All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 1461 - Chapter 1470

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第1461話

結安は思った。――章真の結婚も、そう遠くないのかもしれない。時は、すでに10月。秋も深まり、二人は少しずつ別々の生活に慣れ始めていた。それぞれの人生。それぞれの幸せ。この日、週末。結安は学校帰りの想乃を迎え、そのまま自分のマンションで一晩を過ごした。これは、彼女が章真と何度も話し合って、ようやく得た時間だった。毎週末になると、結安はほとんど予定を空け、想乃と過ごすことを最優先にしていた。想乃も、毎週末を心待ちにしていた。日曜日。本来なら、蝶野が想乃を迎えに来る予定だった。けれど結安は、章真と養育権について話をしたかった。自分の貯金を計算する。想乃のために貯めているお金は別としても、自分自身の貯蓄だけで12億円以上ある。世界中のどこへ行ったとしても、十分に生活できる金額だった。華やかな世界に未練はない。もし想乃を自分の元に迎えられるなら、人生の中心を家庭に置くつもりだった。仕事も立都市周辺だけに絞る。章真が再婚するなら、きっと、真剣に考えてくれるはずだ。午後4時。結安は章真の携帯へ電話をかけた。その頃、章真は一つの商談を終えたばかりだった。交渉は思うように進まず、気分は最悪だった。彼はロールス・ロイス・ファントムの後部座席に座り、窓を少し開けていた。指先には煙草。ゆっくり煙を吸いながら、外を眺めている。その時――視界の端に、見覚えのある人物が映った。――藤堂駿だった。一枚の大きなガラスを隔てた向こう側。駿はジュエリーショップで指輪を選んでいた。店員がいくつもの指輪を並べ、説明している。やがて彼が一つを手に取った。その瞳には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。明らかに、気に入ったのだ。章真の喉仏がゆっくり上下する。――結安は、藤堂駿と結婚するつもりなのか?だが、考えてみれば不思議ではなかった。あれほど強い意志で自分から離れていったのだ。きっと、藤堂駿を心から好きだったのだろう。章真の気分は、さらに沈んだ。その時だった。結安から電話が入った。彼は画面に表示された3文字をじっと見つめた。【アヒル】昔、彼がつけた呼び名。電話は7、8回ほど鳴った。ようやく彼は通話ボタンを押す。声は低
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第1462話

夕暮れ時。1台ロールス・ロイス・ファントムがマンションの下に停まった。章真は顔を上げ、目の前の高層マンションを見つめた。ここがかなり高価な物件であることは分かっている。今の結安の収入や知名度を考えれば、ここに住んでいても何も不思議ではなかった。しばらく眺めた後、章真はエントランスへ向かった。このマンションは、カードキーがなければ上階へ上がれない造りになっている。結安は玄関で彼を待っていた。片手には想乃の手を握っている。昼間、どこかへ遊びに行っていたのだろう。結安は真っ黒なTシャツに、カーキ色のサロペットを合わせていた。黒い長髪は軽く巻かれていて、全体的に若々しく、可愛らしい雰囲気だった。まるで20歳そこそこの頃に戻ったように。一方、想乃は可愛らしいワンピース姿に、ぴかぴかの小さな革靴。愛らしさそのものだった。玄関上のシャンデリアが、柔らかな光を落としている。章真の瞳は、深い感情を隠したままだった。「パパ!」想乃が大きな声で叫ぶ。そして、まるで尻尾のない小熊のように、勢いよく彼の胸へ飛び込んだ。章真はしっかり受け止める。小さな身体を抱きしめながらも、視線はずっと結安に向けられていた。若く、美しく見える彼女を。考えてみれば、こんなふうに彼女をじっくり見るのは、随分久しぶりだった。結安は穏やかに微笑む。「先に上がって、ご飯食べましょう」完璧だった。まるで理想的な元妻のように。……実際には、二人は一度も正式な婚姻届を出していない。そして、もうすぐ彼女は別の誰かとそれをするのだ。章真は想乃を抱いたまま、結安の後についてエレベーターへ乗り込んだ。結安はわざと隅へ寄った。少しでも広く使えるようにと思ったからだ。けれど章真は、想乃を抱えたまま彼女の近くへ来た。近い。あまりにも近い。互いの体温や匂いまで感じられる距離。章真の身体には、ほのかな香水の香りが残っていた。――美玲のものだった。一方、結安からは汗の匂いがした。昼間、想乃を連れて遊園地へ行っていたからだ。想乃は本当は疲れていた。それでも父親の肩に顔を乗せ、楽しそうに今日の出来事を話し続ける。最後には、柔らかな声で言った。「今度はパパも一緒に行ってくれる?
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第1463話

