All Chapters of 離婚は無効だ!もう一度、君を手に入れたい: Chapter 531 - Chapter 540

555 Chapters

第531話

藤堂沢は藤堂言を佐藤清に預け、再び崖下へ降り、九条薫を捜しに行った。数日間、彼はほとんど眠っていなかった。B市から派遣された救助隊に加え、彼は多額の資金を投じて800人以上の捜索隊を結成し、九条薫を何としてでも見つけ出そうとしていた。24時間が過ぎ、3日、1週間が過ぎ......九条薫からの連絡は途絶え、まるでこの世から消えてしまったかのようだった。同時に杉田文恵も行方不明になっていた。専門家の分析によると、彼女たちの着地点は海面である可能性が高く、つまり......続きの言葉は、誰も口にすることができなかった。B市で最も若い富豪である彼が、妻を失ったショックで精神的に追い詰められていることは、誰の目にも明らかだった。時が経つにつれ、希望は薄れていった。捜索は続けられていたが、奥様は見つからないだろう、と誰もがそう思っていた。絶望が蔓延していく......しかし藤堂沢は諦めなかった。誰もが心の中で諦めていたが、彼だけは諦めるわけにはいかなかった。彼女が彼の妻であり、彼の愛する九条薫だったからだ。彼は捜索を続けることを決意した。いつか必ず九条薫を見つけ出し、家族団らんできる、と彼はそう強く信じていた。彼は藤堂グループを一時的に藤堂文人に任せた。もともと藤堂グループは藤堂文人が創業した会社であり、たとえ近年経営に携わっていなかったとしても、田中秘書がいれば問題ないだろう。藤堂言と藤堂群は、佐藤清に面倒を見てくれるよう頼んだ。藤堂夫人も度々訪ねてきては、子供たちの世話をしたり、藤堂家に連れて帰ったりしていた......九条薫がいない家で、過去の不愉快な出来事を話題にする者はいなかった。その年、藤堂沢はずっと山に住んでいた。週末になる度に、佐藤清は山を訪ね、手料理を差し入れ、捜索状況を尋ねた。そして......いつも会話を終えると、佐藤清はしばらく黙り込んでしまうのだった。夜になると、彼女は崖っぷちに座り込み、遠くの海面を静かに見つめていた。夜、山の中は風が強かったが、佐藤清は一晩中そこに座っていた。その年の正月、藤堂沢は家に帰らなかった。大晦日の夜も彼は捜索隊を率いて海へ潜ったが、やはり何も見つからなかった。夜、仮設のトレーラーハウスに戻ると、テーブルの上には冷めたうどんが置いてあった
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第532話

突然、佐藤清が振り返った。彼女は涙で顔を濡らし、震える声で言った。「藤堂さん、あなた狂ってるわ!一年もここに住んで、自分のことも、ご両親のことも考えず、子供たちのことも放ったらかし。言は毎晩悪夢にうなされているし、群は一年間、一言も話していないのよ!沢、子供たちは母親だけじゃなく、父親も必要なの......あなたがずっと家に帰らないから、子供たちは不安で仕方ないのよ!藤堂さん、子供たちのことを考えて!」藤堂沢の表情が、一瞬ピクっと引きつった。しばらくして、彼は残りのタバコを口に運ぼうとしたが、火は消えていた......彼は消えたタバコを静かに見つめ、しばらくして、かすれた声で言った。「おばさん、この一年、本当にありがとう」彼の目に涙が浮かんだ。彼はそれ以上何も言わず、その夜、崖っぷちに座り、九条薫のバイオリンを取り出した。そして山の中で、『荒城の月』を演奏した。彼は夜風の中で、静かに言った。「昔、お前にサプライズで聴かせようと、こっそり練習していたんだが、結局お前に聴いてもらう機会はなかったな。薫......聞こえているか?」夜風が泣き叫ぶように吹き荒れ、バイオリンの音色が、悲しく響き渡った。藤堂沢は一晩中そこに座っていた。夜が明けると、彼は捜索隊を解散し、全員に高額の報酬を支払った......皆が去った後も、彼は長い間そこに立ち尽くしていた。......藤堂沢は市街地に戻ると、藤堂言と藤堂群を連れて帰り、佐藤清と一緒に暮らすようになった。日々の暮らしは、徐々に元に戻っていった。藤堂沢は父親としての責任を果たそうと、藤堂言と藤堂群を心理カウンセラーの元に連れて行った。次第に、藤堂言は明るさを取り戻し、夜に悪夢にうなされることも少なくなった。しかし、心の傷はそう簡単に消えるものではなかった。藤堂言は、めったに九条薫の話をしなかった。思い出したくないわけでも、母親のことを忘れたわけでもなかった......ただ、父親を悲しませたくなかったのだ。夜中に何度も、父親が一人で書斎に座り、静かに、九条薫の写真を見つめているのを見ていたからだ。そうやって、穏やかな日常を過ごしていた。藤堂沢が普段通り仕事に戻ったある日、デスクワークを終えた彼は、疲れた目頭をこすながら、休憩しようとしていた。す
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第533話

