All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 271 - Chapter 280

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第271話

桐山には、どうしても理解できなかった。嵐がこんな凶行に及んだ動機が、皆目見当もつかないのだ。金が目当てだったのか? いや、それも違う。この研究成果はチーム名義で特許を申請している。世界市場で製品化されれば、研究室のメンバーは、誰もが億万長者になれるはずだった。彼が金に困るはずがない。百歩譲って、彼がどうしても金が必要だったとしよう。だとしても、一葉がいる。この研究室を自分の家のように大切にし、湯水のように資金を注ぎ込んできた彼女がいるのだ。メンバーの誰かが金のことで困っていると知れば、彼女は決して助力を惜しまないだろう。桐山教授は、考えれば考えるほど、分からなくなった。一体何が、嵐をここまで駆り立てたのか。自らの命さえも道具にして、一葉を破滅させようとするほどの、その憎悪の根源は何なのか。そして、師である自分自身をも。考え抜いた末に、答えは見つからなかった。最も信頼していた弟子からの裏切りと汚名を着せられたという事実に耐えきれず、桐山教授の身体は、糸が切れたように崩れ落ちた。病室のベッドに横たわる師を見下ろしながら、一葉は唇を噛んだ。まるで全身の精気を一瞬で抜き取られたかのように、恩師は数歳も老け込んで見えた。身体の脇で、彼女は拳を強く、強く握りしめる。――誰であろうと、私を破滅させたいならすればいい。でも、先生の名誉まで汚すことだけは、絶対に許さない!桐山教授は、その生涯の全てを研究に捧げてきた。研究のために寝る間も惜しみ、家庭を持つことさえしなかった。教育者となってからは、持てる知識と情熱の全てを、学生たちに注ぎ込んできた。利益のために学生の将来を摘むどころか、彼らが困難に陥れば、どんなことであれ力を貸してきた、そんな人だ。こんな清廉な人が、誰かの悪意によって汚されていいはずがない。断じて、許されることではないのだ。研究室に残った先輩たちに桐山教授の世話を頼むと、一葉はその足で木原嵐が入院している病院へと向かった。芝居を真に迫ったものにするためか、あるいは別の理由があったのか。嵐が自身に突き立てた刃は深く、彼は今もなお昏睡状態に陥っていた。医師から命に別状はないと聞き、ひとまず安堵した一葉は、そのまま病院の屋上へと続く階段を上った。神堂市の空は、晩秋の冷気に満ちている。吹き付ける風に薄いブラ
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第272話

「……一葉さん、僕には何のことだか」一葉は視線を彼に戻し、ふっと自嘲するように笑った。「三浦知樹……三浦先生。ねえ、私はあなたのこと、本当に、本当に大切な友人だと思ってた」「あの夜、あなたに出会えたことを、私がどれだけ幸運だと思っていたか、あなたにはわからないでしょうね。あなたのような本物の才能を持つ天才が、歩むべき道を歩めるように、そして先生に、あなたという素晴らしい生徒ができたことを、心から喜んでいた」知樹は何かを思い出したように唇をわずかに開いたが、結局、言葉が紡がれることはなかった。「でも……!あの頃の私がどれだけ幸運だと思ったか、今の私は、その何倍も後悔してる。あの時、あなたを先生に紹介したことを」先生の、あの方が生涯をかけて築き上げてきた名誉を、あなたに汚させる機会を与えてしまったことを。三浦知樹、先生があなたにどれだけ良くしてくださったか。先生がどれほど素晴らしい人か、あなたが一番よく知っているはず。なのに、どうしてそんな酷いことができるの。よくもあの方の名誉を、こんな形で汚すことができたわね!あの方は、その人生の全てを研究に、学生たちに捧げてきたのよ。普段は美味しいもの一つ、自分のためには食べようとせず、そのお金を全て困っている学生たちのために寄付してきた。そんな人を……!どうして、こんな嘘で貶めることができるの?」彼がどんな理由で自分を陥れ、名誉を傷つけようと、一葉はここまで心を痛めはしなかっただろう。かつて命を救われた恩がある。たとえ彼に破滅させられたとしても、きっと報復しようとは思わなかった。それで貸し借りはなくなると、そう思えたはずだ。でも、先生を貶めることだけは、断じて許せない。先生は、彼にとって大恩人のはずなのに!あの方が生涯をかけて守ってきた清らかな名声を、どうして彼は汚すことができたのだろうか。「一葉さん……」彼が言い終えるのを待たず、一葉は言葉を重ねた。「『知らない』なんて言葉は、もう聞きたくないわ。先生と私が親しげに写っている写真、あなたと私が二人きりでいる写真、それに、ホテルに出入りしているように見えるあの写真も……あなたが意図的に立ち位置を計算して、そういう風に見えるように仕組まなければ、絶対に撮れるはずのないものばかりよ」会場から戻り、一人になって冷静さ
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第273話

