All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 251 - Chapter 260

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第251話

深水言吾という男は、理不尽なほどに整った顔立ちをしている。旭や彼の叔父のような、人間離れした美貌の男たちを目の当たりにした後でさえ、改めて見惚れてしまうほどに。特に、こうして入念に身なりを整えた彼の前では、他のどんな景色も色褪せて見える。そして、あの太陽のような笑顔。彼が笑うだけで、世界が瞬く間に輝き出すような錯覚に陥る。だが今、その輝きは跡形もなく消え去っていた。まるで、世界から一斉に色が失われたかのようだ。見る者の胸に、思わず痛みが走るほどの光景だった。ネットでよく言うではないか。美しすぎる相手と恋に落ちてはいけない、と。どんな過ちも、その顔を見れば許してしまうから。催眠のせいか、それとも連夜見ていた甘い夢があまりに鮮明だったからか。目の前で彼の笑顔が砕け散った瞬間、一葉は、自分の意思とは裏腹に、胸に鋭い痛みを感じていた。言吾は花束を一葉に手渡すと、力なく笑った。「……全部、知ってしまったんだね」「ええ」一葉は感情を押し殺した声で応えると、続けた。「言吾、二度とこんな真似はしないで。もし次も、催眠だか何だか知らないけれど、同じようなことをしたら……その時は、二つの会社の株を全部売り払って、あなたとの関係を完全に断ち切るわ。離婚協議書には、私が株を売ってはいけないなんて条項はなかったはずよ」かつての離婚協議書には、彼が会社に利益をもたらし続ける限り、一葉は彼を解雇できないという縛りこそあれ、会社そのものの売却を禁じる文言はなかった。そのあまりに決然とした言葉に、言吾の目がみるみるうちに赤く染まった。「一葉、そんなことは言わないでくれ。俺が……俺が死ぬほど悪かったのは分かってる。君に許される資格なんてないことも。でも、自分の首を絞めるような真似だけはしないでくれ。この半年、俺が死に物狂いで働いてきた結果を君も見てるはずだ。会社の時価総額は、もう倍近くになっているんだよ」「……」一葉は言葉に詰まった。彼の言う通りだった。元より商才に長けた言吾は、会社の利益で一葉を繋ぎ止めようと決意してからは、鬼気迫るほどの辣腕を振るっていた。当初は、お荷物だった旧・深水グループを切り捨て、新会社に注力する計画だったはずが、より大きな利益を生み出すために方針を転換。旧会社の経営にも乗り出
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第252話

七年間愛し合った仲だ。言吾も一葉の性格をある程度は理解している。彼女にとって重要でなくなった人間は、その意識の中から次第に追いやられ、最終的には存在しなかったかのように忘れ去られてしまうことを。あの研究室で、自分をただの知人としか見ていない、何の感情も映さない瞳で見つめられたこと。あの出来事が、まだ躊躇していた彼の背中を押し、なりふり構わぬ行動に走らせたのだ。一葉が何かを言う前に、彼は顔を上げ、すがるような目で彼女を見つめた。「でも一葉、どうしても耐えられないんだ。君が俺を完全に忘れてしまうなんて。俺を見ず知らずの他人を見るような、そんな目で見られるなんて……俺には無理だ。もし君との可能性が完全に絶たれたら、俺は自分が何をしでかすか分からない。……こんなことを言うのが間違っていると分かっていても、自分を抑えられないんだ」彼が死なない限り、この執着が消えることはないのだろう。一葉には分からなかった。言吾が、純粋に自分を愛するが故に失うことに耐えられないのか、それとも、自らの愚かさが原因で手放すことになった「完璧な愛」という幻想に固執しているだけなのか。分かっているのは、彼が平静を装いながら、その実、狂気の淵に立っているということだけ。この静かな狂気こそが、最も恐ろしい。彼を冷静にさせなければ。彼の理性を繋ぎとめるための「希望」を与えなければ。「……じゃあ、こうしましょう。お互いに一歩ずつ譲るの。あなたはもうこれ以上、何もしないと約束して。私の実験が終わるまで。実験が終わって、それでも記憶が自然に戻らなければ、あなたの言う催眠療法を検討してもいいわ。でも、保証はできない。記憶が戻ったからといって、私が必ずあなたを受け入れるとは限らない。その時になって、また私を無理強いすることは許さないから」その言葉に、絶望と狂気に満ちていた言吾の瞳が、途端に眩いほどの光を取り戻した。まるで、骨を与えられて、今にも尻尾を振り出しそうな大きな犬のようだ。「ああ!」記憶さえ戻れば、自分への愛を思い出してくれさえすれば、彼女は必ずもう一度チャンスをくれるはずだ。あれほど深く、自分を愛してくれていたのだから。言吾はそう確信していた。彼の姿が見えなくなると、一葉の瞳から光が消えた。自分の意思とは裏腹に込み上げたあの痛みに、
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第253話

