All Chapters of 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた: Chapter 91 - Chapter 100

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第91話

颯也は、患者にてんかんの既往があることを改めて強調した。この手の脳外科手術には、私のような研修医が実際に参加する機会などない。けれどちょうど昨日、似たようなケースを見たばかりだった。「フェニトインナトリウムの事前投与です」私は体調の悪さを押し殺しながら、自然に口を開いた。「手術の3時間前に負荷量を投与し、デクスメデトミジンで鎮静を行います」その場はそれで終わるかと思いきや、八雲がさらに追い討ちをかけるように言った。「覚醒中はどうする?」明らかに難易度を上げてきている。同じ東市協和病院の医療チームでありながら、彼はなぜこうも私に厳しくするのだろう?私をどうしても公開の場で恥をかかせたいのだろうか。私はそっと掌を掴み、冷静さを装いながら答えた。「覚醒時には、レミフェンタニルのクローズドループ制御を行えば大丈夫です」この言葉に、会場が一瞬ざわついた。八雲を含む、ほぼ全員が驚いた顔を見せた。無理もない。麻酔薬の用量は教科書の公式に従って算出できるとしても、術前術後の全体管理は、麻酔科医が患者の全身状態を把握し、自身の経験に基づいて調整するものだ。決して教科書をなぞるだけで通用するものではない。それを、まだ臨床経験の浅い研修医が短時間でここまで答えた――だからこそ皆が驚いたのだ。八雲はメガネのブリッジを指先で押し上げながら、薄暗い瞳でさらに追及した。「水辺先生は随分と周到に考えているようだ。では、今の手術をしばらく観察した上で、何か気づいた点は?」やはり彼の目はごまかせなかった。麻酔プランなら資料を元に答えられる。だが、手術過程から得た気づきは、自分自身の臨床的な視点が問われる領域だ。これこそが、彼の本当の狙い。正直先輩たちの前で、これ以上目立ちたくなかった。しかも先ほどスムーズに答えられたのは、あくまで颯也がバスの中で送ってくれたスライドのおかげだ。その最後のページには、颯也が高齢者の麻酔過程における注意点を細かく記載しており、その中にはてんかんの既往歴がある場合の麻酔プランも含まれていた。私はただ、それをなぞっただけ。だからこそ、私は内心焦っていた。めまいはますます強くなり、全身の力が抜けていくのを感じた。私は一度深く息を吸い込み、今朝の吐き気の影響もありぼんやりとした意識の中で、これ
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第92話

災い転じて福となす、とはまさにこのことだろう。それにしても、さっきあれだけ私を意地悪く問い詰めてきた八雲は、笑いもせず、怒りもしなかった。あいかわらず、どこまでも涼しげな表情だった。対して彼の隣にいた葵は、項垂れたまま元気なく座っていた。会議が終わると、私はすぐに洗面所に駆け込み、冷たい水で顔を洗ってようやくぼんやりした意識が戻ってきた。そのときになってようやく、自分の背中が汗でびっしょり濡れていたことに気づいた。個室に入って、そっと身だしなみを整えた。さっきの会議中、あの八雲が強い口調で私に詰め寄ってきた場面が思い出されて、胸の奥に苦い思いが湧き上がってきた。「東市協和病院の顔を立てるため」とは言っていたが、実際はたとえ私が答えに詰まってみんなの前で恥をかかされ、協和病院の評判を落としたとしても、一切フォローする気配はなかった。もしかして彼は、私がわざと葵の渡してきたペットボトルを弾き飛ばしていたと思って、仕返ししてきたの?もしそうなら、彼はすでに彼女のことを公私ともに特別扱いしているってことだ。そう思った瞬間、胸が誰かに抉られたように痛み、そこにお酢をかけられたかのような酸っぱく張り裂けそうな気持ちが込み上げてきた。あの、厳格で公正だった八雲とはまるで別人のようだ。知らない人みたい。でもおかげさまで、私はただのインターンなのに、今回の交流会で一躍有名人になったわけだ。思わず自嘲した。そのとき、けたたましいスマホの着信音が思考を遮った。すぐに、隣の個室から葵の特徴的な柔らかい声が聞こえてきた。「先輩、ごめんなさい......私、自分がまだまだで、水辺先輩みたいに神経外科に貢献できないって、ずっと思ってて......」拭いていた手が空中で止まり、私は耳を澄ませた。続けて、彼女のすすり泣くような声が響いた。「......私って、やっぱりバカなんでしょうか」どうやら彼女、八雲に電話しているらしい。さっき会議室で皆が私に拍手していたとき、確かに葵の顔に一瞬だけ寂しそうな表情が浮かんでいた。あの時は気のせいかと思ったけど、今にして思えば、あの子はすでに気分を崩していたのかもしれない。同じインターンとして、みんなの前で比較されるのはきっと辛いだろう。特に、自分が勝ち抜いて神経外科に入った相手が
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第93話

