びてきて、彼女の腰を抱き寄せ、しっかりと締めつけるせいで、身動きが取れなかった。清冽な雪のような香りが男の体からふわりと漂ってきて、美羽は唇をきつく結び、諦めることなく力を込めて起き上がろうとした。二人の間で言葉なき力比べが繰り広げられた。車体が小さく前後に揺れ、外から見ればまるで別のことをしているかのよう……前席の清美は、「自分は今、本当にここに居ていいのか」とすら思っていた。ちょうどそのとき、車が長く停まっていて、しかも妙な振動が伝わったせいか、「レーヴ」のドアボーイが不審に思って近づき、窓をノックして中を覗き込んだ。「失礼しま──」車には防犯フィルムが貼られておらず、覗き込めば男女が重なって座っているのがはっきり見える。翔太の冷厳な視線が鋭く飛んだ。その一瞥で喉元に刃物を当てられたかのような寒気を覚えたドアボーイは、慌てて飛び退いた。「す、すみません!」美羽は好機とばかりに彼の腕から抜け出し、すばやく隣の席へ移って距離を取った。車のドアに背を預け、乱れた呼吸を整えた。耳たぶがじんわり熱かった。翔太は小さく鼻で笑い、彼女を追わず、皺の寄ったスーツを整えながら言った。「走れ」清美は即座に車を発進させた。美羽はシートベルトを締め、ばくつく心臓を押さえながら大きく息を吐いた。先ほどの「利用」という言葉が頭に引っかかり、唇を結んで口を開いた。「……私は夜月社長を利用なんてしていません。夜月社長はさっき、宮前さんと一緒に行くこともできたし、私の同乗のお願いを断ることだってできました。選んだのは夜月社長ご自身なのに、責任を私に押し付けるなんて、筋が通りません」違うか?彼女はただドアを開け、「ついでに乗せていただけませんか?」と訊いただけだ。嫌なら断ればいい。断らなかったのは彼なのに、それを「利用」と言うのは、いったいどういう理屈なのか。翔太は彼女に顔を向けた。車窓の外を流れる街灯の明かりが、彼女の頬に交互に影を落とした。美人の美しさは皮膚ではなく骨に宿る、とよく言うが、美羽はまさに骨格の美しさを備えていた。額から鼻筋、顎へと続く線が、ガラスに映る影の中で凛と際立ち、冷ややかな雰囲気
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第335話

「ピーッ——」すでに青信号なのに、前の車が動かずに止まったままなので、清美が軽くクラクションを鳴らして注意を促した。その音で、翔太も現実に引き戻された。美羽はまだ冷たい声で言い募った。「彼女がわざわざ私の『机の引き出しはラブレターでいっぱい』なんて言ったのは、私の私生活が乱れていると思わせたいだけですよ」――女同士の攻撃の仕方は、本当に心得ている。ところが、翔太は不意に口を開いた。「本当に、引き出し一杯のラブレターがあったのか?」「……あったらどうだっていうのですか?学校に行く前に、勝手に机に押し込まれていました。断る暇すらなかったのですよ」――それがどうして私の罪になる?「読んだのか?」「読んでません」翔太の声は冷ややかだった。「じゃあ、捨てたのか?」美羽は思わず彼を見た。なぜそんなことを気にするのか理解できない。「読んでないし、捨ててもないです」――受け取る気はさらさらなかったし、内容にも興味はなかった。けれど、それでも相手の真心を丸ごとゴミ箱に放るなんて、失礼だと思ったから。だから全部まとめて袋に入れておいたと、覚えている。車がショッピングモールの前を通った。屋外スクリーンの強い光が車内を照らし、翔太の顔を浮かび上がらせた。その表情は影にまぎれて、よく見えなかった。「で、どう処理した?」「家に持ち帰ったの。ただ、どこに置いたかは覚えてません」真田家が借金で追い詰められたとき、市内から町へ引っ越したから。その時になくしたかもしれない。翔太は数秒じっと彼女を見つめ、それから顔をそらし、小さく笑いを漏らした。――美羽はますます不思議に思った。なぜ急にラブレターの話?本来の焦点は、結意が明香里を利用して自分に嫌がらせをしたことなのに、どうして彼はそれに触れず、別のことを気にしているのだろう。まさか、結意の悪口を言いたくないから、話題を逸らしたの?――なるほど、そういうことか。美羽は唇の端をわずかに上げた。「もちろん、宮前さんには感謝しないとですね。夜月社長を連れてきてくれたんですから」――もっとも、彼女の本心は助けるつもりなんてなかっただろうけど。翔太は彼女を一瞥し、指でネクタイの結び目を少し引き緩めた。その顔色には不機嫌さが滲んでいる。――彼の感情の変化は、やっぱり分からない。けれど、初
