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第1411話

章真は近づいて画面をのぞき込んだ。その瞬間、表情が一変する。映し出されていたのは、哲乃と自分の映像だった。あまりにも刺激の強い内容だった。正体不明の薬を盛られた男は理性を失い、まるで獣そのもの。哲乃は終始その胸にしがみつき、耳を塞ぎたくなるような声が部屋に響いている。そんな光景は、章真にはまったく記憶がなかった。見たところで、心が動くこともない。彼は一度たりとも哲乃を抱こうと思ったことはなかった。幾夜となく、彼女が子猫のように胸へ寄り添って眠ったことはある。だが、哲乃はあくまで結安の代わりに過ぎない。彼女を抱くつもりなど、最初からなかった。章真は長い指先でノートパソコンを操作し、映像を閉じるとUSBメモリを引き抜き、そのまま力任せに真っ二つへ折り砕いた。すべて終えると、静かに寝室へ視線を向ける。薄暗い室内では、結安が眠っているように見えた。――彼女はどこまで見たのだろう。何度、繰り返して見たのだろう。そして、なぜ見ようとしたのか。章真はゆっくりと寝室へ足を踏み入れた。濃紺のベッドカバーの下には、華奢な身体が静かに横たわっている。呼吸は穏やかだったが、眠っていないことくらい彼にはわかっていた。あんな映像を見たあとで、本当に眠れるはずがない。たとえ彼女が、自分にどれほど無関心だったとしても。章真はベッドの縁へ腰を下ろし、手の甲でそっと彼女の頬をなぞる。起きていると知りながら、あえて声はかけなかった。しばらくそのまま寄り添ったあと、浴室へ向かう。水を勢いよく流し、全身を洗い流す。鼻の奥には、今なお腐った血の匂いがまとわりついている気がした。着ていた服はすべて脱ぎ捨て、そのままゴミ箱へ放り込む。頭の先から熱湯を浴び続けるうちに、穢れた魂まで洗い流されていくようだった。彼を救ってくれる存在は、結安だけ。そして、想乃だけだった。念入りに身体を洗い終え、濡れた髪を拭き、バスローブを羽織って寝室へ戻る。布団へ滑り込み、後ろから細い腰を抱き寄せる。顔を耳の後ろへそっと寄せ、しばらく黙って彼女を見つめたあと、小さく囁いた。「……あのUSBは、哲乃から渡されたのか。結安、俺は彼女を求めたことなんて一度もない。あの時の感覚も、何一つ覚えていない。俺の記憶に残っ
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第1412話

午前3時。ようやく章真の動きが止まった。結安は広いベッドの上に静かに身を横たえ、身体を横向きにして黙ったまま動かなかった。身体には満たされたあとの気怠さが残っている。それなのに、心だけは何も満たされていなかった。章真への想いは、一度無理やり呼び覚まされ、そして容赦なく踏みにじられた。あんな映像を見せられたあとで、なお彼と向き合える女性などいるはずがない。それでも彼は、彼女を離そうとはしなかった。すべてが終わると、章真は驚くほど優しく彼女の身体を整え、丁寧に汗を拭き、腕の中へ抱き寄せる。幼い頃と変わらぬように、穏やかな声で寝かしつけるようにあやしてくれる。けれど結安は、もう18歳の少女ではなかった。今の彼女が望むものは、たった一つ。――自由。それだけだった。章真のそばにいる限り、その自由だけは決して手に入らない。外で働くことを許されていても、心はずっと檻の中だった。それは、美しい籠で飼われる小鳥だけが知る息苦しさ。4年前と何も変わっていない。違うのは、想乃という娘が生まれたことだけ。章真は時折、想乃のために父親らしい顔を見せる。娘の気持ちを気遣うこともある。けれど、結安自身へ向けられることは一度もなかった。彼にとって彼女は、今も昔も、籠の中で飼われる一羽の小鳥に過ぎないのだ。その夜、結安は夢を見た。18歳だった頃の夢。想乃を産んだ日の夢。