一方、紗雪は吉岡を連れて契約のため、不動産会社の事務所に訪れていた。営業担当は紗雪の姿を見るなり、思わず立ち上がり、目いっぱいの笑顔と安堵の表情を浮かべた。用意していた契約書を取り出し、紗雪の前に置く。「驚きました。まさか二川さんがあのご老人がずっと待っていた『ご縁のある方』だったとは」営業は思わず言葉を重ねる。「正直なところ、以前はご老人が冗談を言っているのだと思っていたんです。でも今なら分かります。あの方は、二川さんのような方に出会っていなかっただけなんですね。私たちのほうが浅はかでした。やはり、何事もきちんとした証が必要です。これからは、ぜひ二川さんから学ばせていただきたいです」「そんなことありません。たまたまです」紗雪は営業からペンを受け取り、迷うことなく自分の名前をサインした。その瞬間、彼女の心はようやく落ち着いた。自分のスタジオを持ち、これから努力する目標と原動力も手に入れた。これからは他人のためではなく、自分のために働き、自分のために頑張れる。もう誰かに縛られる必要はない。「内容は確認されなくてよろしいのですか?」あまりにも早く署名したため、営業は少し不安になった。万が一、後から問題が起きたら、自分では責任を負いきれない。「大丈夫です。皆さんを信じていますから」紗雪は微笑んで答えた。「それに、以前ご老人ともお話ししましたし、人柄も分かっています。この点で、これ以上時間をかける必要はありません」それよりも、内装業者に連絡して、スタジオをどう自分好みの雰囲気に仕上げるか考えたほうがいい。やるべきことは、まだ山ほどある。しかも開業日はすでに決まっていて、残りは半月あまり。時間はかなり差し迫っており、じっくり契約書を読み込む余裕などなかった。「さっぱりした方ですね」営業はそう言われ、内心とても安心した。この家は、本当に良い借り手に巡り合えた。――これがご老人の言っていた「ご縁のある方」なのだろう。そう考えると、紗雪は確かに申し分ない人物だった。しかも、家の管理もしっかりしてくれるはずで、自分たちが心配する必要はまったくない。「さっぱり、というほどではありません。ただ、皆さんの対応から、十分な信頼を感じただけです」紗雪は立ち上がって言った。
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