All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 631 - Chapter 640

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第631話

紫苑とて、本心からこの場所に留まり、自分をここまで貶めたあの役立たずの男を見送りたいわけではなかった。ただ、義父の同情をさらに引き、自分の不憫さを印象付けておきたかっただけだ。だから、彼女はさらに別れの言葉を並べ立てた後、執事と共にその場を後にした。車に乗り込み、屋敷を離れるとき、彼女は思わず振り返って獅子堂の家を見た。初めてこの門をくぐった日、自分がどれほど大きな野心に満ちていたかを、今でもはっきりと覚えている。未来に抱いていた、あの途方もない希望。自分の一生を意のままに操るだけでなく、多くの人間を駒のように動かし、全てを思い通りに進められると、本気で信じていた。まさか、その何一つとして叶うことなく、こんなにも惨めに、全てを失って逃げ出すことになろうとは。人生とは……なんと、ままならないものなのだろう。視界からどんどん遠ざかっていく屋敷を見つめていると、堪えきれなくなった涙が、頬を伝って落ちた。この瞬間、彼女は初めて理解した。時代劇で見る、罪を得て一族もろとも流罪となったお姫様が、振り返って我が家を見る、あの最後の眼差しに込められた尽きせぬ哀しみを。本港市──ここしばらく、一葉は人に獅子堂烈の動向をずっと見張らせていた。彼が脱獄したという知らせを聞いた時、言吾と慎也が万全の備えをしていると分かってはいても、胸のざわめきを抑えることはできなかった。万が一のことが起きたら、という恐怖。そのせいで、見張りをさらに厳しくさせていた。だからこそ、あの報せを一葉は誰よりも早く知ることになった。ここしばらく、一葉は人に烈の動向をずっと見張らせていた。彼が脱獄したという知らせを聞いた時、言吾と慎也が万全の備えをしていると分かってはいても、胸のざわめきを抑えることはできなかった。万が一のことが起きたら、という恐怖。そのせいで、見張りをさらに厳しくさせていた。だからこそ、あの報せを一葉は誰よりも早く知ることになった。──精神病院で、文江が烈を刺し殺し、その場で自害した、と。その衝撃は凄まじく、一葉はしばらく呆然として、我に返ることができなかった。文江という女性と直接言葉を交わした回数は決して多くはない。だが、その数少ないやり取りだけでも、彼女がどれほど烈という息子を偏愛しているかは、痛いほど伝わってきていた。烈がどのような死に方をしよう
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第632話

それまでどこか気の抜けた表情をしていた慎也の顔つきが、一瞬にして恐ろしいほど険しく、昏いものへと変わる。「何があった」何事にも動じない慎也が、唯一冷静でいられなくなるのが、この甥と姪に関わることだった。特に、彼らの身に何かあった時となれば、尚更だ。「先ほど、坊ちゃまが海外で尾白家の者共に待ち伏せされ……お車が制御不能となり、崖から転落された、と!」執事の言葉が終わるか終わらないかのうちに、慎也の手にあったグラスが、バキリと音を立てて砕け散った。ただでさえ昏く沈んでいた彼の表情は、もはや凄まじい殺気を帯びて見る者を震え上がらせるほどだった。全身から放たれるどす黒いオーラと殺意は、執事を立っているのもやっとという状態にまで追い詰めていた。だが、一葉には、その強烈な殺気は感じられなかった。旭の車が崖から落ちた、と聞いた瞬間、頭の中でキーンという音が鳴り響き、目の前が真っ白になった。何を考えればいいのか、何も考えたくはなかった。この数年で、旭はもう一葉にとってかけがえのない家族になっていた。こんなことが起きるなんて、到底受け入れられない。もう二度と、彼に会えなくなるかもしれない。その恐怖で、足から力が抜け、体はくずおれそうになった。それを、慎也が咄嗟に支えてくれた。「心配するな、俺がすぐに状況を確認しに行く。お前が考えているような、最悪の事態とは限らない。……今は何も考えるな。お前は妊婦なんだぞ。何よりも自分の体の安全を第一に考えろ」一葉は、思わず顔を上げて慎也を見つめた。どんな時も、何が起ころうとも、この人はいつもこうして落ち着き払っていて、人の心を安らかにしてくれる。まるで、何者にも打ち負かされることのない、鋼鉄の巨人のようだ。一葉の視線に気づくと、慎也の眼差しはさらに優しさを増した。「……怖がるな。旭くんは、絶対に死んだりしない」崖から落ちたのよ、崖よ!そんなことで、どうして無事でいられるというの。喉元まで出かかった言葉を、彼女は必死に飲み込んだ。でも、もしかしたら、崖の下は水かもしれない。もしかしたら、崖はそれほど高くないのかもしれない。今は、良い方に考えるべきだ。物事は、良い方に考えれば良い結果が訪れるし、悪い方に考えれば悪い結果が引き寄せられるというではないか。だから、一葉はその
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第633話