そして、形を成した小さな命が、血に濡れたまま自分の目の前へ投げ出される夢だった。夢の中で彼女は恐怖に震え、必死にもがきながら後ずさる。あの恐ろしい場所から逃げようと、何度も何度も。はっと目を覚ますと、背中は冷や汗でびっしょり濡れていた。結安は身を起こし、大きく息を吸い込む。夢に現れたあの亡くなった命が、哲乃のお腹にいた子だとすぐにわかった。章真も目を覚ましていた。彼女の様子を見るなり、悪夢を見たのだと察する。しかも、その原因が哲乃であることまで。章真は何も言わず彼女を抱き寄せると、タオルを取って汗を優しく拭い、濡れた寝間着を着替えさせる。最後は自分の胸へ寄りかからせ、その身体を静かに包み込んだ。夜の静けさの中、彼はどこまでも穏やかだった。けれど結安は知っている。その優しさの裏にある
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第1413話

章真の前では――結安には、昔から逆らう余地などなかった。あの頃も。そして今も。しかも今は、想乃という何より大切な存在がいる。それが彼女にとって、最大の弱みだった。冬は日に日に深まり、想乃は時折風邪をひいて家で過ごすようになった。大事には至らないものの、微熱が続き、人恋しさから父親に甘えることが増えていた。章真はほとんど1日中家にいて、娘のそばを離れない。結安は少し過保護ではないかと思った。けれど相手は自分たちの娘だ。何も言えなかった。海外へ行きたいという話も、それ以来二度と口にしなかった。ある夕暮れ。想乃がふと思い出したように言う。「おばあちゃんのあんこ団子、食べたい」幼い頃から食べ慣れた、郊外にある小さな屋台の味。ずっと同じおばあさんが作る、優しい甘さのあんこ団子だった。章真は迷いもせず立ち上がる。「買ってくる」その様子を見ていた結安は、窓の外へ目を向けながら静かに言った。「場所、わからないでしょう?看板もない屋台だから、探すだけで時間がかかるわ。私が行く。早く戻れば、想乃も温かいうちに食べられるから」章真の瞳が柔らかく細められる。結安がウォークインクローゼットでコートを手に取った、その時だった。後ろから長い腕が細い腰へ回される。顎がそっと肩へ乗せられ、身体がぴたりと重なる。「……俺の心配をしてくれたのか?」甘く囁く声が耳元をくすぐる。「結安。お前が俺を気遣ってくれたのは、初めてだ」結安は返す言葉を失った。しばらく黙ったあと、小さくため息をついて言う。「違うわ。ただ効率の話をしただけ。章真、都合よく考えないで」けれど章真は信じて疑わなかった。――彼女は自分を気遣ってくれたのだ、と。しかも「章真」と名前を呼んでくれることまで嬉しかった。彼は頬を彼女へ寄せる。外へ出るために髪を後ろで丸くまとめた結安は、いつもより少し大人びて見えた。それでも息を呑むほど美しい。章真は改めて思う。自分は清楚な女性が好きなのではない。結安だから好きなのだ。初めて会ったあの日から。あれはきっと、一目惚れだった。……本当に、自分に都合よく解釈する男だった。結安は苦笑しながら彼の腕をそっと外し、窓の外を見た。「もう行か
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第1414話

再び駿と向き合う。結安の胸には、言葉にならない想いが込み上げていた。もし章真と出会わなかったなら。もしあの日々がなかったなら。自分は今も立花家の娘として穏やかに暮らし、きっと少しずつ、駿のような人を好きになっていたのかもしれない。けれど、人生に「もし」はない。両親も、自分も。章真と出会ってしまった。両親は命を落とし、そして自分は章真との間に想乃を授かった。運命とは、なんと皮肉なものなのだろう。2人はしばらく言葉もなく見つめ合う。やがて駿が静かに数歩近づいた。その眼差しは、昔と何一つ変わらず優しかった。まるで、学生時代に恋をしていたあの少女を見つめるように。