他の誰でもない、彼女だけが欲しいんだ。......藤堂沢は長い間座り続け、夕暮れ時になってようやく帰宅した。黒の彫刻が施された入り口を黒のロールスロイスが、ゆっくりとくぐり抜けていき、車が止まった頃には、すっかり夕暮れになってしまい、地平線にはわずかな夕焼けだけが残っていた。藤堂沢はエンジンを切り、ドアを開けて車から降りた。藤堂言が家から飛び出してきて、彼の脚に抱きつき、「パパ」と甘えた声で呼んだ。その瞬間、藤堂沢の心は思わず震え上がった。過ぎ去った思い出が、再びよぎった。仕事が終わって家に帰ると、幼い娘が走ってきて、パパ、と脚に抱きついてくる。これはかつて彼が九条薫に描いていた光景だった。あの時、彼は彼女の耳元で「薫、娘を産んでくれ」優しく囁いたのだ。藤堂言の目元は、九条薫によく似ていた。まるで彼女がそこにいるかのように、生き生きとした姿が目の前に浮かぶ。しかし、九条薫はもういない。藤堂沢はしばらくの間、じっと彼女を見つめていた。藤堂言は何かを察したのか、「パパ......」と声を詰まらせた。藤堂沢は腰をかがめて彼女を抱き上げた。もうすぐ8歳になる藤堂言をこうして抱き上げるのは随分久しぶりだった。しかし、彼は今、彼女を、彼と九条薫の最初の子供を抱きしめてあげたい衝動に駆られたのだった......藤堂言は父親の首にしっかりと抱きつき、彼の目尻に光るものを見て、小さな声で尋ねた。「パパ、泣いてるの?」藤堂沢は気を取り直して言った。「パパは泣いていないよ!宿題を見せてごらん」しかし、藤堂言は彼の首にぎゅっと抱きつき、離れなかった。彼女はずいぶん背が伸び、肩までだった黒髪は腰まで伸びていた。この一年、母親を恋しがるあまり、あまり元気がなく、少しやつれたように見えた。藤堂沢は二人の子供たちと過ごした。夜、子供たちを寝かしつけた後、彼は自分の寝室に戻った。一年が経った今でも、ここにある装飾品は以前と変わらずだった。九条薫の持ち物はすべてそのまま残されているだけでなく、定期的に整理整頓もされていた。藤堂沢は、しばしば九条薫のことを思い出していた。なにより明日は特別な日、九条薫の誕生日なのだ。しかし、彼のこの思いを打ち明ける相手は誰もいなかった。周りの人間にも、ましてや子供たちの前では、なおさ
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第534話