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第336話

美羽は眉をひそめた。高校から借りがある?一体何を言っているんだ?確かに同じ高校だったけれど、彼の名前を耳にした程度で、会ったのも数えるほど。知り合いですらないのに、どうして借りがあることになるの?また始まった?前にも「君は俺に借りがある」と言っていたけど、結局彼女は彼に何を借りているっていうの?そう思った美羽は、そのまま口にした。じっと男を見据え、答えを待った。翔太の薄い唇は柳の葉のように鋭く冷たい線を描いていたが、やがて彼は彼女の手を放し、無表情でシートベルトを外すと、自分の側のドアから降りた。彼女を無視し、そのまま家庭料理の店へと入っていった。「……」なんて理不尽。美羽はため息をつき、仕方なく後を追った。すでに10時を過ぎ、夕食時を逃していたため、店内には客もまばらだった。翔太は真っ直ぐ隅の席へ向かい、店員がすぐにメニューを差し出した。彼は一瞥もくれずに言った。「全部だ」――つまり全種類注文するということだ。ちょうど聞こえた美羽は思わず眉間を寄せた。「夜月社長、そんな方法で私に仕返しですか?」彼女のお金を無駄遣いさせて?翔太が顔を上げた。「惜しいのか?」「もったいないと思っただけです」こんなに頼んでも三人では食べきれない。彼は温かいおしぼりで手を拭い、店員を見た。「適当に数品だけ出せ。残りはすべて包んで街の清掃員に渡せ」美羽は、彼にそんな善意があるとは到底思えなかった。彼はただ彼女に金を払わせて、困らせたいだけなのだ。本当にこの男は……美羽はこれ以上言い争う気もなくなった。彼がどうしようと勝手にすればいい。彼が「借りはチャラできない」と思うのは彼の問題。彼女にとっては、この食事を奢ればそれで貸し借りなし。自分の良心は痛まない。翔太には、淡い化粧の眉目に浮かぶ彼女の苛立ちがはっきりと見えていた。胸の奥で何かが膨らんだ。彼は不意に口を開いた。「俺が結意のために君を助けたのか、それとも俺が助けたいから助けたのか。3年も俺のそばにいて、それすら分からないのか?」美羽は一瞬ぽかんとし、顔を上げた。漆黒の瞳に正面からぶつかると、その奥に潜む切実な問いかけに息を呑んだ。――つまり彼はこう言いたいのだ。緒方家でも、今夜の個室でも、彼が手を差し伸べたのは、結意に言われたからではなく、自分がそう
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第337話

美羽はスプーンを手に取り、彼に差し出した。翔太は軽く鼻を鳴らしながら、それを受け取った。美羽は清美が来たのを見て声をかけた。「加納秘書、座って一緒に食べましょう」清美はにこやかに「はい」と答えて腰を下ろした。食卓に外部の人が一人加わると、翔太も彼女と私的な話をしづらくなり、その後は終始黙っていた。家庭料理の店は川沿いの遊歩道に面していて、食事を終えて外に出たときにはすでに11時を過ぎ、人影もほとんどなかった。美羽は車に乗ろうとしたが、翔太に腕をつかまれた。「散歩だ、食後の消化に」美羽は丁寧に断った。「夜月社長、もう遅いですし、明日は仕事があります」翔太は少し力を込めて彼女を引っ張った。「食べてすぐ寝たら胃下垂になるぞ」「夜月社長は本当に物知りですね」美羽は腕を振りほどいたが、結局一緒に川沿いを歩かざるを得なかった。翔太はロングコートを羽織り、夜風が裾を揺らした。淡々と振り返り彼女を見た。その影は街灯に照らされ長く伸び、ちょうど彼女を覆った。「俺に皮肉を言ってるのか、それともイチャついてるのか?」「……」蒼生の軽口まで真似しなくてもいいのに。美羽は相手にしないことにした。夜の風は強い。まして川辺だ。湿った冷気が何度も吹き付ける。