「親しい友人」?「学ぶ姿勢」?どちらも本来はポジティブな言葉のはずなのに、どうして今、こんなにも皮肉に聞こえるのだろう。葵はもしかして、私にけんかを売ってる?でもどうして?私たちは同じ診療科でもないし、彼女は私と八雲が夫婦だということも知らないはず。まさか、会議室で私が少し注目を集めたからって?普段の彼女は礼儀正しくて素直な子だった。こんな風に当たり散らすなんて、ちょっと考えにくい。そう思っていると、またも隣の個室から、澄んだ声が聞こえてきた。「熱意と友情は、私たち協和病院職員の誇り高き美徳だと思うわ。ほら、青葉主任だって長谷川教授と親しいでしょう?だから私も水辺先輩を見習って、もっと広い心を持たなきゃって。同じ病院じゃないからって壁を作るなんて、もったいないだよね。ねえ、八雲先輩?」なるほど、彼女が気にしていたのはそれか。「それはもちろん、協和病院職員としての誇りを守るのが一番大事だよ」と答える彼女の声は、徐々に遠ざかっていった。その楽しげな調子から察するに、八雲は彼女をすっかり慰めてしまったようだ。彼は彼女に対して、いつも驚くほど寛容で優しい。なのに、枕を並べて寝ている私には、いつも疑念と批判ばかり。ロボットアシスタント手術の見学が終わったころには、ちょうど日が落ち始めていた。主催側は、今回の交流会の締めくくりとして「川辺の風景を楽しみながらのグルメクルーズ」を用意してくれていた。白霞市の夜の気温は東市とあまり変わらず、体調的に少し無理を感じていたけど、皆が参加する中で自分だけ抜けるわけにもいかず、私もクルーズ船に乗り込んだ。「川辺の風景を楽しむ」とは言うけれど、正確には白霞市で有名なライトショーを観るのがメインで、場所は二階のレストラン。席は自由、グループも自由。普通なら、私たち若手は青葉主任や長谷川教授のような先輩たちの指示に従うものだけど、長谷川教授は「若い人たちで楽しんで」と一言を言った。その結果、私、八雲、葵、そして颯也が同じテーブルに座ることになった。窓の外には、白霞市のネオン煌めく夜景。テーブルの上には地元の特色ある料理。そして、正面に座っているのは、八雲と葵だった。彼女は興奮した様子で外を眺めながら言った。「一昨日は着いたのが遅くてライトショー見られなかったけど、今日はやっと
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第94話