多くの企業が定期的に慈善活動を行うのは、よくあることだ。だから、彼のその言葉を、一葉は特に深く考えなかった。「あなたがちょうど慈善活動を考えていたのなら、あなたの会社の名義で寄付すればいいわ」費用を出すのは彼なのだから、自分が寄贈者として名前を連ねるのは筋が通らない。それに、会社名義で寄付をすれば、企業イメージの向上や税制上の優遇措置といった、彼にとっての利点も大きい。そこに自分の名前を加えても、何の意味もないだろう。一葉はそう考えていた。そんな彼女の言葉に、源は思わずといった様子で苦笑した。「一葉、君は本気で分かってないのか?俺が、どうして俺たち二人の名前で寄付したいのか」一葉は、きょとんとした。彼の言葉の真意が、全く分からなかったからだ。そんな彼女の様子を見て、源は心底から察したのだろう。大きなため息をついた。「……どうやら、俺のアピールはまだまだ足りなかったみたいだな」その言葉で、一葉の脳裏にある記憶が蘇った。以前、自分を拘置所から救い出してくれた法学教授に礼を言った時、同席していた源が口にした、どこか意味深な言葉。彼女が何かを言いかけるより先に、源が口を開いた。「一葉、君が好きだ。高校の頃から、もう十年も、ずっと好きだった。俺が言吾さんと友人になったのも、ただ君に少しでも近づきたかったからなんだ。君に好きな人ができて、結婚してからも、俺はずっと君の幸せを願ってた。でも、君は今、自由な身だ。だから……俺に、君を追いかけるチャンスをくれないか」一葉が何かを言いかける前に、源は慌てたように言葉を継いだ。「分かってる。君が今、実験のことで頭がいっぱいで、恋愛なんて考える余裕がないことも。……だから、待てる」「いつか君が恋をしたいと思った時、どうか、俺をその最初の選択肢に入れてほしいんだ」言い終えるや、彼は一葉に断られるのを恐れるかのように、「返事は急がないから」とだけ言い残し、何か急用があるのだとでもいうように、足早に去っていった。源の去っていく背中を見送りながら、一葉は何を考えるべきか、分からなくなっていた。彼の言う通り、今の自分は、頭の中が実験のことで埋め尽くされていて、恋愛問題など微塵も考えたことがなかったのだ。考えるべきことが分からない以上、今は何も考えないでおこう。一葉は、そう結論付け
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第254話

