All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 1501 - Chapter 1510

1510 Chapters

第1501話

思慕はドアを閉めた。黛衣は少し経ってからようやく我に返り、「どうして、私たちがもう2、3年も付き合ってるなんて言ったの?」と尋ねた。思慕はじっと彼女を見つめたかと思うと、いきなり服を脱いで着替え始めた。黛衣は反射的に両手で目を覆う。そんな彼女を横目に、彼は着替えながら平然と聞き返した。「じゃあ、俺たちは一夜限りの関係でしたって言えって?」黛衣は黙り込んだ。けれど指の隙間から、つい彼を見てしまう。彼女が何を考えているのか分かっているくせに、思慕はわざと意地悪く尋ねた。「そんなに俺の身体、好き?」彼は長年トレーニングを続けている。――だからこそ、妙に自信満々だった。黛衣の白い頬がほんのり赤く染まる。彼女は着替えを抱えてウォークインクローゼットへ逃げ込み、扉を閉める間際になって、小さな声でぼそりと言った。「あなたみたいなナルシスト、見たことない……」思慕はその後を追い、扉の外から軽くノックした。「そういえば、前はいつも俺に敬語だったよな。今じゃすっかり『あなた』呼ばわりか。切り替えが早いな、氷室黛衣。その調子で頼むぞ。人前でボロを出したらただじゃおかないからな。下手したら、俺をたぶらかした女って噂まで立つぞ」すると、中から黛衣が言い返してきた。「噂になるなら、あなたのほうでしょ」「こんなに真面目な俺が?」思慕は思わず小さく笑った。確かにそうだ。あんなに生真面目で不器用な彼女に、男を誘惑するような真似ができるはずもない。実際、誘ったのは彼のほうだった。甘い言葉でその気にさせたのも、彼だった。思慕はすこぶる機嫌がよかった。身支度を終える頃、黛衣もウォークインクローゼットから出てきた。薄手のニットに、もともと穿いていた黒いスカート。ただトップスを替えただけなのに、驚くほどよく似合っている。ゆるく波打つ黒髪を下ろし、その上から思慕の黒いコートを羽織ると、さっきまでの堅苦しさはすっかり消え、まるで昔から周防家で大切に育てられてきた令嬢のように見えた。――やっぱり、もともとの品がいいんだよな。この数年、ずいぶん苦労したんだろう。着替えを済ませた思慕も、いかにも育ちのいい御曹司といった佇まいだった。一方の黛衣は、今ではすっかり年若い女性らしく見える。思慕のほう
Read more

第1502話

黛衣の頬が真っ赤に染まった。思慕って、どうしてこんな人なの?学生時代はあんなに憧れの的だったのに。――二人きりになると、こんなに意地悪だなんて!彼は自分も初めてだったと言っていたけれど、本当なのかと疑いたくなる。とはいえ、男の初めてなんて確かめようもないし、そもそも彼の初めては10年前、自分が奪ってしまったのだ。そんなことを考えているうちに、黛衣はなんとも恨めしげな目で隣の男を睨んだ。「何?俺がそんなに格好いい?」思慕が笑いながら尋ねる。黛衣は腹が立って、もう口をきかなかった。不思議なものだった。彼から「俺と寝た責任を取れ」と言われてからというもの、二人の間にあった上司と部下という壁が、いつの間にか溶けてなくなっている。まるで、まだ若かったあの頃に戻ったようだった。彼にひそかに想いを寄せ、あの夜、酒に酔った彼のあとをついていった自分。二人とも酔っていて、その勢いのまま一線を越えてしまった。まさか何年もの時を経て、また同じことになるなんて。ふと何かを思い出し、黛衣が口を開いた。「思慕って……今まで誰とも付き合ったことないの?」思慕は運転しながら、何でもないことのように答えた。「最初の何年かは会社を継ぐので忙しくて、恋愛どころじゃなかった。そのあとはずっと、ある人を待ってた。黛衣も同じ大学だったよな?俺が二年の頃、やたら度胸のある女の子がいてさ。夜にこっそり俺にキスしてきたんだ。ずっと忘れられなくて、いつか捜そうと思ってたのに、その前にお前に手を出されただろ?俺、10年間も貞操守ってたんだけどな。まあ、その子も今頃は結婚して子どもがいるかもしれないし、太ってるかもしれない。昔はウエスト60センチくらいだったけど、今じゃ80くらいになってたりして。そう考えると、やっぱり黛衣でよかった」黛衣の顔は、耳まで真っ赤になった。――何を言ってるの。その女の子って、私じゃない。それに「こっそりキスされた」どころではない。あの夜、二人は最後までしている。ちょうど前方の信号が赤に変わり、思慕は車を停めた。隙を見て助手席に目をやり、見るからに後ろめたそうな黛衣の顔を確認すると、満足げに口元を緩める。――やっぱり、黛衣との暮らしは退屈しそうにない。やがて青信号に変わり、車は流れに乗って
Read more

