All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 1421 - Chapter 1430

1458 Chapters

第1421話

翔雅と澄佳が屋敷を後にしたのは、夜もだいぶ更けてからだった。想乃はようやく眠りについた。結安は娘が心配で、その夜は一緒に眠ることにした。想乃を主寝室の大きなベッドへ寝かせ、自分はその傍らに腰掛ける。眠る娘を見つめる眼差しは優しい。だが、その奥には拭いきれない憂いが宿っていた。やがて翔雅たちを見送った章真が部屋へ戻ってくる。ベッド脇のソファへ腰を下ろすと、ただ真っ直ぐに結安を見つめ続けた。結安は、彼が何を言おうとしているのか分かっていた。娘の布団をそっと掛け直し、声を潜めて告げる。「私は……あなたとは結婚しない。もし許してくれるなら、想乃を連れて外で暮らすわ。海外へは行かない。立都市に残る。章真……私たちは、一緒になるべきじゃない」カチリ――静かな部屋に、ライターを弄ぶ乾いた音が響く。章真はなおも彼女を見つめたまま、静かに口を開いた。「……怖くなったのか?俺が冷酷だから?残酷だから?結安。お前は分かっているはずだ。俺はお前と想乃にだけは、絶対にそんなことはしない」結安は小さく首を横へ振る。それ以上は何も言わなかった。言い争えば、想乃を起こしてしまう。もう彼女は、進むことも退くこともできない場所に閉じ込められていた。章真が、それを理解していないはずがない。深夜――彼のスマートフォンが鳴った。宇佐美からだった。哲乃の件は、ほぼすべて処理を終えたという報告だった。死因は自殺。妊娠していた事実は完全に伏せられ、世間では章真を「人格者」と称える声ばかりが広がっていた。哲乃は思い込みの激しい女性だった。そんな評価で世論はほぼ固まりつつある。半分以上は事実だったとしても――宇佐美だけは、その裏側を知っていた。哲乃は、結安が戻ってくるまでの4年間、章真が囲っていた愛玩の存在だったのだから。すべてが終わった、その真夜中。章真は1人、ある場所へ向かった。斎場だった。結安は言っていた。――哲乃を、お腹の子と一緒に眠らせてあげて、と。だが、そんな願いを、章真が聞き入れるはずもなかった。あの一夜は、彼の本意ではない。結安が去ってからの4年間、彼は一度も他の女性に心を向けなかった。哲乃は卑劣な手段で彼を陥れ、望まれもしない子ど
Read more

第1422話

3日後――耀石グループ本社、最上階。章真は床まで届く大きな窓の前に立ち、コーヒーカップを片手に、宇佐美から財務報告を受けていた。数日間の報道を経て、哲乃の死は株価に悪影響を与えるどころか、章真個人への好意的な世論も追い風となり、株価はわずかに上昇していた。これが、一流の危機管理の力だった。その結果、章真の個人資産は1千億円以上増加した。章真はコーヒーカップを静かに置き、長年仕えてきた右腕へ視線を向けると、穏やかに微笑んだ。「これだけ長く俺についてきてくれたんだ。そろそろ形にして返さないとな。グループの持ち株を1%譲る。議決権はないが、それでも相当な価値になる。副社長と同等の待遇だ。宇佐美。これは今までの働きへの礼だ。秘書だけで終わらせるには惜しい人材だからな」だが宇佐美には分かっていた。評価されたのは、能力だけではない。――章真が自ら手を汚せない仕事を、すべて自分が引き受けてきたからだ。たとえば、哲乃の胎児を花葬にしたこと。あれも、自分の手で最後まで処理した。普通の人間には、とてもできる仕事ではない。宇佐美は静かに頭を下げる。「ありがとうございます、社長」章真は話題を変えた。「そういえば、今年の忘年パーティーの招待リストはまとまったか?今年はダンスの相手も変えようと思う。もう女優なんて呼ばなくていい。結安を連れて行く。想乃も一緒にな」空気は一気に和らぐ。宇佐美も笑いながら言った。「社長、お忘れですか?結安も今や女優ですよ」章真はわざと不機嫌そうな顔をする。「結安を呼び捨てにするのか?俺が機嫌を損ねるとは思わないのか」宇佐美は肩をすくめて笑う。「小さい頃から見てきましたから。俺にとって結安は、本当の妹みたいな存在なんです」その一言に、2人の距離はさらに近づいた。章真はしばらく宇佐美を見つめ、それから何気ない口調で言う。「それも悪くないな。結安にはもう身内らしい身内がいない。お前を義兄として迎えれば、実家代わりになる人間もできる。ただし、妹への贈り物は手を抜くな。結安は昔から大事に育てられてきた。安物なんか贈るなよ」宇佐美も冗談交じりに応じる。しかし、その胸中では別のことを考えていた。章真は、決して軽口だけでこんな話をする男
Read more