――その、背後から。「へぇ、ずいぶんとお忙しいこったな」その、嘲りを多分に含んだ声に、一葉は弾かれたように振り返った。そして、壁に背を預け、声を発した男の正体を目にした時、一葉は息を呑んだ。旭の……叔父さん……?「元旦那を手玉に取って、ただ働きの番犬に仕立て上げ、その足で薬局の若旦那には医療機器を貢がせ、今度は大学教授とやらと夜更けまで語り明かし……家に帰る前には、年下の坊やに餌付けも忘れない、と。ククッ……いやはや、大したもんだ。青山さん、その手腕、その時間管理術……実に見事なもんだぜ」一葉は、「……」言葉を失った。確かに、今日一日の目まぐるしいスケジュールを思えば、彼が言う「時間管理の達人」という皮肉も、あながち間違いではないかもしれない。だが……「……なぜ、私の今日の行動をご存知で?」監視、されてる……?一葉の考えを読み取ったように、男は鼻で笑った。「桐生家の跡取りと懇意にしてる女だ。身辺を洗うのは当然だろう」旭の家柄を思えば、それも仕方がないことなのかもしれない。一葉はそう納得し、それ以上何も言わなかった。突如、男が大股で歩み寄り、一葉との距離を詰めた。一葉が反応する間もなく、その手が伸び、彼女の顎をぐいと掬い上げる。無理やり顔を上げさせられ、男の視線と真正面からぶつかった。鷹のように鋭い黒い瞳が、一葉の顔を値踏みするように一瞥し――「……平凡な顔だな」一葉は、「……」言葉を失った。絶世の美女というわけではないけれど、学生時代はそれなりにちやほやされてきたんだけど!いや、今はそんなことはどうでもいい。問題は……一葉が険しい表情でその手を振り払おうとした、まさにその瞬間だった。男はまるで先んじたかのようにすっと手を離し、かすかな嘲笑を唇に浮かべた。「指紋の件、どうだった?」その言葉に、一葉の瞳の色がすっと深くなる。彼に知られれば、何らかの手段で妨害されるに違いない。そう恐れたからこそ、一葉は蛇口を大学院の研究室に持ち込み、誰の手も借りずに自ら鑑定を行ったのだ。だが、検出された指紋は……優花のものでは、全くなかった。「身の程をわきまえろ」男はそれだけを言い残すと、くるりと背を向けた。まるで、自分の命の恩人に手を出すなと、わざわざ釘を刺しに来たか
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第255話

マウスでの実験成功は、すなわち、一葉たちが開発したスマートチップが、損傷した人間の神経を刺激できることを意味していた。さながら心臓のペースメーカーのように、神経損傷によって麻痺を余儀なくされた人々を、再びその足で立たせることができるのだ。「一葉!君ならやれると信じていた!やはり君はやってくれた!」いつもは冷静沈着な先生が、興奮した様子で一葉を強く抱きしめた。その目元は、赤く潤んでいた。一葉もまた、込み上げる熱いもので視界が滲むのを止められなかった。これでようやく、先生に、そしてかつて大志を抱いた自分自身に、胸を張れる。自分を信じ、期待を寄せてくれた全ての人たちに、顔向けができる。万感の思いが、一葉の胸を締め付けた。言吾は、かねてより一葉たちの研究室の動向を注視していた。それゆえに、実験が成功したという知らせを、誰よりも早く掴んでいた。その報は、他ならぬ一葉本人よりも、言吾を歓喜させ、興奮の渦に叩き込んだ。「一葉、君は本当にすごい!なんてことだ!」実験の完了は、すなわち一葉の記憶を取り戻すための催眠療法が可能になることを意味する。言吾が喜ぶのは当然だった。だが、彼の声色にはそれだけではない、彼女の成し遂げた偉業そのものに対する、純粋な称賛と感動が満ち溢れていた。「一葉、すまなかった。昔の俺は、あまりに自己中心的だった。こんなにも素晴らしい才能を持つ君に、俺のために学問の道を諦めさせ、あまつさえ君という人間そのものを疑うなんて……俺は……最低の男だ。俺の愛は、あまりに独り善がりだった」どうすれば人を正しく愛せるのか、言吾は今、必死に学ぼうとしていた。「一葉、どうか、もう一度だけチャンスをくれないか。今度こそ、君を世界で一番幸せにしてみせるから!」本当の愛とは、相手の幸せを願い、時には手放すことだと、言吾は頭では理解していた。だが、この世界で自分以上に一葉を愛し、彼女を幸せにできる人間などいるはずがないと、彼は心の底から信じてもいた。誰に彼女を託そうとも、不幸にするだけだ。過去に犯した過ちは、これからの人生の全てを懸けて償う。だからどうか――どうしても、彼女の記憶を取り戻し、もう一度やり直したかった。一日も早く催眠を受けさせたい、記憶を取り戻させたい。彼の焦りにも似た切望が、電話口から痛い
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第256話