結安は視線を逸らした。けれど、立ち去る暇もなかった。章真はすでに通話を終えていた。片手で想乃の身体を抱き上げると、そのまま外へ向かって歩き出す。声は驚くほど淡々としていた。「食事をするんじゃなかったのか?」結安は少し気まずそうな表情を浮かべた。二人がダイニングへ向かうと、テーブルの上は綺麗に整えられていた。4品のおかずとスープ。それに加えて、鮮やかな青色の花瓶には、白いカラーの花が飾られている。瑞々しく、美しかった。章真は思わず目を止めた。ふと、ある考えが頭をよぎる。――もし自分と結安が、ごく普通の夫婦だったなら。これほどの財産も地位もなく。ただ二人で暮らし。娘を一人育てていたなら。夕暮れのこんな時間に、三人で食卓を囲んでいたのだろうか。明日の仕事について話して。想乃の学校のことを話して。将来、どこの国へ移住するかなんて相談して。こんな穏やかな時間を毎日のように過ごしていたのだろうか。胸の奥に、どうしようもない喪失感が押し寄せた。照明の下。章真の鼻先には、わずかな冷たさが滲んでいた。彼は何も言わず、ただ黙って想乃の皿へ甘酢あんのかかった肉を取り分ける。向かいに座った結安が、話を切り出そうとした。「私、話したいことが――」しかし章真が遮った。「食べ終わってからにしろ。想乃の前で話すことじゃない」そう言って、彼は想乃の小さな頭を優しく撫でた。想乃は小さくため息をつく。結安は考え直し、言葉を飲み込んだ。ここの料理は、確かに美味しかった。あれほど食にうるさい章真でさえ、珍しく2杯もご飯をよそった。けれど、美味しい料理だけが理由ではない。この空気だった。章真は、もう長い間、結安と一緒に食卓を囲んでいなかった。彼女はまだ、あのサロペットを着ている。着替えようともせず。まるで女子中学生のような格好で。……なぜだ?自分から離れたら、服を買うお金すらなくなったのか?そんなに困窮しているのか?章真はそう思いながら、もう一度彼女を見た。結安は自分の服を見下ろす。――別に変なところはないと思うけれど。食事が終わる頃には、家政婦も帰宅していた。結安はもともと綺麗好きだった。だから食器を片付け、そのま
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第1464話

章真は彼女を見つめていた。結安は、たくさんのことを話した。彼を傷つけないように。柔らかな言葉を選びながら。けれど、そのすべては想乃のためだった。葉山章真という一人の男のためではなかった。彼女は言った。「あなたは真剣な恋愛をしている」と。では、自分と一緒にいた時間は何だったのか。真剣ではなかったということなのか。それとも――藤堂駿のことだけを考えていて、もう自分のことなど一度も思い出さなかったのか。あの頃の優しさも。傷つけ合った過去も。幸せだった時間も。彼女はすべて忘れてしまったのか。章真は、ふっと笑った。そして、静かな声で言う。「覚えているか?あの夜、お前が俺の両親の前で、俺から離れると言った時。俺が何を考えていたか。俺は思ったよ。……なんて薄情な女なんだって。両親がお前をどれだけ大切にしているか知っていた。お前の事情なら、きっと二人も受け入れると分かっていた。それでも、お前はあんなにも残酷な選択をした。立花結安。俺は考えた。どうしてそこまでして、自分を愛していない女のために時間も気持ちも使う必要があるのかって。俺がどれだけしてやっても、お前が見ていたのは、俺が藤堂駿を追い詰めたことだけだった。俺が、あいつの病気を知っていたと思うのか?死ぬほど苦しんでいると分かっていたと思うのか?そもそも、俺の世界では弱肉強食が当たり前だった。俺が誰かに情をかけたことなんて、ほとんどない。俺が唯一、譲って、心を弱くした相手は――お前だけだった。でも、お前はそれを知らない。お前が知っているのは、ただ『葉山章真は想乃を返せ』ということだけだ。想乃は俺の娘じゃないのか?俺の身体から生まれた子じゃないから、大切じゃないとでも思っているのか?言っておく。立花想乃は、俺にとって唯一の子供だ。なぜなら――彼女は、立花結安という女が俺のために産んでくれた子だからだ。だから、もう諦めろ。子供が欲しいなら、藤堂駿との間で作ればいい。これから俺が誰を愛そうが。誰と付き合おうが。誰と結婚しようが。想乃の立場は変わらない。彼女は永遠に、俺――葉山章真の唯一の娘だ。立花という姓を持っている。それは、俺が一生かけても返
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第1465話