細かい砂で穴を埋めると、跡形もなく消えてしまった。藤堂沢は長い間立ち尽くした後、ゆっくりと立ち上がった。立ち去る彼の目には涙が浮かんでいた......彼は思った、自分は結局、ただの人間なのだ、と。運命に抗うことなどできない。どんなに財産があっても、愛する人を生き返らせることはできない。認めたくはなかったが、心の奥底では分かっていた。九条薫はもういないのだ、と。これからは、九条薫のいない人生を生きていくしかないのだ。......夕方、藤堂沢は市街地に戻った。高級な黒い車がゆっくりと走り、後部座席の窓が少しだけ開いていた。藤堂沢は窓の外を流れる雲を眺め、やつれた顔には表情がなかった。彼は気づかなかった、向かいの歩道に、九条薫が茫然とした表情で立っていたことに。彼女には過去の記憶がなく、家族もいなかった。着替えの服が2着と、わずかな現金、そしてシンプルな財布の中には、彼女の身分証明書が入っていた。身分証明書には名前と生年月日が書かれていた。彼女は自分の身分証明書を見つめていた。自分が九条薫だという以外、何も分からなかった......家族はどこにいるのだろうか?彼女がぼんやりと顔を上げると、隣の車線に高級そうな黒い車が走っており、中には、どこか寂しげな雰囲気を漂わせる、風格のある男性が座っていた。九条薫は道端に立ち止まり、その男性を見つめていた......彼女の視線を感じ取ったのか、男性がこっちを見てきた。視線が交わる寸前、一台のトラックが通り過ぎ、中から、物悲しいラブソング『儚きあわ影』が流れてきた。【儚きあわ影のような恋、まるで一瞬の花火】【あなたの約束は、脆く儚い】【愛とは儚きあわ影、もしそれを見抜くことができたなら】【何をそんなに悲しむ必要があるだろう......】【どんなに美しい花も、咲けば散る】【どんなに輝く星も、一瞬で流れ星になる】【愛とは儚きあわ影、もしそれを見抜くことができたなら......】【何をそんなに悲しむ必要があるだろう】【なぜ悲しむの......】......トラックが走り去った時に跳ね上がった地面の水が藤堂沢の車にかかった。小林は窓を閉めながら、思わず呟いた。「最近の道路建設は、本当に出来が悪いです!」藤堂沢は気分が優れず、かすかに微
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第535話

藤堂沢がそこに到着した時には、九条薫の姿はもうなかった。ピカピカに磨かれた黒い車のドアが開き、そこから降りてきたスラッとした気品あふれる男は、さっきの街角に佇んだまま、焦った様子で周囲を見渡し、愛する人を探していたのだった。薫、薫、一体どこにいるんだ......店の大きなガラス窓越しに、九条薫は目の前の男をじっと見ていた。その男はあまりにもきれいに整った顔立ちに、高価そうな服やアクセサリーを身に着けていた。すると、彼もまた急に、彼女を見つめ返してきたのだった。彼の顔は引きつり、その眼差しは複雑な感情で満ちていた。九条薫は、理由もなく胸騒ぎがした。彼女は視線を落とし、色褪せたスニーカーを見つめた。そして再び男の気品ある姿を見ると、小さく唇を噛み締めた。きっと、彼とは知り合いではないだろう。自分には、こんな気高い男性と知り合う機会などないはずだ。しかし、男の視線は熱烈だった。それはまるで、彼女を溶かしてしまいそうな熱さだった。彼女は立ち去ろうとしたが、男は早足で近づいてきて、彼女の手首を掴んだ。男の声は低く嗄れており、耳を澄ますと、かすかな苦しみが混じっているようだった。「薫!」どうして......彼は自分の名前を知っているのだろう?九条薫は必死に抵抗したが、男の力は驚くほど強く、彼女は腕を振りほどくことができなかった。彼女は顔を上げて彼を見上げた。彼に解放してくれるよう頼もうとしたが、苦しみに満ちた黒い瞳と視線が合った瞬間、心臓が激しく鼓動し始めた。何かが心の奥底から溢れ出しそうになるが、それを考えると、頭が割れるように痛んだ。藤堂沢は、一年間彼女を捜し続けてきた。ついに再会を果たした二人だったが、互いを見知らぬままでいるしかなかった。九条薫の視線には、警戒心と、見知らぬ者を見るような冷たさがあった......彼女は彼を覚えていなかった。彼が藤堂沢であることも、かつて愛し合い、憎しみ合ったことも、二人の子供を育てたことも、すべて忘れてしまっていた。彼女の世界では、藤堂沢はただの他人だった。藤堂沢は思わず、彼女の手首を強く握りしめた。手首にうっすらと残る傷跡を彼の掌の温もりにじわっと温められた九条薫は、すっぴんのまま、わずかに唇を震わせ、小鼻が不自然に少し膨らんだ......突然、彼女は
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第536話