本当私に遠慮しないんだな。「俺が撮りましょうか?」私が動かないのを見て、颯也が口を挟んできた。彼を巻き込みたくなかった私は、小さくため息をついて葵のスマホを受け取り、カメラを二人に向けてシャッターを切り始めた。ほんの数秒の間に、レンズの中で葵は八雲から少し距離を取っていた位置から、徐々に近づいていき、ついには肩が触れ合うまでに――まるで親密さの段階を演出するかのように。その笑顔も、どんどん明るく、幸せそうになっていった。撮影が終わると、私は無言でスマホを返した。そのとき彼女は、八雲に向かってこうつぶやいた。「この写真は全部、私にとってすごく大切な思い出だよ。一生大事にするね」私は口実を作ってその場を立ち上がり、視線の端で、わずかに口元を緩める八雲の横顔を見た。甲板の風は容赦なく、まるで荒ぶるように首筋に吹きつけ、思わず涙がこぼれそうになった。私は手すりの前で立ち止まり、遠くのネオンの瞬きに視線を向けた。気分は、どん底に落ちた。会議でどれだけ評価されようが、どれだけ上司に褒められようが、結局八雲の心を動かすのは、葵の「一言」の方だった。彼にとっての「大事な人」は彼女。私じゃない。私はいくら彼に歩み寄っても、決して好かれる形にはなれない。たとえこの8年間、ずっと彼の周りを回ってきても。「水辺先生?」名前を呼ばれ、ハッと我に返った。涙でにじむ視界の先には、数歩離れた場所に立つ颯也の姿があった。彼がどんどん近づいてくるのが分かって、私は必死に涙を引っ込め、無理やり笑顔を作った。「どうかしましたか、夏目先生?」彼は一度私を見つめたあと、黙って自分のジャケットを脱いで私に差し出した。「風が強いですから。水辺先生、体に気をつけてください」「いえ、私は寒くありませんので」私の言葉に、彼の手はしばらく空中に浮いたままだったが、やがて静かに引っ込められた。そして、まるで何事もなかったように続けた。「そういえば、明日に帰るのですね。実は、水辺先生に渡したいものがあるんです」思いもよらない展開に、私は少し戸惑った。「えっ......何ですか?」彼はジャケットの内ポケットから名刺を一枚取り出し、私に差し出した。「よろしければ、受け取ってください」私はそれを受け取りながら、少し恐縮し
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第95話

葵が恥ずかしそうに身を翻した姿に、私も颯也も、一瞬固まってしまった。彼は苦笑して私に視線を向け、「誤解ですよ。俺と水辺先生は、仕事の話をしていただけです」と弁解した。葵はその声に反応し、振り向いて、颯也の私の手首に添えられた手を見つめながら、悪戯っぽく言った。「そうなんですか?」私は何も言わずにそっと手を引き、颯也に礼を言ってから、真剣な声で答えた。「夏目先生の提案、真剣に考えてみます」葵は目を丸くして興味津々に言った。「水辺先輩、どんな提案なんですか?私たちにも教えてもらえますか?」彼女は元気で人懐っこく、私たちの中で一番年下でもある。普段なら気にも留めなかったかもしれない。でもこの瞬間、胸の奥に微かな苛立ちが湧き上がった。「風が強いので、先に戻りますね」颯也もすぐに歩調を合わせた。「じゃあ、一緒に戻りましょう」船室に戻る直前、後ろから葵の小さな声が聞こえてきた。「私、もしかして余計なこと聞いちゃったの......」きっと八雲に言っているのだろう。だが、私が戻った理由は言い訳ではなかった。今日一日中、体調が優れなかったし、さっきの気持ち悪さがまたぶり返してきた。人目につかないよう、急いでトイレへ向かった。外では楽しげな声が響き始めていた。きっともうすぐライトショーが始まるのだろう。少し落ち着いてトイレを出ると、数歩先で誰かとぶつかりそうになった。八雲だった。彼は電話中で、私は何事もないように通り過ぎようとした。ところが、その横を通った瞬間、彼の口から低く冷ややかな嗤い声が漏れた。「どうやら、俺はお前を甘く見ていたようだな」私は思わず立ち止まり、彼の鋭い横顔を見つめた。「東市では俺の昔の友人と親しくなり、白霞市では別の病院のエースとすぐに打ち解けて――水辺先生は本当に、忙しい一日だったな」「打ち解ける」?「忙しい」?私は静かに彼を見つめた。ここ数日、溜まりに溜まった怒りが、一気に噴き出した。出張中だからと我慢してきたけど、彼は私を怒らない人間だと思っているの?私は袖を整え、無表情で言い返した。「紀戸先生に敵わないよ。一人の人を大事にして、どこへでも連れて行って......それだけで感動して本当の愛の証でも贈りたいくらいよ」彼の表情が一瞬止まった。どうやら言
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第96話

