All Chapters of 永遠の毒薬: Chapter 641 - Chapter 650

乃亜は急いで机の上の書類を片付けた。ペン立てのペンが軽くぶつかり合い、音を立てる。それは、まるで時間に追われているような感覚を与えていた。携帯を一気に手に取り、バッグを肩にかけると、大股でドアの前に向かって歩き出した。その動きに、焦りと急ぎの感情がにじみ出ていた。ドアを開けようとしたその時、ドアが静かに開き、咲良が姿を現した。手に抱えた資料を軽く揺らしながら、少し急いでいる様子だ。乃亜は一瞬足を止め、眉をひそめながら言った。「どうした？何か用？」急いでいるなら、用事は後回しだ。咲良は乃亜の前に駆け寄り、手に持った資料を軽く振った。「久遠弁護士、あの、あの殺人事件に新しい手掛かりが見つかった。郊外で新たに調査を始めるか？」乃亜の顔色が一瞬で変わる。「郊外には行かなくてはいけない。でも、今すぐは無理。あなたが先に行って調査してきて。何かあったらすぐに報告して」咲良はうなずき、少し心配そうな表情で言った。「分かった。気をつけて行動する。でも、もう一つ伝えておきたいことがある。莉子の離婚案件、彼女が提供した証拠が足りないの。新しい証拠を探さないと、この案件は進展できないの」乃亜はさらに眉をひそめ、深呼吸をしてから、冷静に言った。「まずは郊外の調査をお願い。莉子の案件については別の方法を考えるから。今は急いでいるので、また連絡する」乃亜は急いでオフィスを後にした。乃亜は心の中で不安を抱えながら車を走らせ、別荘へ向かっていた。夕日の光が差し込む中、別荘の影が街灯に照らされて、どこか冷たく見えた。その光景が彼女の胸に不安を呼び起こした。車を停め、降りると、インターホンを押した。少し待って、扉が開き、見知らぬ顔が現れた。乃亜は一瞬戸惑った。小林さんは？しかし、そこにいたのは全く見覚えのない人物だった。「ご主人様は子供と家の使用人を連れて引っ越しました。今は私一人で家を見ています。もしご主人様を探しているのでしたら、電話で連絡してみてください」その言葉を聞いて、乃亜は胸が痛くなった。凌央からのメッセージを思い出し、心が苦しくなる。今日は晴嵐を転校させて凌央に見つからないようにしようかと思っていた。しかし、決断する前に凌央はまた晴嵐を連れ去ってしまった。今回は、凌央が晴嵐を簡単には手放さないことが分かってい

凌央は、眉をひそめた。目元がぴくりと動いて、その顔にはあからさまな不快感が滲み出る。......チッ、このガキ......反抗する気か。その一瞬、小林の心がヒヤリと凍った。やばい、怒ってる。あの顔は間違いない。晴嵐様、大丈夫かしら......また怒鳴られるかも。璃音も、パパの周りから漂う冷気に気づいたのか、そっとお兄ちゃんの手を握った。ぷにっとした手で、遠慮がちに。「お兄ちゃんの手......ぎゅってしたいの......」その声に、晴嵐は一瞬だけ戸惑ったような目を向ける。璃音の顔がふにゃっと笑っていて、胸が少しだけ痛くなる。......けど、ダメだ。そんな優しさ、信じたらまた裏切られるだけだ。彼は小さな手をそっと振り払って、きっぱりと言い放った。「僕、あんたたちと仲良くなんてないから。勝手にさわらないで」そして、そのまま凌央を見上げる。小さな顔は、ぐっと強張っていた。「凌央、あなたって、ほんとずるい。ママと僕の優しさを、都合よく利用してるだけじゃないか。もう、璃音にも優しくなんてしない。僕も、ママも」......夢みたいな毎日は、全部嘘だった。今まで見てきた優しさは、ぜんぶ作りものだったんだ。やっと気づいた。だから、悔しくてたまらなかった。信じてたぶん、裏切られたことが許せない。「お兄ちゃん、やだぁぁ！」璃音がわっと泣き出した。その場に座り込んで、肩を震わせながら泣いた。その姿を見て、晴嵐も胸が苦しくなった。目の奥が熱くて、思わず泣きそうになる。......でも、泣くわけにはいかない。ママが言ってた。外では、強くいなさい。じゃないと、弱さに漬け込まれる。凌央は、娘の泣き声に顔をしかめた。胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるように痛む。璃音は、自分が守ってきた娘だ。しかも、病弱で。このまま泣き続けて体調が崩れたら、どうすんだ？「......晴嵐、お前......ふざけたこと言うんじゃねえ！璃音に謝れ！今すぐ！」声が響いた瞬間、場の空気が張りつめた。けれど、晴嵐は動じない。背筋をまっすぐに伸ばして、にっこり笑った。「僕、間違ったこと言ってないよ？なんで謝んなきゃいけないの？」その無邪気な笑顔に、凌央の血管がピクン