その時、看護師が点滴を外しながら、優しく言った。「九条さん、今のは栄養剤です。退院後は栄養に気をつけてください。少し栄養失調気味ですね」九条薫は少し恥ずかしかった。今時、栄養失調だなんて、人に言えることではなかった。彼女は小さな声で「はい」と答えた。看護師は微笑んで部屋を出て行った。九条薫はベッドから降り、荷物をまとめて帰ろうとした時、藤堂沢にお礼を言おうとして、少し戸惑いながら尋ねた。「私たち、知り合いなの?」藤堂沢はすぐに答えようとしなかった。しばらくして、彼はそっと言った。「ただの、行きずりの他人だ」九条薫はホッとした。しかし同時に、彼女は心にわずかな寂しさを感じた。何が原因なのか、彼女自身にも分からなかった......帰る前、彼女はトイレを借りた。鏡の前に立ち、平らな腹部を露わにした。肌は滑らかだが、よく見ると、うっすらと妊娠線が浮かんでいるのが見えた。それは、出産の痕だった。彼女は、かつて子供を産んだことがあったのだ......九条薫はしばらく、鏡に映る自分の姿を見つめていた。そして、白いシャツを下ろし、小さなリュックサックを背負って、自分の居場所ではない病室を後にした......彼女が去る時、男はまだ病室にいたが、彼女は彼に目を向けることができなかった。彼らは、そもそも住む世界が違うのだ。九条薫と藤堂沢はそのまま肩を擦りすれ違っていたが、互いに別れを告げることもなく、連絡先を交換することもなかった。彼が言うように、二人の出会いは、まるでただの行きずりの他人同士のようなものだった。しかし、彼女には知る由もなかった。彼女が去ったあと、藤堂沢は表情を曇らせた。あれほど長い間彼女を捜し、待ち続けてきたというのに、彼は今、彼女を手放さなければならなかった。そうしているうちに、入り口から、ハイヒールの音が聞こえてきた。田中秘書が駆けつけてきたのだ。彼女がドアを開けて入ると、ベッドの上には誰もいないことに気づき、焦った様子で「どうして彼女を帰したんですか?どうして本当のことを言わなかったんですか?」と藤堂沢に問いただした。藤堂沢は窓辺に歩み寄り、階下をゆっくりと歩く女性の姿を見つめていた。胸の中は痛みのあまり、もはや麻痺してしまったかのようだった。しばらくして、彼は田中秘書に打ち明
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第537話

藤堂沢は邸宅に戻った。佐藤清と子供たちはまだ夕食を食べていなかった。彼女に付き添われた藤堂言は机に向かい、真剣に宿題に取り組んでいた。藤堂群は積み木で遊んでいた。玄関の方から足音がして、藤堂沢が帰ってきたのだ。彼はいつものように先に靴を履き替えず、そのまま歩み寄り藤堂群を抱き上げて軽く揺すった後、藤堂言のそばに行き、「お姉ちゃんの宿題を見てみようか」と言った。佐藤清はつかさず彼に「ずっと集中して宿題をやっているわ!さっきはバイオリンの練習もしていたのよ」と告げた。藤堂言は顔を上げ、照れくさそうに微笑んだ。藤堂沢は彼女の頭を優しく撫でながら言った。「先にご飯を食べよう。食べ終わってからまたやればいい」彼がそう言うと、使用人が料理を並べ始めた。今日は九条薫の誕生日だったため、佐藤清は藤堂沢が悲しむのではないかと心配していたが、藤堂沢は思いのほか上機嫌だった。自分にも料理を取り分け、子供たちにも話しかけるなんて......普段無口な藤堂沢とは少し様子が違っていた。佐藤清は尋ねようとしたが、結局何も言えなかった。お利巧な藤堂言も、父親の様子がいつもと違うことに気づいていた。彼女は豚の角煮を一口食べながら、おそるおそる尋ねた。「ママのことで、何か良い知らせがあったの?」藤堂沢は小さく「ああ」と答えた。その短い返事に、佐藤清は思わず涙を流した。こんないい日に泣きたくなかったが、どうしても感情を抑えることができなかった。彼女は顔を背け、静かに涙を拭った。藤堂沢は立ち上がり、彼女のそばに行き、ティッシュを渡した。佐藤清は震える声で言った。「藤堂さん、本当に良かった!本当に良かったわ!彼女がどこにいるのか、今はどうしているのか......元気なのか、教えて!」藤堂言も、じっと父親を見つめていた。藤堂群も幼いながら、母親が戻ってくることを理解していた......藤堂沢はしばらく黙っていた後、九条薫の状況と、自分の計画を佐藤清に話した。佐藤清は、彼の話を聞いて唖然とした。しばらくして、彼女はかすれた声で尋ねた。「他に方法は、ないの?」藤堂沢は首を横に振った。子供たちの前で、薬の副作用について詳しく話すことはできなかった。藤堂文人が服用していた薬とは違い、九条薫に注射された薬は非常に強力で、彼女の神経損傷は
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第538話

