All Chapters of クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!: Chapter 1201 - Chapter 1210

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第1201話

一方、紗雪は吉岡を連れて契約のため、不動産会社の事務所に訪れていた。営業担当は紗雪の姿を見るなり、思わず立ち上がり、目いっぱいの笑顔と安堵の表情を浮かべた。用意していた契約書を取り出し、紗雪の前に置く。「驚きました。まさか二川さんがあのご老人がずっと待っていた『ご縁のある方』だったとは」営業は思わず言葉を重ねる。「正直なところ、以前はご老人が冗談を言っているのだと思っていたんです。でも今なら分かります。あの方は、二川さんのような方に出会っていなかっただけなんですね。私たちのほうが浅はかでした。やはり、何事もきちんとした証が必要です。これからは、ぜひ二川さんから学ばせていただきたいです」「そんなことありません。たまたまです」紗雪は営業からペンを受け取り、迷うことなく自分の名前をサインした。その瞬間、彼女の心はようやく落ち着いた。自分のスタジオを持ち、これから努力する目標と原動力も手に入れた。これからは他人のためではなく、自分のために働き、自分のために頑張れる。もう誰かに縛られる必要はない。「内容は確認されなくてよろしいのですか?」あまりにも早く署名したため、営業は少し不安になった。万が一、後から問題が起きたら、自分では責任を負いきれない。「大丈夫です。皆さんを信じていますから」紗雪は微笑んで答えた。「それに、以前ご老人ともお話ししましたし、人柄も分かっています。この点で、これ以上時間をかける必要はありません」それよりも、内装業者に連絡して、スタジオをどう自分好みの雰囲気に仕上げるか考えたほうがいい。やるべきことは、まだ山ほどある。しかも開業日はすでに決まっていて、残りは半月あまり。時間はかなり差し迫っており、じっくり契約書を読み込む余裕などなかった。「さっぱりした方ですね」営業はそう言われ、内心とても安心した。この家は、本当に良い借り手に巡り合えた。――これがご老人の言っていた「ご縁のある方」なのだろう。そう考えると、紗雪は確かに申し分ない人物だった。しかも、家の管理もしっかりしてくれるはずで、自分たちが心配する必要はまったくない。「さっぱり、というほどではありません。ただ、皆さんの対応から、十分な信頼を感じただけです」紗雪は立ち上がって言った。
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第1202話

「いえ、ただ......なんだか夢を見ているみたいで」吉岡は小さな声で答えた。「夢みたい、って?」紗雪は吉岡の顔を見て、その言葉の意図が分からず首をかしげる。吉岡は足を止め、真剣な表情で紗雪を見つめた。「まだ実感が湧かないんです。まさか、こんなに早く独立することになるなんて......正直、もっと時間がかかると思っていました。でも社長は行動派で、言ったことはすぐ実行する人ですよね。いつも迷いがない」紗雪はくすっと笑った。「それは当然よ。人生なんて3万日ほどしかないのに、何でも先延ばしにしていたら、それこそ臆病者と同じでしょ。チャンスはそこにあるのに、掴まなければ、他の誰かが代わりに掴んでしまう。それに私は全部、自分の夢のため。もう誰かに縛られる生き方はしたくないの」そう口にした瞬間、紗雪の瞳の奥に、かすかな陰りがよぎった。彼女の脳裏には、かつて母が自分にどう接してきたかが浮かぶ。同じ娘なのに、彼女と緒莉への態度は、あまりにも違っていた。緒莉が体が弱いとはいえ、彼女自身も、確かに自分を傷つけることをしてきた。それでも、母の考えは変わらなかった。美月は相変わらず緒莉を大切にし、彼女の気持ちなど考えもしない。何をしても、自分は緒莉には敵わないのだろうか。紗雪の胸に、苦い感情が滲んだ。会社を離れたとはいえ、心の奥に引っかかったままのものは、簡単には消えない。これまでに受けた傷は、すべて母からのものだった。これからは、一人で受け止めていくしかない。そして、もう何かを期待することもやめなければならない。母の関心は、すでに緒莉のほうに向いている。これから二川グループがどうなろうと、彼女はもう関わるつもりはなかった。自分の人生を手に入れたのなら、過去のすべては手放すべきだ。いつまでも心に引きずるものではない。結局、忘れられずにいるのは、自分だけなのかもしれなかった。紗雪が黙り込んだのを見て、吉岡の目がわずかに沈む。彼もまた、何かを察したようだった。「大丈夫ですよ、社長。今の生活は、もう十分いいじゃないですか」吉岡はそう声をかけた。紗雪はうなずいた。「ええ、分かってるわ。あれはもう過去のこと。今は頭も整理できてるし、これから何をするべきかもはっきりしてる」
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第1203話