結安は彼を見つめていた。自分を傷つける言葉を、ただ黙って聞いていた。痛かった。息ができなくなるほど。憎んだこともあった。何度も、何度も彼のもとから逃げたいと思った。それでも心の奥には、ひとつだけ特別な場所があった。そこは――「葉山叔父さん」のためだけに残された場所だった。けれど今。その場所は、粉々に砕かれた。――音もなく。静かに、壊れてしまった。18歳の結安なら、きっと反発した。こっそり荷物をまとめ、何かを売ってでも逃げ出しただろう。けれど、25歳になった結安はもう違う。彼女は心の底から不本意ながらも、説明しようとした。「私と藤堂さんは……」「お前と藤堂のことは、もう俺には関係ない」章真は遮った。「お前が誰を好きになろうが、どんな人生を選ぼうが、俺には関係ない。立花結安。自由っていうのは、悪くない。誰かを愛さないというのも、悪くない。もう、あんなふうに誰かを気にかけ続ける必要もない」……夜は、まるで時間が止まったようだった。二人は互いを見つめる。もう、葉山叔父さんとアヒルではなかった。二人は想乃の両親。数え切れないほどの矛盾を抱えながらも、完全には離れられない存在。まるで期限切れになった夫婦のようだった。いつも相手を傷つける言葉を吐く。けれど、自分自身も決して楽になってはいない。二人は、穏やかではないまま別れた。結安は駿との関係を説明できなかった。章真もまた、美玲との関係について何も語らなかった。ただ、その後。美玲との距離は日に日に近づいていった。彼女は時折、二人の仲睦まじい姿をSNSで見せた。誰もが思った。二人は本当に結婚するのだと。麗奈の素直さや従順さは、章真に結婚を考えさせるには十分だった。あとは、形式を整えるだけ。若い彼女に、それなりの責任を果たすために。決断した夜。章真は夜更けまで煙草を吸っていた。楓ヶ丘邸のテラスに座り。遠く、近くに広がる景色を眺めていた。心の中で考える。かつて自分も、結安に家庭を与えたかった。彼女に人生の約束をしたかった。けれど、彼女はそれを望まなかった。藤堂駿を選んだ。藤堂駿のために、両親の前で跪いた彼女の姿。目を閉じるたびに、鮮
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第1466話

駿は驚いた。なぜなら、章真の声がわずかに震えていたからだ。まるで、自分に妻がいることそのものが信じられないとでも言うような声音だった。――そんなに意外なことなのか?駿は静かに答えた。「……ああ。彼女は俺の妻だ」だが、それ以上詳しく紹介するつもりはなかった。必要がないからだ。彼は妻と共に海外へ移住した。これから先、章真や結安と再び関わることはないだろう。良い意味でも、悪い意味でも。ただ、駿は嬉しかった。結安が自由になったことが。ようやく彼女が、自分の望む人生を歩めるようになったことが。しかし、結安がどれほど苦しみを抱えているのかを、駿が知る術はなかった。彼の妻は、あの時出会った看護師だった。二人の関係はとても良好だった。駿が立ち去ろうとした時、あの権力を持つ男が、再び震える声で問いかけた。「お前は立花結安に、恋愛感情を抱いたことがあるのか?」駿の妻は、とても物分かりのいい女性だった。夫が必要としている時間だと察し、何も言わず静かにその場を離れた。彼女は優しく、そして聡明な女性だった。ずっと分かっていたのだ。夫の心の中には、別の誰かがいることを。それでも、駿は彼女に優しく接してくれた。自分が知らなかった世界を見せてくれ、生活に不自由させることもなかった。移住してからは仕事を辞め、専業主婦として家庭を守っている。これから2年ほどの間に、子供を授かることも考えていた。彼女は十分に満たされていた。だから、夫の心の奥に残る想いまで無理に変えようとはしなかった。妻が離れていった後、駿は章真をまっすぐ見つめた。そして迷いなく言った。「そうだ。俺はずっと、結安が好きだった。この先も、若い頃に抱いたあの想いを忘れることはないと思う。でも、分かっている。結安が俺に向けていたものは、恋愛感情じゃない。ただの懐かしさだった。だから、俺は彼女に何かを求めるつもりはない。彼女には好きな人がいる。何年も想い続けてきた相手が――葉山章真。言わなくても、あなたには分かるだろう?だが、今さら口にしても意味はない。あなたたちはもう別れた。俺が願うのは、結安が自由になることだ。誰かを好きだという感情に縛られることなく、自分自身の人生を歩むことだ」そう言うと、駿は腰を屈め、想
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第1467話