第1423話

結安は思わず目を見開いた。立花拓凡――間違いなく、実の叔父だった。だが、もう6年もの間、連絡は途絶えている。当時、父が命を絶ったあと、会社には莫大な負債だけが残された。借金は返済不能なほど膨れ上がり、会社は完全に破綻した。兄に頼って生きてきた気の弱い叔父は、一度は結安を引き取ろうと口にしかけた。しかし、叔母が鋭い視線を向けた瞬間、その言葉を飲み込んでしまった。18歳の結安は、一夜にして帰る家を失った。そのとき、手を差し伸べたのが章真だった。そして彼女もまた、自らの意思で楓ヶ丘邸へ足を踏み入れた。借金を返済できなければ、自分を待っていたのは章真という1人の男ではない。路上へ放り出され、身体を売って生きるしかない女になる。その結末は、哲乃と大して変わらなかっただろう。結安は、そのことを誰より理解していた。幼い頃から現実を見極める力だけは、人一倍備わっていたのだから。少し考えた末、蝶野へ静かに言う。「1階で会う」想乃を立花家の人間と会わせるつもりはなかった。蝶野は小さく頷き、先に階下へ向かう。結安は想乃を使用人へ預け、身だしなみを整えてからゆっくり階段を下りた。途中で、叔父の姿が目に入る。昔と変わらず、ソファの端に小さく腰掛け、どこか居心地悪そうに身を縮めている。きっと何か困り事があるのだろう。そう思った。拓凡には2人の子どもがいる。どちらも海外へ留学中だった。学費や生活費は莫大だ。兄という後ろ盾を失ってから生活は苦しくなり、身につけるものも昔の高級ブランドではなくなっていた。質素な服装。そして6年前より、ずいぶん老け込んで見える。結安はその顔に、亡き父の面影を探した。――もう、1、2割ほどしか残っていなかった。拓凡は湯呑みを手にしていたが、足音に気づくと慌てて立ち上がり、急いで茶碗を置く。おずおずとした声で話しかけた。「結安……帰ってきたとは聞いていたんだ。ずっと顔を見に来ようと思っていたんだけど、なかなか時間が取れなくてね。この前、おばさんが田舎へ帰っていて、お土産を持ってきたんだ。想乃ちゃんに食べてもらおうと思って……想乃ちゃんは?下にはいないのかい?」……結安はしばらく階段に立ったまま叔父を見つめていた。
Read more