彼女も話題を切り替えた。「これからよ。これからは、新しい方向に進むんだから」吉岡も、紗雪の言う通りだと思った。それに、彼女が自分をそばに置いてくれること自体、十分すぎるほど幸運だと感じている。これまで、他の社長の下についたことがないわけではない。だが、どの人間がどんな性格か、彼はよく分かっていた。部下を搾取するか、技術を出し惜しみするか。自分の持っているものを、決して下の者に教えようとしない人間ばかりだった。しかし、紗雪はまったく違う。人に対して誠実で、自分が身につけたものは、惜しみなく教えてくれる。むしろ、相手が自分以上にできるようになることを望んでさえいる。彼女ができることは、すべて包み隠さず渡してくれるのだ。それだけで、吉岡は学べることが山ほどあると感じていた。だからこそ、紗雪の後ろについていくことに、何の不満もなかった。......夜。紗雪は別荘へ戻った。まだ明かりがついていて、少し意外に思う。今日は京弥の帰りが、ずいぶん早い。いつもとは少し違う。紗雪がリビングに入り、扉を開けた瞬間、見慣れた腕に抱き寄せられた。思わず戸惑い、彼を軽く押して尋ねる。「どうしたの?急に抱きしめてきて......」「別に。急に、会いたくなっただけだ」京弥は紗雪の首元に顔を埋め、少しこもった声で答えた。そのどこか幼い態度に、紗雪は一瞬、反応が遅れた。こんな京弥を見るのは初めてだ。むしろ、どう対応していいのか分からない。「京弥、何かあったの?」紗雪は穏やかな声で、ゆっくり問いかけた。京弥の腕は、さらにきつく彼女を抱きしめる。紗雪は宥めるように背中を叩きながら、内心では違和感を覚えていた。今日の彼は、明らかに様子がおかしい。わざと冗談めかして言う。「何か隠し事?」その瞬間、京弥の体がわずかに強張った。紗雪も、すぐに異変を察する。彼女は腕をほどき、数歩下がって、少し真剣な表情になった。「......本当に何か隠してるの?」最初から、京弥と接していて、どこか引っかかるものはあった。だが、今日の彼は特におかしい。急に抱きしめてきたり、言葉の端々がどこか曖昧だったり。それに気づかないほど、彼女は鈍くない。だからこそ、こうして
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第1204話