「……この研究が君主導で行われたという、決定的な証拠でもない限りね。だが、そんなものは存在しないはずだ。研究室のデータは全て共有されていた。木原先輩が知らないなんてことはあり得ない。君は、事実で彼らの嘘を覆すことができないんだ。だから、黒幕が誰かなんて突き止めても無意味だ。人々は真実なんて信じない。君が金で雇ったスケープゴートだと思うだけだろう。こうなってはもう……君が何をしようと、全てが無駄なんだよ」知樹の言葉は、冷酷なまでに的を射ていた。一葉の心に、ずしりと重くのしかかる。確かに、彼の言う通りだった。この研究が自分主導で行われたという確固たる証拠を提示できない限り、たとえ全てが誰かの策略だったと証明し、その犯人を白日の下に晒したところで、誰も信じないだろう。知樹は、一葉のことを、そして研究室の内部事情を、知り尽くしている。彼が仕掛けたこの盤面は、完全な「詰み」だった。「一葉さん、もう万策尽きたんだよ。君と先生には……本当に、申し訳ないことをしたと思っている。でも、僕には他にどうすることもできなかったんだ……」万が一にも、もし他に少しでも道があったなら、彼は決してこんな手段は選ばなかっただろう。「今のこの状況が、君と先生をどれだけ苦しめているか、わかっているつもりだ。だけど、これからの生活の心配はしなくていい。先生のことも、君のことも。この国で生きていけなくなるなんて、そんな心配もいらない。僕は、海外の研究機関から招聘を受けているんだ。もうすぐここを離れる。その時、君と先生も一緒に連れて行くことができる。海外なら、君たちのことを知る者は誰もいない。誰も君たちを指差したりしないさ。僕が必死に働いて、君と先生に最高の暮らしを約束する。僕の残りの人生の全てをかけて、二人を償うから!」その言葉を聞いた一葉は、思わず鼻で笑った。「必死に働いて私たちを養う?償うですって?」「まさか、そんな自分が崇高な自己犠牲のヒーローだとでも思ってるんじゃないでしょうね」他人の人生をめちゃくちゃに破壊しておきながら、その後の面倒を見る自分の苦労に感動しろとでも言うのだろうか。「……はっ」再び、乾いた笑いが一葉の唇から漏れた。「三浦知樹。私、本当に人を見る目がなかったみたい。どうして今まで気づかなかったんだ
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第274話