彼女もコートを着ていたがやはり寒く、両手をポケットに入れながら、いつまで歩くつもりか聞きたくなった。すると、翔太は黒い革の手袋を投げてよこした。美羽は歯が鳴るほど寒く、手袋をはめた。彼の手は大きく、彼女にはぶかぶかだが、中の毛皮が肌を温かく包み、まだ彼の体温が残っているようで、大きな掌に包まれている感覚を覚えた。美羽はハッとして、すぐに手袋を外した。その間に翔太は前に進み、電話を受けていた。歩調は早くなく、風が彼の声を運んできた。「……出張だ。翠光市にいる。何かあれば長瀬に連絡しろ。対応してくれるから」声音は澄んで柔らかい。彼がこんな声で話す相手を、美羽は一人しか知らない――月咲。彼女の胸の中で、かすかな期待の芽が一瞬にして霧散した。うつむき、そっと一歩横にずれて彼の影から離れる。触れたくなかった。彼女もスマホを取り出し、タイムラインを開くと、ちょうど1分前に慶太が写真を投稿していた。写っているのは一鉢のミント、位置情報は西山市。美羽はコメントを送っ
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第338話

彼女が通っていた高校は、市内でも指折りの名門で、裕福な家庭の子弟が多く通う。美羽が入学できたのは、優秀な成績のおかげだった。そこには裕福な家庭の御曹司やお嬢様が多く、生活も自然と華やかだ。今日は誰々がスポーツ用品を寄付し、明日は誰々がピアノ教室のピアノを新調する。一時期は、毎日誰かが全校生徒と教師にアフタヌーンティーを振る舞ってくれることさえあった。ブランド物のスイーツやミルクティーが毎日並び、美羽はそのせいで何キロも太った。派手なものより、食べ物こそが一番実用的だと心から思った。昼食は早く、放課後は遅い。午後4時、5時頃は本当にお腹が空くのだ。ただ――誰がスポンサーだったのかは忘れてしまった。「何を見てる?」翔太が振り返った。「まだ乗らないのか?」美羽は視線を戻し、車に乗り込んでドアを閉めた。今度はホテルへ向かった。二人は道中ほとんど口をきかず、ホテルが近づいてからようやく翔太が口を開いた。「一度の食事で、俺が解決してやった厄介事の借りを返せたと思うな」ごまかせそうにないと悟り、美羽は問い返した。「では、夜月社長はどうしたいんですか?」ところが彼はまったく関係のないことを聞いてきた。「その後、どうして踊らなくなった?長年習っていただろ?」確かに習っていた。当時の真田家はそこそこ余裕があり、三姉妹それぞれの趣味に両親も惜しみなくお金を出してくれていた。美羽は古典舞踊を学んでいた。答えない彼女に、翔太は嘲るように言った。「瑛司がいなくなったからか?」美羽は思わず彼を見た。翠光市の冬の寒さよりも冷たい眼差しで、彼は続けた。「彼がいないと踊らない――そう言ったのは君じゃないのか?」もしこれを別の誰かに言われたなら、彼女は自分に気があるのではと疑ったかもしれない。自分の行動をそんなに注視しているのだから。だが相手が翔太なら、彼が見ているのはむしろ瑛司だと思えた。滝岡市でも、彼が瑛司に強い敵意を抱いているのを感じたが、ここまでとは。瑛司に関する小さな出来事まで逃さず目に留めているとは。彼女は言葉を選び、説明した。「二年生、三年生は勉強が忙しくて時間がなく、大学は地方だったので機会もなくて……その後は家の事情で碧雲に就職して、ますます余裕がなくなって、自然とやめただけです」これは瑛司とは関係ないと示す説
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第339話

それもそうだ。結意はこのホテルに泊まっている二晩ともよく眠れていないと言っていたから、別の場所で寝ているのだろう。星煌市夜月家の一人息子であり、碧雲グループの社長である彼が、無理をするはずはない。美羽は自分の部屋へ上がると、座ることもせずに服を取り、浴室へ入って身支度をした。温かいお湯が上から下へと全身を流れ、1日の疲れを流していった。彼女は今日起きたことを心の中で振り返り、特に不思議な翔太について考えを巡らせた。彼は――どうやら、本当に少し変わってきているような気がする……その考えが頭に浮かぶと、美羽は自分にバシャリと水をかけた。