第1503話

思慕の両親との顔合わせは、驚くほど順調だった。黛衣は何年も秘書をしていたため、澪安と慕美夫妻とは仕事で何度も顔を合わせているし、恩夕とも何度か会ったことがある。顔を合わせるなり、思慕は持っていた箱を恩夕に放った。恩夕は艶やかな黒髪をまっすぐ伸ばした、華奢な美少女だった。若い頃の慕美によく似ていて、目を引くほど美しい。箱を開けると、中から出てきたのは某ハイブランドの、家の形をした限定バッグだった。願乃は目を輝かせたあと、すぐに兄をからかった。「お兄ちゃんが初めて私の好みを覚えてた。しかも色まで間違えてない。やっぱり恋してる男は違うね。黛衣さん、ありがとう」慕美は楽しそうに微笑んでいる。一方、澪安は黛衣が着ているアンゴラの赤いニットをひと目見ただけで、それがメンズだと気づいていた。思慕が20代の頃に買ったものだ。それを今、黛衣が着ている。二人がどれほど親密なのかは、それだけでも十分伝わってきた。澪安は黛衣の家族について簡単に尋ねた。両親とも教育関係者で、一人は教師、もう一人は学校長だという。――いい家庭じゃないか。以前いつも修道女のように堅い格好をしていたのも、きっと厳格な家庭で育ったからなのだろう。それに比べて、今の姿はどうだ。思慕の服を着ているほうが、よほど似合っている。周防家は朝からすっかり祝いムードに包まれていた。そして最後には、澪安が家で食事をする予定まで変更した。黛衣を、自分の両親にも会わせようと思ったのだ。――周防京介と葉山舞に。「よし、周防本邸へ行こう」周防本邸?黛衣が思慕を見ると、彼は声を落として説明した。「祖父母が住んでるんだ。もう年だから、あまり出歩けなくてさ。黛衣、この時期の本邸は蝋梅が満開なんだ。雪が降ると、もっと綺麗だよ」黛衣はそっと彼の腕に寄り添った。「きっと、すごく綺麗なんでしょうね」思慕は穏やかに微笑んだ。1時間後、一行は周防本邸に到着した。澪安はほかの親族には知らせず、妻と子どもたちだけを連れて両親を訪ねた。何より、二人に黛衣を会わせたかったのだ。長いこと心配していた思慕にもようやく伴侶ができた。その幸せを分けてもらえば、両親も少しは元気になり、もっと長生きしてくれるような気がした。周防本邸では、ちょうど
Read more