そして船はすでに、どこの国の法も及ばない公海上を航行していた。一葉を攫った男には、見覚えがあった。以前、研究室に投資話を持ち掛けてきた、木原奎司(きはら けいじ)という男だ。彼の瞳の奥に宿るいやらしさを見抜いていたし、そもそも資金に困ってはいなかったため、一葉は何度となく彼の申し出を突っぱねていたのだ。「いやはや、青山先生はさすが天才の中の天才だ。たった一年であの奇跡を起こしちまうんだからな。……だが、そんなとんでもねえ研究成果を、体の不自由な連中のために使うなんざ、宝の持ち腐れってもんだ。どうだい、俺たちと組んで、でっかいヤマを当ててみないか?」木原奎司という男は、やはり一葉が感じた通りの人でなしだった。彼は巨大な犯罪組織に属しており、一葉の研究技術を悪用して、人の脳神経を自在に操るチップを開発させようと企んでいた。そうして各所に自分たちの息のかかった人間を配置し、あらゆる犯罪を容易に遂行できるようにするためだ。「……お断りします」チップで人間を操ることなど、技術的に至難の業だ。だが、たとえそれが可能だったとしても、犯罪に手を貸すことなど万に一つもあり得ない。一葉は毅然として言い放った。「おっと、そう焦って結論を出さないでいただきたいもんだな。あんたの恩師にも、こちらへお越しいただいている。……先生がどうなってもいいって言うんなら、話は別だが」その言葉に、一葉の瞳がすっと凍りついた。先生がどこに囚われているか分からない以上、下手に動くことはできない。その夜、一葉は寝返りばかりを打ちながら、思考を巡らせていた。一体どこでしくじったのか、どうすればこの牢獄から脱出できるのか。考えがまとまらないまま時間だけが過ぎていく、その時だった。部屋のドアが、音もなく静かに開かれた。一葉は息を殺し、全身の神経を研ぎ澄ませる。抜き足差し足で近づいてくる気配。それがベッドのすぐそばまで来た時、彼女の緊張は最高潮に達した。同時に、一撃を食らわせるための覚悟も、とうに固まっていた。半年前、体内のプレートを除去する手術を受けた。今の体は、かつてのように何かを恐れて動けなくなる、脆いお人形さんなどではない。気配の主がベッドの縁に立ち、自分に触れようとした、その瞬間――一葉は渾身の力で蹴りを繰り出した。侵入者は、
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第257話

言吾の瞳が鋭く光る。彼は即座に一葉の手を引き、甲板へと続く通路を全力で駆け出した。その途上、暗がりで足元が見えなかった一葉が、釘のようなものを踏み抜いてしまう。激痛が走り、その場に崩れ落ちそうになった。言吾は躊躇なく彼女を抱きかかえ、走り続ける。だが、時すでに遅く、四方八方から敵が迫ってきていた。言吾が連れてきた部下が船の電源を落とし、一瞬、船内が完全な闇に包まれる。しかし、敵の装備は万全だった。すぐに非常灯が一斉に点灯し、船上は再び煌々と照らし出された。逃げ場は、もうない。言吾の部下たちが一人、また一人と倒れていくのを目の当たりにし、一葉は彼の胸を強く押した。「私を置いていって!彼らが欲しいのは私の技術よ、命までは取らないわ。でも、あなたは殺される!早く逃げて!」彼が自分を見捨てさえすれば、その身のこなしなら、きっと逃げ切れるはずだった。「ダメだ!」言吾は一葉を離すどころか、むしろ一層強くその体を抱きしめ、甲板へと突き進んだ。一葉は彼の腕の中でもがき、自分を降ろさせようとした。すると、彼が叫ぶ。「奴らは世界最大の犯罪組織だ!これまで何人もの科学者を攫い、誰一人として生きて戻った者はいない!もし奴らに連れて行かれたら……!」二度と、生きては戻れない。そうだとしても、一葉は言吾を道連れにはしたくない。「言吾……!」だが、一葉がどれだけ声を上げても、彼は頑として彼女を放そうとしなかった。下手に抵抗して足手まといになるだけだと分かっているから、むやみに暴れることもできない。言吾が最後の力を振り絞り、一葉を抱えたまま甲板にたどり着く。あと一歩で、海に飛び込める――その、刹那。乾いた銃声が、夜の空気を引き裂いた。言吾の喉から、くぐもった呻きが漏れる。その巨大な体がぐらりと大きく揺らめき、立っているのがやっとのようだった。その一発が、一葉の思考を撃ち抜いた。頭の中で、キーンと耳鳴りが鳴り響く。彼女は、反射的に言吾の背中に手を伸ばした。指先に、ぬるりとした生暖かい感触が広がる。血だ。しかも、その場所は――心臓。理解した瞬間、一葉の瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。「言吾……!」もはや己の体を支えることすらままならない言吾が、最後の力を振り絞り、一葉の体を柵の上へと持ち上げる。
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第258話