藤堂沢は複雑な気持ちだった。父親としての誇りを感じる一方で、子供たちに申し訳ない気持ちもあった。九条薫は紛れもなく彼らの母親なのに、知らないふりをするように教えなければならないのだ。それでも、藤堂言は嬉しそうだった。この一年以上、母親が戻ってくることなど夢にも思っていなかった彼女にとって、母親との再会は、この上ない喜びだった......その夜、藤堂言は微笑みを浮かべながら眠りについた。夢の中は、幸せな出来事で溢れていた。藤堂沢はベッドの傍らで、彼女をずっと見つめていた。その後、彼は寝室に戻り、シャワーを浴びてベッドに横になったが、どうしても寝付けなかった。ちょうどその時、田中秘書からメッセージが届いた。探偵が九条薫の後をつけて撮った写真には彼女の居所......一軒ごく普通の安宿が映っていた。藤堂沢は写真を見て、胸が痛んだ。一泊3千2百円の安宿の環境なんて良いはずがなかった。彼の九条薫は、小さい頃から甘やかされて育ち、自転車にすら乗りたがらなかったのに、色んな人が出入りするような宿に泊まるなんて。しばらくして、彼はベッドから起き上がり、服を着て、夜の街へ出た。20分後、黒いロールスロイスが、薄汚れた路地の脇に止まった。藤堂沢はドアを開けて車から降りた。彼は古びた壁に寄りかかり、タバコに火をつけた。黒い服は夜の闇に溶け込み、白い指に挟まれたタバコからは、紫煙が立ち上っていた......それはこの場所にそぐわない気品溢れる姿だった。だけど、周囲の好奇の視線には目もくれず、彼は「青岚荘」という名の安宿をじっと見つめていた。外見は、かなり古びていた。藤堂沢は深みのある眼差しをしていた。頬をこけながらタバコを思いきっり吸い込むその表情は男らしさを、より一層引き立てていた。......その頃、九条薫は3坪にも満たない部屋の中で、財布を見つめ、考え込んでいた。財布の中には8千円ほどしか入っていなかったはずなのに、今は真新しい札束が入っていた。数えてみると、4万円以上もあった。考えてみれば、あの気品のある男性が置いたに違いない。どうして彼はお金を入れてくれたのだろう?九条薫は彼にお金を返そうと思ったが、連絡先を知らない......明日、あの病院に行ってみよう。そう考えているうちに、お腹が空いてき
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第539話