第1424話

その声を聞いた瞬間――拓凡は全身の血の気が引いた。章真とはほとんど面識がない。それでも、小さな商売をしてきた人間として、その名を知らないはずがなかった。立都市で章真を知らない者などいない。冷酷非情。情けをかけることなどない男。その手が本当に血で染まっているかは分からない。だが、彼の足元に倒れていった者が数え切れないほどいることは、誰もが知っていた。兄夫婦も、その中の1組に過ぎない。よりにもよって、その本人に聞かれてしまった。手の中の4千万円が、急に焼けるように重く感じる。生き残るためには返したほうがいい。今ここで欲を捨て、この金を返してしまえば、この先何も起こらなかった。章真に借りを作ることもなければ、弱みを握られることもない。後々の禍の種にもならなかった。だが――拓凡の手は震えた。返そうか迷った、その一瞬だった。予想外にも章真が微笑んで口を開く。「せっかく来てくださったんです。夕食でもご一緒しませんか。結安の叔父さんでもありますしね。結安は長い間、ご親族との付き合いがありませんでした。将来、結婚式を挙げるとき、花嫁側に誰もいないというのは寂しいでしょう。もっとも……うちは狭い屋敷ですから。叔父さんのお気に召さないようでしたら無理には引き止めませんが」――夕食?しかも耀石グループ社長と同じ食卓で?拓凡は思わず息をのんだ。怖い。だが、こんな扱いを受けたのは何年ぶりだろう。確かに両家には因縁がある。それでも、章真が本気で結安を大切に思っていることだけは伝わってきた。そう自分に言い聞かせるうちに、警戒心は少しずつ薄れていく。子どもたちが留学から帰ってきたら――耀石グループ社長が親戚になる。それほど心強いことはない。酒は臆病者にも勇気を与える。何杯か重ねる頃には、拓凡は昔のわだかまりも、結安が味わってきた苦しみさえも忘れ去っていた。頭の中にあるのは、この頼もしい義理の甥に取り入ることだけだった。上機嫌のままポケットからスマートフォンを取り出し、1組の写真を章真へ見せる。「うちの子どもたちですよ。息子の立花康安(たちばな やすひろ)と、娘の立花安奈(たちばな あんな)です。ははっ、結安と同じで、名前に『安』の字が入って
Read more

第1425話

宇佐美が迎えに来たとき、拓凡の姿を見て思わず目を見開いた。さらに章真からいくつか指示を受け、その胸には静かな戦慄が走る。ふと、夕方の会話を思い出した。――結安の兄になってほしい。――結安にはもう実家と呼べる場所がないから。そう言っていた男が、今は親しげに「叔父さん」と呼んでいる。長年章真に仕えてきた宇佐美には、その意味が痛いほど分かっていた。この「叔父」の命は、もう章真の掌の中にある。本人だけが、それに気づかず有頂天になっている。――20億円。あの融資こそが、拓凡の首に掛けられた縄だった。宇佐美は心の中で小さくため息をつく。だが、真実を口にすることなどできない。夜の雪が降る中、彼は拓凡を連れて屋敷を後にした。車は黒のベントレー。立花家が没落して以来、拓凡はこんな高級車に乗ることなど一度もなかった。ますます気分が良くなる。帰宅すると、待っていた妻に得意げに語り始めた。章真がどれほど親しげに接してくれたか。結安をどれほど大切にしているか。そして立花家も、章真のおかげで再び栄える日が来るのだと――……夜は更けても、楓ヶ丘邸には雪が降り続いていた。豪奢なダイニングでは、酒はとうに冷め切っている。章真は1人、煙草をくゆらせながら窓の外の闇を眺めていた。金に目がくらみ、満面の笑みを浮かべていた拓凡の姿を思い出す。思わず鼻で笑う。煙草を灰皿へ押し消すと、ゆっくり2階へ向かった。階段を上りながら、ふと思い浮かべる。立花康安。立花安奈。――また使い勝手のいい駒が2つ増えた。2階の廊下には橙色のブラケットライトが灯り、柔らかな温もりを漂わせていた。章真は主寝室の扉を開ける。ふわりと漂ってきたのは、小さな子ども特有の甘いミルクの香りだった。最近は結安が想乃を2人のベッドで寝かせている。章真に異論はない。あれほどの恐怖を味わった幼い娘には、今は父親と母親の存在が何より必要だからだ。ただ――娘が眠ったあと、少しだけ結安に甘えようとしても、彼女はいつも何かと理由をつけて避けようとする。それが、どうにも気に入らない。今夜は少し酒も入っていた。どうしても彼女に触れたかった。今日は簡単には逃がすつもりはない。寝室へ入ると、想乃はぐ
Read more