だが、これでいい。これで、よかったのだ。自分が死ねば、彼女を解放してやれる。彼女を幸せにしてやれる。もう二度と、彼女を苦しめ、悲しませることはない。追手が殺到してくるのを、彼はぼんやりと見つめていた。もはや逃げる力など、一欠片も残ってはいない。言吾は柵に体を預けたまま、ずるずるとその場に座り込むと、どこか満足げに微笑みながら、ポケットから一つのリモコンを取り出した。彼はこのクルーザーに爆弾を仕掛けさせていた。本来なら、無事に脱出した後、追手を振り切るために起爆させる手筈だった。万が一を考え、リモコンは二つ用意させていた。一つは隼人に。脱出が成功すれば、彼が即座に起爆させる。そしてもう一つは、こうして計画が失敗した時のために、自分の懐に。その「万が一」が、今まさに訪れたのだ。これが、愛する妻のためにできる、最後の仕事。彼女を、完全な安全の中へと逃がしてやるための。……海に投げ出された一葉の身体は、すぐさま力強い腕に捕らえられた。その腕は、彼女をボートへと引き寄せていく。自分を救い上げたのが隼人だと気づくと、一葉は頭の中の混乱を振り払い、焦燥に駆られて叫んだ。「私なんてどうだっていい!早く戻って言吾を助けて!あの人、撃たれたの!」しかし、隼人は彼女の懇願を無視した。一葉をボートへと引きずり上げると、彼はすぐさま離岸するよう操縦士に命じた。「言吾はまだあそこにいるのよ!」 必死の形相で、一葉は隼人の腕に掴みかかった。部下への命令を終えた隼人が、ゆっくりと振り返る。その目は、痛苦に耐えるように赤く充血していた。「……もう間に合わねぇんだ。言吾さんは、このクルーザーに大量の爆弾を仕掛けてた。作戦が失敗した時は……起爆させる手筈だった」「……俺たちを、確実に逃がすためにな」その言葉は、まるで雷鳴となって一葉の脳天を直撃し、思考を真っ白に染め上げた。彼女がその絶望的な意味を理解するよりも早く――ゴォッッッ!!!鼓膜を突き破るような轟音が、夜の海を震わせた。凄まじい衝撃波は、すでにかなりの距離を離れていたボートをも転覆させるほど激しく揺さぶる。床に叩きつけられた一葉が、弾かれたようにはっと顔を上げた。目に飛び込んできたのは、先ほどまで毅然と海上に浮かんでいたクルーザーが、一瞬にして巨
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第259話