紗雪は視線を逸らしながら言った。「そ、それは......スタジオのことで忙しかったの。京弥も忙しいと思って、あえて言わなかっただけだよ」「紗雪」京弥は、愛おしさを滲ませた声で紗雪の名を呼んだ。その呼び方に、紗雪ははっとして胸が揺れる。慌てて顔を上げると、京弥は彼女の手を握り、柔らかな水のような眼差しで言った。「俺の中では、君の用事がいつだって最優先だ。そんなに気を遣わなくていい」「......うん、わかった」紗雪は真剣に頷いた。顔を上げた瞬間、男の優しい瞳と目が合う。京弥の眼差しは淵のようで、見つめ返すうちに、紗雪のほうが気恥ずかしくなってしまった。気を抜いたら、そのまま吸い込まれてしまいそうだった。紗雪は視線を外し、彼の目を見続けるのをやめる。「もう遅いし、そろそろ寝るね」「待って」京弥は突然手を伸ばし、紗雪の腕を掴んで洗面所へ行かせなかった。紗雪は俯いて、その手を見つめ、戸惑ったように言う。「どうしたの?急に」やはり、今日の京弥はどこかおかしい。でも、何がどうおかしいのかは、自分でもうまく説明できなかった。「次からは、どんなことでもいいから、先に俺に一言言ってくれる?」京弥は低い声で尋ねる。その目には、かすかな懇願の色すら浮かんでいた。そんな彼を見て、紗雪はますます戸惑う。仕方なく話題を逸らした。「でも......私たち、お互い忙しいでしょう?京弥の時間を、全部私に使わせるなんてできないよ」紗雪の中では、彼女と京弥はそれぞれやるべきことを抱えた、別々の存在だった。たとえ今は夫婦でも、何もかも自分優先にして、彼の生活を奪うようなことはしたくない。そんな付き合い方は、どこか間違っている気がした。けれど今の京弥の目を見て、紗雪は疑い始める。――もしかして、彼は最初から考え方が違っていたのではないか。夫婦というのは、互いを縛り合うものなのだろうか。少なくとも、京弥はそう思っているようだった。京弥は真剣な表情で紗雪を見つめ、言った。「でも、夫婦って普通一つになるべきだろ。ここまで線を引くなんて......もしかして、もう俺のことを愛してないの?」その言葉を聞いた瞬間、紗雪は思わず目を見開いた。彼を上から下までじっと見つめ、どうして
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第1205話

彼が近づいてきたとき、紗雪はまだ状況を飲み込めず、反射的に後ずさりしてしまった。「そ、そんなの、わかってるよ」紗雪は頬をうっすら赤くしながら言う。「話すのはいいけど、そんなに近づかないで」「どうしたんだ、さっちゃん?」京弥はまた紗雪の愛称を呼ぶ。「俺たちは、夫婦だろ?そんなに照れるなんて......もしかして、まだ慣れてないの?」「違う、そうじゃない」紗雪は一度深く息を吸い、手を伸ばして京弥の胸に当てた。「ストップ。ここまで。これ以上来ないで」「で、その先は?」京弥は口元に薄い笑みを浮かべ、紗雪を見つめる。紗雪は仕方なく俯き、小さく呟いた。「わかったよ......これからは、どんなことでも京弥に相談するから。大きいことも小さいことも、全部」「わかってくれてありがとう」京弥は手を伸ばし、紗雪の柔らかな頭をくしゃりと撫でた。その瞳には、隠しきれない笑みが宿っている。この一言をもらえただけで、胸の奥がずいぶんと落ち着いた。これなら、彼女がまた何かを隠して勝手に動くんじゃないかと、不安になる必要もない。少なくとも、状況は把握できる。もう、匠の口から紗雪の近況を聞かされることもないだろう。京弥は、匠に言われたあの一言を思い出す。――自分の妻のことなのに、本人からは何も知らされていない。他人から聞く羽目になっている。同じベッドで眠っているはずなのに、と。「井上にまで笑われたんだよ、俺」京弥は、いつものクールさを完全に捨てて、紗雪に愚痴をこぼす。「え?」紗雪は首を傾げた。すると京弥は、やけに真剣な顔で言った。「俺たちは夫婦なのに、俺がわざわざ調べなきゃいけないことがあるのはおかしい。一緒に寝てるんじゃないのか、ってさ。あいつ、俺たちの夫婦仲に問題があるんじゃないかって疑ってるんだよ?」そう言いながら、京弥はそのまま紗雪を抱きしめ、離そうとしなかった。「でも、俺たちはうまくいってるだろ?あれは全部根も葉もない噂だ。だから、ちゃんと証明しなきゃ」そこまで聞いて、紗雪もようやく京弥の本心を理解した。要するに――スタジオの件を事前に話していなかったことが原因なのだ。だから彼は、遠回しに「これからは全部話してほしい」と言っている。他人の口か
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第1206話