第1426話

結安はその写真を見つめた。瞳に浮かんだのは驚愕だった――彼が人を使って自分を尾行させていたこと自体は少しも意外ではない。だが、この場でわざわざ写真を見せてきた理由は何なのか。……藤堂駿を脅しの材料にするつもりなのか。結安の予感は当たっていた。章真はまるで世間話でもするかのように、穏やかな口調で言った。「藤堂駿は大手銀行で役員を務めているそうだな。ちょうど耀石グループも、その銀行にまとまった資金を預けていてね。たしか4000億円ほどの運転資金だったかな。結安、もし俺がその銀行に預けるのをやめようと思ったらどうなると思う?理由は単純だ。藤堂の存在が気に入らなくなった。それだけだ。もちろん藤堂は優秀な金融人材だろう。でも、人材は探せばいくらでもいる。一方で、4000億円規模の取引先を持つ企業はそう多くない。もし彼が責任を問われて職を失ったら……次の就職は簡単じゃないだろうな。大企業も大手銀行も経歴には厳しい。不名誉な傷がつけば、彼のキャリアはそこで終わりかもしれない」……あまりにも露骨な脅迫だった。結安は考える間もなく、章真の頬を平手で打った。彼は最初からそうされると分かっていたのだろう。避けようともせず、その一撃を受け止めた。だが次の瞬間には素早く彼女の腕を引き、胸元へ抱き寄せると、逃がさぬよう強く抱き締めた。至近距離から彼女を見つめ、酒に焼けた掠れ声で低く囁く。「人を叩く癖でもついたのか?」――それは自分が甘やかした結果だった。だが彼には分かっていた。結安は折れたのだ。嬉しいはずなのに、胸の奥では怒りのほうが勝っていた。藤堂のためなら、彼女は何でもするのか。章真は細い腰を抱き寄せたまま、もう片方の手で優しく彼女の頬を撫でる。その声音だけは甘く穏やかだった。「結安、お前は俺のことを一番よく分かってるよな。だから藤堂を失職させたくないなら、土曜日はまず俺と忘年会に来い。そのあと同窓会へ行こう。俺も一緒について行く……いいな?」結安は抱き寄せられたまま、無理やり顔を上げさせられる。章真の指先が、ゆっくりと彼女の唇をなぞった。その仕草が何を意味するのかは、言葉にするまでもなかった。煌々とした照明が室内を照らし、床まで届く大きな窓には二人の姿が鮮明に映
Read more

第1427話

3日後――耀石グループ本社、最上階の社長室。章真はデスクに向かい、書類へ目を落としていた。ある資金の数字に違和感がある。精査してみると、40億から50億円ほどの差額が生じていた。帳簿自体は巧妙に作られているものの、彼の目には一目で不自然だと分かる。原価が異常なほど高く計上されていたのだ。宇佐美を呼び、副社長の王城を調べさせようとした、その時だった。コンコン――扉の向こうから、桐生の声が響く。「社長、立花様がお見えです」立花拓凡。その名前を聞いて、章真は一瞬誰のことだったか考えた。だがすぐに思い出す。王城の件は後回しにしても構わない。章真は書類を片手で押さえ、かすかに笑みを浮かべた。「お通ししてください」ほどなくして扉が開く。だが、部屋へ入ってきた姿を見て、章真はわずかに眉を上げた。拓凡は一人ではなかった。若い女性を伴っている。写真で見覚えがある。立花安奈だった。――これは面白い。立花家は娘まで差し出すつもりなのか。俺を何だと思っている。口元には微笑を浮かべながらも、その感情は一切表に出さなかった。68階。一面ガラス張りの窓を備えた広々とした社長室。端正な顔立ちの章真はただそこに座っているだけで抗い難い色気を漂わせていた。その姿を一目見ただけで、安奈の全身から力が抜けそうになる。今日のために、彼女は身体のラインを強調する大きく胸元の開いたトップスに、深緑色のレザースカートを合わせていた。華やかに巻いた髪。妖艶なメイク。すべて章真の好みに合わせて整えてきた装いだった。一昨夜、母から電話があった。父が章真に取り入り、仕事を一緒にすることになったという。その知らせを聞くや否や、安奈は大学を休学し、帰国してきた。従妹に執着しているという男が、一体どれほどの人物なのか、自分の目で確かめたかったのだ。自分の魅力は結安に劣らない。女に必要なのは、一生困らない相手を見つけること。結安はもう十分すぎるほど手に入れているではないか。そんな胸の内を、拓凡は知る由もない。娘は仕事を真面目に学ぼうとしているだけだと思っていた。ちょうど自分にも手伝いが必要だった。安奈は章真へ甘い視線を送り続けている。だが拓凡はまる
Read more