これは遠回しに私を責めてる。でも私と八雲とでは、立場がまるで違う。彼は飛行機を降りれば専用車に迎えてもらえるが、私はただの一介の職員。「紀戸奥さん」の身分を隠してる以上、みんなと一緒にタクシーを並んで待つしかない。時間がかかるのは当然だ。心の中では反論していたけど、口に出す元気はもうなかった。昨夜の甲板の風が効いたのか、頭がずしりと重かった。料理が運ばれてくると、義母はすぐに八雲のためにスープをよそい、体調はどうか、無理してないかと優しく声をかけていた。母の慈愛と子の孝行、その理想形。そして私は、完全に空気扱いだった。黙ってご飯だけでも食べて終わらせよう、そう思っていた矢先。鼻先に漂ってきたのは、あの独特なドリアンの匂いだった。吐き気が込み上げ、思わず口を押さえて何度かえずいた。義母は一瞬驚いた様子で私を見て、すぐに気遣うような声で言った。「どうしたの?急に吐き気なんて。どこか体調悪い?田中先生に診てもらおうか?」田中先生は紀戸家の専属医で、私も彼のお世話になったことがある。二度の血液検査、どちらも「妊娠疑い」で。私はすぐ義母の意図に気づいたが、テーブルの上のドリアンパイに目を落としたら、再び吐き気に襲われた。思い出した。結婚して間もない頃、キッチンのスタッフに苦手な食材を聞かれたとき、「ドリアンの匂いがどうしてもダメ」と答えたことがある。あれから3年、もう誰も覚えていない。私という「紀戸奥さん」は、いてもいなくても同じ存在だったのだ。隣に座る八雲ですら、私の不調を一言もフォローしてくれなかった。つい一日前、同じ匂いで吐き気に襲われたのを見ていたはずなのに。以前なら、黙ってトイレにこもって耐えていただろう。でも今日は、違った。私は回転台に手をかけ、ドリアンパイに視線を送りながら、静かに言った。「お義母さん、私......ドリアンの匂いが苦手なんだ」そう言いながら、ドリアンパイをくるりと遠ざけた。義母は驚いたように私を見たが、その瞳の奥の期待がすぐに失望に変わり、つぶやくように言った。「今までそんな話聞いたことなかったわよ。急に神経質になったのね」私は箸を握りしめた。次に義母の口から飛び出したのは、皮肉の効いた一言だった。「麻酔科なんて、いつも昼夜逆転でしょ。いったいいつになったら
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第97話

八雲は、みんなの前で取り乱した。使用人たちは慌てて片付け、義母は急いでティッシュを差し出した。潔癖症の彼は、袖口についた数滴のスープを見て顔をしかめ、無言で洗面所へ向かった。案の定、義母はそれ以上話を続けなかった。まあ、私も別に彼を陥れようと思ったわけじゃなかった。でも川辺の写真は、結局彼が葵と一緒に見に行ったわけで......私が彼の代わりに矢面に立った。普通なら、少しぐらいフォローがあってもいいはずなのに。けど八雲は、何も言わなかった。なら私も、伝えておかないと。「一度は我慢するけど、毎回あなたの尻拭いをするつもりはない」と。5分後、新しいシャツに着替えた八雲がリビングに戻ってきた。私に一瞥をくれて、冷たく言った。「時間がない。先に帰るよ」渡りに船だ、と思ったのも束の間、彼の冷ややかな目線が視界に入ってきて、背筋が凍りついた。どうやら、また怒ったようだ。私は助手席に乗り込んで本家を後にした。ところが数秒後、「ブオンッ」とエンジンが吠え、猛獣のようにベンツGが走り出した。身体が前に持っていかれ、私は慌ててシートベルトを掴んだ。風が耳元を切り裂くように吹き抜け、心臓が喉元まで跳ね上がった。不安と恐怖で息が乱れ、目をきつく閉じた。どれくらい時間が経ったのか、「キキィィッ」と急ブレーキの音が響き、私は再び前のめりに。目を開けると、八雲は車を道路脇に停めていた。無言のまま、ハンドルの上で指をトントンと鳴らして、何かを考えているようだった。たかがスープがかかっただけで、そんなに怒ること?何か言おうとしたけど、その瞬間、胃が焼けつくように熱くなり、息をするのもつらかった。急いでドアを開け、道端に身を乗り出して、えずいた。その時だった。「楽しいか?」耳元に低く鋭い声が突き刺さった。いつの間にか私の横に立っていた八雲が、不機嫌そうに言った。「わざと彼らを挑発して、面白い?」「わざと」?「挑発」?私は困惑して八雲を見た。苦し紛れに呟いた。「最初に仕掛けたの、私じゃないでしょ......」義母が私をどう責め立てていたか、彼はちゃんと見てたはずなのに。どうして、私がわざに挑発したことになるの?八雲は小さく鼻を鳴らし、指の関節が白くなるほど力を込めて拳を握った。「以前のお前は、もっ
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第98話