二人で眠ることにすっかり慣れてしまったからだろうか。紗雪は京弥の腕の中に身を預けていると、心の奥まで満たされるような安心感を覚えた。京弥もまた、紗雪を抱きしめたまま眠りにつき、胸の内は穏やかな満足感で満ちていた。慣れているからこそ、この得難い幸せをより大切に思えるのだ。二人の間には、多くの出来事があった。京弥は顎を紗雪の頭に軽く乗せ、低い声で問いかける。「最近、スタジオのほうで何か困ったことはないか?」「どうしてそんなことを?」紗雪もまた、柔らかな声で答えた。「もし俺にできることがあったら、言ってほしい」京弥は彼女を抱く腕に、少しだけ力を込める。「俺たちの間では、何でも正直でいたいんだ。距離を置く必要なんてない。夫婦なんだから、力になれるなら当然だろ?」「うん、わかった」紗雪の耳元が、わずかに赤く染まった。京弥の言葉に、彼女はどうしても抗えなかった。長い時間を共に過ごしてきて、彼がどんな想いで自分に接しているのかも、もう十分わかっている。彼は心から彼女を思い、外で少しでも嫌な思いをしてほしくないと願っている。そして、自分にできることがあるなら、必ず支えたいのだ。その気持ちは、紗雪にもちゃんと伝わっていた。男の体温を感じながら、紗雪の胸にはじんわりとした温もりが広がる。けれど同時に、今日の京弥の様子が、どうしても引っかかっていた。――本当に、何も隠していないのだろうか。もしそうなら、どうしてあんな反応を見せたのか。ただの探りだったはずなのに、相手は一瞬で身体を強張らせた。今日の京弥の態度は、どうしても疑念を呼ぶ。紗雪は瞳をわずかに細め、そのまま何も言わず、再び彼の胸に身を委ねた。二人とも、言葉を発しなかった。夜は長い。ただこうして抱き合っているだけで、二人とも不思議なほど安心していた。......翌朝。京弥は早起きして、紗雪のために朝食を作っていた。彼女が目を覚ましたとき、隣にはもう温もりは残っていない。身支度を整えてリビングに出ると、キッチンで忙しく動く京弥の背中が目に入った。背の高い男性がエプロンをつけている姿は、どこかちぐはぐで、そのギャップに思わず笑みがこぼれる。紗雪はそのままキッチンへ行き、後ろから彼の引き締まった腰に腕
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第1207話

紗雪は京弥にすっかり機嫌を取られて、心までぱっと花が咲いたようだった。「ねえ、最近ちょっと覚醒したんじゃない?」「え、どういう意味?」京弥は少し首を傾げる。「だって最近の京弥、甘いことばっかりじゃない」紗雪はわざと足を止め、京弥を見上げて言った。「まさか、外に別の女の人がいるとか?だから口説き文句が急に上達したの?」「は?!」京弥は目を見開き、信じられないという表情で紗雪を見る。まさかそんな言葉が、彼女の口から出てくるとは思っていなかった。「普段、俺たちずっと一緒だろ。仕事中以外に、他の女のところ行く時間なんてあるわけないじゃないか」思わず必死に弁解する。その顔には、少し不服そうな色まで浮かんでいた。190センチを超える長身なのに、まるでいじめられた子犬みたいな目で紗雪を見つめている。紗雪はわざと不機嫌そうに言った。「それはどうだか。仕事中は私、そばにいないし。京弥の周りに可愛い子がいても、私は知らないもの」「じゃあ、俺はどうすればいい?」京弥は目を輝かせて言い出す。「いっそ仕事辞めて、スタジオで君に付き添おうか?」その瞬間、紗雪は慌てて一歩下がり、両手を振った。「いやいや!冗談だから!そんなことしなくてもいいから!」彼女は確信していた。もしここで頷いたら、京弥は本当にすぐ仕事を放り出して来かねない。あまりに嬉しそうな彼の様子は、今すぐ一緒に働きたいと言わんばかりだった。でも紗雪は、自分のために相手がキャリアを犠牲にすることを望まなかった。どちらか一方が無理をし続ける関係は、長くは続かない。たとえ今はうまくいっていても、いつか必ず歪みが出る。「私は京弥が私のせいで無理するの、嫌なの」紗雪は少し笑みを引っ込めて言った。「むしろお互いを高め合うべきでしょ。だから私のために、自分を変える必要なんてない」京弥は、彼女の瞳に宿る光を見て、彼女が本気だと悟った。「わかってるよ。さっきのは冗談」彼は彼女の額にそっとキスを落とす。「ただ、できるだけ一緒にいたかっただけだし、君に安心してほしかった。それだけ」「ならいいけど。今の、嘘じゃないと祈ってるよ」紗雪は少し拗ねたように、京弥を睨んだ。京弥はすぐに胸を張って言う。「もちろん。俺は仕事
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第1208話