自分がいくら人脈をあたったところで、慎也の助けにはならないかもしれない。それでも、彼女はできる限りのことをしたかった。役に立つか立たないかなど関係ない、試せることは全て試すのだ。……旭は必ず無事だと、そう固く信じていた。どうか無事で、元気に帰ってきてほしいと、心から願っていた。だが、どれだけ強く信じようとも、どれだけ無事を祈ろうとも、現実は非情だった。彼が転落した崖の下は水がないどころか、目が眩むほど高い断崖絶壁だったのだ。世界一頑丈と言われた彼の車は、粉々に砕け散り、その残骸はあちこちに飛び散って、全てを回収することすら叶わなかった。遺体はまだ見つかっていない。だが、あの場所は猛獣が数多く生息する原生林。血の匂いに引き寄せられた、飢えた獣たちが、彼を跡形もなく喰らい尽くしてしまったとしても……どれだけ多くの人間が、旭は獣に喰われたのだろうと言っても、慎也は断じて信じなかった。彼は狂ったように旭の捜索を続ける一方で、同じく狂ったように尾白家への攻撃を開始した。尾白家からの狂気じみた報復が、一葉に及ぶことを恐れたのだろう。慎也は一葉に一言も告げることなく、婚約の破棄を公に発表した。そればかりか、彼女が身ごもっている子は言吾の子であるという噂を、意図的に巷へ流させたのだ。その噂が本港市中に知れ渡った頃合いを見計らい、彼は執事を通じて一葉に屋敷を去るよう告げた。そうすることで、慎也は自らが一葉に裏切られたがゆえに婚約を破棄したのだと世間に思い込ませ、他の疑念を抱かせないようにしたのだ。このところ、一葉と柚羽の関係はますます良好になっていた。本当の姉妹のように仲が良く、柚羽は一葉が一日も早く叔父と結婚し、自分の「叔母様」になって、永遠に家族でいられるようにと願っていた。だが、その彼女が、執事と共に一葉にここを去るよう、請いに来た。ただ、その目は恐ろしいほどに赤く腫れ上がり、堪えきれない涙が瞳に溢れ、そして、絞り出すように謝罪の言葉を口にした。彼女は、冷徹に一葉を追い出すという役目を、どうしても演じきれなかったのだ。「ごめんなさい、叔母様……ごめんなさい……」ずっと一葉のことを「叔母様」と呼んできたせいで、今さら呼び方を変えようにも、変えられなかったのだ。一葉は前に進み出て、そっと彼女の目尻の涙を拭ってやる。「謝らな
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第634話