第1428話

執務室の扉が閉まると同時に、章真の口元から笑みが消えた。また一人、身の程知らずな女か。大した武器も持たずに火遊びへ手を伸ばし、最後には自分自身が焼けただれる。――それは彼の責任ではない。もともと彼は、人に同情するような男ではなかった。章真にとって安奈という存在は取るに足らない。身の程をわきまえている限りは、自分から近づくこともない。そもそも、ああいう女は好みではなかった。夕方。仕事を終えた章真は帰宅した。金色のベントレーが楓ヶ丘邸へゆっくりと滑り込む。その時、1台の白いBMWが目に入った。見覚えのないナンバーだったが、誰が来ているのかはすぐに察しがつく。おそらく結安の貧しい従姉だろう。学費すら工面できず人に頼るような身でありながら、見栄だけは張る。数百万円程度の車を無理して乗り回しているらしい。章真はゆっくりと車を降りた。その手には、大きな箱が抱えられている。――結安へのドレスだった。耀石グループの年末パーティーで、彼女がこのドレスをまとい、自分と踊るためのものだ。玄関を抜け、リビングへ入る。案の定、妖艶な従姉がソファに座っていた。もっとも家へ上がるにあたっては、露出の多い服の上からきちんとジャケットを羽織り、いかにも控えめで真面目そうな姿を装っている。結安に警戒されないための演技なのだろう。――女というものは面倒だ。安奈はソファで結安と話していた。ふと顔を上げると、帰宅した章真と目が合う。その前に飛び込んできたのはチョコだった。小さな身体で父へ勢いよく抱きつき、子熊のように胸へ頬を擦り寄せる。甘えることにかけては天才だ。柔らかな頬をぴたりと寄せ、小さな声で「パパ」と呼びながら、全身で愛情をぶつけてくる。章真は娘を抱き上げたまま玄関で結安へ声をかけた。「従姉さんが来てたのか。夕食は?厨房に一品追加するよう伝えた?」まるで普通の親戚同士の会話だった。昼間、会社で交わした意味深な視線など、微塵も感じさせない。安奈は微笑みながら、結安に代わって答える。「私、ダイエット中だからお気遣いなく。今日は想乃ちゃんに会いたくて来ただけなんです。父が帰ってから『想乃ちゃんが本当に可愛かった』って何度も話していて、それで私も顔を見たくなって。で
Read more