タクシーに乗って、父の療養院へ向かった。思えば、ここへ来るのはずいぶん久しぶりだ。白髪が目立ち始めた父の姿と、少しずつ衰えていく顔を見ていると、胸の奥が締めつけられた。もし父が、自分が頭を下げてまで決めた結婚が今のような状態になると知っていたら、きっと深く後悔して、自分を責めたに違いない。お父さん、私たち、間違ってたかもしれない。無理やり結んだ縁に、いい結果はないのよ。ネイルを整え、髪を切り、身の回りの用事を済ませると、もう夕暮れ時になっていた。布団を整えてあげてから、私は名残惜しそうに病室を後にした。ベッドに横たわる父の姿を最後にもう一度振り返って、私は自分に言い聞かせた。水辺優月、あんたはこんなことで倒れたりしない。気がつけば、私はいつエレベーターに乗ったのかさえ覚えていなかった。ぼんやりとしていた私の耳に、柔らかい声が届いた。顔を上げると、そこには見慣れた顔――浩賢がいた。「藤原先生はどうしてここに?」「やっぱり水辺先生か、偶然だな」少し話して分かったのは、なんと浩賢の祖父もこの療養院に入っているのだという。「水辺先生、ちょっと元気なさそうだね」私の様子に気づいた彼が、優しく声をかけてきた。「グループでの書き込み、気にしなくていいよ。冗談半分なんだから、時間が経てばみんな忘れるさ」「......グループ?」私は目を瞬かせた。「何のこと?」彼も驚いた。「協和病院のオフ会グループだよ。水辺先生、見てなかったの?」私は確かにそのグループに入っていたが、普段は業務以外の通知は全てミュートにしていた。興味もなかったし、特に見ようとも思っていなかった。浩賢に言われて、私は初めてそのグループを開き、無数の未読メッセージをゆっくりとスクロールしていった。そして見るにつれ、心がズシリと沈んでいった。見るまでは気づかなかったが――見た瞬間、背筋が凍った。最初は何の気なしに貼られていた、白霞市での交流会の写真。二十枚ほどの真面目な勉強風景の中に、私と颯也が一緒に写った一枚があった。クルーズ船の上、ライトショーの光の下。彼が私の手首をそっと支え、私は彼の差し出した手をしっかりと握っていた。角度のせいか、まるで映画のワンシーンのように見えた。運命に導かれた男女――そんな演出の中、私と颯也が主役として
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第99話