何が真実で、何が偽りなのか。わからない。自分の人を見る目が節穴だったのか、それとも、人間という生き物があまりにも巧みに仮面を被ることができるのか。目の前にいるこの男は、自分が知っている、あの知的で、博学で、心優しい三浦知樹とは、まるで別人だった。「一葉さん、一緒に海外へ行こう。信じてくれ。僕は本当に、残りの人生をかけて君と先生に償うつもりなんだ」獅子堂家……獅子堂家の当主夫人である獅子堂文江(ししどう ふみえ)は、帰宅するなり嫁が倒れたと聞き、厳しい顔つきのまま息子の部屋へと踏み込んだ。烈が口を開くより先に、文江は甲高い声で怒鳴りつける。「一体どういうことなの!紫苑(しおん)が妊娠しているのを知らないわけじゃないでしょう!それなのに、あの子に果物の世話をさせるなんて!あの子を疲れさせて倒れさせるなんて……!紫苑とお腹の子にもしものことがあったら、あなた責任を取れるの!」母親の鋭い詰問に、烈は眉をひそめた。何かがおかしい。その違和感は、今や確信に変わろうとしていた。烈の知る限り、母は自分を溺愛していた。彼女ほどの立場にある当主夫人というものは多忙を極め、子供の世話は乳母や使用人に任せるのが普通だ。だが、母はそうせず、自らの手で烈を育て上げた。高校を卒業して海外の大学へ進学した後も、母は一年の半分以上を海外で息子に付き添って過ごしたほどだ。裕福な家庭では稀に見るほどの、深い愛情だった。それほどまでに自分を慈しんでくれた母が、こんな詰るような口調で話すはずがない。それどころか、今、自分に向けられている眼差しには、抑えきれないほどの憎悪が宿っている。我が子を深く愛する母親の目では、到底なかった。何かに思い至ったように、烈は瞳をすっと眇め、冷たい声で言った。「俺がいつ、あいつに果物の世話をさせろと言った」「それに、あいつが無事だったからいいものの、仮に何かあったとして、それがどうしたって言うんだ。女一人、子供一人がいなくなったところで、この俺の甲斐性があれば、代わりなどいくらでも手に入る。責任が取れないだと?笑わせるな」文江は、息子の口からそのような言葉が飛び出すとは夢にも思わなかったのだろう。それまで保っていた優雅で高貴な佇まいは崩れ去り、大きく目を見開いている。信じがたいという表情と、どうして
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第275話

だが、烈はその内なる確信を、おくびにも出さなかった。ただ淡々と一言返事をすると、まだ仕事が残っていると告げる。そして、暗に文江へ退室を促した。文江も、倒れた嫁の容態が気にかかっていたのだろう。それ以上部屋に長居することはなかった。彼女が去ったのを見計らい、烈はすぐさま染谷秘書を呼びつけ、己の疑念について調査を命じようとした。だが、電話に手を伸ばしたその瞬間、はっと我に返る。今の自分という存在、そして自分の周りにいる人間は、すべて獅子堂家によって与えられたものだ。獅子堂家が用意した人間に、獅子堂家の内情を探らせたとて、何一つ掴めるはずがない。それどころか、こちらの疑いを悟られ、警戒を強めさせるだけだろう。烈は、内線ボタンに伸びていた指を止めた。こうなっては、一刻も早くこの足を治すしかない。自らの足で自由に動けるようになって初めて、真相に辿り着く機会が訪れるのだ。そう考えた時、ふと、先ほどまで見ていた科学技術フォーラムの生中継を思い出した。烈は再びノートパソコンを開く。自分の両足を治す可能性がある、その技術についてより深く知りたい。そして、青山一葉という、あの女についても。しかし、烈は画面に映し出された光景に言葉を失った。ほんの少し目を離していただけだというのに、事態は天と地がひっくり返るほどの大逆転を遂げていた。ネット上には、一葉を罵る言葉が滝のように流れていく。いくつものトレンドランキングで彼女の名前がトップを占めているのを見て、烈は呆然とした。青山一葉という女のことは、全く知らないはずだった。だが、なぜだろう。彼女が、人のベッドに潜り込んで研究成果を掠め取るような、そんな浅ましい女だとはどうしても思えなかった。やがて、ネット上のある書き込みが彼の目に留まる。彼女が二つの会社のオーナーであり、しかもそれがどちらも有名な企業であるという情報だった。それを見て、烈は自身の直感をさらに強くする。これほどの成功を収めている彼女が、わざわざ体を売ってまで成果を手に入れる必要など、どこにもないはずだ。不可解なことに、その二つの会社の名前を目にした時でさえ、烈は奇妙な懐かしさに似た感覚を覚えていた。なぜこれほどまでに馴染み深く感じるのか。思考を巡らせようとした、その時だった。ギリッ、と万力で締め付けられる
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第276話