どれほど傷つき、どれほど人生が変わってしまっても。彼にとって結安は、今も変わらず穢れのない存在だった。猫の餌を抱えて笑っていた、あの頃の少女のまま。そして実際、彼女は今も変わっていない。こんなに寒い日にさえ、困っているおばあさんへ迷わず手を差し伸べる人なのだから。駿は穏やかな声で尋ねた。「……最近は、元気にしてる?」結安は迷うことなく頷く。嘘ではなかった。暮らしに不自由はない。衣食住は満たされ、望むものは何でも手に入る。だから自分だけが不幸だなどと口にしたくはなかった。この世には、もっと苦しんでいる人が大勢いる。家族を失った人だって、自分1人ではない。それに――駿を巻き込みたくなかった。彼はそんな結安の気持ちを理解していた。静かに頷き、微笑む。「それならよかった」三浦先生が亡くなったことは、世間では大きな話題にならなかった。けれど、彼らが通っていた立都第一高校では長く噂になっていた。噂というものは、いつだって罪のない女性へ向かう。結安を妬んでいた女子生徒たちは、三浦先生の死を彼女のせいにした。そうすれば、自分たちの心が少し楽になるから。結安を貶めれば、家族を失った少女が自分たちより遥か遠くへ行ってしまった現実を受け入れられるから。駿はその話には一切触れなかった。創立記念式典のことも。彼にも招待状は届いていた。結安にも届いていることくらい、想像がつく。本当は行ってほしくなかった。好きだった人には、静かで穏やかな毎日を送っていてほしかった。たとえ
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第1415話

章真は昔から独占欲が強かった。結安は彼と正面からぶつかろうとは思わない。言い争ったところで、傷つくのはいつも自分だから。彼女は素直に目を伏せ、小さく頷いた。「……わかったわ。私から会いに行くことはしない。それでいいでしょう?」それでも章真の表情は晴れない。本音を言えば、24時間ずっと彼女を自分の目の届く場所へ置いておきたい。だが締めつけ過ぎれば、かえって結安を失う。それだけは避けたかった。彼の小さな「アヒル」は昔から頑固だった。18歳の頃には大人たちを巧みに欺き、自分でさえ見事に振り回された。思い返すたびに苦笑が漏れる。誇らしくて、そして、どうしようもなく愛おしい。結局、章真はそれ以上追及しなかった。2人は並んで2階へ上がる。想乃はまだ微熱が残っていたが、寝込むことはなく、厚手の服を着てリビングのカーペットの上で小さな積み木を夢中になって組み立てていた。うつむいた頬は白く柔らかく、長い睫毛の下のふっくらとした涙袋が、たまらなく愛らしい。章真は歩み寄ると娘をひょいと抱き上げ、そのままソファへ腰を下ろして膝へ乗せる。小さなお尻をぽんと優しく叩いた。「手を洗っておいで。パパが団子を食べさせてあげる」「はーい!」想乃は素直に洗面所へ駆けていく。その後ろ姿を見送りながら、結安は思わず口を開いた。「もう1人で食べられるんだから、そんなに甘やかさなくても……」章真はゆっくり顔を上げる。その目は意味ありげに細められていた。――甘やかす。もちろん、そのつもりだった。娘が自分なしではいられなくなるくらいに。結安はもう何も言えない。やがて手を洗った想乃が戻り、父親の膝へちょこんと座る。小さな口であんこ団子を頬張りながら、幸せそうに笑う。その笑顔を見ているだけで、顔色まで少し良くなったようだった。それ以上、水を差すようなことは言えなかった。結安は娘の額へそっと手を当てる。まだ少し熱が残っている。「数日は学校を休ませましょう。ちゃんと治ってから行けばいいわ」章真は娘から視線を移し、結安を見つめる。どこか意味深な笑みを浮かべながら言った。「お前は想乃の母親なんだから、お前が決めればいい」その言葉には、どこか甘くからかうような響きが混じっ
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第1416話