柚羽が一緒に行くのを拒むのは、慎也を一人で敵に立ち向かわせたくないという思いの他に、自分を巻き込みたくないという気持ちがあるからだということも、一葉には痛いほど分かっていた。だからこそ、余計に彼女を連れて行きたかった。彼女に、どうか無事でいてほしいと願った。しかし、どんなに言葉を尽くし、誰にも知られずに密かに逃がすから迷惑はかからないと説いても、彼女の決意は揺らがなかった。一葉がさらに何かを言おうとした、その時だった。言吾が、現れた。慎也は、ただ彼女を屋敷から去らせるだけでは不十分だと考えたのだろう。尾白家が、自分たちの間に本当に亀裂が入ったのだと簡単には信じないだろうと踏んで、言吾に彼女を迎えに来させたのだ。それも、わざと人目を引くように、大々的に。言吾と一葉は、結局のところ、若い頃から共に過ごしてきた仲だ。以前のように、自らの痛みをぶつけるかのように、彼女をも傷つけずにはいられないといった不信感が消え去った今、彼は本来の一葉に対する深い理解を取り戻していた。柚羽を心配そうに見つめる彼女の視線だけで、言吾はすぐにその心中を察した。彼は大股で一葉のそばに歩み寄ると、その耳元に身を屈め、低い声で囁いた。「あの子のことは、あまり心配するな。俺が人を手配して、厳重に警護させる。絶対に、危険な目には遭わせん」言吾は、昔から義理堅い男だった。かつて慎也とは互いに助け合った仲。恋敵という関係ではあるものの、慎也が窮地に陥った今、彼に頼まれるまでもなく、真っ先に助けに駆けつけたのだ。一葉は、言吾がそんな言葉を口にするとは思ってもみなかった。ましてや、彼がとっくに柚羽を秘密裏に警護する手はずを整えていたとは。思わず顔を上げて言吾を見つめると、以前とはまるで別人のように落ち着き払った彼がそこにいて、一葉は一瞬、言葉を失った。今の言吾は、本当に昔の彼ではない。かつての彼は傲慢で我儘で、どれほど優れた実業家になろうとも、その瞳や振る舞いには、どこか子供っぽさが抜けなかった。物事を白黒はっきりさせたがるきらいもあり、昔の彼なら、たとえ死んでも恋敵と手を組むことなどなかっただろう。相手が窮地に陥っても追い打ちをかけないどころか、その家族を守るなど、到底考えられないことだった。彼は本当に……昔の彼ではなく、真に成熟したのだ。そんな彼を見て、胸
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第635話

そして、自分の心の中にいたあの少年が、日に日に遠ざかっていくことに。彼のその成熟ぶりは喜ばしいことのはずなのに、胸の奥には、いつも何か名状しがたい感情が渦巻いていた。だが、どちらにせよ、彼の変化は一葉にとって良いことであり、心の中の少年が消えていくこともまた、良いことなのだ。そうすればいつか、彼を見ても何も感じなくなり、特別な感情を抱くこともなくなるだろう。長年の付き合いになる、ただの旧友を見るように。ごく自然に隣に座り、子供たちの教育について、何のわだかまりもなく語り合える日が来るかもしれない。終わらない宴などない。全ての恋人たちが、最後まで添い遂げられるわけでもないのだから。かつて共に過ごした時間があった、青春は無駄ではなかった。それだけで、もう十分だった。柚羽が頑として同行を拒み、さらには言吾による警護も約束されたため、一葉はそれ以上彼女を説得することをやめ、言吾と共に屋敷を後にした。飛行機に乗り込むと、言吾は何度もこちらを見ては何かを言いかけ、しかし結局は口を噤んでしまう、ということを繰り返していた。彼がまたこちらに視線を向けたタイミングで、一葉は自ら口を開いた。「言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいわ。そんな風にされると、かえって気になるから」「もう夫婦ではないけれど、今の私たちは……そうね、友人みたいなものでしょう。だから、何も遠慮することはないわ」若い頃、言吾ともっとも愛し合っていた時期を、ふと思い出す。友人の一人が恋人と別れた後、「元彼が友達に戻りたいって言うんだけど、どう思う?」と相談してきたことがある。そして、「もし一葉が言吾と別れたら、友達でいられる?」と訊かれたのだ。その時の彼女は、きっぱりと「無理よ」と答えた。かつて深く愛し合った者同士が、別れた後に友人になることなど、できるはずがない。ずっとそう信じていた。愛が深ければ深いほど、別れの痛みは残酷なものになる。その痛みは、二人を「もう二度と顔も見たくない」という関係にさせるだけだと。だが今、自分から言吾に「友人」だと言っている。言吾は変わったが、自分もまた、大きく変わったのだと、一葉は静かに実感していた。二人はもう、昔の二人ではないのだ。だから、もう何も悔いる必要はない。言吾は一葉を見つめ、しばらくためらった末に、ようやく口を開い
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第636話