幼くして捨てられたばかりか、今では自分自身でいることさえ許されない。これからは、亡き長男様の身代わりとして、この世を生きていかねばならないのだ。ああ、なんとお労しい……込み上げる憐憫のため息を、田所は必死に飲み込んだ。そんな素振りは微塵も見せることなく、ただ速やかに廊下を歩いていくのだった。……「一葉さん、僕は本心から君と先生に償いをしたいんだ。僕がこんなことをしたのは……君が先に僕たちを傷つけたからじゃないか。だから、こうするしかなかった。これでお互い様ということにして、外国でやり直さないか。また以前のように、支え合って生きていけないだろうか」知樹は、一葉と共に過ごした時間を心から慈しんでいた。共通の話題、共鳴する思考。彼女と過ごす日々は、知樹に本来の目的を忘れさせることが多々あった。無意識のうちに、ただ彼女のために何かをしてやりたくなる。初めて彼女が事故に遭ったと聞いた時、彼は何もかもを忘れ、ただ彼女の無事を確かめたい一心で駆けつけた。彼女が不当な扱いを受ければ、我を忘れて彼女の理不尽を晴らしてやりたいと願った。彼女が危険に晒されれば、無意識に体が動いていた。彼女と過ごす時間が長くなるほど、妹から聞かされていた彼女の人物像とはかけ離れているように思えてならなかった。この計画を遂行せずに済むよう、あらゆる方法を模索した。だが、どの道も塞がれており、彼に残された選択肢はこれしかなかったのだ。確かに自分は彼女を傷つけた。だが、自分は彼女の命を何度も救ったではないか。だから、これで貸し借りなしにしたい。互いの傷を水に流し、海外で、また以前のように寄り添って生きていきたいのだ。「私が、あなたたちを傷つけた?……何をしたっていうの?」一葉にとって、知樹はかけがえのない心の友であった。命を救われた恩もある。その才能を、心から尊敬していた。だからこそ、これ以上ないほどの失望と、吐き気を催すほどの嫌悪感を抱いている今でさえ――自分と恩師にあれほどの仕打ちをしておきながら、なおも真顔で「償いたい」などと口にするこの男に対してでさえ――彼のその言葉を聞くと、一葉は堪えきれずに問い返してしまった。自分たちの間に、何か決定的な誤解があるのではないか、と。だが、知樹は決して答えようとはしなかった。一葉が
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第277話

遥は堰を切ったように叫んだ。「私は学生の頃からずっと、言吾様が好きだった!やっとの思いで彼のそばまで辿り着いて、営業としての実力も認められて、どんどん彼に目をかけてもらえるようになったのに。もう少しで、私たちは愛し合って、結ばれるはずだった。それなのに、あんたが!青山一葉ッ!よくも私たちの邪魔をしてくれたわね!あの日、言吾様が酔って、私と結ばれようとしていたあの夜!あんたが言吾様を連れ去ったせいで、私はあのハゲでデブの取引先のクソジジイに犯されたのよ!あの悪魔はサディストでね、私が抵抗したせいで、足を折られただけじゃ済まなかった。下腹部を滅茶苦茶に殴られて、もう二度と母親にはなれない体にされたの!青山一葉……あんたは私の人生をめちゃくちゃにした!そして今、やっと、やっとのことで、私もあんたの人生をめちゃくちゃにしてやったわ!この数年間、私がどれだけ苦しんできたか、あんたに分かる!?私たち兄妹が、どれだけ努力して、どれだけ心血を注いでここまで来たか、あんたに分かるもんですか!青山一葉、この売女!あんたなんか、死ねばいいのよ!死んで当然よ!あんたの今の無様な姿を見ることが、どれだけ私の心を晴れやかにしてくれるか……ああ、愉快でたまらないわ!アハハハハ!」狂ったように笑いながらも、その瞳の奥に深い苦しみを宿す遥の姿に、知樹は思わず駆け寄り、その華奢な体を抱きしめた。本当は、一葉を傷つけるような真似はしたくなかった。遥の言い分が、そもそも筋違いであることも分かっていた。言吾と一葉は夫婦であり、他人の夫に懸想すること自体が間違っている。一葉が、故意に誰かを陥れるような人間ではないことも、知樹には痛いほど分かっていた。だが、遥が受けたのは、人としての尊厳を完膚なきまでに踏みにじる非道な仕打ちだ。彼女が、その原因となった一葉を恨むのも無理はない。その遥が、自らの命を盾に復讐を懇願したのだ。自分が手を貸さずに、一体どうすればよかったというのか。この世でただ一人の肉親が死にゆくのを、黙って見過ごすことなどできはしなかった。知樹の妹、遥には全く見覚えがなかった。だが、彼女が口にした「愛し合う」という言葉が、一葉の脳裏にある記憶の扉をこじ開けた。かつて、言吾が苦笑しながら話してくれた、ある出来事だ。「会社に、仕事はで
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第278話