第1504話

午後4時。秘書の川田が一度、思慕のマンションを訪ねてきた。川田は黛衣と並んで重用されている秘書の一人で、仕事も極めてできる。今朝のうちにもう一人の秘書から上司の噂を聞いてはいたものの、最初はまったく信じていなかった。――周防社長と氷室秘書?――世の中、どうなったらそんな組み合わせになるの?けれど今、思慕の指示どおり、いくつものブランド担当者と大量のファッション誌やジュエリーカタログ、それに数百着ものサンプルを連れてやって来て、玄関を開けたのが黛衣だった瞬間、川田もとうとう信じざるを得なくなった。そして改めて、黛衣という女性を見直した。思慕のニットを着ているだけで、雰囲気がまるで違う。綺麗だった。いや、かなりの美人だ。――社内でも指折りの美女と言っていい。それに黛衣には、どこか特別な清らかさがある。恋愛経験などまるでなさそうな、汚れのない雰囲気だ。こういうところも、名家の嫁に求められる条件の一つなのかもしれない。今はもう立場が違う。川田はきちんと姿勢を正し、恭しく声をかけた。「氷室さん」黛衣は少し居心地悪そうに笑った。「川田さん、今までどおり黛衣でいいですよ」すると川田は、いたって真面目な顔で言った。「今はそれでもいいですけど、そのうち呼び方は変えないといけませんから」周防本邸にまで連れて行ったらしい。そこまで行けば、もうほとんど決まりだ。川田は少し羨ましくなった。――あの巨大な栄光グループの跡取りなのだから。けれど当の黛衣は、意外なほど冷静だった。思慕のお金は自分のものではないし、自分はこれからも仕事を続けるつもりでいる。それに思慕から与えられるものには、どうも条件がついているらしい。――3人産むこと。考えただけで、次期周防夫人という仕事も決して楽ではない。普通の家庭なら、3人も産めなんて言われない。それにあと2年もすれば思慕も年齢を重ねて、ますます子どもが欲しくなったらどうしよう。そこまで考えた黛衣は、見るからに憂鬱そうな顔になった。思慕のことは、もちろん好きだ。けれど周防夫人になるのは、やっぱり大変そうだった。――二人の思考は、完全にすれ違っている。そのとき、書斎から思慕が出てきた。どこか気だるそうな雰囲気を漂わせたまま、ミ
Read more

第1505話

さっきの会計金額が頭から離れず、黛衣はせめて夕食くらいは自分が作ろうと、妙に張り切っていた。このあとブランドのスタッフが服を届けに来るため、思慕は家で待つことになり、黛衣は財布を手にマンション近くのスーパーへ向かった。彼女が出ていくと、思慕はすぐに家事代行のスタッフへ連絡し、しばらく普段の訪問は必要ないと伝えた。週2回、決まった日に掃除に来てもらうだけでいい。せっかくなのだから、黛衣と二人きりで暮らしたかった。10分後。黛衣はショッピングカートを押しながら店内を歩き、しばらくしてようやく気づいた。――ここ、輸入食品専門の高級スーパーなんだ。値段も普通ではない。体感では一般的なスーパーの5倍くらいする。1パック6千円ほどもする牛肉を手に取り、黛衣は胸を痛めた。高い。あまりにも高い。けれど、自分の口座には今日だけで2億円近いお金が増えている。それから思慕が午後に使った40億円超の金額を思い出し、さらに彼の舌がかなり肥えていることまで考えると――黛衣は覚悟を決めた。買おう。どうせなら、一番いいものを食べさせてあげよう。――思慕は、実に妻選びの目がある。黛衣はさらに肉や野菜、果物、牛乳などをカートに入れていった。会計は全部で10万円を少し超えた。ただ、この店はサービスも行き届いている。スタッフが購入品を駐車場まで運び、そのまま車のトランクに積み込んでくれた。黒いベントレーのナンバーを見たスタッフが、ふと笑顔で尋ねる。「周防社長の恋人の方ですか?このナンバー、覚えているんです」「え?」そんなことまで覚えているの?黛衣は少し照れながら、小さな声で答えた。「……はい」若いスタッフはにこやかに会釈し、彼女を見送った。運転席に乗り込んだ黛衣は、ハンドルにそっと手を置いた。いつも思慕が握っている場所。そこにまだ彼の温もりが残っているような気がした。――思慕と一緒にいるのも、案外悪くないのかもしれない。ここは、今まで自分が触れたことのない世界だった。富や名声の世界には、冷酷さや残酷さしかないと思っていた。けれど、本当はそれだけではない。人から敬意をもって接してもらえることもあれば、心地よいサービスを受けることもある。そして自分もまた、相手に笑顔を返せばい
Read more