紫苑は結安の顔色を見て、不安を覚えた。「……どうしたの?」そう言って箱の中を覗き込み、次の瞬間、息を呑む。「なっ……!」顔色を変えた彼女は慌ててスマートフォンを取り出し、警察へ通報しようとした。しかし結安がその手を押さえる。「だめ!警察には連絡しないで……これは、章真の……あの人の関係者が送ってきたものだから」紫苑はしばらく言葉を失った。ようやく意味を理解すると、結安を呆然と見つめる。芸能界で数え切れないほどの修羅場を見てきた彼女ですら、これほど背筋が凍る出来事は初めてだった。結安はすぐに章真へ電話をかける。必死に平静を装っていたが、声はわずかに震えていた。箱の中身を説明すると、電話の向こうは5秒ほど沈黙した。やがて章真の低く抑えた声が響く。「結安、今から俺が迎えに行く。それまで絶対にそこを動くな。部屋にいて、紫苑と一緒に待っていろ。誰が来てもドアを開けるな。……いいな」最後の「いいな」という一言。それはもう何年も聞いていなかった言葉だった。結安はもう子どもではない。彼に守られるだけの「アヒル」ではなくなっていたから。何か言おうとした時には、すでに通話は切れていた。力なく手を下ろす結安。紫苑もまだ動揺が収まらず、部屋の中を落ち着きなく歩き回る。「お願いだから、ここで待ってて。葉山さんの言うとおりにしましょう。全部片づいたら迎えに来てくれるから」最初の数分、結安はその言葉どおり待っていた。けれど――ふと、胸騒ぎが走る。母親の勘だった。どうして章真は、あんなにも怯えていたのだろう。――想乃。哲乃は想乃を狙う。あの標本は、自分への警告だった。本当の標的は想乃。全身を凄まじい恐怖が駆け抜ける。結安はドレスのまま、髪もほどかず、スマートフォンだけを握り締めて部屋を飛び出した。「結安!」紫苑が慌てて追いかける。「葉山さんは待てって――」結安は震えながら呟く。「想乃が危ない……あの人は想乃のところへ行く」想乃は自分の娘だ。あの狂気に呑まれた哲乃と2人きりになど、絶対にさせられない。その必死な様子を見て、紫苑も止めることを諦め、一緒に車へ乗り込んだ。向かった先は、章真が自ら選んだ名門幼稚園だった。……
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第1417話

だが、章真は最後まで、哲乃へ視線を向けることはなかった。彼が強く抱き締めていたのは、腕の中の想乃だけ。胸にあったのは、失いかけた娘を取り戻した安堵だけだった。章真は想乃を深く愛している。だがもし想乃に何かあっていたら――それ以上に、結安へどう償えばいいのかわからなかっただろう。結局、彼が誰より愛しているのは結安だった。だからこそ、哲乃のお腹の子を残そうとは思わなかった。生まれてから誰かに育てさせることもできたはずだ。それでも、彼は選ばなかった。結安との間に、1つの曇りも残したくなかったから。屋上では、章真が大切な娘を抱いて立ち去っていく。1階の地面では、まだ痙攣の残る哲乃の亡骸。赤い血が静かに地面へ広がり、やがて冷たいアスファルトの上でゆっくりと乾いていく。その上へ、白い雪が1枚、また1枚と降り積もった。血の色を覆い隠し、世界は少しずつ白へ染まっていく。まるで哲乃の人生のようだった。生まれながらに邪悪な命など、どこにも存在しない。誘惑に呑まれ、執着に溺れ、その果てに、人でも鬼でもない存在になってしまっただけ。彼女が帰る場所はロンドンだった。身体は激しく痛んでいる。それでも心だけは、不思議なほど穏やかだった。こんなふうに激しく散らなければ、自分はこの先ずっと後悔だけを抱えて生きることになっただろう。雪は彼女の罪を洗い流し、愛も憎しみも、静かに連れ去っていく。――自分は誰かを愛していたのだろうか。違う。愛ではなかった。ただ寄りかかりたかっただけ。手の届かない幻を愛だと思い込んでいただけ。