妊娠が分かってからというもの、何をするにも、まず無意識に子供たちのことを考えてしまう自分がいるのだ。言吾との関係も、そうだ。もしこの子たちがいなければ、たとえ一生顔も見たくないというほどではなくても、できる限り彼との関わりは避けていただろう。だが今は、子供たちの健やかな成長のために、何が最善かを第一に考えてしまう。だからこそ、言吾とは友人として接し、いつか何のわだかまりもなく、ただ子供たちの教育のためだけに、純粋に心を砕けるような関係になりたいと願うのだ。一葉の言葉を聞いた言吾は、嬉しさのあまり、まるで子供のようにはしゃぎ、どうしていいか分からないといった様子で、少しばかり手持ち無沙汰になっていた。その姿に、一葉はふと、かつて自分が彼の告白を受け入れた時のことを思い出していた。あの時の彼も、今と全く同じように、ただ嬉しそうに、そしてどうしようもなく戸惑っていた。……雲都に戻って間もなく、一葉のもとに刑務所から一本の電話が入った。優花が死亡したという知らせだった。彼女は、刑務所内の実力者と呼ばれる女を故意に挑発し、凄惨なリンチの末に殺されたのだという。その死に様は、あまりにも無惨なものだったらしい。顔はもはや元の面影もないほどに破壊され、人体を構成する206本の骨は、そのことごとくが砕かれていたと報告された。それは、常人の想像を遥かに超える、あまりにも凄惨な最期だった。その知らせを、一葉はどこか遠い世界の出来事のように聞いていた。これが因果応報というものなのだろうか、とぼんやり思う。かつての自分は206本ある骨の半分を砕かれ、そして今、優花はその全てを砕かれてこの世を去った……一葉が言葉を返せずにいると、受話器の向こうの事務的な声が続けた。「青山さん、春雨優花さんの遺体の件ですが、いかがいたしましょうか?もし青山さんに特段のお考えがなければ、ご家族の方に引き取りの連絡をいたしますが」「あるいは、こちらで処理させていただいても?」一葉はわずかな沈黙の後、静かに答えた。「……家族の方に、連絡してあげてください」彼女はそれだけを告げると、静かに電話を切った。じりじりと肌を焼くような真夏の陽射しが窓から差し込む。その光景を眺めていると、一葉の脳裏に、ある遠い夏の日の記憶が不意に蘇った。優花が、初めて青山家にやってきた日の
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第637話

連絡先を間違えている可能性の方を、一葉は信じようとしていた。両親が優花への愛情を捨て去り、その亡骸さえも拒絶するなど、到底考えられなかったからだ。受話器の向こうの相手は、一瞬言葉に詰まったようだった。おそらく、そんな質問が来るとは思ってもみなかったのだろう。だがすぐに気を取り直し、事務的な声で答えた。「はい、間違いなく青山国雄様ご夫妻です。ですが、ご夫妻ともに『春雨優花とはとうに関係ない。自分たちの娘ではないし、彼女の生死も我々には無関係だ』と……」その、あまりにもきっぱりとした返答に、一葉は言葉を失った。しばらくの間、ただ呆然と立ち尽くしていたが、やがてか細い声で答える。「……でしたら、遺体はお任せします。そちらで処理してください」「引き取り手のないご遺体は、多くの場合、医学部へ献体し、解剖実習用として提供されます。このような形で処理を進めてもよろしいでしょうか。もしご了承いただけるのでしたら、ご家族もしくはご友人の立場として、どなたかに一度こちらへお越しいただき、同意書にサインをいただきたいのですが」遺体が切り刻まれ、医学の発展に貢献する。それが「献体」という行為。優花にとって、それは最も過酷な罰であると同時に、ある種の贖罪にもなるのかもしれない。そう考えた一葉は、電話の向こうの提案を受け入れることにした。執事を呼び、手続きを頼もうとした、ちょうどその時、言吾がやって来た。妊娠が分かってからというもの、魚の生臭い匂いには吐き気を催すものの、それ以外は何でも食べられ、食欲不振どころか、すぐにお腹が空いてしまう一葉のために、彼は一日に何度も美味しいものを届けに来るようになっていた。文句を言うと、決まって「これも計画の一環だ。慎也さんの気遣いを無にするな」とはぐらかされる。それ以上言い返すのも億劫で、彼女はいつもそれを受け入れていた。部屋に入ってきた彼を見て、一葉は数秒黙った後、静かに口を開いた。「優花が、死んだわ」テーブルに料理を並べていた言吾の手が、ぴたりと止まる。たとえ彼女の本性を知り尽くしていたとしても、幼い頃から共に過ごした人間だ。その突然の死の知らせに、彼が全くの無感情でいられるはずはなかった。だが、その反応は一瞬のこと。彼の表情に、それ以上の感情が浮かぶことはなかった。「誰も遺体を引き取らないらしく
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第638話