第1506話

黛衣の予想に反して、思慕の料理はかなりの腕前だった。気取った料理ではなく、どれも家庭的で、食欲をそそる香りがする。まさか牛肉と野菜のピリ辛炒めまで作れるとは思わなかった。香ばしくて、辛さもしっかりあり、味付けも絶妙だ。それに川魚と筍の煮物も、素材の旨味がよく出ていて驚くほど美味しい。気づけば黛衣は、ご飯を2膳も平らげていた。――最悪。食べ終わってから猛烈に後悔した。ぽっこり膨らんだお腹を撫でながら、2膳も食べたら絶対太る、と本気で落ち込む。その代わり、せめてもの埋め合わせにと黛衣は進んで食器を洗った。思慕もそれを止めはしなかった。ただ、彼女が片づけを終えると、自分からゴミをまとめて捨てに行った。一緒に暮らし始めた初日だというのに、二人は意外なほど夫婦らしい生活をしていた。1階までゴミを捨てに下りた思慕は、戻る途中で同じマンションに住むトップ女優と鉢合わせた。彼女は思慕の手元を見て、まるで幽霊でも見たような顔をした。――見間違いじゃないよね?たった今、栄光グループの社長が自分でゴミを捨てていた。まさか栄光グループ、経営破綻でもした?家事代行を頼むお金までなくなったとか?女優は思慕とは以前から面識があった。かつてグループ傘下の商品で広告モデルを務めたことがあり、今では同じマンションの住人でもある。彼女は思慕のところまで歩み寄ると、腕を組んでからかった。「周防社長、私の見間違いじゃないですよね?栄光グループ、最近そんなに経営が厳しいんですか?社長自らゴミ出しなんて。何かお手伝いしましょうか?」思慕は彼女を一瞥し、わざとらしく軽く咳払いした。「まあ、これから大金がかかるのは確かだな」「え?」「最近、恋人ができたんだ。俺たちももう30過ぎだろ。この年になると、相手を見つけるだけでも大変なんだよ。せっかく捕まえたんだから、大事にしないとな。正式に挨拶にも行かなきゃならないし、結婚するなら家も用意する。ジュエリーだって買って妻の機嫌を取らなきゃいけない。何をするにも金がかかるんだから、節約できるところは節約しないと」そこで思慕は爽やかに笑った。「松宮雅乃(まつみや まさの)、お前も頑張れよ」言いたいことだけ言うと、思慕は悠然とその場を去っていった。残された雅乃は
Read more

第1507話

思慕は、背後からふいに抱きつかれた。振り返ってみれば、そこにいるのは黛衣だった。その表情を見れば、彼女が何を望んでいるのか分からないはずもない。思慕は腕時計に目を落とし、感情を押し隠したまま低い声で尋ねた。「黛衣……本当にいいんだな?」黛衣は答える代わりに、彼の腰に回した腕に少しだけ力を込めた。朝の思慕からは、清潔で心地よい香りがする。身体も綺麗だった。しっかりした骨格を覆うのは、長年鍛えてきた薄い筋肉。そのどこに触れても温かい。そもそも二人は、ずっと互いを求めていたのだ。ただ、10年という時間を無駄にしてしまっただけ。いったん想いが通じてしまえば、長いあいだ押し込めていたものが一気に溢れ出す。欲しいと思うのは、男だけではない。黛衣だって、思慕が欲しかった。彼女は柔らかく彼に寄り添い、甘えるように離れようとしない。本当は先に朝食を作り終えるつもりだった。けれど、さすがの思慕にも無理だった。30年以上ほとんど女っ気のない生活を送ってきた男が、好きな女性からこんなふうに求められて、平然としていられるはずがない。思慕は火を止めると、黛衣を抱き上げ、そのまま寝室へ戻った。ベッドの端にそっと下ろし、深く唇を重ねる。経験と呼べるものは10年前の一度きりだったが、こういうことは相手を好きで、感覚の鋭い男なら自然と覚えていくものらしい。やがて黛衣は堪えきれず、涙声で彼の名を呼んだ。思慕はそのたびに宥めるように抱きしめながら、それでも彼女を離そうとはしなかった。――どうしようもないほど、夢中になった。気づけば、とっくに出勤時間を過ぎていた。すべてが落ち着いた頃には、もう午前10時近かった。3時間近く、二人きりで過ごしていたことになる。それでも思慕にはまだ名残惜しさがあったが、黛衣はもうすっかり疲れ果てていた。枕に伏せたまま片手で彼を押し返し、これ以上近づかないで、と無言で訴える。本当なら、思慕も一日中そばにいるつもりだった。けれど午後には、どうしても外せない重要な会議がある。それでもぎりぎりまで黛衣に付き添い、午後になってようやく家を出た。その頃、栄光グループ社内では――すでに大騒ぎになっていた。噂は朝から社内中を駆け巡っている。何しろ、その噂の当事者二
Read more