「そして、あなた。あなたが過去にどんな目に遭ったかは知らないけれど、あんな偽りの写真を使い、私の名誉を傷つけた。その行為は、紛れもない犯罪よ」我に返った知樹が叫ぶ。「一葉さん、そんなことはやめてくれ!遥は……!」彼が何かを言い募ろうとするが、一葉はもう彼の言葉に耳を貸そうとはしなかった。聞く必要など、もはやどこにもなかった。背を向けて立ち去ろうとする一葉に、知樹が焦燥に駆られたように大声で叫んだ。「一葉さん!君は言ったはずだ!この命を救われた恩は決して忘れない、と!僕が何を頼んでも、君は聞いてくれると、そう言ったじゃないか!」その言葉に、一葉の足が止まる。知樹が自分を救ったのは、本心からだったはずだ。それは、彼女を陥れることへの罪悪感ゆえに。彼は、その恩を返せなどと、これまで一度も口にしたことはなかった。だが……妹が捕まるのを目の当たりにして、彼はこの「命の恩」を切り札にするしかなくなったのだ。一葉は、一度だけ彼の方を振り返った。だが、何も答えはしなかった。そして、そのまま静かにその場を後にした。命を救われた恩は、いずれ必ず返す。―――けれど、それは、今ではない。車に乗り込むと、警察に連行されていく三浦兄妹の後ろ姿を見つめながら、一葉は、知らず知らずのうちに深いため息を漏らしていた。一体、どうしてこんなことになってしまったのだろう。まるで、青天の霹靂だ。知樹の妹のことなど、記憶のどこを探っても見当たらない。ましてや、彼女に何かをした覚えなど、あるはずもなかった。それなのに、彼女は長年一葉を恨み続け、兄と共に五年もの間、息を潜めて復讐の機会を窺っていたという。馬鹿馬鹿しいにも程がある……一葉が再びため息をつこうとした、その時だった。隣から、旭がそっとミルクティーを差し出した。「姉さん、これ。ミルクティー、温かいから飲んで」差し出されたミルクティーを受け取り、一葉は旭の顔をじっと見つめた。あれほど優しく、穏やかで、頼り甲斐のあった三浦知樹という男。その全てが、自分を陥れるための芝居だった。あの裏切りを目の当たりにした今、一葉は人を信じるということが、途方もなく難しく感じられていた。その瞬間、ふと、言吾の抱えていた心の闇が、少しだけ理解できたような気がした。人を信じられ
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第279話