彼はそのまま職人たちに、どこを壊してどこを改修するのか指示し始めた。その様子を見て、紗雪の胸には安堵と喜びが満ちていく。「おはよう。早いのね」紗雪は時間を確認した。まだ8時を少し過ぎたところだ。自分でも十分早く来たつもりだったが、まさか吉岡のほうが先に来て待っているとは思わなかった。吉岡は紗雪の姿を見ると、すぐに振り返って挨拶した。「おはようございます、社長。特に用事もなかったですし、家でぼーっとしているくらいなら、早めに来て工事の進み具合を見ていようと思いまして。そうすれば、スタジオの完成もスムーズに進んで、開業も慌てずに済みますから。開業日ももう決まっていますし、進捗はしっかり見ておかないといけませんからね」吉岡は真剣な表情で話していた。まるでこれが自分自身の仕事、いや人生そのものかのようだった。だが実のところ、これらは紗雪が頼んだわけではない。すべて吉岡が自発的に動いていることだった。紗雪は胸が熱くなり、思わず声をかける。「そんなに無理して、体は大丈夫?」「大丈夫ですよ、社長。まだ全然です」吉岡は少し笑って言った。「心配してくれるのは嬉しいですけど、この程度なら問題ありません。前はもっと大変な思いもしてきましたし。それに、これは私たちにとって希望ですから。全然つらくないですし、むしろ楽しいくらいです!」「そうか。じゃあスタジオが完成したら、一緒にテープカットしよう」紗雪は彼の肩を軽く叩いた。こうして二人は、スタジオづくりに本格的に取りかかった。午前もだいぶ進んだころ、清那が慌ただしく家から駆けつけてきた。口にはまだ肉まんをくわえたままだ。「紗雪!吉岡!おはよう!」清那が元気よく声を上げる。その声に、二人は同時に振り返った。「今が何時だと思ってるの。もう『おはよう』って時間じゃないでしょ」紗雪は呆れたように言う。清那は慌てて肉まんを口から外し、照れくさそうに頭をかいた。「寝坊しちゃってさ。朝はお母さんに叩き起こされたんだよ」「まあ、別にそんなに人手が足りないわけじゃないけどね」紗雪は冗談めかして言った。実際、この現場はそこまで大人数で見張る必要はない。それでも紗雪は、清那にもっと関わってほしかった。家でだらだらするより、こうして
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第1209話