決して、自分のものにはならない幻を。……結安は薄いドレスのまま、恐怖に凍りついた表情で、息絶えていく哲乃を見つめていた。辺りは騒然としている。人々のざわめき。誰かが章真の名を口にしている。だが、何一つ耳へ入ってこない。この光景は18歳のあの日と重なっていた。目の前で両親が身を投げた日。あの人たちは痛みなど考えもしなかった。自分たちが死んだあと、たった1人残される娘が章真の手の中で生きることになるなど想像もしなかった。結安はかすかに笑う。その笑みはどうしようもなく苦しかった。地面では哲乃が静かに目を閉じる。その表情はどこ
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第1418話

その場の空気は、一瞬にして凍りついた。洗面室には白い照明が明々と灯り、隠し立てできるものは何ひとつなかった。結安は冷たいカウンターに身体を預け、顔を上げて章真を見つめる。その頬には、自分がつけたくっきりとした指の跡が残っていた。結安はどこか現実味のない気持ちでそれを見つめる。章真の前では、自分はずっと弱い存在だった。抗う力もないほどに。それなのに、自分は彼を平手打ちしたのだ。章真はじっと結安を見据える。だが、結安は視線を逸らさなかった。しゃがれ切った声で、静かに言い放つ。「三浦先生も……哲乃さんも、その子どもも……短い間に、あんなにたくさんの人が死んだのよ。哲乃さんの遺体だって、まだ冷たくなりきっていないのに……どうして、そんなことをする気になれるの?章真……あなた、本当に人間なの?」章真は怒るどころか、ふっと笑みを浮かべた。長く大きな手で彼女の頬を包み込み、親指が柔らかな肌へ深く食い込む。その笑みは穏やかで、どこまでも淡々としていた。「どうしてお前の両親のことは言わない?お前だって、両親が亡くなって1年も経たないうちに、俺のベッドで眠っていたじゃないか。そうだ。俺はこういう人間だ。自分に関係ないことには興味がない。ただの最低な男だ。でも結安――どうしてお前は、藤堂みたいな立派な男じゃなく、こんな最低な俺を好きになった?俺の腕の中で童話を聞くのが好きだったからか。それとも甘やかされるのが好きだったからか。……それとも、俺に抱かれるのが好きだったからか。最低な男は、最低なことしかしない。そして俺たちは、最低な子どもを何人も作るんだ」そう言い終えると、章真は彼女を強く抱き寄せた。その後に残ったのは、ただ耐え難い屈辱だった。章真は表面上こそ冷静だったが、胸の内では激しく動揺していた。これまでは、結安はどうにか彼のそばにいてくれた。だが、哲乃の一件を経た今――彼女はきっと、自分のもとを去ろうとする。大切だからこそ冷静さを失う。彼女がまだ自分の隣にいるのだと確かめるための、何か決定的な証が欲しかった。その思いだけが先走り、彼は彼女の気持ちさえ顧みず、かつてないほど乱暴になってしまう。まるで、もう一度彼女との間に子どもを授かれば、その絆を繋ぎ止められるとでも思うか
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第1419話

ほどなくして、廊下に足音が響いた。翔雅と澄佳がやって来たのだ。2人は結安と想乃のために、天照寺で授かった厄除けのお守りを持参していた。使用人に案内され、子ども部屋へ向かう。扉を開けると、章真が娘を抱いてあやしていた。手にはおもちゃを持ち、想乃はまだ一言も話さなかったものの、様子を見る限り大きな異変はない。怯えは残っているが、取り乱しているわけでもなかった。澄佳は歩み寄り、想乃をそっと抱き上げる。優しく背中を撫でながらあやすと、想乃は素直に祖母の肩へ頬を寄せた。その姿を見て、澄佳はようやく胸をなで下ろす。そして章真へ視線を向け、静かに口を開いた。「想乃だけじゃないわ。結安のことも、ちゃんと支えてあげなさい。