自然界では、多くの動物が獲物を騙すために身を偽る。例えば川のワニ、林の虎、木のトカゲのように。そして――「いい人」を装う翔太もまた同じだ。美羽は、翔太があいまいな言葉で彼女の注意をそらしているのだと感じていた。彼女は高校時代の記憶をほとんど洗いざらい引っ張り出してみたが、そこには翔太の姿は確かになかった。これ以上考えてはいけない。考え続けると、彼の策略に嵌められてしまう。美羽は蛇口を止め、体を拭き、パジャマに着替えて部屋を出た。……だが、美羽の読みは実は外れていた。翔太は昨夜ただ外へ軽く出掛けてドライブしていただけで、遅い時間にはやはり彼女が泊まっているあのホテルへ戻ってきていた。翌朝、彼はビュッフェへ行こうと思っていたが、清美から「真田秘書は今日は会社へ急いで行き、中島グループとの協力資料の整理があるので、朝食はビュッフェに行きませんでした」と聞かされ、朝食をやめてそのまま一階へ下りた。ところが、エレベーターの扉が開くと、待ち構えていたように結意がそこにいた。結意は母親がハーフなので、彼女の顔立ちにはどこかエキゾチックな雰囲気がある。彼女は微笑みを浮かべながら言った。「翔太、ちょうどあなたを探していたの。朝ごはんはもう食べた?」「まだだ」翔太は歩みを止めず答えた。結意が付いてきて言った。「私も。外で食べましょう。ホテルのレストランはあまり美味しくないし、あなたには合わないはずよ」翔太は淡々と答えた。「食べ物の好き嫌いはない」結意は笑い出した。「そうね、あなたは時々意外な面があるものね。私たちが付き合っていたとき、あなたが私を屋台のチーズポテトや串焼き
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第340話

美羽は稲田副社長と翌日の午前に契約を交わす約束をしていた。早朝から出社し、法務部や営業部と短い打ち合わせを済ませ、10時きっかりに一行とともにビルの前に降りて迎えに出た。大輔もさすがにもう偉そうな態度は取らなかったが、こちらとしても体面を整える必要がある。ちょうど大輔の車が見えたその時――「真田!」不意に呼ぶ声に、美羽は反射的に振り返った。結意が歩み寄ってきた。彼女はわずかに眉をひそめた。結意はまっすぐに見据えてきた。「話があるの。場所を変えて話そう」「申し訳ありません、宮前さん。今はお客様をお迎えしている最中ですので、時間がありません」結意の声音が低くなった。「つまり、私と二人きりで話す気はなくて、この場で皆に聞かせてほしいってこと?」そのとき大輔が車から降りてきた。美羽は仕方なく営業担当に目配せした。営業はうなずいて、先に大輔を出迎えに行った。美羽は結意に向き直り、淡々と告げた。「まず私は勤務中です。業務の妨害はやめてください。次に、私と宮前さんの間に私的な話題などありません。お引き取りください」そう言って大輔の方へ歩こうとしたが、予想外にも結意が彼女の手を掴んだ。「真田、やったことを認めないつもりなの?翔太に私を星煌市へ追い返させたのはあなたでしょ!」やはり――美羽は心の中でうなずいた。彼女が来たのは、案の定、翔太の件だ。「宮前さんと夜月社長のことは私には関係ありません。因果応報という言葉をご存じでしょう。何か言いたいことがあるなら夜月――」「あなたは知ってたはず!私と翔太が高校の頃から付き合っていたことも!今回の帰国が復縁のためだったことも!それをわざと壊して……あなたの目的は何なの!」結意の声が突然大きくなった。ここは相川グループの正面玄関、人通りも多い。周囲の視線が一斉に集まった。結意は名家の出身で、普段は品のあるキャリアウーマンだ。しかし今朝、翔太に冷たく拒まれたばかりで、体面も何もかもかなぐり捨てていた。このままではまずい、と美羽は瞬時に判断した。近くのアシスタントに言った。「永野(ながの)さん、宮前さんを応接室へ。後ほど私が行く」永野アシスタントが彼女に近づいた。「宮前さん……」しかし結意は乱暴に振り払った。「追い払うつもり?言われたくないことだから逃げるの?今さら恥ずかしくな
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