「いえ、おばさん、結構です。俺はもう失礼しますので。……それと、一葉も飲みたいとは思わないでしょう。ですから、おばさんも、俺と一緒にお帰りください」かつて、言吾が一葉の両親に対してあれほど敬意を払っていたのは、冷え切った親子の関係を修復したいという思いからだった。親の愛に飢えていた一葉に、その温もりを与えてやりたいと願っていたからだ。だが今は違う。一葉自身がもはや親の愛を求めていないことを、彼は知っている。そして、実母である文江の狂気的な偏愛を目の当たりにした彼自身もまた、手に入れるべきではない母親の愛もあるのだと痛感していた。だからこそ、一葉が今日子に会いたくないであろうことを察し、彼女を煩わせないよう、一緒に連れて帰ろうとしたのだ。しかし、今日子は言吾の言葉などまるで意に介さず、凍り付いたような母娘の関係性にも全く頓着しない様子で、あくまで「仲の良い親子」を演じ続ける。「あなた、用事があるなら先に行ってていいのよ。このスープ、十時間以上も煮込んだんだから。妊婦さんには一番なのよ。一葉が飲みたくないなんて言っても、飲ませなきゃ」そう言うと、彼女は一葉の方へ向き直った。「一葉。お母さん、今までたくさんの間違いを犯して、あなたを深く傷つけてきたこと、分かってるわ。本当に、本当にごめんなさい。だから、もう一度だけ、お母さんにやり直すチャンスをくれないかしら?」「お母さんもね、あなたや哲也を身籠っていた時、魚の匂いだけは本当に駄目だったの。あなたも同じだなんて、やっぱり親子ねえ。でも、あの頃はお義母様……あなたのお祖母様が一番お忙しい時期でね。誰も私の面倒なんて見てくれなかった。妊娠期間中、ずっと一人で自分の体を管理してきたのよ。でも、おかげでとっても安産だったわ。他の人たちが帝王切開で大変な思いをしてる中、お母さんはあなたたち二人とも、自然分娩でちゃんと産んであげたんだから!あなたは双子を妊娠してるんでしょう?私みたいに経験豊富な人間がそばにいてあげるのが一番よ!ね、だからお母さんに一度チャンスをちょうだい。それは、あなた自身が無事に出産するためのチャンスでもあるのよ?」まるで自分が世話をしなければ、無事に出産などできないと言わんばかりのその物言いに、一葉は思わず乾いた笑いを漏らした。「双子の出産経験がある人なんて、世の中にいくらでも
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第639話