それでも彼に用事があったので、彼女は勇気を出して近づいていった。男の目の前に立つと、彼の背がとても高いことに気づいた。彼女は肩までしかない身長で、彼に話しかけるには、顔を上げなければならない。彼女は少し躊躇してから尋ねた。「私の財布の中のお金、あなたが入れたの?」藤堂沢は否定しなかった。「ああ。少しばかりの償いだ」九条薫は小さな声で言った。「あなたに償ってもらうようなことはないわ。そのお金は受け取れないから、宿に戻って取って来るね」藤堂沢は静かに彼女を見つめた。記憶を失っていたが、九条薫の性格は全く変わっていなかった。彼女は人にたかることも恩をうけたまま返さないことも嫌っていた......何事もはっきりさせたい性格なのだ。彼はお金を受け取ろうとは思っていなかったが、彼女のぎこちない様子を見ていると、思わず彼女の後に続いてしまった。受付の女性は、九条薫が男性を連れてきたのを見て、しかも金持ちそうな男性だったので、驚きを隠せない様子だった。あんなに清楚そうな子が、まさかこんなことをしているとは。しかも、やり手なのか、男は見るからに大金持ちだった。入口に停めてある車は彼のだろうか、2億円以上はするだろう。女性の視線はあまりにも露骨だったため、九条薫は彼女が誤解していることに気づいたが、何も説明せずに、藤堂沢に廊下にいるよう言った。「一人で泊まっているので、部屋に上げるのはちょっと......」藤堂沢はお構いなく、という紳士的なジェスチャーをした。九条薫は少し耳を赤らめた。彼女は、目の前の男は何か企んでいるのではないかと安心できず、警戒していたのだった......宿は老朽化が進んでおり、ちょうどその時、廊下の電気が切れてしまった。すると一瞬にして、辺り一面真っ暗になった......九条薫は暗闇が苦手だった。思わず息を荒くした彼女は何かに掴まろうとして、偶然にも藤堂沢の腕に触れしまった。細い腕が彼の服に食い込み、とっさに彼女はその逞しい腕を掴んだ。そして、彼女は温かい腕の中に抱き寄せられた。熱い唇が彼女の耳元に近づき、囁いた。「本当に暗闇が怖いのか?それとも、わざと俺を誘っているのか?」九条薫は、恥ずかしさと怒りでいっぱいになった。やっぱり自分の思った通り、彼は不真面目な男で、見るからにいい人じゃ
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第540話

藤堂沢は冷静に言った。「じゃあ、いくらならいい?40万円?それとも400万円?」九条薫は怒って、彼の頬を平手打ちした。叩いた後、彼女はすぐに後悔した。こんな男を怒らせてはいけない。もし仕返しされたら、どうすればいい?彼女はそれほど強く叩かなかったし、藤堂沢も気にしていなかった。彼は頬を撫でながら、深い眼差しで言った。「じゃあ、一回のキスで4万円はどうだ?」何だって......九条薫は彼の言葉の意味が理解できなかった。藤堂沢は一歩下がり、壁に寄りかかってポケットからタバコを取り出した......火をつけ、ゆっくりと二口吸ってから、彼女に目を向けくすっと笑った。「まだ帰らないのか?さっきの続きをして欲しい?」その瞬間、九条薫は、どうしようもなく彼が憎らしくなった。彼女はそれ以上彼に近づかず、早足で自分の部屋に戻り、ドアに鍵をかけ、背中でドアを押さえた。今もまだ、彼女の足は震えていた。男が彼女にキスをした時の感触、強く抱きしめられた感覚、そして、彼の体から漂うシェービングローションのほのかな香り......彼が自分の体を愛撫した時、指の腹で優しく撫でられた感触が、まだ残っていた。九条薫は思わず顔を覆った。一体何を考えているんだ。彼は明らかにあなたに乱暴しようとしたのに、どうして彼の魅力に惑わされるの?きっと、彼はこれまでにも、多くの女性に同じ手口を使ってきたに違いない。そう思った九条薫は、明日にでも引っ越そうと決めた。彼がまだ近くにいたらどうしようと思うと、パンを買いに行くことさえ怖かった。彼女は狭いベッドの端に腰掛け、空腹を我慢していた......30分ほど経った頃、受付の女性が彼女の部屋のドアをノックした。九条薫はドアを開けた。受付の女性は複雑な表情で、彼女に豪華な弁当を差し出した。「さっきのお金持ちの男の人がくれたのよ!私にまで1万円もお駄賃をくれたわ。こんなに気前のいいお客さんに遭ったのは初めてよ」受付の女性はさらに尋ねた。「連絡先は交換した?あんな男、逃がしちゃだめよ。でも、絶対に本気になってはダメよ。お金だけもらえばいいの!あんな男は、絶対奥さんがいるわ」九条薫は黙って弁当を受け取った。どんなにプライドが高くても、食べなければ生きていけない。食事を済ませたら、どこか遠くへ行
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