凌央はふと足を止め、美咲の方へ振り返った。 その目は冷たく、感情の色は読み取れなかった。「あの雨の夜。お前が俺と母さんを助けてくれたことは覚えてる。けれど、その恩はもう返し終わってる」淡々とした口調だった。どこまでも静かで、冷たい。乃亜は、凌央の口から「母さん」という言葉を聞いたのは初めてだった。 凌央の体がこわばっているのが、はっきりと伝わってきた。 握られていた手にも、強く力がこもっていた。あの雨の夜、何があったの? どうしてこんなにも凌央は反応するの?ふと、祖父から渡された箱のことを思い出した。 あの中には、一体何が入っているんだろう......急に、開けてみたい衝動に駆られた。「じゃあ、私のこと好きじゃなかったってこと?でも、どうして結婚式の夜、乃亜を放って私のところへ来たのよ!」美咲の声には、悔しさがにじんでいた。何年も努力してきた。それなのに、最後には何も手に入らなかった。 こんなの、納得できるわけない。乃亜は、無意識に凌央の横顔を見つめた。結婚式の夜、彼は一晩帰ってこなかった。 会社で残業してるんだと思ってた。 けれど......今になって、真実を知った。その夜、凌央は美咲に会いに行っていたのだ。あの夜、一体何があったの?考えがまとまらないうちに、凌央が乃亜を強く押した。「病院に行け。ついでに怪我がないかも診てもらえ」冷たい視線だった。何を考えているのか、まったく読めない。「早く行け!」乃亜は小さく息を吸い込み、足早にその場を離れた。きっと、凌央と美咲の間には、まだ話すべきことがある。 自分がいたら、邪魔になるだけだ。胸の奥が、妙に苦しい。外から車の音が聞こえた。 その瞬間、凌央はようやく美咲を見た。 口元に、皮肉な笑みを浮かべていた。「信一は異常者だ。前から分かってた。あの夜、お前から『殴られた』って電話がきた。だから行った。助けたのは、お前に命を救われた過去があったからだ。それだけだ。あの恩がなかったら、お前の事なんか、見向きもしなかったよ」昔、美咲に命を助けられた。だからこそ、何度も信じ、何度も許してきた。でも今は、すべてが明らかになった。もう、恨みはない。 あるのは、乃亜への
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