晴嵐は、ぐっと背を伸ばした。小さな胸を張って、堂々と言い放つ。「ママを捨てた日からさ、僕とあなたの関係なんて、もう何もないよ！ママは僕を産んだとき、命がけだったんだ。そのときにそばにいたのは......『パパ』だけだった。今さら、僕が賢くて可愛いって思ったからって、取り戻そうだなんて。自分は何でもできる神様か何かだと思ってるの？」その声は、まだあどけない幼児のトーンのはずなのに、どこか突き刺さるような鋭さを含んでいた。小林の額に、冷や汗がどっと浮かぶ。うわ......これは......マズいわ......晴嵐様、完全に怒りの導火線に火をつけた。凌央様がこれで冷静でいられるわけがない。璃音は口をぽかんと開けたまま、晴嵐を見つめていた。......お兄ちゃん......すごい......あんなにいっぱい喋れるなんて。自分だったら絶対ムリ。すごすぎる。凌央は無言のまま、じっと晴嵐をにらみつける。......この子、ほんとに三歳児か？信じられない。でも、思い当たる節はひとつ、乃亜だ。あの女......やっぱり子どもにまで！「......凌央様、怒らないで......晴嵐様、まだ三歳で......」小林が恐る恐る口を挟むが、次の瞬間、凌央の殺気を孕んだ視線に射貫かれ、言葉を飲み込んだ。凌央は、晴嵐のシャツを掴み、低く絞るような声を吐く。「それ、誰に教わった？......乃亜か？」このまま乃亜を放っておくつもりはない。会えば必ずケリをつけてやる。「ちがうよ。ママには言われてない。僕、パソコンで見たんだもん」晴嵐は真顔で答えた。ネット動画で『クズ親父』をやっつける展開をいくつも見てきた。セリフは、ちゃんと覚えてる。まさか、ほんとに使う日が来るなんて思ってなかったけど。でも、凌央はまったく信じていない。三歳の子供がそんなこと覚えるか......絶対に乃亜の入れ知恵だと、そう決めつけていた。「信じなくてもいいけど。言っとくね、うちの家族を、バラバラにしようとするな！」目を見開いて、まっすぐに言い放つ。彼が手術室から出て最初に見たのは、『パパ』だった。初めての一歩を教えてくれたのも、『パパ』。ずっとそばにいたのは、拓海だった。だから、彼にとっての『