「清那が得意だと思ってたから任せたの」紗雪は念を押すように言った。「栄養があって、ちゃんとエネルギー補給になるものを選んでね。それと、職人さん全員分の飲み物も忘れずに。今日は暑いから」「了解、任せて!」清那は紗雪に向かって、OKサインを作った。ほかのことはともかく、食べることや飲むこと、こういう手配に関しては彼女は相当詳しい。職人たちのことも、きっと隅々まで行き届くように用意してくれるだろう。その点については心配いらないと判断し、紗雪は清那のことは任せておくことにした。紗雪が吉岡と打ち合わせをしていると、突然、スタジオの門がノックされた。「すみません。こちらは、紗雪さんが借りているお宅でしょうか?」不意に聞こえた男性の声に、その場にいた全員の意識が一気に引き戻される。ちょうど入口近くにいた清那が、声のほうを見て問いかけた。「どちらさまですか?」敦は清那を見ると、さっと服装を整えた。「こんにちは。二川さんに用があって来たんですが、場所は合っていますよね?」清那はうなずいた。「ええ、間違ってません。ここは二川さんが借りている家で、将来の仕事場になるところです」それを聞いて、敦はぱっと表情を明るくした。「そうですか、それならよかった。では、お手数ですが中で二川さんに伝えていただけますか」確かに急ぎの用がありそうだと感じ、清那は中へ駆け戻って紗雪に声をかけた。「紗雪、外に男の人が来てる。あなたに用があるみたい」紗雪は吉岡と目を合わせた。この時間帯に、誰が訪ねてくるのか、二人とも見当がつかない。「名前は聞いた?」紗雪が尋ねる。「......あっ」清那は太ももを叩いて、少し悔しそうな声を出した。相手の名前を聞くのを、すっかり忘れていたのだ。その様子を見て、紗雪は苦笑する。「まあ、大丈夫だよ。行けば分かるから」清那は付け足すように言った。「でも、明らかに用事がありそうな感じだったよ」「分かった」紗雪はうなずき、特に深く考えずに入口へ向かった。そこで目に入ったのは、見覚えのある顔だった。「柿本社長?どうしてこちらに?」紗雪は思わず声を上げた。敦も、どこか安堵したような表情で言う。「二川さん、本当に探しましたよ」「私に何かご用です
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第1210話

コーヒーはすぐに運ばれてきた。ほどなくして、二人の前にそれぞれ一杯ずつ置かれる。紗雪の言葉を聞き、敦は取り繕うこともなく、素直に笑って言った。「さすがは二川さんです。何もかも、お見通しだ」紗雪は淡く微笑んだだけで、カップの中のコーヒーを静かにかき混ぜながら、特に何も言わなかった。敦が切り出す。「二川さん、今はもう二川グループを離れていますよね。となると、以前お話ししていた南の土地プロジェクトは、どうなるのでしょうか」その一言に、紗雪はその場で固まった。一瞬呆然とした表情を浮かべ、どうやらその件を完全に失念していたらしい。敦はその様子を見て、思わず声を上げた。「まさか......忘れたんですか?」「い、いえ、違います」紗雪は気まずそうに取り繕う。「ただ最近、少し立て込んでいて......確かに、気が回っていなかった」コーヒーをかき混ぜる手つきが、無意識のうちに早くなっていた。まさか「忘れていました」と正直に言えるはずもない。そんなことを口にしたら、相手の顔を潰すことになってしまう。敦も何かを察したのか、その表情は気まずさから理解へと変わった。二川グループであれだけの出来事があったのだから、無理もない。「では、二川さんは今、どうお考えですか?」敦自身も、正直なところ判断に迷っていた。この件については、以前から匠に「このプロジェクトは紗雪に任せる」と言われていた。だが今や彼女は会社を離れている。個人として彼女と組むのか、それとも彼女の背後にある会社と組むのか......もし後者なら、今すぐ二川グループと契約を結ぶこともできる。ただ、社長の真意が読めず、軽率な決断はできなかった。紗雪も少し戸惑いながら言った。「つまり......柿本社長は、私個人と組みたい、ということですか?」「ええ。実際にこの案件を詰めてきたのは、私たち二人ですから」敦は、彼女がようやく意図を理解したのを見て、表情まで明るくなった。「そもそも二川グループと組もうと思ったのも、二川さん、あなたの実力を評価してのことでした」そう続けて言う。「ですが今、あなたはもうグループにはいない。私としては、この案件を安易にそのまま二川グループに渡すわけにはいかないんです」紗雪はコーヒーを一口
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