第1508話

黛衣の前に影が落ちた。顔を上げると、そこに思慕が立っていた。黛衣はそのまま、じっと彼を見つめる。どこから聞かれていたのかは分からない。けれど思慕は何事もなかったように、雅乃に声をかけた。「黛衣に付き合ってくれてありがとう」雅乃は軽く鼻を鳴らす。「はいはい。今は二人きりでいたいんでしょ。帰ればいいんでしょ?」思慕はすっと身体を横にずらし、出口を空けた。「察しがよくて助かる」雅乃が帰ったあとも、黛衣の瞳はきらきらと輝いていた。彼女は相変わらずソファにもたれたまま、柔らかな声で思慕に尋ねる。「思慕、雅乃とは昔から知り合いで、今も一緒に住んでるんでしょ?今まで付き合ってみようと思ったこと、一度もなかったの?」本当に、ただの好奇心だった。思慕は彼女のそばまで歩いてくると、さっきまで雅乃が座っていた場所に腰を下ろした。長い脚を伸ばし、片腕もゆったりとソファに預けながら、呆れたような、おかしいような顔で黛衣を見る。「同じマンションに住んでるだけだろ。何だよ、『一緒に住んでる』って」そう言って、小さく笑った。「知り合いとしては古すぎるんだよ。子どもの頃から知ってる。あいつの親父が映画監督で、昔から俺の叔父の朝倉寒真と仕事で付き合いがあってさ。小さい頃から雅乃を連れて、しょっちゅううちに来てたんだ。あいつ、昔は男の子みたいだったぞ。スクリーンで見る姿とは全然違う。だから最初から、そういう対象として見たことがない」黛衣は素直に頷いた。なるほど。だから二人はあれほど親しいのに、どこか会えば憎まれ口ばかり叩いているような関係なのだ。思慕は今度、一日中ほとんど仕事らしい仕事をしていない元・氷室秘書を眺めた。付き合い始めてから、彼は黛衣の仕事をほぼすべて外していた。そもそも栄光グループでは社内恋愛を原則として認めていない。社長である思慕だけが例外というわけにもいかなかった。幸い、黛衣自身も仕事への執着はそれほど強くない。昔からどこかマイペースで、出世欲も薄かった。そうでなければ、あれだけの学歴と能力がありながら、ずっと機密業務を扱う秘書の立場に留まっているはずもない。そういえば、二人は同じ大学の出身だ。学生時代の黛衣も、それなりに有名だった。確か、かなり多くの男に言い寄られていた
Read more