今、舞衣には、どうしても頼れる後ろ盾が必要だった。桜坂家を救うために、それしかなかった。雪葉が前に「いい人を紹介する」と言ってくれた。その彼女から、突然電話がかかってきた。もしかして、本当に話が進んでるのかも。会ってみて、悪くなければ受け入れるつもりだった。今の自分たちには、選り好みなんてできる立場じゃない。舞衣がセントラルビルに着くと、雪葉は洋服店の試着室の鏡の前にいた。高級ブランドの服。どれもこれも、軽く数百万円はくだらない。昔は、私もこんなの買ってたんだよね。でも今は、その一着が命取りになる気がして、息が詰まりそうだった。「舞衣、そこに座っててね。あと二着だけ着てみたいの」雪葉は、黒いロングドレスを優雅にまとっていた。その姿は、まるで映画のワンシーンから飛び出してきたみたいだった。どの角度から見ても完璧。まばゆいほどの美しさだった。舞衣はすぐに頷いた。「うん、大丈夫、待ってる」雪葉、幼い頃からの友達。でも七年前、突然、桜華市から姿を消した。そしてつい最近になって、ようやく戻ってきた。七年間、どこで何をしていたのか、舞衣にはわからない。でも今の雪葉は、とにかくお金持ちだ。彼女の周りには、桜華の上流階級の人間ばかり。舞衣は、かつてならその世界とは無縁だった。学歴も肩書きもあって、金持ちの放蕩息子たちなんて相手にしなかった。でも今は違う。桜坂家が落ちぶれた今、必死でその輪に入り込もうとしている。心の奥がキュッと痛んだ。昔と今、違いすぎる。それでも、笑顔を作るしかなかった。悔しさも苦しさも、ぜんぶ飲み込んで。夜になると、舞衣はその苦しみをすべて、紗希のせいにした。もし、あの女が直人をしつこく追いかけてなければ......私は、こんなことにはならなかったのに。そうやって、誰かのせいにしなきゃやってられなかった。自分が間違ってるなんて、少しも思えなかった。「舞衣、新しいドレス選んで。プレゼントするから」雪葉はにっこり笑って、舞衣の前に立った。ドレスの裾がふわりと揺れて、その笑顔が妙に優しく見えた。舞衣は自分のドレスに視線を落とす。数年前、学会に出席するために買ったもの。普段は研究所で過ごしてるから、スカートなんて滅多に着ない。一度だけ着て、そのま

今すぐ、この女に思い知らせてやりたい、そんな危うい衝動が、腹の奥で静かに燃えていた。「凌央！なんで黙ってるの？返事しなさいよ！」乃亜の声が鋭くなった。抑えた怒りが、声の端ににじみ出ている。「お前が拓海と離婚して、俺のところへ戻ってくるなら。その時、息子に会わせてやってもいい」さらりとした口調。凌央の唇は、無意識にゆるく吊り上がっていた。「じゃあ......もし私が離婚もしない、戻りもしないって言ったら、息子に一生会えないってこと？」胸の奥に、怒りが込み上げては沈んでいく。息苦しいほどだった。もし目の前にいたら。間違いなく、ひっぱたいてる。クズ。そんな男、生きてる価値ない。「どう思う？」凌央は平然とした声で、逆に問い返してきた。「......わかった」乃亜は、それだけを言って電話を切った。三年も一緒にいたからわかる。この男、一度決めたことは絶対に変えない。何を言っても、無駄だ。だったら今は、感情的にならずに考えるべき。この状況、どう切り抜けるか。通話の終わった携帯を見つめ、凌央は眉をひそめた。乃亜が、電話を途中で切るなんて。昔の彼女だったら、絶対にそんなことしなかった。どんなに怒っていても、最後まで話を聞こうとしていたのに。変わったな、あいつ。ふと気づく。自分はずっと、昔の乃亜と比べてばかりいた。あの頃の笑顔、言葉、態度。どれも脳裏に焼き付いて離れない。でも、乃亜はもう前に進んでいる。新しい人生を生きている。それなのに、自分だけが過去に取り残されているなんて、情けないにもほどがある。......でも、認めたくなかった。苦しんでるなんて、自分で口にしたくない。だから、子どもを使って彼女を引き止めようとしてしまう。最低だと分かっていても、そうするしかなかった。乃亜はパソコンを開き、すぐに凌央の携帯の位置を追跡し始めた。その頃、書斎にいた凌央は、二箱目の煙草を吸い終えようとしていた。商売の場では、冷静で非情な判断を下せるのに。女一人、どうにもできないなんて、こんなこと、人生で初めてだ。夜が明け始めた頃。ようやく、乃亜は彼の携帯の現在地を突き止めた。......島だった。ナビを頼りに車を走らせたものの、島には厳重な警備が敷かれていて、通行証がない者は中に入れない。当然、門前で止