ここ数日、考え抜いた末に、今日子はひとつの真実にたどり着いていた。この世に生を受けて数十年、見返りを求めず、ただ純粋に自分を愛してくれた人間は、たった一人しかいなかったのだ、と。皮肉なことに、それは自分が最も深く傷つけ、裏切り続けてきた娘の一葉、その人だった。自らの罪の深さを悟った時、今日子は理解した。もう娘が自分を許すことはない。かつてのように、自分を慕うことは二度とない。何をしても、無駄なのだ、と。本来なら、全てを諦め、ただ静かに余生を終えることだけを考えるべきだった。だが、人間とはかくも愚かな生き物なのか。失って初めてその価値に気づき、永遠に手に入らないと分かっているものほど、渇望してしまう。その思いは、寝返りを打つばかりで眠れぬ夜を幾度も過ごすうちに、抗いがたい衝動へと変わっていった。このままでは終われない。何かをしなければ。だから、一葉が戻ったと知るや否や、彼女は一心不乱に鶏を煮込み、こうして会いに来たのだ。心のどこかで、甘い期待があったのかもしれない。どんなに疎まれようと、娘は母親である自分の顔を、少しは立ててくれるのではないか、と。だが、その淡い望みは、今、無残に打ち砕かれたのだった。一葉の、氷のように冷たい現在の態度。そして、かつて自分に注がれていた、ひたむきな愛情。天と地ほども違うその落差が、今日子の心をさらに深く苛んだ。彼女が何を言おうと、何をしようと、一葉は一切耳を貸さず、ただ無言で人を呼び、母親を屋敷から追い出させた。扉の外へと追いやられた今日子は、目の前で情け容赦なく閉ざされた重い扉を見つめ、言いようのない絶望感に襲われる。立っていることさえ、ままならない。それでもなお、彼女が扉を叩き、許しを乞おうとした、その時だった。哲也が、どこからか現れた。彼は、扉を叩こうとする母の手を、力強く掴んだ。「母さん、もうやめてくれ。ここで騒ぐのはよせ」息子の姿を認めると、今日子はまるで救いの神にでも出会ったかのように、その腕に必死に縋りついた。「哲也!ちょうどよかったわ、あなたが来てくれて。一葉は、あなたのことが一番好きなのよ。お兄ちゃんの言うことなら、きっと聞いてくれるわ。ねえ、あの子を説得して。お母さんを一度だけ、許してくれるようにって、お願いしてちょうだい!」母のその必死な形相に、哲也は言葉にで
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第640話

その声を聞きながら、一葉は大きな窓辺へと歩み寄り、遠ざかっていく兄の車を見つめていた。母を連れて帰るよう兄に電話をしたのは、一葉自身だった。その際、彼女はこう付け加えることも忘れなかった。もし母がまた自分の前に現れるようなことがあれば、兄との縁も、もはやこれまでになるだろう、と。今の兄が最も重視しているのは、自らのキャリアだ。きっと、母が二度と自分を煩わせることのないよう、万全の手を打ってくれるに違いない。だから、今日が、母とまともに顔を合わせる最後の機会になるのだろう。どんな経緯があろうと、彼女は自分に命を与えてくれた人だ。その余生が、穏やかなものであるように。窓の外の景色が滲む中、一葉は静かにそう願った。時は流れ、瞬く間に半年が過ぎた。出産を間近に控えた一葉の腹は、双子を宿しているせいか、恐ろしいほどに大きく膨らんでいた。大勢の使用人、そして専門の医療チームが別荘に常駐し、万全の体制が敷かれているにもかかわらず、言吾はそれでも安心できないと言い張り、半ば居座るような形でこの別荘に住み着いていた。慎也もまた、一葉のことを片時も忘れずにいた。宿敵である尾白家との抗争は最終局面に差し掛かり、いつどちらが倒れてもおかしくない白熱した状況にあるというのに、彼は毎日欠かさずビデオ通話をかけてきては、一葉の体調を気遣った。そのたびに、一葉は旭の消息を尋ねたい衝動に駆られた。あれほど高い崖から落ちて、生きているはずがない。遺体が見つからないのは、野生の獣に食われたからだろう。ほとんどの者がそう結論付けていたが、一葉と慎也だけは、旭が今もどこかで生きていると固く信じ続けていた。どれだけ時間が経とうと、二人は決して諦めてはいなかったのだ。だが、もし何か手がかりがあれば、彼の方から先に切り出すはずだ。そう思い、一葉はいつもその言葉を飲み込んでいた。その日も、慎也からビデオ通話がかかってきた。だが、いつもの彼とは様子が違った。彼が何かを口にするより先に、一葉は彼の瞳の奥に、確かな光と希望が宿っているのを見て取った。その変化に、一葉の心臓がどくん、と大きく跳ねる。彼女は思わず、食い入るように画面に問いかけていた。「……もしかして、旭くんの知らせが?」その言葉を聞いた慎也の目元が、ふわりと和らぐ。「ああ、うちの一葉は本当に聡いな!俺が何も
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