3時間後。専用機が立都市へ降り立った。黒いロールス・ロイス・ファントムが、彼らを楓ヶ丘邸へ送り届ける。車を降りるなり、章真は想乃を蝶野へ預けた。「しっかり見ていてくれ」そう言い残すと、自分はそのまま車へ戻る。そして、自らハンドルを握り、結安のマンションへ向かった。背後では、蝶野が想乃の手を引いている。その表情は、まだ状況を理解できていないようだった。想乃は小さな顔を上げる。「パパ、美玲お姉ちゃんと別れたみたい」……マンションの下へ到着したのは、午後四時だった。車を停める。高級車の中で、章真は煙草の箱を取り出した。1本抜き、火をつける。ゆっくり煙を吸い込む。片手では携帯電話を操作し、結安へ電話をかけた。――ほとんど考える時間などなかった。彼はすぐにここへ来た。ほとんど迷うことなく、美玲との関係も終わらせた。呼び出し音が響く。数回鳴った後。電話の向こうから、結安の声が聞こえた。少し焦ったような声だった。「……想乃に何かあったの?どうしたの?」車内は薄暗かった。章真は携帯を握ったまま、窓の外を見る。夕暮れの淡い光が、彼の横顔を薄い影のように染めていた。言葉では表せないほどの張りつめた美しさ。声もまた、抑制されていた。低く。静かに。「想乃は大丈夫だ。今は楓ヶ丘邸に戻っている。立花結安。下りてこい。それとも、俺が上へ行く。話したいことがある」電話の向こうは、10秒ほど沈黙した。やがて結安が小さく言う。「……今、叔父さんの家にいる」拓凡の家は、すでに滅茶苦茶になっていた。結安を呼び出し。泣きつき。助けを求めていた。拓凡が抱えた借金は、20億円まで膨れ上がっていた。もはや返済できる額ではない。結安が自分のお金を使って穴埋めすることなど、あり得なかった。安奈も、シングルマザーになる覚悟などなかった。すでに子供を堕ろしている。今では酒に溺れたような生活を送り、見る影もなかった。結安は適当に相手をしていた。そろそろ帰ろうとしていたところだった。そこへ、章真から電話が来た。章真の声には、珍しく焦りが滲んでいた。「お前が戻ってくるか。それとも、俺が迎えに行くか」結安は気づい
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第1468話

けれど――結安が、どうして彼を受け入れられるというのか。彼女には、何が起きているのか分からなかった。ただ一つ、確かなことがある。章真は、駿のことを知ったのだ。彼女は無理やり男の腕の中に閉じ込められたまま、遠くを見つめていた。髪の上に置かれた手のひらは、あまりにも温かい。かつて彼が与えてくれた優しさと、あまりにもよく似ていた。けれど――もう、受け取ることはできない。彼と自分は、最初から同じ世界の人間ではなかった。愛というよりも独占欲だった。自分が彼のものではないと分かれば。彼はその男としての魅力を、好き勝手に振りまいた。数え切れないほどの女性がいた。そんな葉山章真を、どうしてもう一度受け入れられるというのだろう。結安の決意は揺らがなかった。そして章真も、その強さを分かっていた。腕の中の彼女は必死に抵抗していた。離れようとしている。だが、章真は手放さない。ただ強く、壊れそうなほど強く抱きしめる。彼女を胸の中に閉じ込めたまま、顔を伏せる。彼女の存在を確かめるように。やがて彼は彼女の首元へ顔を埋めた。何か温かなものが、首筋を伝って落ちていく。結安には、それが何を意味するのか分かっていた。彼は仲直りを求めている。もう一度、やり直したいと思っている。けれど、どうして、そんなことができるのか。結安は逃れられず、ただ彼の腕の中で声を出した。掠れた声。そこには深い悲しみが滲んでいた。「私たちの問題は、最初から藤堂さんじゃなかった。あなたが、私を尊重しなかったこと。藤堂さんは私を好きでいてくれた。私を守ろうとしてくれた。それなのに……私には、そんな友達を持つことすら許されないの?私は彼と、もう何年も連絡すら取っていない。葉山章真。あなたのそばにいると、私は自分が一人の人間じゃないような気がした。自分の感情も、自分の考えも。何も持つことを許されないような気がした。でも……」結安は顔を上げた。瞳には、わずかな涙が浮かんでいた。「葉山叔父さん。私はもう大人になったの。私には、私だけの世界がある。守りたい範囲がある。譲れない一線がある。たとえあなたでも、そこを越えることは許さない」……
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第1469話