第1429話

1階では、安奈が想乃へ近づこうとしていた。だが、使用人はしっかりと間へ入る。あからさまではない。けれど、その態度には確かな警戒心があった。彼女は幼い頃から想乃の世話をしてきた。結安が苦しい時代を過ごしていた頃、この従姉が顔を見せたことなど一度もない。それが今では、章真と暮らし不自由のない生活になった途端、次から次へと「親族」がやって来る。結安は人が良すぎる。だが彼女には、こんな女は気に入らなかった。表では愛想よく振る舞いながら、裏では章真へ色目を使う。そんな様子を見て見ぬふりをするほど、自分は鈍くない。あとで結安へ一言伝えておこう。――親族だからといって、何でも心を許してはいけない。油断した瞬間、人は平気で背中を刺してくる。世の中には、笑顔の裏に刃を隠した人間などいくらでもいるのだから。結局、安奈は拍子抜けするしかなかった。使用人ーは明らかに自分を警戒している。それに想乃も、彼女にはまったく懐かない。父親には甘え上手なくせに、こちらには警戒心ばかり見せる。安奈は面白くなかった。しばらくすると、蝶野が2階へ向かおうとしている。どうやら夕食の支度が整い、主人を呼びに行くところらしい。安奈は慌てて立ち上がった。「私が呼んできます。ちょうど結安のドレス姿も見たいですし、感想くらい言えますから」蝶野は何の疑いも抱かなかった。まさか、ここまで悪意を持った人間がいるとは思いもしない。許可を得た安奈は、軽やかに階段を上っていく。2階へ着いた瞬間、その豪華な造りに思わず息を呑んだ。立花家も昔は裕福だった。それでも、この邸宅とは比べものにならない。主寝室は南側の突き当たりだろう。そう見当をつけ、足音を忍ばせながら歩いていく。扉へ手を伸ばそうとした、その時だった。中から微かに物音が聞こえた。甘く。かすかに震えるような気配。隠されているからこそ、その空気はなおさら艶めいて感じられる。恋愛経験豊富な安奈には、何が起きているのか一瞬で分かった。普通なら、その場を離れる。しかし彼女は逆だった。さらに歩みを緩め、厚い絨毯の上を静かに進む。絨毯が足音を吸い込み、気づかれることはない。やがてウォークインクローゼットの入口まで辿り着く。
Read more

第1430話

章真は一瞬、意表を突かれた。だが次の瞬間、小さく笑みを漏らす。まるで気にも留めていない。後ろめたさなど欠片もなかった。そもそも彼は、安奈という女に興味がない。もっとも、彼という男は道徳心が強いわけでもない。ああいう女が自分から近寄ってくるのなら、気が向いた時に少し弄んでやるくらいは構わない。その先でどうなろうと、彼には関係のないことだった。もちろん、彼女に指一本触れるつもりはない。理由は2つ。1つは、好みではないから。もう1つは――結安がいるからだ。彼の欲望を満たしてくれる存在は、すでにこの世でただ一人。だから外の女へ心が向くことはなかった。それは誠実だからではない。章真という男に、「貞節」という価値観は存在しない。結安を愛している。だから彼女を心から愛している間は、他の女を抱かない。それが彼なりの最大限の誠意だった。結安が自分だけを見てくれる限り、自分も外へ目を向けるつもりはない。だが、気まぐれに鼠をからかう程度なら、大したことではない――そんな考えだった。もちろん。結安が嫌だと言うなら、しない。それだけだ。章真はワイングラス越しに、結安の表情を静かに窺った。嫉妬ではない。ほんの少し機嫌を損ねただけ。それでも彼女が他の女のことで心を乱している。その事実だけで、章真の気分は妙に良くなる。やはり結安は特別だった。彼ほど自分の感情を揺さぶる存在はいない。他の女など、比べる価値もなかった。……夜も更け、眠る前。結安は想乃を寝かしつけるため、子ども部屋へ向かった。彼女は知っている。章真ほどの立場の男なら、自ら近づいてくる女は後を絶たない。そして、そういう女の多くは決して幸せな結末を迎えない。だからこそ、その相手が安奈であってほしくなかった。深い情はない。それでも血の繋がった従姉だ。気弱な叔父のことを思えば、これ以上踏み込まず、引き返してほしいと願っていた。本当に火へ飛び込んでしまったら――その時は、もう自分にも守れない。主寝室は静まり返っていた。章真は退屈そうにスマートフォンを眺めていたが、ふと思い出したようにベッドサイドの引き出しを開ける。そこには一本のダイヤモンド付きパテック フィリップが
Read more
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status