まさか、またしても世間の注目を浴びることになるとは思ってもみなかった。しかも、こんな形で。原因となった葵は、グループチャットで「ごめんなさい」と一言だけ謝ったきり、それから4時間が経っても、私に直接の連絡は一切なかった。もし偶然にも浩賢と出くわしていなければ、私は今でも何も知らず、無防備に笑っていたかもしれない。何より私が傷ついたのは、夫の八雲、今回の交流会に同行していた「紀戸先生」が、騒ぎの中心となった私を一言も擁護しないどころか、「無心の行為」だと言って、真っ先に葵の肩を持ったこと。そりゃ、あの子も謝罪のメッセージ一つ寄越さないわけだ。大したことない、紀戸先生が守ってくれると、思ってるに違いない。じゃあ私は?何も知らないまま、まるで「運命の恋人」のような写真を勝手に撮られ、そして勝手に、みんなの目に晒された私は?ちゃんと追及するなら、肖像権の侵害とだって言えるのに。指先がメッセージ欄の上を何度も彷徨ったけれど、結局送信はやめて、メッセージを削除した。もう、ここまで来たら、何を言っても無駄だ。説明の言葉が少なければ「誤魔化してる」と言われ、多ければ「自分を正当化してる」と言われるだろう。どう言ったって、どうせ悪く取られる。世の中には、事情も知らずに噂話に花を咲かせる人間が、何より多いのだから。「松島先生を探してくる」長い沈黙の後、浩賢が急に立ち上がり、真剣な顔で言った。「彼女が原因なんだ。ちゃんと説明してもらうべきだよ」もちろん、それは私も分かっていた。でも、これ以上彼を巻き込みたくなくて、やんわりと止めた。「明日の朝、病院でまた会うし......その時でいいよ」彼はこちらを一瞥し、少し眉を寄せた。「水辺先生、あまり調子よくなさそうだけど、体調悪い?」少し驚いて、私は軽く笑ってごまかした。「ちょっと、水が合わなかっただけ」「じゃあ、送るよ。今日は早めに休んだほうがいい」まさか、白霞市へ向かった初日からずっと熱を出していたというのに、数日経って、私の体調の異変に気づいたのは、彼一人だけだったなんて。水辺優月、あんたはもう、こんなところまで来ちゃったんだね。体の疲れはあったのに、眠りは浅く、夜中二度も夢を見た。夢の中で、同僚たちが私のことを噂し、病院側は私の能力が不十分
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第100話

私のこの自信に満ち、率直な発言に、人事部主任は一瞬表情を曇らせた。だがすぐに、彼はこう尋ねてきた。「昨日、協和病院の交流グループにあなたと新雅総合病院麻酔科の夏目先生のツーショットが上がっていたけど、それについてどう思う?」「交流会だった以上、協和病院としての友好と誠意を示すのは当然のことです。写真で夏目先生が私を支えているように見えるのは、あの時ちょうど甲板が揺れていて、彼が紳士的に手を貸してくれただけです」私の目があまりにも澄んでいたせいか、人事部主任の顔も、部屋に入ってきた時ほど険しくはなかった。短い沈黙のあと、彼はこう告げた。「とりあえず、普段通り仕事に戻りなさい。この件については我々がきちんと調査する」渡りに船だった。ただ、どこのどいつがわざわざ匿名の告発状を人事部に持ち込んだのか、それだけが引っかかった。まあ、結果を静かに待つとしよう。そう思っていた矢先、人事部のドアを出た瞬間、まさかの人物と鉢合わせした。葵だった。彼女もまさかここで私と会うとは思っていなかったのだろう、一瞬戸惑った顔をしたが、軽く会釈してからおずおずと人事部の扉を押した。そして間もなく、「私が人事部に呼ばれた」という話があっという間に麻酔科内で広まった。私の平然とした表情に焦った様子で、桜井さんが言った。「もうダメなら、青葉主任にお願いしに行こうよ。あの人、病院でも古株だし、きっと一言頼めば......」「ちょっと待って」と、看護師長が異を唱えた。「病院が調査すると言うなら、こっちから動く必要ないでしょ。最後に誰が仕掛けたか、見ものじゃない?」二人の言い合いを見ているうちに、私の不安も少しずつ和らいだ。そうして、退勤時間が来るのをじっと待った。ちょうど荷物をまとめようとした時だった。廊下に響く大きな声。「水辺先生いますか?水辺優月先生、いますか?」この声は......神経外科の尾崎薔薇子じゃない?こんな時に、彼女が私に何の用だろう?不思議に思いながら科室を出て、顔を上げると、そこには薔薇子だけでなく、目を真っ赤にした葵の姿もあった。彼女は薔薇子の袖を引っ張り、か細い声でつぶやいた。「やめようよ薔薇子......水辺先輩のせいじゃないし、帰ろ?」けれど薔薇子はその場を動かず、挑戦的な視線をこち
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