神堂市警の捜査は迅速に進み、事件の真相は程なくして明らかになった。遥が主張していた、「深水言吾が酔い、自分と結ばれようとしていた」とされる、あの夜の出来事。真相は、彼女が言吾と共に取引先との会食に臨んだ、という話ではなかった。彼女はその時点で既に言吾によって解雇されていたのだ。もはや言吾に接触する術を失った遥は、営業時代に知り合った取引先の男に連絡を取り、彼を利用して言吾を呼び出させた。酒の席で言吾を酔い潰し、既成事実を作ろうと画策していたのである。彼女は男を利用するつもりだったが、その男の方もまた、彼女に下心を抱いていた。男は確かに彼女に協力して言吾を呼び出したが、言吾に酒を勧める一方で、遥自身にも執拗に杯を重ねさせていた。その様子から、取引先の男が自分に遥を抱かせようとしているのだと察した言吾は、厠に立つふりをして、その場を抜け出していた。一葉が彼を迎えに行った時、彼は既に店の玄関先でぐったりと座り込んでいたという。つまり一葉は、終始遥の顔さえ見ていない。彼女を意図的に置き去りにし、男の毒牙にかからせたなど、全くの事実無根だったのである。真相を知らされても、知樹はさして驚かなかった。ここ二年の付き合いは言うまでもなく、初めて会ったあの屋上で自分を説得し、恩師を紹介してくれた時から、彼は分かっていた。一葉が、故意に妹を辱めるような人間ではないことを。だが、妹は頑なに「一葉のせいだ」と主張し続けた。彼女の復讐を手伝わなければ、兄の目の前で死んでみせるとまで言って、知樹を追い詰めたのだ。だから彼は、自分にこう言い聞かせるしかなかった。どうであれ、妹が傷ついたのは一葉と言吾が原因なのだと。たとえ一葉が故意に妹を置き去りにしたわけではなくとも、酔った若い女を男の客と二人きりにさせた時点で、彼女たちに非があるのだと。先に過ちを犯したのは向こうなのだから、自分は報復すべきなのだ、と。先に過ちを犯したのは向こうなのだから、自分は報復すべきなのだ、と。「すまない、一葉さん……」知樹は一葉に向き直った。その、いつもは理知的で温かかった瞳に、今は深い罪悪感の色が滲んでいた。彼はこれまで、彼女にたとえ悪意はなかったとしても、いくらかの非はあったのだと信じ込もうとしてきた。だが、まさか、彼女が遥の顔さ
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第280話

一葉が纏うイメージは、より恐ろしく、絶大な権力で全てを捻じ曲げる悪女として確固たるものになってしまったのである。そして、その炎に決定的な油を注いだのが、マスコミの取材に応じた一葉の両親の発言だった。彼ら曰く、一葉は子供の頃から要領のいい子だったという。普段はろくに勉強もしないのに、試験になると決まって高得点を取る。昔から人付き合いが悪く、友達一人いなかったが、不思議と教師からの受けだけは良かった。これまでずっと、先生たちに可愛がられてきた、と。言葉こそ濁していたが、その口ぶりは、彼女が子供の頃から教師に媚びへつらうことで成績を得てきたのだと、雄弁に物語っていた。ある記者が食い下がった。「では、彼女の大学入学試験の成績についてはどう説明しますか?」いかに教師に気に入られようとも、全国統一試験の結果ばかりは、一個人の裁量でどうにかなるものではない。すると二人は、それを鼻で笑って言い放った。「運が良かっただけよ。ヤマが当たったんでしょ、どうせ!」一葉の両親による、あのようなインタビューが公にされると、事態はさらに悪化した。元々一葉の実力を信じていなかった人々は、これで完全に確信を深めることになった。彼女の学業成績は幼い頃から教師に取り入って得たものであり、彼女が主張する「真相」や「潔白」もまた、資産家である彼女が金で買ったものに違いない、と。一葉の会社に対する風当たりは、ますます強くなる一方だった。言吾が彼女に残した会社の株価は、下落の一途を辿った。「このままでは……年末まで持ち堪えられず、倒産することになるかもしれません」言吾が探してきた経営責任者からの電話は、そんな絶望的な報告だった。彼は人格者であり、心から会社の将来を案じている人物だった。だからこそ、彼は訊かずにはいられなかったのだろう。「青山社長、あなたは……ご両親の実のお子さんなんですか」彼の声には、実の娘が危機に陥っているというのに、助けるどころか、まるでとどめを刺すかのように追い詰める親がこの世にいることへの、純粋な戸惑いが滲んでいた。一葉は、とうの昔に両親には絶望しきっていた。だから、今さら彼らがどんな行動を取ろうと、心が痛むということはなかった。ただ、ある種の感慨を禁じ得ない。優花が死んだと思っている今でさえ、あれほど自分を憎む
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