スタッフに案内され、二人は1棟の小さな建物へ向かった。結安は、生まれながらにして裕福な環境で育った。今も芸能界のトップ女優の一人だ。それでも、翠嵐へ来て初めて知った。――世の中には、まだ自分の知らない世界があるのだと。1棟の建物に、用意されているのは1組の客だけ。上下階合わせて、少なくとも八人以上のスタッフが専属で対応する。二人のためだけに用意された、一卓の料理。2階の個室は、さらにプライベートが守られた空間だった。部屋へ入ると、章真は上着を脱ぎ、慣れた手つきでハンガーへ掛ける。その仕草だけで分かる。ここは、彼にとって馴染み深い場所なのだろう。そこへ店のマネージャーがやって来て、小声で尋ねた。「葉山様、本日は演奏や舞台をご用意いたしましょうか?」章真は結安へ視線を向ける。それだけで、マネージャーはすぐに察した。「失礼いたします」そう言って、静かに下がっていく。章真は結安を見る。そして微笑んだ。「結安、どうしてコートを脱がない?ここは温度も湿度も一定に保たれている。熱い料理を食べたら、汗をかくぞ」結安は言われた通り、コートを脱いだ。章真は自然な動作で受け取る。その下には、真っ黒なロングドレス。細身のシルエットが美しく浮かび上がっていた。髪は後ろでまとめられている。大人の女性らしい落ち着きの中に、どこか人を惹きつける艶やかさがある。幼い頃から踊りを習っていた彼女の首筋は、細く美しい線を描いていた。そこから覗く白い肌。息を呑むほど綺麗だった。章真は彼女のコートを丁寧に置く。振り返った瞬間、その視線は、熱を帯びていた。結安はお茶を飲みながら、俯いて携帯を見ていた。そこには、先ほどのニュースが流れている。もちろん分かっていた。章真が何も否定しない理由。それは、世間に「復縁を認めた」と受け取らせるためだった。けれど、彼女は望んでいない。ちょうどその時、紫苑から電話がかかってきた。結安は迷わず通話ボタンを押す。電話の向こうから、紫苑の呆れた声が響いた。「結安、葉山章真とどういうこと?まさか、彼が戻ってきたの?よくそんな顔で戻ってこられるわね。いい年して、金を持ってる以外に何があるのよ?あ、忘れてた。あと
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第1470話

男として、章真には、当然もう一つ深い疑念があった。――結安は、自分では満たされなかったのではないか。けれど、今、この場でそれを口にするのは相応しくない。今一番大きな問題は、結安が全世界に向けて、自分はいらないと宣言しようとしていることだった。しかも彼は、怒ることもできない。不満をぶつけることもできない。なぜなら、それは彼女の権利だからだ。彼女は言った。自分の人格を尊重してほしい、と。ならばまず、捨てられる側になるところから始めるしかない。章真は携帯電話を置いた。そして、ほんの少し微笑んだ。「結安が望むなら、それでいい。お前の好きにすればいい。俺は構わない」……こんな優しい態度を見せられれば、普通の女性なら心が揺れる。けれど、結安は彼と長く一緒にいた。知っている。これはただの手段だ。章真は、これまで数え切れないほどの女性と関係を持ってきた。女性の扱い方なら、誰よりも上手い。これは彼にとって駆け引きに過ぎない。結安は動じなかった。そして、考えを変えるつもりもなかった。広報対応は予定通り進める。だから、章真が優しい顔で料理を取り分けている頃、巨石エンターテインメントは声明を発表した。――自社トップに対する、まさかの公然たる否定だった。【声明弊社所属アーティスト、シェリーは葉山章真氏との復縁をしておらず、また現時点でその予定もございません。シェリーは今後も葉山章真氏と共に、お子様の養育について責任を果たしてまいります。なお、葉山章真氏の私生活につきましては、シェリーより心からの祝福をお送りいたします】――巨石エンターテインメントこの声明が出た瞬間、ネットは大きく沸いた。まさか、立花結安は、本当に葉山章真を相手にしていない。結安のファンたちは、完全に盛り上がった。【シェリー、安心して羽ばたいて。私たちはずっとついていく】【シェリーの老後まで私たちが支える】【青山は永遠にあり、シェリーも永遠に輝く】【今日ほどファンが爽快な日はない。クズ男を打ち負かして、元彼を蹴飛ばす。最高すぎる】……結安のファンの勢いは凄まじかった。彼女たちは、以前からあの若いモデルの存在に不満を持っていた。今回の件は、瞬く間に広まった。
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