あの……哲乃さんのこと、聞いたわ」その先は口にしなかった。章真も察している。幼い想乃の前では、大人たちは半分しか話さない。澄佳はそのまま想乃を抱いて部屋に残り、翔雅は章真を1人書斎へ呼び出した。書斎では、翔雅が大きな窓の前に仁王立ちし、腰に手を当てて待っていた。章真が入ってくるなり、彼は指を突きつけて怒鳴る。「いいことは何一つ覚えず、家の悪いところばかり身につけやがって!結安を忘れられないなら、最初から他の女なんか囲うな!情まで背負わせて、その上命まで失わせるなんて……!結安も想乃も無事だったからまだよかったものの、もし2人に何かあったら、お前はどう責任を取るつもりだった!18の頃から結安を手元に置いて……本当に、お前は最低だ!」父親の怒号が部屋中に響く。息子は何も言い返さず、床に散らばった割れ物を一つひとつ拾い集める。身を起こしたとき、ぽつりと呟いた。「……さっき、結安にもまったく同じことを言われた」翔雅は思わず彼の顔を見た。そこには、くっきりと5本の指の跡が残っていた。――その瞬間、怒りがさらに込み上げる。翔雅は怒りで頭が沸騰しそうだった。この一族に、ここまでひねくれた男がいたことなど一度もない。今がどんな状況なのか、まるで理解していない。哲乃の死をきっかけに、彼女の素性も、章真との関係も、世間から徹底的に掘り返されている。そんな最中だというのに、この男は結安を思いやるどころか、まだ彼女を追い詰めようとしている。哲乃の死を目の当たりにし
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第1420話

章真が翔雅と話をしている頃――結安は主寝室の洗面室で、ようやく洗面台につかまりながら身を起こした。全身にはまだ痛々しい痣が残っている。先ほどの章真は、加減というものを完全に忘れていた。そのとき、屋敷の外から車が到着する音が聞こえた。翔雅たちが来たのだと、結安はすぐに察する。章真とは正式な夫婦ではない。それでも同じ屋根の下で暮らし、想乃という娘もいる。傍から見れば、もう夫婦と変わらない関係だった。このまま顔を出さないわけにはいかない。結安は急いで身体を洗い流し、着替えを済ませると、子ども部屋へ向かった。部屋には澄佳が想乃を抱いて座っていた。結安が近づく。身なりはきちんと整えていたが、目尻に残る赤みだけは隠しきれていない。澄佳は一目見ただけで悟った。泣いたのだ。おそらく、また章真に泣かされたのだろう。あの馬鹿息子。いい歳をして、こんな時にまで結安を困らせるなんて。結安はまだ24歳。感情を抑えきれなくても無理はない。それに対して章真は36歳。年が明ければ37歳になり、あと数年もすれば40代だというのに、少しも落ち着きがない。とはいえ、男女の寝室でのことに、義母である澄佳が口を挟むわけにもいかない。見なかったことにするしかなかった。想乃の背中を優しく撫でながら、小さくため息をつく。「全部、章真が招いたことよ。想乃までこんなに怖い思いをさせて……本当に、一度きちんと反省させないと」そう話している最中だった。子ども部屋の扉が開く。入ってきたのは章真だった。どうやら母の言葉を聞いていたらしく、ごく自然な口調で言う。「それなら、お祝い事でもしようか。この家もしばらく慶事がなかったし」そして何でもないことのように続けた。「俺と結安が結婚する」その一言に――結安はもちろん、澄佳まで思わず眉をひそめた。結安が一言でも結婚したいと言っただろうか。それに哲乃が亡くなったばかりだ。まだ遺骨も納められていない。1人の命が失われたというのに、それも章真自身が招いた結果なのに、この人は何も感じないのだろうか。昔、翔雅ですら女性との別れには涙ぐんでいたというのに。結安は当然ながら賛成しなかった。だが澄佳の前では、言葉を選んで穏や
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