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第254話

作者: 青山米子
――その、背後から。

「へぇ、ずいぶんとお忙しいこったな」

その、嘲りを多分に含んだ声に、一葉は弾かれたように振り返った。

そして、壁に背を預け、声を発した男の正体を目にした時、一葉は息を呑んだ。

旭の……叔父さん……?

「元旦那を手玉に取って、ただ働きの番犬に仕立て上げ、その足で薬局の若旦那には医療機器を貢がせ、今度は大学教授とやらと夜更けまで語り明かし……家に帰る前には、年下の坊やに餌付けも忘れない、と。

ククッ……いやはや、大したもんだ。

青山さん、その手腕、その時間管理術……実に見事なもんだぜ」

一葉は、「……」言葉を失った。

確かに、今日一日の目まぐるしいスケジュールを思えば、彼が言う「時間管理の達人」という皮肉も、あながち間違いではないかもしれない。

だが……

「……なぜ、私の今日の行動をご存知で?」

監視、されてる……?

一葉の考えを読み取ったように、男は鼻で笑った。「桐生家の跡取りと懇意にしてる女だ。身辺を洗うのは当然だろう」

旭の家柄を思えば、それも仕方がないことなのかもしれない。一葉はそう納得し、それ以上何も言わなかった。

突如、男が大股で歩み寄り、一葉との距離を詰めた。

一葉が反応する間もなく、その手が伸び、彼女の顎をぐいと掬い上げる。

無理やり顔を上げさせられ、男の視線と真正面からぶつかった。

鷹のように鋭い黒い瞳が、一葉の顔を値踏みするように一瞥し――「……平凡な顔だな」

一葉は、「……」言葉を失った。

絶世の美女というわけではないけれど、学生時代はそれなりにちやほやされてきたんだけど!

いや、今はそんなことはどうでもいい。

問題は……

一葉が険しい表情でその手を振り払おうとした、まさにその瞬間だった。

男はまるで先んじたかのようにすっと手を離し、かすかな嘲笑を唇に浮かべた。「指紋の件、どうだった?」

その言葉に、一葉の瞳の色がすっと深くなる。

彼に知られれば、何らかの手段で妨害されるに違いない。そう恐れたからこそ、一葉は蛇口を大学院の研究室に持ち込み、誰の手も借りずに自ら鑑定を行ったのだ。

だが、検出された指紋は……優花のものでは、全くなかった。

「身の程をわきまえろ」

男はそれだけを言い残すと、くるりと背を向けた。

まるで、自分の命の恩人に手を出すなと、わざわざ釘を刺しに来たか
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