第1509話

黛衣の母は眉をひそめた。「いくら交通が便利になったって、こんなに早く着く?いったい何時に起きて新幹線に乗ったのよ。大変だったでしょうに。その周防さんって、黛衣の同僚なのかしら。なんとなくエンジニアっぽいのよね。時間に追われて、いつも仕事ばっかりしてそうな感じ。まあ、人柄さえよければいいわ。あなた、あとで絶対に細かいこと言わないでよ。相手を怖がらせたらだめだからね。黛衣ももう30よ。やっと家に連れてくる相手ができたんだから。あなた知らないでしょうけど、職場の人たちなんて最近、再婚の人まで紹介してくるのよ。私はその周防さんがどんな人でも、少なくともそういう相手よりはいいと思う」父は小さくため息をついた。「向こうも32だそうだ」どれほど条件がよくても、たかが知れているだろう。普通の家のまともな男なら、32まで独身でいるものだろうか。そう思うと、父としても高望みなどできなかった。そのときだった。数台の黒い高級車が、前後に連なってこちらへ近づいてきた。フロントに輝いているのは、ロールス・ロイスのエンブレム。J市ではほとんど見かけることがない車だ。黛衣の両親も、テレビでしか見たことがない。それが今、4台も続けてこちらへ向かってくるものだから、その異様な存在感に思わず目を奪われた。この住宅街は、学校関係者向けに整備された職員住宅だった。住んでいるのは、ほとんどが同じ教育関係者だ。ちょうど通りかかった顔見知りが、黛衣の両親を見つけて声をかけてきた。「黛衣ちゃん、三連休には帰ってくるの?この前紹介した人、どう?考えてくれた?再婚ではあるけど、資産は2億円近くあるのよ。J市じゃ、あんな条件の人そうそういないわよ。ちゃんと考えたほうがいいって。黛衣ちゃんも、あんないい子なのに30まで独身なんてもったいない。女の人は30を過ぎると、どうしても条件が厳しくなるでしょう?白井さんくらいが、もう十分いいところだと思うわ」黛衣の母は、腹が立ちすぎて頬が引きつりそうになった。それでもどうにか笑顔を保つ。「藤井先生、ご心配ありがとうございます。でも、うちの黛衣にはもう恋人がいるんです。同じ会社の人で、都会で働いていて。今日もこれから一緒に来るんですよ」すると藤井先生は笑った。「都会で働いてるって言っても
Read more

第1510話

藤井先生は、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。それでも心のどこかでは、まだ信じられない。黛衣が勤めている栄光グループは、時価総額が何兆円にもなる巨大企業だ。そのトップが――黛衣と結婚する?ということは、氷室校長の家は一気にとんでもないことになるということではないか。藤井先生は、思慕から渡された贈答品の箱に目を落とした。どう見ても高級品だ。1箱だけで十数万円はするだろう。普通の家庭なら、そう簡単に買えるものではない。受け取る手がわずかに震えた。その頃には、思慕はすでに黛衣の両親の前まで歩いていた。態度は驚くほど丁寧だった。「朝早くから待っていただいて、すみません。今日は大安だから、午前中のうちにご挨拶に伺ったほうがいい、と言われていたんです。二人とも黛衣のことをとても気に入っています」黛衣の父は、しばらくしてようやく声を取り戻した。「そうですか……それは、よかった」普段あれほど厳格な人なのに、完全に調子を崩している。娘に恋人ができたとは聞いていた。だから、親として少しくらい釘を刺しておこうとも思っていた。まさか連れて帰ってきた相手が、こんな大物だとは夢にも思わなかった。――困ったな。家があまりにも普通すぎる。思慕は一度振り返り、後ろからついてきたアシスタントに声をかけた。「車は先に38号棟の前へ回しておいて。俺は叔父さんたちと歩いて戻る」「承知しました」黛衣の父は、改めて4台の黒い高級車を見た。鏡のように磨き上げられた車体が、冬の日差しを受けて光っている。思わずごくりと唾を呑み込んだ。人生を通して冷静で厳格だった男が、本気で圧倒されていた。一方、藤井先生は高級な贈答品を抱えたまま、しばらく呆然としていた。そして我に返ると、すぐに学校関係者のグループチャットを開いた。【氷室校長の娘さん、恋人できたって】【誰だと思う?】【栄光グループの社長】【もう本当にびっくりした。あのお婿さん、ものすごく格好いいの。全身きらきらして見えるくらい。話し始めたら周りが全部霞んで、その人しか目に入らないのよ。黛衣ちゃん、あんな人と毎日一緒に暮らしてるなんて、毎日不老長寿の果実でも食べてるようなものじゃない?滋養たっぷりよ】グループチャットは、一瞬で大騒
Read more
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status