本港市の夜風は、優しく、そして人を惑わすように甘美だった。優花は豪奢なスイートルームのバルコニーに立ち、遠くで咲いては消える花火を眺めながら、グラスの中の赤ワインを嗜む。その様は、満ち足りた心地よさに溢れていた。あの人がどれほど底が知れなくて、気分屋だろうと関係ない。でも、自分に優しいのは本当だし、以前は決して手の届かなかった高みへと引き上げてくれたのも、また事実なのだから。この地位があれば、何かを成し遂げるなんて、いとも簡単なことだわ――彼女は遥か海の向こうに想いを馳せた。今頃は一葉が捕らえられ、二度とあの籠から出られないだろうと想像する。その考えに至ると、優花は抑えきれないほどの高揚感に包まれ、思わずその場でくるりと舞ってしまった。まさか、この春雨優花の人生が、これほど劇的に好転するなんて、誰が想像できただろう?そうよ。私は、春雨優花。江ノ本千草なんかじゃない!懲役十三年を言い渡された時は、絶望のあまり獄中での自殺さえ考えた。それがどうだろう。信じられない。この春雨優花の人生は、破滅するどころか、かつては決して手の届かなかった高みへと昇り詰めたのだ!本当に……一葉には感謝したいくらいだわ!その悦楽に浸り、思わず鼻歌を口ずさもうとした、その時だった。「随分と楽しそうだね」背後から掛けられた薄氷のような声に、彼女はびくりと肩を震わせた。だが、すぐさま満面の笑みを浮かべて、男の方を振り返る。「ええ、今夜の花火がすっごく綺麗で……とっても嬉しいの」男はふっと鼻で笑うと、何も言わずにバルコニーの縁まで歩み寄った。そして、優雅な仕草で豪奢な彫刻が施された手すりに身をもたせ、一本の煙草に火をつける。その視線は、遠くの海面へと注がれていた。ゆらりと立ち上る紫煙の向こうで、男の存在はさらに深く、測り知れないものに見える。優花は、男の完璧な弧を描く横顔を、うっとりとした眼差しで見つめていた。この人が自分にどんな感情を抱いているのか、まったく掴めない。けれど、自分が彼を本気で好きだということだけは、確かだった。言吾を好きだった気持ち以上に、強く。彼に出会って、初めて知った。「男は少し悪いくらいが、女は惹かれる」という言葉の意味を。言吾の誠実さ、情の厚さ、一途さとは対極に
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第260話

ボートの上で、あの船が爆発するのを、言吾が炎に呑まれていくのを、なすすべもなく見ているしかなかった。その瞬間に蘇った全ての記憶――彼をどれほど愛していたかを自覚した時の感情の激流は、到底制御できるものではなかったのだ。だが、こうして目覚めた今。あの時のような、全てを飲み込むほどの激情は、不思議と鳴りを潜めていた。それがどんな感覚なのか、一葉自身、うまく説明できない。胸は張り裂けそうに痛み、苦しくて、泣き叫びたいほどで、何よりも、言吾に生きていてほしかった。けれど、ボートの上で感じたような、耐え難いほどの絶望や、いっそ自分が船に残ればよかったという自己破壊的な衝動は、もうなかった。結局のところ、自分はもう、かつてのように、ただひたすらに言吾を愛し、彼なしでは生きていけないと思い込んでいた頃の自分ではない。かといって、記憶を失くしていた間に、あれほど彼を憎んでいた自分でもないのだ。今、彼に対して抱いているこの感情が何なのか、一葉にはわからなかった。だが、それがどんな感情であれ、もはや重要ではなかった。今はただ、彼に生きていてほしかった。自分のせいで、あんな風に死んでほしくはなかった。ただ、それだけを願っていた。一葉は隼人に電話をかけ、何としてでも言吾を捜索するよう、冷静な口調で指示した。その落ち着き払った声を聞いた隼人は、抑えきれない怒りをぶつけた。「一葉……あんたって女は、なんて冷酷で、無情なんだ。マジで血も涙もねぇんだな!」「言吾さんが過去にあんたにしたことは、確かに間違いだったかもしれねぇ。だけどあの人は、あんたのために何度も命を懸けてきたんだぞ!それなのにあんたは……!」それなのにあんたは、ほんの少し悲しんだだけで、もう普段通りじゃないか――隼人は続く言葉をぐっと飲み込んだが、その胸の内には、どうしようもない憤りが渦巻いていた。自分の敬愛する兄貴分が、こんな女のために命を散らしたことが、あまりにも不憫で、あまりにも割に合わないと思えてならなかったのだ。一葉は何も答えなかった。いや、何と答えればいいのか、全くわからなかったのだ。言吾が自分に注いでくれた優しさは、本物だった。けれど、彼が与えた傷もまた、紛れもない現実だった。そのどちらもが、彼女の心の奥深くに、決して消えることのない痕
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